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「綺麗に…する?」 沙和乃が目をぱちくりさせながら、そう反芻した時には。周五郎はもう席を立って、ソファーの一角に姿見を立て、即興のパウダーコーナーを設えていた。 「はい。…こちらにどうぞ」 気がつくと。光のさんさんと降り注ぐ窓際の席に腰を下ろしていた。おなかがいっぱいのせいか、頭の芯の辺りがボーっとして、肝心なところで思考回路が働かない。まあ、それはここの部屋にはじめて入った時から感じていたことだが、…まさか変なお香か何か焚かれているわけではないだろうかと不安になってくる。 周五郎は結婚式場の披露宴で貰ってくるような大きな紙袋をがさがさと探って、白い円筒形の小さなプラスチック容器を差し出した。 「パウダールームまで行く必要もないでしょう? この部屋の奥にも洗面のコーナーがありますので、そこで顔を洗ってきて下さい。何とか酵素の入ったパウダー状の洗顔剤だそうですから、よーく泡立てて」 「…は、はあ…」 「もともと沙和乃さんはきめが細かい綺麗な肌をなさってますけど。もっと素敵にしてみましょうか? 色々な成分を取り混ぜて、沙和乃さん向けに作ったパックです。コレを20分間顔に当てて頂いて…そのあとはこちらを。リフトクリームだそうです」 「リフトクリーム…」 顔面のパックというのは自分で見ても恐ろしいモノだ。しかもコレは何だか土色をしていて更におぞましい。そんな顔を周五郎の前に晒していると思うと、ついついうつむきがちになる。何が悲しくて、こんな女性の舞台裏をふたりで鑑賞しているんだ。こういうのは内密に行って、蝶のように羽化した姿で男性の前に現れるのがお決まりなのに。ま、相手が相手だからいいけど。 リフトクリーム…それっぽいものは試したことがあるけど、効果が出る前に面倒でやめてしまった。芸能人の影響で小顔が流行した頃に流行りだしたもので、肌をきゅっと引き締めて、ハリを持たせるという代物だ。でもマッサージをしたりする手順がなんともまどろっこしくて。かといって、エステに頻繁に通うほどの時間もお金もなかった。 ボーっとしていると目の前にじゃんじゃんと見たこともないメイクの数々が並んでいく。うわ、ファンデーションだけで何種類あるんだろう? パウダーにリキッドにクリームに。これ、どんな風に使うんだと思うようなものもたくさんある。チークやシャドウに至っては芸術家のパレットのよう。 「…あの、周…?」 何だかすごく悪い予感がする。まさかとは思うんだけど、もしそうだったどうしようというような。 「これから、何をするつもりなの? …まさか」 周五郎はふっと振り返ると、顔面土色マスクの沙和乃に向かって、嬉しそうな微笑みを浮かべた。 「沙和乃さんを、お姫様にするんですよ? 決まってるでしょう」
確かに。一流のメイクアップアーティストには男性が多い。それだけじゃない、その道の一流には何であっても男性が多いのはお決まりの事実だ。だが、だからといって…。 「ね、ねえっ…周…!?」 沙和乃は自分の置かれている今の状況をどうしても受け入れることが出来ない。悪い予感というのは当たるもので、自分をメイクするのは他の誰でもない周五郎だったのだ。それなら自分がやると言いたいところだが、こんなに色々並べられても、はっきり言って何からどうしたらいいのかも分からない。 「…ほら、動かないで下さい。上手く色が乗らないでしょう…?」 「だって…っ!」 「なんで、あんたがこんなことをするのよっ! …プロを呼べばいいでしょう、プロをっ!!」 こんなところで経費をケチってどうするのだ? 周五郎が自分を飾り立てようと躍起になっているのはよく分かる。だが、こういうことは付け焼き刃で出来ることではないのだ。メイクを始めた頃は誰でもすごく塗りたくったりして失敗する。どこまでやったらいいのか分からないのだ。自分に似合ったやり方を習得するまでには長い歳月と経験を要する。 「え…、でも」 「今日の綺麗な沙和乃さんは僕が全部独り占めするんですから。みすみす他の者に渡すわけにはいかないでしょう…、修行の成果を見て下さいよ。元々、手先は器用なんですから、大丈夫です」 どこが、あのボケボケの男なのだろう。どうしたら、こんな風にきっぱりと言い切れるのだろう。 「ま、プロにはとても敵いませんけど。…ほら、どうでしょう? まだ途中ですけどね」 自分に向けられた姿見には全く見たことのない女性が映っていた。驚いた顔で沙和乃を見つめているのは、どう見ても20歳そこそこのお嬢様。顔が二回りくらい締まって見えるのは、もしやリフト効果? …こんなに早く効果が出るなんて、何が入っているんだっ!? どこをどうしたらこんなに変わるのか分からない。シンデレラの魔法よりもすごい。ま、首から下はバスローブだけど。 そして、それよりも。その後ろに控えている嬉しそうな微笑みの男が印象的だった。
「修行って…あの、まさか…」 「そう、容子さんに。空き時間を使ってみっちりと教わりました。…今日のために」 「え…?」 今日のため? それって何よ、どういうことよ。昨日の晩にいきなり考えたのではないのか? いつからどんな風にこのことを思案していたのか? 「あ、あのっ…!」 聞きたいことがたくさんある。疑問に思うこともたくさんある。問いただしたらきりがないほどに。でも、沙和乃のその声は周五郎の携帯が鳴ったことにより、途切れてしまう。 「…あ、丁度良かった」 「服が届いたそうです…お召し替えなさって下さい。僕も準備しないといけませんし」
取り残された部屋で呆然としてしまう。 周五郎に渡された平べったい円筒形の箱。いくつかあるうちの一番大きなものの中から出てきた代物は、どう見ても沙和乃が朝に着てきた服ではなかった。自分も着替えるから、とベッドルームの方に沙和乃を押し込めて、周五郎はさっさと出て行ってしまう。特大ベッドの上に投げ出したそれに視線を投げて途方に暮れる。どうすりゃいいと言うのだ。 真っ白でふわふわしたものが最初に見えた時は、まさかウエディングドレス!? と驚いた。いくら何でもそれはないだろう。女性の最高の夢だとは言うが、相手もなしにコレを着るのは虚しい。恐る恐る広げてみたら、ちゃんとスカートの部分とトップがセパレートになっていた。 言われるがままに…着てしまっていいのだろうか? そんな不安がよぎるが、きちんとセットされた首から上とバスローブがあんまりにも不釣り合いだ。ここまで来たら仮装でも何でもやってやろうと言う気になる。欽ちゃんの仮装大賞で顔を真っ黒に塗りたくるのだと思えば、このくらいのことがなんだと言うんだ。 違う箱には下着が一式入っている。ビスチェにストッキングにガーターベルト。お目に掛かったことのない様な品に唖然としながらも、どうにか装着した。ビスチェはやわらかい素材に見えたが、しなやかに伸びて身体を綺麗に覆う。背中には一応留め具がついていたが、外さなくても大丈夫だった。どうなっているのか分からないが、バストトップがすっと高くなった感じ、背筋も伸びてる。 とりあえず、ドレスの方から身につけてみた。ウエストのホックをはめて驚く。なんともジャストフィット。採寸したわけでもないのにどうして分かるんだろう? そう言えばビスチェもソフトガードルもとにかく身体にすすっと馴染んだ。見るからに上品なレースが幾重にも重なり合って、ペティーコートなしでもふんわりとしたシルエットを描いている。 トップスはシンプルなデザインでサテン地にドレスと共布のレースを重ねてあった。脇に向かって細かくて綺麗なドレープが寄っていて、身体に沿う。肩はないビスチェスタイルだ。 「…あれ?」 「うっそ〜…」
…うわ。 思わず目を見張ってしまう。声を出して叫ばなかった自分を誉めてあげたい。沙和乃はずり下がるトップスを気にしながらもドアにしがみついた。 モーニングコート。昼のもっとも格調高い正礼装だ。黒い上着。大きくカットされた前衿とおしりをすっぽり覆うほどの長い着丈。でも前のボタンは小さいものが三つだけで、下に着たベストのおなかの辺りが見えるデザインだ。ウエストの辺りが色っぽいくらいきゅっとしまっている。幅広のアスコットタイをウイングカラーのシャツと合わせて、縦縞のコールズボン。 「待ちくたびれてしまいましたよ? 沙和乃さん、支度は整いましたか…?」 そう訊ねられてはじめて、うっとりと眺めていた自分に気付いた。ハッとして俯く。何層にも塗られたはずなのに、驚くくらいナチュラルに仕上がった頬が紅潮しているのが感じ取れる。耳たぶも灼けるように熱かった。 「あ、あの…。周…」 もう駄目だ、完全に立場が入れ替わっている。弟のように扱っていたはずの男が、信じられないくらい堂々と立派に見える。と言うことはどんなにか自分が情けなく心許ないかと言うことだ。 「…どうしました?」
だったら、楽しめばいいのに。周五郎がなにやら企んでくれたイベントをこなせばいいじゃないか。ふんだんにレースを使いながら、羽のように軽いドレス。幼子のようにきめ細やかになって、ファンデーションが吸い付く肌、きゅっと上がった顎のライン。シンデレラみたいにまとめられた髪。 ――こんなの。作り物なんだよ? どうやって無邪気に楽しめと言うの…?
「あのね、周…背中のボタンが…」 「…なんだ」 「背中を向けて下さい。これは…ちょっとお一人では無理なデザインでしたね…女性の着替えは僕にはちょっと無理ですから、やはり人を頼んだ方が良かったかな…」 するんするん、とボタンが留まっていく。身体に吸い付いていく布地。まるで肌の一部のように当たり前の存在。 「…ほら」 「今日は、僕のために笑っていて下さい。俯かないで…沙和乃さんはとても素敵なのですから…」 …ふわり。肩からオーガンジーのストールを掛けられた。霞のような淡い輝きが沙和乃の身を包む。 確かに。どこから見ても、美しかった。自分がここまで変われるとは正直思わなかったから。それだけに心許なくて、情けなくなる。こんなことをしてどうなるのかと、後ろ向きにばかり考えて。周五郎が一体何を思ってこんな風にするのか、さっぱり分からないから。 「…沙和乃さん」 周五郎がすっと目の前に進み出て、騎士のように跪いた。そして沙和乃の右手を取ると、素早くそこに巻き付ける…。 「これで、今日一日、あなたは僕のものですよ。僕のために微笑んで、僕のために堂々と立ち振る舞って下さい。お願いします」 沙和乃はそれを見て、思わず息を飲んだ。 こんなものはいらない、そう思ったはずの…ブレスレット。周五郎と自分の立場の違いを見せつけられて口惜しくて気が狂いそうだったあの日の…ピンク色のコンク・パール。 「本当は肘より上までの手袋を着けるのが正式なのですが…せっかくのお美しい肌なのですから、存分に見せびらかしましょう」 「誰よりも…愛おしい人…」
――あまりにも芝居じみた行為。 ああそうか、これは演技なのだ。心のどこかでそう納得していた。やわらかく手の甲に触れる周五郎の唇。これはどこかの国の上流階級の挨拶に過ぎない。必死にそう思いこもうとしている自分がいた。 だから、顔を上げたその男をにこやかに微笑んで迎えることが出来た。最高のもてなしには最高の振る舞いで応えよう。指先は震えるほどに本心を示していたが、そんな自分の想いごと封印した。
来た時と同じように、高速エレベーターを使って地下の駐車場に降りる。そこには先ほどの運転手がリムジンのドアを開けて待っていた。滑るように走り出す車がやがて辿り着いたのは、つい最近オープンしたばかりのショッピングモールだった。 きょろきょろと辺りを見回している沙和乃に、周五郎は穏やかな口調で告げる。 「沙和乃さんにご用意した靴、少し大きいでしょう? この通りにあるショップに丁度いいサイズのものがあるというので、そこまでちょっと歩きませんか?」 「…え…!?」 沙和乃がリムジンを降りたところで躊躇していると、周五郎は慣れた手つきで手を差し伸べてきた。その指先がブレスレットをかすめる。 「ここはナカノが造り上げた街です。言うなれば、僕の造った街…そこを最愛の人と歩くのは当然のことだと思いませんか…? ほら、女優さんになった気分で。皆さん、どうしてこんなお美しい人が現れたのかと驚いていらっしゃいますよ」 その声に俯いて煉瓦ばかりを見ていた視線を上げてみる。いつの間にか人だかりが出来ていて、皆、好意的な好奇の目をこちらに向けていた。 「さ、…行きましょうか?」
暖かい春の風がドレスを揺らす。後れ毛が耳元で控えめに踊る。 いつの間にか、沙和乃はそんな自分を心から楽しんでいた。
「周五郎様っ!!」 「お出で下さる時には前もってご連絡下さるように申し上げているでしょう!? お願いしますよっ、私の顔を潰さないで下さいっ…!」 「すまないね、森山。今日は仕事抜きで、こっそりと来るつもりだったから」 「こっそりって…周五郎様っ、頼みますよ〜」 「こ、これはこれは…今日はまたお美しいお方をご同伴で…」 そう言いながら、親愛の色を乗せた笑みを頬に浮かべる。それをとってつけたようではなく、感情を伴ったように見せてしまうのがすごいと沙和乃は思った。 「ああ…沙和乃さん。こちらはこのショッピングモールの総支配人の森山ですよ?」 「森山、こちらは…僕の大切な女性だから。今日はここを案内して差し上げようと思って。…ねえ、沙和乃さん。如何ですか、この場所は。お気づきになったところがあったら、何なりと仰って下さい」 「え…?」 「とても…素晴らしい場所だと思いますけど。東京の真ん中にこんなゆったりしたスペースがあるなんてすごいわ」 緊張に舌を噛みそうになりながら、かろうじて言葉を押し出す。その間にも道行く人が自分や周五郎に視線を投げてよこす。心臓がばくばくと高鳴って、気がおかしくなりそうだった。ほんの数十メートルのシューズショップまでの道のりが果てしなく遠く感じる。隣を歩く周五郎があまりに落ち着いているのが憎らしかった。
「イタリアの有名な賞を受賞した歌劇団の特別公演なんですよ? 全世界をくまなく回るのだとか。日本では一度しかない上演なので、一般の方にはチケットを販売しないそうです。…今日こちらに来ている方は全て優待の特別な方ばかりなのですよ?」 スカートの裾を気にしながらだから、足元がおぼつかなくなる。彼はそんな沙和乃の腰に手を回して、何気ない感じで支えてくれた。 席に着くまでの間にも、TVや雑誌で何度も見たことのある著名人たちと挨拶を何度も交わす。その誰もが「素敵なお嬢様」と沙和乃を賞し、周五郎もそれに嬉しそうに応えていた。すらりと長身な周五郎は優美な服装に身を包んでいることもあって、ただでさえ目を引く。その上、彼はナカノの専務だ。挨拶をしてこない者はない。 いいのだろうか、こんなところに。婚約者でもない自分がしゃしゃり出て。そう言う想いが湧いてきては必死で打ち砕く。今日1日しかない時間を悩んで無駄にしたくない。周五郎がせっかく演出してくれたなら、それを存分に楽しまなければ。
「うわ…」 「なんか、プリティー・ウーマンみたいね…」 そう言えば、こんなシーンがあった気がする。思わず呟いて振り返る。傍らに座る和製リチャード・ギアが、首をすくめてくすりと微笑んだ。
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