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…16…

 

 

「大丈夫でしたか? 沙和乃さん…良かった、間に合って」

 埃臭い室内に一瞬顔をしかめてから、周五郎は律儀に靴を脱いで玄関から部屋の中に上がってきた。灰色の靴下が散らかったものを踏まないように注意しながら近づいてくる。それをしばらくはぼんやりと見つめていたが、彼が腕を伸ばせば触れられるほどの距離まで来ると、沙和乃はふっと顔を背けた。


 あまりにもタイミングよく警察が現れたと思ったら、またあまりにもタイミングよくこの男が現れる。そのふたつの間にある相関性を沙和乃はすぐに悟った。

 そうか、そうなのか。こんな風に手を回してきたのか。ぼんやりとした頭でそう反芻しながら背中越しにぽつりと吐き捨てる。

「…何で、来たのよ?」

 周五郎が、「え?」と小さく呟いたのが耳に届いた。

 沙和乃の視線の先に様々なものが散乱している。その中央にたくさんの写真がバラバラに撒かれているのが見えた。男たちが暴れた時に踏みつけられたのだろう、土足の足跡がたくさん付いていた。目を背けたくなるようなその一枚をつまみ上げる。それから、押し殺した声で振り向かずに言った。

「もう、会わないって。あんたとは会わないって…そう言ったでしょう? あんたの『爺』からの伝言、聞かなかった? どうして、こんなところに来るのよっ…!」

 見られたくなかった、知られたくなかった。過去のない真っさらな状態からスタートした関係だったから、あんな風にふたりでいられたのだ。乗り込んでくることないじゃないか、現場を確認してどうするというのだ。こんなこと、この男が一番嫌うことだろう。

 …もう、今更。会いたくなんてなかったのに。

「どうしてって…」
 周五郎はいつも通りの穏やかな口調で、静かに言った。

「だって、沙和乃さんとの約束はまだ終わってませんよ? 明日、水曜日まではご一緒下さるってことだったでしょう? 僕、昨日も今日も…何度も連絡しましたよ? どうして連絡つかないのかって心配しましたけど」
 周五郎は、そこでひとつ息をついた。

「携帯、…捨てちゃったって、本当なんですか?」

 沙和乃はゆっくりと顔を上げていた。そして声のした方向に首を回す。周五郎は大きな目で泣き出しそうにこちらを見ていた。

「もう必要ないでしょ? そんなもの…」
 こんなに胸が締め付けられるのに、わざとぞんざいな物言いになる。溢れてきそうになる全てを、必死で押しとどめている。

「どうして…」
 責め立てている訳じゃない、本当に心の中いっぱいに満たされた疑問符を簡潔に投げかけてくる。約束を破られたことが信じられない子供のように。全ての契約は滞りなく果たされると信じていた無垢な心の如く。

 でも、沙和乃にはその言葉の透明な響きこそが信じられなかった。

「周…あんた、聞いたんでしょう? あの田所って人に、みんな。私が今までどんな風に生きてきて、どんなことをしてきたのか。よくもまあ、そんな風におめでたいことが言えるわね。神経を疑っちゃうわ」
力強く睨んで、必死に言葉を繋げる。あんな惨事のあとでよくもまあこんな力が残っていたものだと自分で自分に呆れながら。

 でも周五郎は相変わらずこちらをしっかりと見つめたまま、その口元に彼特有の淡い微笑みを浮かべた。得体の知れない男たちにまわされそうになった人間に接する態度じゃない気がする。まるで何事もなかったかのようだ。最後に出会った時と寸分違わぬ親愛の心でいるかの如く。

「それは…最初から知ってましたよ? 沙和乃さんを探している時に余計なことまで色々と分かってしまって。爺に聞くまでもないですよ、僕には彼以外にも有能な部下がたくさんいますからね。最初の引っかかりさえ見つかれば、あとは彼らでも十分に役割をこなします」

 

「知ってた…?」

 自分の言葉にゆっくりと頷く男をぼんやりと見つめた。…どうして、いつから? もしかして、職場に初めてやってきて、職員用の非常階段を下りてくる沙和乃に嬉しそうな笑みを浮かべた時にはもう?

「知ってたって…一体っ!? じゃあ、何なのっ? こんなこととか全部知っていて、それで私に近づいたのっ…!!」

 湧き出てくる悔しさを押しとどめながら、沙和乃は手にしていた写真を周五郎の鼻先に突き付けた。彼はそれをちらっと一瞥すると、ちょっと眉をしかめてから取り上げ、そのままびりびりと破り捨てた。

「これが、何だって言うんです」
 全く動じてないと言ったら、それは嘘だろう。彼のスーツから出た手首が微かに震えている。でもそれでもまだ、彼は努めて平静を装っていた。

 ふたりの間にバラバラにちぎれた破片が散らばる。ほとんどが肌色のおぞましい画像…そこに写っているのは中年の男と…そして沙和乃。

 

 …知ってる…。

 指の先から凍り付いていく感触がする。「後悔」という二文字だけでは到底語り尽くせない物語が沙和乃の心の中で巡りだした。

 


 思い起こす最初の光景。足元に広がるキラキラした夜景。

 …どうせなら、綺麗な場所が良かったし。

 頬を撫でる涼風。薄手のワンピース。どこまでが現実でどこからが夢か分からなくなる。でも…あいつに復讐する手だてはこれしか思いつかない。そうは思いつつも、背後で握りしめたフェンスから手を離せない。心が最後のところで踏み出せずにいた。


 ――もう、お前は用済みだ。どうも私に対する悪い噂も出ているらしい…お前も居づらいだろうから、早いうちに何らかの理由を付けて退職するといい。再就職は世話しよう。

 身も心も全て捧げていた。彼の言葉を信じていたのに、こんな風に捨てられるなんて。何度も思い直してくれるように頼んだが、冷たくあしらわれる。ついには経理上のミスをでっち上げられ、彼自らの手で退社せざるを得ない状況に追いつめられた。

 可愛がられた飼い犬が人間の転居と共に捨て置かれるように…愛情の欠片すら与えず、男は去っていった。普通の手段ではこの怨念は晴らせない。それに男を失った自分は抜け殻で、もう生きる望みすらなかったのだ。普通だったらこんな考え方をするはずもない。でも…恋人も仕事も…自分を支えていた全てを一気になくしてしまった時、沙和乃の思考回路が壊れた。

 ――よし。

 そう思って、フェンスから手を離そうとした瞬間…、背後から寝ぼけた声がした。

「ばっかだぁ〜、悪い男に引っかかって人生を無駄にした上、世をはかなんで身投げかい? やめろよ、もっと楽しく生きようぜ?」

 自分の他に人間がこの屋上にいるとは思わなかったから、心臓が止まるくらいびっくりした。慌てて柵を握りしめてかろうじて体勢を整える。タバコを足でもみ消した男はニッ笑うと、沙和乃に手を差し伸べた。オフィスビルの屋上にいるのにはふさわしくないような、安っぽい服装。じゃらじゃらと音を立てる幾重にも巻かれたブレスレットが遠くの光に鈍く反射した。

「人生、長いんだしさ。…どうだい、悪い男に復讐してやるって言うのは」


 もう一度だけ、会ってくれと懇願した。彼にも多少なりとも後ろめたさがあったのだろう、誘いに乗ってくれた。お決まりのように一夜を過ごしたあと…あの男が彼の前に現れる。興信所の職員を装って差し出したのは、誰も知らないはずの一夜を撮しだした写真の束だった。
 沙和乃を踏み台にして、信じられないほどの出世をした彼は、社会的地位を守ることに必死だった。だから…たった一夜の代償に1年分のボーナスにも準ずる金額を支払ったのだ。この情報を今、売られるのは困ると判断したのだろう。


「…ほれ、見ろよ?」
 金はそっくりと折半した。そして、あの男は沙和乃に次なる話を持ちかける…楽して、大枚を稼ごうと。それから転げ落ちるような裏人生が始まった。世の男たちはみんな彼と同じような奴らばかりだ、だから見返してやる、そんな気持ちもあったのかも知れない。

 


「でも…もう、終わったことでしょう? 僕だって、人間が明るい道ばかりを歩いているわけではないと言うことくらい承知してます。それに沙和乃さんだけが悪い訳じゃないでしょう?」

 くっと唇を噛みしめる沙和乃に、周五郎は素晴らしく優等生的な発言を述べる。そうだろう、口先だけなら何とでも言える、自分を捨てた最初の男だってそうだった。本当に優しい人だと思っていたのに。

「そりゃあ…やはりショックはありましたよ。でも、大切なのは今の沙和乃さんでしょう? これからの沙和乃さんでしょう…!? 違うんですかっ…」

 この言葉は全てが真実とは言えないだろう。キスすることがそのまま結婚に直結するような男だ。突き付けられた大人の闇の部分をそう易々と受け入れられるわけない。それでも、戸惑いながらも乗り越えようとする強さ。それがあるのも本当だ。

 真剣に訴える瞳の色。そのよどみのない綺麗な輝きをぼんやりと見つめる。知ってる…こんな目。そう、沙和乃をあの闇の中から抜け出す様に促してくれたのも、こんな瞳だった。

「知ってんでしょ? その先だって」
 これ以上白くなることもないくらい、血の気が引いた頬。微かに動かしながら、呟く。そして、大きく深呼吸する…心の中のものを吐き出していくように。最後に残る部分を晒すまで。

「私、人殺しなんだよ? それ知ってるの? 知っていて、こんな甘っちょろいこと言えるのっ!?」

 


 男と沙和乃との不道徳な企みが続いていた。

 でも…沙和乃にはそれが段々と虚しいものに思えてきていたのも事実だった。何故なら…その理由は簡単だ。愛情を持たない関係を続けることが苦痛じゃなくて何なんだろう。よく男たちが「女は落とすまでが面白い」と言うが、それを自分がやっているようなもの。そう言う意味ではあの男の言いなりになっていたと言えるかも知れない。

 

 …そんなとき。沙和乃は出逢ってしまったのだ、ある人物に。彼は沙和乃よりも10も年上だったが、仕事ばかりで生き甲斐が他になく、女性とのつき合いもないような人間だった。

 当然のことながら、あの男は「いいカモだ」と言った。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長していた職種、そこの新鋭企業の幹部だった。いつの間にかあの男は金を沙和乃にたかるヒモになっていた。自分で稼いだ姿などよく考えたら見たことはない。もしかしたら沙和乃自身も「カモ」だったのかも知れない。遊ぶ金のなくなった男は沙和乃をせっついた。

 しかしながら。この人は今までの自分が関わってきた男たちとは何か違う…沙和乃はそう感じていた。

 今までだったら、男たちの目には最初から「値踏み」の色が見えた。この女は落とせるか、落とせないか。沙和乃はその頃、金に物を言わせて着飾り、身体の手入れも怠らなかった。まあ、男たちにとってはおいしい存在だったと思う。あわよくば、おいしい思いをしたいという、下心が見え隠れする。

 でも彼は違った。沙和乃を見つめる眼差しは暖かくて優しい、なのにその中には色づいてない純粋な熱が見える気がした。まさか、と思ったが…そうなのだろうか? それが真実なのか自分の思いこみなのか分からないままに、時が過ぎていく。やがて…ある夜、別れ際に彼が沙和乃の手を取った。

「結婚してください」

 まっすぐな瞳はしっかりと自分を見つめている。他の誰に言ってるわけではない、沙和乃自身がその言葉を投げかけられているのだ。信じられなかった。
 当時「クリスマスケーキ」と言う言葉があった。12月24日のクリスマスイヴになぞらえたたとえで、女は24までに売れないと行き遅れになると言うのだ。何の根拠もない女性蔑視の言葉ではあったが、それを頭から否定して笑うだけの勇気はなかった。沙和乃はもうじき24に手が届こうとしていた。

「そんな…いきなり言われても、すぐにはお返事出来ないわ」
 そう答えながらも、熱いものがこみ上げてくるのが分かった。確かに自分の中にも彼と同じ感情が芽生えていた。この人だったら、やり直せるかも知れない。今までの全てをチャラにして、出直せるのではないか? 全部打ち明けてしまおうか? …でも。

 しばらく考えさせてくれ、と言うと、彼は納得したように微笑んだ。いつまでも待ちますよ、と言ってくれた。心の整理が付かない、でも…もしかすると、そうかも知れない。この闇の中から彼は自分を救い出してくれるかも知れない。だって、こんなに純粋に愛してくれるんだ、最初に身体の関係なんてなくても、生涯のパートナーとして思ってくれるんだ。

 戻り道は夢見心地だった。あの男との関係をどうやったら断ち切れるか、その難しさも忘れて。彼との明るい未来だけが沙和乃を明るく照らしていた。


 …しかし。彼とは再び会うことはなかった。沙和乃が次に彼を見たのは…小さな新聞記事の顔写真だったのである。通勤電車にホームから飛び込んだというその記事を信じることなど出来ない。どうして、何が起こったのかと気が狂いそうになった。彼の家に行ってみようと外に飛び出した時…あの男が沙和乃の目の前に立ちはだかった。

「馬鹿な女だな、お前は」

 原因はこの男だったのだ。沙和乃という金蔓がなくなることを恐れた男は、彼の前に現れ、沙和乃の過去を余すことなく暴露したのだという。それどころか、今までの彼との全てもみんな仕組まれたことで…沙和乃は彼のことなんてこれっぽっちも愛していないとまで。

 嬉しそうに事実を述べる口元をこの世で一番おぞましいものへの入り口だと思った。

 

 ガラガラと目の前が崩れ去る。自分はこの男から逃げることは出来ない。どこまでも追いつめられる…でも、どうして? 彼はこの男の言い分を信じたのだろう? どうして沙和乃に真実を聞こうと思ってくれなかったのだろう…!?

 その日を境に、闇からは手を引いた。それくらい彼のことは打撃だったのだ。ひとりの人間の人生を滅茶苦茶にしてしまった代償はどうやって払ったらいいのか分からない。でもとりあえず、まっとうな道を歩んでみようと心に決めた。
 男との関係は切れることはなかった。何故なら、男の手元には沙和乃の過去が全て保管されていたから。行きずりの男たちとの情事、その目を覆いたくなるような行為の一部始終を握られている。金を巻き上げて男たちを懲らしめてやろうと思っていた頃には何でもなかったものが、今となっては沙和乃に重くのしかかっていた。

 金さえ渡していれば、言いなりになってさえいれば、穏やかな優しい男だ。それは間違いなかった。

 

 このままでは駄目だと何度も思った、すっかり出不精になってしまった男の目を盗んで、親戚の叔母さんが持ってきてくれる見合い話を受ける。でも…どこをどう探しても「彼」がいるわけはない。いたずらに出逢いを繰り返す、そのうちに分からなくなってきた。自分はどうしたいのか、どうなりたいのか。

 逃げたい、と思ってもその方法が分からなくなっていた。

 


「沙和乃さん…」

 たまらずに顔を両手で覆っていた。もう、声など掛けてくれなくてもいいのに、すぐにこの場を去って欲しいのに。どうして、ここにいるの? どうして平気な顔してるの?

「僕は、沙和乃さんが何かにおびえているのは分かりました。それがあの男の存在だと気付くにも時間はいらなかった。沙和乃さんがそんな風に日陰で生きていくことはないんです、どうしたらいいのか考えて…だったら、その元になるものから取り去ってしまおうって。幸いでした、あの男がドラッグに関わっていたんですから。そうじゃなかったら、現行犯逮捕はちょっと難しかったんですけど…それでも、何があってもでっち上げるつもりでしたが――」

「な、何故っ!?」

 まだ、そんな風に言うのか。どうして分からないのだ、自分に関わっていたら、いいことないと言うことが。「一週間だけの恋人」という口約束で、ここまで出来るのか? そんなに暇でおめでたい人間なのか。

 周五郎は少しも変わらなかった。親愛に満ちた目で見つめてくる。彼への想いごと、全部捨てたつもりだった、あのどぶ川に。

「沙和乃さんは…素晴らしい女性です。僕はひと目見た時に、それが分かりました。心を全て持って行かれるほど…本当に好きなんです。僕の胸の中には、沙和乃さんしかいません」

「な、何よっ…!」
 うっとりと巻き込まれそうになる不穏な空気。いや、空気自体はとても清らかなのではあるが、この独特の節回しを聞いているとだんだん思考が鈍ってくる。「そんなもんかな?」とか思い始めたら恐ろしい。

「あんたは、何様のつもり!? こんな風に権力を振りかざして、何がそんなに嬉しいのっ!? 信じられないっ!! よくもまあ、全部知っていて、しゃあしゃあと私の前に現れたもんだわっ、おめでたくも騎士を気取ってっ! そんなことして何になるのっ、ボランティアのつもりっ…!?」

 周五郎が「え?」と言う顔でこちらを見た。沙和乃はがばっと立ち上がったので、ふたりの目線はいつもと逆のかたちで斜めに繋がった。

「あ…そうか」
 いつも見下ろされているから、こうやって自分の方が高くなると何だか嬉しい。これが正常な位置関係だと思えてくる。ぱんぱんと、スカートの埃を払った。

「あんたも…身体目当て? 純情ぶって、結局はそうなの。遊びたいの…?」

 冷ややかな目で見下ろすと、周五郎がはっきりと分かるくらい顔色を変えた。

「なっ…!」
 ゆっくりと周五郎も立ち上がった。黒に近い紺色のスーツだったから、べったりと膝に埃が付いている。滑らかな素材なので二、三回叩くと難なく色を戻したが。大きく見開いた目に怒りの色が見えた。今まで感じたことがないくらい、強いものを。

「どうして、そんな風に仰るんです」
 目線の位置が変わる。立ち上がれば、見下ろされる。服装のせいかビジネスライクな口調が、沙和乃を圧倒した。

「どうして、って…」
 きっぱりと言い切られてしまうと、どうしていいのか分からない。

 

 周五郎は黙ったまま、しばらく何かを考えていた。沙和乃も次の言葉が出なくて、その姿をぼんやりと見守っていた。一点を見つめる真剣な眼差しと、綺麗な輪郭がドアの向こうの夜闇に浮かび上がる。やがて、彼は何かを決意した表情でこちらに向き直った。

「沙和乃さん、明日は一日、僕と付き合って頂きます」

「え?」 
 一体何を言い出すんだ。まさかとも思える発言に沙和乃は驚いて反応していた。

「な、そんなこと、出来るわけないでしょっ! そもそも、明日なんて…そんな急に言われたって、困るわよっ!!」

「明日は定休でしょう? そうですよね」
 しっかりとした口調で言い放つ。有無を言わせないというのはこういうことを言うのだと悟った。

「だって…私は…」

 もう会わないって、そう決めたんだから。あんなにきっぱりと言ったのに、まさか簡単にそれを破ることは出来ない。それに…もう、先のないこの関係にこれ以上触れたくない。自分が惨めになるだけだ。

「沙和乃さん」
 周五郎は少し苛立ったように言った。

「僕との約束と、爺との約束と、どちらが大切なんです? 僕はあなたを救ったんですよ? もう二度とあの者たちはあなたの前には現れない、そう誓ってもいい。これに対する代償は払って貰わなくてはなりません、本当ならたった一日で払えるものではないですよ?」

「…周…」

 これが周五郎なのだろうか? 自分の姿を見ただけで嬉しそうに微笑んで、もう会えないと言うだけでさめざめと泣いていた。あの無垢な子供のような存在が…どうして、こんなことを言い出すのだろう?

「そんな…そんなことを言ったって、私は――」

 その場限りの、もうあとのない関係を続けられるほど気力がなかった。自分の中にある気持ちが分かっているからこそ、そんなことが出来るわけはないと思った。

「沙和乃さんの都合がどうであれ、明日だけはこちらに従って頂きます。他の日にちを当てるわけにはいかないのですから…明日しかないのですよ?」

 こちらが泣き出しそうな気持ちでいるのを分かっているのだろうか? それでこんなに酷いことを言うのだろうか? 沙和乃はもう言葉を発することすら出来ず、周五郎の毅然とした表情を見つめていた。

「明後日は…僕の婚約披露パーティーなのですから」
 周五郎はそう言うと、一瞬視線をそらした。小さく咳払いをして向き直る。

「あなたが今まで関わってきたろくでもない男たちが全てだと思われては困ります。身体が目当てなんてとんでもない、そんな関係など求めたりしません。明日は一日、僕の最愛の女性として最高のおもてなしをさせて頂きます。…分かりましたね?」



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