TopNovelココロの消費期限Top>ココロの消費期限☆15


…15…

 

 

「よぉ」
 男はそう言うと座っていたフェンスから、ひょいっと飛び降りた。ずるずると地面にサンダルの裏をこすりつけながら近寄ってくる。

「な、何よっ…!」
 胸のところで抱えたバッグがかたちを変える。それくらい強く握りしめていた。じりじりっと数歩後退する。

「逃げるこた、ないだろうよ。せっかく俺様がお迎えに参上したって言うのによ。…もっと、嬉しそうにしたらどうなんだっ!?」

 口元に笑みを浮かべて。どんな真っ白なものもどす黒く染め上げてしまうんじゃないかと思うくらいのおぞましい笑みを浮かべて。闇から現れた悪魔の手先のようだ。

 また…行く手を遮ろうとする。そんなものに負けてなるかと、こっちも意地になる。コイツのせいだけじゃないけど…本当は自分も悪いんだけど。それでもこんな堂々巡りの人生はどこかで終わりにしたい。

 それが駄目でも…しばらくは、忘れていたい。もう自分が壊れてしまいそうだ。

「あ…あんたになんかっ! 会いたいなんて頼んでないじゃないっ!! …お金なんてないっていってるでしょうっ、この前全部渡しちゃったわよっ!!」

 どすっと背中が何かに当たる。植え込みの木の幹に当たったのだ。と言うことはもう後ろがない。男はすぐそこまで来ていた。

「そうは言ってもなあ…あれっぽっちじゃ、使いようがねーんだよっ。もうちっと、気の利いたことをして、まとまったものを作ってみろよ? 何だったら、知り合いを紹介してやってもいいぞ」

「なっ…どういうっ…!?」

 黒い革ジャンに包まれた腕がヒュンと宙を舞う。逃れる術もないまま、右腕を取られ、高く上げさせられた。もちろんバランスを失ったバッグは足元にぼすんと落ちる。

「は、離しなさいよっ! 守之っ…」

 日の沈んだ冬の夕暮れあと。うっすらと流れてくる夜のとばり。ビルに囲まれたこの場所は、信じられないほどの死角になっている。もしも今ここで殺人事件が起ころうとも、誰も気付かないかも知れない。

「よぉ…沙和乃っ。お前、随分とつれないことをしてくれるじゃねえか? おいっ…、俺は昨日から何度、お前に連絡取ったと思ってんだっ!? 居留守使うのもいい加減にしろっ!!」

 そこまで言うと、右手を取られたまんまの格好で、今度は顎をぐいっと掴まれた。生臭い息を吹きかけられる。

「け、携帯はっ…なくしちゃったのよっ! あんたからの連絡なんて知らなかったわっ…っ!」
 喉が圧迫される。本当にこのまま殺されるのかも知れない。そんな気すらする…ただ、この男がそんなことをするつもりじゃないと言うくらい、承知していた。…沙和乃がいなくなったら、困るのはコイツの方なのだ。


「ま、そんなこと、いいか」
 ふっと束縛が解かれる。身体が自由になって、がくっと力が抜けるようにその場に崩れ落ちた。膝が土に当たる。ひんやりと冷たい。

「おい、…行くぞ」
 顎で促す。手はポケットに突っ込んだまま。ちらっとこちらを見た瞳が怪しい色に光った。

「行くって…」
 さっさと歩き始める背中に問いかける。この男は、自分が黙って付いてくると思ってる。今までがそうだったから、これからもそうだろうと。どうしてそんな風に信じられるのだろう…?

「私、あんたの自由になんて、もうならないんだからっ…!」


 この言葉には、ぴくりと反応した。足の歩みを止めて、振り向く。距離があるけど、表情は分かる。冷たい硝子のような目だった。

「…何だぁ? いきなり何を言い出すんだ、お前まさか…この期に及んで、俺から逃げようってんじゃないだろうな?」
 再びこちらに来ようとはしない。でも身体はすっかりと向き直っていた。顔色の優れない頬に、汚れた蛍光灯の光が当たる。

「言ったろ? 沙和乃さんよぉ…お前、こっちはあんたのこと、しっかり握ってやってんだぞ。逃げたりしたら、分かってんだろうな。もう二度とその辺を歩けないようにしてやっから――」

 勝ち誇ったように言い放つ。それがこの男の切り札だったから。そして、それに翻弄されて…こんな風になってしまったんだ。どうして、もっと早く断ち切らなかったんだろう。引き返すきっかけはどこにだってあったのに。

 …でも、もう。もう、限界。

「いいわよっ、やれるもんならやってみなさいっ!! そんなの、どうってことないんだからっ…!」

 本当は身が凍るほど怖かった。過去の考えなしの行動がこんなところまで尾を引く。改めて自分の不甲斐なさを思い知らされる。でも…それによって失ったものの大きさを思えば、もうなんてことない。いくら隠そうとしたって、どこからでも調べは付くんだから。

 自分がこの男と何をしてきたのか。それが公になれば、もうこの街にはいられないだろう。この男のバックにどれくらいのものがあるのか分からない。両親にまで被害が及ぶかも知れない。――でも、それでも。

 

 応えなくてはならない、あの誠意に。あの精一杯の想いをこれ以上踏みにじってはならない。まっすぐに向けられる瞳を見つめることはもうないだろう。でも、せめて心の中で。一番大切な部分を残しておきたい。

 …どこにいるの? 私だけの王子様。

 この運命から救い出してくれる人をずっと待ち望んでいた。でも、今は分かる。そんな風に人に頼るからいけなかったんだ。逃げてばかりじゃ始まらない。断ち切るのは自分の自身の強さ。犯してしまった罪を認めて償おうとする心。

 そう。全部彼が教えてくれた。気付かせてくれた。

 

「…おやおや」
 男は少しおどけて、大袈裟に首をすくめた。

「随分と強気に出たもんだな。新しい男とはそんなに親密かい? 何だぁ…過去なんてどうでもいいとでも言われたか、純愛だねえ…たまらねえな」

 そう言いながら、上着のポケットをごそごそする。その気持ち悪いくらいの友好的な態度が逆に恐ろしかった。

「でも、いいのかい? 何でもご大層なご身分の男みたいじゃないか、若いのに羨ましい限りでさ。だけどなあ…ああいう奴に限ってスキャンダラスなことには弱いんだよな? バブルが弾けて以来、どこも不景気で大変だしねえ…いいのかい?」

 そう言って、取り出した紙の束のようなものをこちらに投げてよこす。手渡してやろうなんて心遣いもないらしい。沙和乃は土の上に落ちたそれを手を伸ばして拾い上げる。

「…あ…」
 無造作に輪ゴムで止められたそれをひと目見て、沙和乃の顔から色が消えた。

 いつの間に撮られていたんだ、日曜日の昼間の写真。食事をしているところ、どこから見ても仲の良い恋人同士のように連れ添って歩くショット…そして。沙和乃も知らない彼。朝、沙和乃の自宅から出てくる姿。きちんと写真には撮された時間まで入っていた。

「俺様の仲間は腕っぷしのいいカメラマンが多いからな。こういうのは朝飯前さ…どうだ、これをネタに『ナカノ』を揺すってやろうか? それとも直接、写真誌に持ち込むってのもいいし。いや待てよ、一番いいのは…ライバル会社に売るってやつで…」

「ちょっ…ちょっとっ!! 何言い出すのよっ!!」
 沙和乃は身体に残った力を振り絞って叫んだ。

「こんな生っちょろいやり方で、天下の『ナカノ』がどうにかなるわけないでしょっ! そっちこそ甘いわよっ…馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。落ちたわね、あんたもっ…!」

 そうだ、そうに決まってる。そうじゃなかったら、周五郎だって最初から自分につきまとったりしなかったはずだ。いくら世間知らずのお坊っちゃまだって、自分のやっていけないことぐらいは分かっているはずで――。

「ふふ、そりゃ、どうかな…」
 男は余裕の表情で、タバコに火を付けた。暗がりに赤い点がぽっと灯る。それが蛍の点滅のように明るくなったり暗くなったり。

「あのな、沙和乃。何もないところからのし上がったような企業なら、多少きな臭くたっていいだろうよ。だが、『ナカノ』はそうじゃない…由緒正しいお家柄で、その資産で事業を興したんだろうが。そう言うとこはやっぱ、何事もクリーンじゃなくちゃな。それに、この男、石油取引で名高い家の女と近く婚約だって? あっちはナカノ以上に家柄がいいんだ、もしも今こんなことが明るみに出たら…どうなるかなあ…?」

「ど、どうかなあ…って…」

 沙和乃の視線を感じながら、男はタバコを足元に落とし、それを踏みつけた。そして、ひとつ芝居じみたため息を付く。

「ま、いくらかでもな、金になりゃあいいんだよ。俺様は金がちょっと大量に必要でさ、あんたがちまちま稼いだんじゃ埒があかないんだよ。ここはどんと大金をせしめたいものだし――」

「やだっ、ちょっと…待ちなさいよっ!! 何考えてんのよっ…!」
 沙和乃はたまらずに立ち上がると、そのまま男ににじり寄っていた。

「あ、あっちだって、素人じゃないのよっ! 下手したら、あんたが消されるわよっ! …ナカノをなめるんじゃないわっ…! どうしてあんたはそうなのっ、楽して渡り歩こうとするのっ、もうちょっと真面目に生きようとは思えないのっ!!」

 どうにかして、この馬鹿らしい計画を阻止しなければならない。『ナカノ』にとって、それほどの打撃となるか分からない。こんなこと大したことはないのかも知れない。でも、これは…自分と周五郎との思い出じゃないか。これを踏みにじるようなことはさせたくない。


 …それに、周五郎に誤解されたら。自分が最初からこういうつもりで近づいたんだと思われたら…!

 他の誰からどんなにそしりを受けようが構わない。それだけのことをしてきたんだと思う。でも、周五郎にだけは、そうして欲しくない。彼の中で、自分は…出来るだけ綺麗な印象で残って欲しい。それが叶わぬ夢と知っていても。


「…ほぉ…」
 男は目を見開くと、まじまじと沙和乃を見つめた。

「俺様のことを心配してくれるのか、やっぱ、あんたはいい女だな…じゃあ」
 ぐっと腕を掴まれる。彼の目線の向こうには新品としか思えないような外車があった。金回りが良くなることを見込んでのことだろう。この男には思いついては買い物をしてしまうところが昔からある。

「俺のために一働きしてくれんだな? 沙和乃さんよぉ…」


 ここに来て、まんまとはめられたのだと気付く。最初からそのつもりだったのだ、沙和乃の心なんてお見通しで…言うことを聞かせるために、こういう手段に出たのだ。

 腕を掴まれて車に引き込まれた頃には、もう諦めの色で心が満たされていた。

 


 どこに連れて行かれるのかと、無言で窓の外を見ていたが、辿り着いたのはお馴染みのぼろアパートだった。男が長年ねぐらにしている場所だ。

 裏手から回って、車を空き地に止めると、そこから降ろされる。錆び付いた階段を上って、部屋の前に辿り着いて初めて、その中にもう他の人間がいることに気付いた。思わず足がすくむ。でも背後にいる男が戻り道をふさいだ。

「俺の仲間が、歓迎してくれてんだよ?」
 訳の分からないことを言いながら、男はドアをノックした。

「…俺だ。連れてきたぞ」

 鍵を解除する音がして、すぐに中から開いた。そこにいたのはひとりじゃない、ざっと見渡して、4,5人…? タバコの煙が霧のように室内を満たし、視界を妨げていた。

 玄関先に突っ立ったまま中に入れずにいる沙和乃を追い越して、男はさっさと仲間の輪に入っていった。そして、腰を下ろしたところで振り返って手招きする。

「ほらよ、何かしこまってんだ? 早く来いよ、みんなお待ちかねだぞっ…!」

 男の声に誘われるように、そうだそうだ、待ってました、と浮かれた声が上がる。

 一体何が起こっているのか、沙和乃には分からなかった。今までこの部屋に男以外の人間がいたことはない。男の「仲間」と言うのも話には聞けど、直接会ったのは初めてだ。目をこらしてみると体つきは色々だが、何となく男と似ている人種の輩がたむろっていた。転がったビールの缶、おつまみの袋、うずたかく積まれたタバコの吸い殻…そして。

 それを目にした時、沙和乃はもうあとがないと言うのに、後ずさりしてドアに背をぶつけていた。

「おい、沙和乃。何してんだ、ここまで来てご挨拶しろよ」

 そう言われて、どうしてそこに行ける? 今までどんな屈辱にも耐えてきたと思っていた。でも、こんな…どうして?

「…たぁっ…! しょうがねえなあ」

 男はのっそりと立ち上がった。そして、まっすぐに沙和乃の目の前に来る。咄嗟に背後のドアを開こうと思ったが、男の手でそこにはチェーンが掛けられている。すぐに腕を掴まれ、部屋の真ん中まで引きずり込まれた。

「やっ…、やあっ…!!」
 どさっと、身体が落ちる。散乱したゴミ溜のような部屋の床。そこに転がされるのはいつものことだが、今日は勝手が違う。まさか…? どうして、そんな…っ!?

「奴らがな、これからあんたのいい稼ぎ口を探してくれるそうだから。割がいいんだってよ、秘密厳守の代わりに料金が馬鹿みたいに高かったりしてさ…ただ、ちょっと変わったこともすることになるからよ、慣れとかないとな。それに、お前がどれくらいのもんか、みんな知りたいってさ…」

「そうだよ〜」
 男の背後からもうひとりの人間がぬっと出てくる。目つきがおかしい、尋常じゃない感じで。口元にはやはりいやらしい笑みが浮かぶ。嬉しくて仕方ないみたいだ。

「そろそろ、ホンモノで楽しませてくれよ? いい身体してんだって? たんまり味わわせて貰うからそのつもりでな」

「ち、ちょっとぉっ!! いやあっ! いい加減にしてっ、やだって言ってるでしょうっ…どうしてこんなっ!」

 薄暗い部屋。両手両足、思い切り動かして暴れる。周囲に群がってきた男たちに爪を立てた。でも相手は複数だ。男ひとりでも取り押さえられてしまうのに、これじゃあ勝ち目はない。だけど、こんなのは卑怯だ、何考えているんだっ…!

 振り上げた足が、ひとりの男の顔面に入った。顔を押さえて痛みに耐えていたその男が面を上げて、皆に言い放った。

「面倒だ…使っちまって、いいだろ?」
 そして、そのまま立ち上がると部屋の隅で何かかちゃかちゃと探り出した。

「な、何よっ…!! やめなさいよっ、やだっ…!!」

 もう一度、腕を振り回そうとして。いきなり腹部に痛みを覚えた。男の拳が入ったんだと、次の瞬間分かる。だけど、もう身体に力が入らなくなった。

「威勢のいいのも悪かないんだがな、…少しはおしとやかにしてろってんだ…」


 信じられない、と思った。このままどうなってしまうんだろう…どうして。どす黒い渦が自分を巻き込もうとしている、ちょっと遊び心で起こしたことが、いつの間にか身の破滅を招いていく。それくらいのこと、分かっていたのに、あのとき、どうして…そう思っても、もう遅い。


 意識が、遠のく。――もう、おしまいだと思った。遠く、布地が裂けていく音がした…。


    

「おいっ!! 開けろっ…!!」

 ばりん、と大きな物音が、遙か遠くで響いた。何が起こったのか分からずに、呆然とそちらを見る。ドアが、蝶つがいの方から壊されて開け放たれている。そして、その向こうからバラバラと複数の警官が飛び込んできた。

「お前らっ!! とうとうしっぽを出しやがったなっ!! 薬物取締法違反、および婦女暴行未遂の現行犯で逮捕するっ!!」

 そこら中で上がる奇声。部屋の中に入りきれないほどの人間が入り乱れて、あっという間に森のようになった。立ちはだかった樹と樹がもつれ合い、投げたり投げ飛ばされたりの攻防が続く。窓も開けられて、そこから飛び出そうとした仲間も取り押さえられる。
 耳元で響く音を感じても身体の重い沙和乃は起きあがることすら出来なかった。掃除なんてしたことがない部屋にもうもうと埃が上がる。砂煙のようなそれにむせかえった。



 …やがて。

 複数の足音がどかどかっと階段を下りていく音がして…静寂が戻ってきた。

「…う…」

 頭がぐらぐらする。でもだんだん戻ってきた意識で、自分がどうにかとんでもない危険を回避したことを悟った。何がどうなっているのだろう? でも、確かにあの男は…他の仲間たちと共に連行されていった。沙和乃は身体の横に腕を付くとのろのろと起きあがる。開け放った窓から、冷たい夜風が吹き込んで、晒された胸元をかすめた。

 服は縦に破かれていたが外傷はなく、痛みもない。今更ながら、ほっと息をついた。別にこの期に及んで何をされても文句の言える筋合いではないが、それでも、あんなのは嫌だと思った。でも…あの男がここに戻ってきたら、今度こそはそう言う目に遭うのかも知れない。

 身体が震えて、頬を涙が流れる。でもぎゅっと唇を噛みしめた。泣くもんか、もう泣くもんか。震えの止まらない身体を自分で抱きしめた。

 

 ――と。

 ことん、と音がした。ドアの向こうで。…もう誰もいないと思ったのに。沙和乃は、その方向をぼんやりと見た。

 一息ついてから、ふっと姿を見せる…ぱりっとしたスーツを綺麗に着こなした若い男…。窓とドアとのふたつが外界に開いているため、部屋の中を直線に空気が流れていた。その通り道に立っているから、前髪がふわっと舞い上がる。

 思わず、目を見張る。からからに乾いた口内には唾液も湧いてこなかったが、乾いた息だけを飲み込んだ。青ざめた頬のまま、唇が動く。かさかさと何度もそれは空を切り、ようやく最後にひとつの単語を絞り出した。

 

「…周…」



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