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朝の8時に家の前に黒塗りのリムジンが横付けされた。 あの、普通の車の真ん中辺りを、ぎゅーっと引っ張って前後に伸ばした感じの車。洋画とかで良く出てくるけど、日本でこんな車を常用している人がいたのねえ…とか妙なところで感心する。こういう車って、運転席は結構チープ。ベンツとかもそうなのだ。 「有泉様、お迎えに上がりました」 「う、ちょっと待って」
「…どこに行くのよ?」 沙和乃の質問に運転手の男はバックミラーを見ながら答えた。誰でも知っている、赤坂の地下鉄の駅の前のでっかいホテルの名前。 「…へ?」 「ちょっと、待ってっ!!」 「…大丈夫ですよ」 「VIP専門の秘密の出入り口があるんです、地下に。そこから入れば、最上階まで直通ですから誰にも会いませんよ?」 「…は、はあ…」 世の中にはまだまだ自分の知らないことがたくさんあるらしい。そう思ったら、だんだんものを考えるのが面倒になってくる。何しろ、昨日はほとんど日付が変わる頃にようやく家に辿り着いた。もう眠くて仕方ない。
「怖い思いをなさったでしょう…? もう大丈夫ですよ」 西村京太郎シリーズの亀さんのようにおっとりとした刑事さんが、コーヒーにケーキまで出してねぎらってくれた。そのケーキがまた、有名な洋菓子店のチョコシフォン。よく考えたら、空きっ腹で生唾が出てくる。自分の置かれた状況も忘れて、がっついてしまった。 「周五郎様から詳しいことは伺ってます。私と警察の威信にかけて、もう二度とお嬢さんの前に奴らが現れないようにして見せますよ?」 「……」 「私が今ここにいられるのも、那珂野島原様のお陰なのですから…」 それ以上のことを訊ねることはどうしても出来なかった。ただ、周五郎が自分の知っているあの無邪気な男とは似ても似つかない顔を確かに持っていることだけを確信していた。
ハッとして瞼を開ける。いつの間に眠っていたのだろう? 慌てて口元を拭った。車内を流れるクラシックのFMが心地よくて、ぐっすりと寝入っていたらしい。 運転手が左側のドアを開けてくれる。外に出ると真正面のエレベーターまで赤い布が敷かれていた。あのよく外国の偉い人が空港に到着した時にタラップの下に敷かれるあれだ。ご大層に細長い布地の両端には金色の刺繍がびっちりと施されていた。最上階のボタンが押され、ドアが閉まる。そして、あっけないほどの時間で地上数十メートルの場所まで移動していた。 エレベーターを降りたそこは左右に分かれる広い廊下になっていた。道先案内人のように沙和乃の前を歩く男は、一瞬の躊躇もなく右に進んでいく。 ぴっちりと敷き詰められた濃紺の絨毯。どうやって掃除するんだろう? ちょっとした毛くずでもすごく目立ちそうだ。これだけ綺麗になっていると言うことは並大抵ではない清掃が行われていると言うことで…その上を土足で歩くなんて、あまりにも申し訳ない気がしていた。
やがて彼は、大きな扉の前で足を止めて振り向く。 「…こちらです」 よくよく考えれば。こういうことは普通、ホテルのボーイがするものではないのだろうか? 運転手が直々に部屋まで案内するなんて…ちょっと待て。どうしてホテルの一室に招かれるのよっ!? そこではじめて沙和乃は大変な事実に気がついた。 「ね、ねえっ! あんたっ…どうしてこんなところに私を――」 沙和乃の言葉など無視して、運転手は煉瓦色のドアを軽くノックする。 「…周五郎様、お連れ致しました」
沙和乃は恐る恐るそこに一歩足を踏み入れ、そのまま固まってしまう。…何これ。そこはホテルの一室とは到底思えないような、異世界が広がっていた。 高い天井、広いスペース。小学校の体育館をイメージした方がいいかも知れない。飾り階段が設えられていて、中二階まである。大人が何人も寄らないと抱えきれないほどのシャンデリアがいくつもつり下げられ、まばゆいほどの輝きを放っていた。どーんとのけぞるほど大きなグランドピアノもここでは小さく見える。 「やあ、沙和乃さん。いらっしゃい…お待ちしてましたよ?」 「清宮、ご苦労だったね。しばらくは下でゆっくりしてていいから」 周五郎の声に、運転手は一礼して退室していく。何が何だかまだ分からないままに、沙和乃は部屋の真ん中で呆然としていた。 「どうしたの、沙和乃さん。こっちに入ってきませんか? 窓から海が手に取るように見えるんですよ」 周五郎は白いシャツにクリーム色のスラックスという軽装で、見るからに良家のお坊ちゃま風だった。実際がそうなのだから、そう見えてもおかしくない。髪はラフに流してあった。以前のかっちりしたポマード頭ではなく、ふわふわっとしたやわらかい流れ。年齢よりも更に幼く見える。 「…え?」 沙和乃が今立っているのは、ラウンジだと思う。だったら、間取り的に言って、この奥にあるのは…何を思ってこんな風に誘うのか、周五郎の意図はどこにあるのか。沙和乃の思考回路はとっくの昔にショートしていた。 ぷくぷくぷく。水槽から聞こえてくるポンプの音。視線がそちらに向かう。自分の中に湧いてきたおかしな思考をどうにかしたくて、沙和乃は気持ちを切り替えようと必死だった。 「…何、緊張してるんですか?」 「もしかして、朝からとんでもないことを想像していらっしゃるでしょう? …期待してるんですか?」 「…なっ…!!」 「最初に、言っておきますけどね」 「昨夜に言ったはずです。別にこのような場所にお呼び立てしたからと言って、特別なことを期待しているわけではありませんよ? 今日は一日、沙和乃さんにはトップレディーとしての一日を味わって頂きます。僕はナカノの専務…ゆくゆくはお祖父様の跡を継ぐ人間です。ですから、今日は一日、僕の最愛の人として精一杯のおもてなしをさせて頂きます。それだけです」 余裕の笑みに見つめられて、沙和乃は自分の頬がかあっと熱くなるのを感じた。自分が想像したこと、それをいとも簡単に周五郎に悟られたことが口惜しかった。まあ、この状況で他のことを想像しろと言う方が無理なような気もするが。 「お食事がまだでしょう? …でしたら、すぐに用意させましょうね。そうだ、この部屋のもうひとつ奥にバスルームがありますから、そこでまずはごゆっくりなさいませんか? 良くお休みだったのでしょう…頬によだれのあとが…」 「えっ…!?」 沙和乃が驚いて頬に手を当てると、周五郎が声を立てて笑っている。何なの、何がおかしいのっ…!? ふてくされて見上げると、必死で笑いをかみ殺している横顔が揺れていた。 「…というのは冗談ですけど。女性の方は皆さんお好きでしょう? 女優さんみたいな泡のお風呂。ラベンダーの香りにしておきましたから、どうぞ楽しんでください。もしもご希望でしたら、お背中など流しますけど…?」 意味ありげな視線が、沙和乃に向かう。もう、どこまでが嘘でどこまでが本当か、それも分からない。小悪魔みたいな瞳に翻弄されている。こんなの楽しくない、いつでも優位に立つのは自分の方だったのに。だから周五郎の領域には入らないつもりだったのに…。 最後の最後、この一日にこんな風になるなんて。 「結構ですっ!!」
…やっぱり。 もしかして、これは6畳くらいあるんじゃないだろうか…? 泳げちゃいそうに広い、キングサイズのベッドが部屋の大きさに負けないような貫禄で、ででんと横たわっている。それを見ないふりをして、沙和乃はずんずんと、更に奥にあるパウダールームに入っていった。
こんなお風呂を使えるのは、お姫様かな? とか思ってしまった。随分歳食ったお姫様だけど、まだ女王様じゃないから許して貰おう…。 それにしても。 何考えているんだろうか、周五郎は。明日には婚約発表なんて人生の一大イベントを控えた男だ。ああいう金持ちの結婚に際しては挙式披露宴に呼びきれない関係者がたくさんいる。全てが完了したあと、お披露目をするという方法もあるが、先かあとかと言われれば…前者の方が気分がいいに決まってる。 沙和乃が勤務するナカノホテルの本店になる会場ではもう1週間も前から準備が行われているのだと言う。そんな噂がどうして広まらなかったのかというと、直前まで内密にされていたからで。忙しいさなかに写真誌などに追いかけ回されては溜まらないと言う周五郎側の判断だった。 どんなにたくさんの要人がやってくるんだろう? 晴れ舞台を前にして、本当にいいのだろうか、別の女と。 「ああっ! …もう、やめた、やめたっ!!」 難しいことはもう考えない。あの天然ボケ男がどこまで出来るのか不安だが、彼の誠意に応えてやるのも人生の先輩としての懐の深さだろう。 一度、泡の底に頭まで沈む。紫の液体の中に真実は見つかるはずもなかった。
事件(?)が起こったのは、そんな至福の時を満喫したあとだった。 「…はい? 存分にお楽しみになりましたか…?」 「…じゃないでしょうっ!!」 「あんたっ! 私の服、どうしたのよっ!! 変態っ、…すぐに返しなさいよね…!!」 バスタオルで身体を拭きながら、脱衣した場所を見ると…籠に入れてあったはずの服が全て、下着から靴下まで全部消えてなくなっていた。その代わりにこのバスローブが着てくださいとばかりに置かれていたのだ。 「え…、僕じゃありませんよ」 「先ほど、ルームサービスの者が来ましてね。彼女がバスルームのタオルを交換したいというのでパウダールームへの入室を許可したのです。もしや、その時にクリーニングと間違えて持ち去ってしまったのかも知れませんね…」 「なっ、…なんですってえっ!!」 「すぐに、取り戻してよっ!! まさか、一日この格好でいろって言うんじゃないでしょうねっ!! いい加減にしなさいよっ…!!」 もっと荒れ狂ってやろうかと思ったが、何しろ共布の頼りない帯一本で身体に巻き付けているローブだ。激しい動きをしすぎると、はだけてしまいそうでヤバイ。ただですら、この格好は何ともいやらしいのだ。対する周五郎がきちんと服を着ているというのが、さらに羞恥心を募らせる。 「はいはい、…すぐに手配致しますので。それよりも先にブランチは如何ですか。もう僕はおなかがぺこぺこですよ…」 「それどころじゃっ…!」 ――ぐう。 朝ご飯がまだだったから、さすがに長風呂もして空腹状態が緊迫化していた。 周五郎が指し示した場所にはテーブルの上にほかほかと湯気を立てた最高のブランチメニューが並んでいる。ふたり分だというのに、それは広いテーブルに乗り切らないほどだ。 かりかりのトーストとクロワッサン。綺麗な色の生ジャムにフレッシュのバター。スクランブルエッグにボイルドソーセージとベーコン。コーンとほうれん草のバター炒め。ベイクドポテトにチーズの盛り合わせ。箸休め的な綺麗なビーンズが数種類。 「せっかく、ご用意したんですから。ここのモーニングのバイキングは日本一って呼ばれているんでしょう? 冷めないうちにどうぞ…」
…おいしい、おいしすぎる。 沙和乃はウエストに支えがなくなったこともあって、自分でもびっくりするくらいの食欲が出ていた。何しろ、昨日もあんな感じで、満足に食べてない。朝食もあの清宮とか言う運転手さんがあまりに早く来るから、食べてる暇がなかったし。何でもおいしい状態なのに、目の前にあるのは日本一のモーニングメニュー。 クロワッサンなんて焼きたてで、ほろほろと崩れそうだ。何も付けなくても十分おいしいのに、またこのジャムたちの美味なことっ! もう何もかもがおいしくて、どれも食べたくて。ちょっとずつお皿に盛るのに、すぐに山盛りになってしまう。 「…お口に合いましたか? 良かった」 「いいな、沙和乃さんと朝ご飯。こうやって一緒にプライベートなテーブルを囲むのが夢だったんです…この前は惜しいことをしましたからね」 「…え?」 「僕ね、留学していた頃は自炊もしていたんですよ? だから、結構料理は好きなんです。フランスにいた頃は近所のレストランのコックに色々教えてもらったし…」 「…へえ」 沙和乃の素直な感嘆の表情が嬉しくなったのだろう。周五郎の舌が更に滑らかに動く。 「あとから、自分でもしまったと思いましたよ。沙和乃さんに泊めて頂いたあの朝、朝食をお礼すれば良かった。僕の作ったオムレツ、チーズがとろりなんですよ? 使用人の間でも有名なんだから。綺麗にトレイに並べて、ベッドまで運んで差し上げたら…何だか恋人みたいですね?」 計算されていない素の表情で、真っ赤になってる。嬉しそうにくすくすと笑っているのを見ると、何だかこっちまで恥ずかしくなってくるのはどういうことだろう。その上、沙和乃の脳裏には周五郎が語った通りの彼がぼぼっと浮かんできたのだ。まるで映画のワンシーンのように、寝ぼけ眼を開くとそこに綺麗な笑顔があって――。 「もっ…もうっ!! いい加減にしなさいよねっ。大人をからかわないでよっ!!」 自分の中に湧いてきたヨコシマな映像を打ち砕くように、その後、沙和乃は食事だけに没頭した。でも何故か高鳴る心臓の音に、胸焼けがしそうで仕方なかった。
「…さて」 「では、次の日程に移りましょうか…?」 「…次の?」 一体何なの。ダンスホールみたいなすごいラウンジのあるVIPルームに見晴らしの最高の風景。至福の時を過ごしたお風呂タイムに、目眩がするほどおいしい朝ご飯。もうこれだけで十分な気がしていた。その時、周五郎の携帯が鳴る。短い受け答えのあと、通話を終えた彼は、沙和乃に言った。 「…服は、もう少し掛かるそうですから。まずは、沙和乃さんを綺麗にしちゃいましょうか?」
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