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…18…

 

 

「綺麗に…する?」

 沙和乃が目をぱちくりさせながら、そう反芻した時には。周五郎はもう席を立って、ソファーの一角に姿見を立て、即興のパウダーコーナーを設えていた。

「はい。…こちらにどうぞ」

 気がつくと。光のさんさんと降り注ぐ窓際の席に腰を下ろしていた。おなかがいっぱいのせいか、頭の芯の辺りがボーっとして、肝心なところで思考回路が働かない。まあ、それはここの部屋にはじめて入った時から感じていたことだが、…まさか変なお香か何か焚かれているわけではないだろうかと不安になってくる。

 周五郎は結婚式場の披露宴で貰ってくるような大きな紙袋をがさがさと探って、白い円筒形の小さなプラスチック容器を差し出した。

「パウダールームまで行く必要もないでしょう? この部屋の奥にも洗面のコーナーがありますので、そこで顔を洗ってきて下さい。何とか酵素の入ったパウダー状の洗顔剤だそうですから、よーく泡立てて」

「…は、はあ…」
 いきなり何を始めるんだと思ったが、つい言いなりになってしまう。顔を洗って戻ると、今度はフェイス型になっているパック剤を取り出してきた。

「もともと沙和乃さんはきめが細かい綺麗な肌をなさってますけど。もっと素敵にしてみましょうか? 色々な成分を取り混ぜて、沙和乃さん向けに作ったパックです。コレを20分間顔に当てて頂いて…そのあとはこちらを。リフトクリームだそうです」

「リフトクリーム…」

 顔面のパックというのは自分で見ても恐ろしいモノだ。しかもコレは何だか土色をしていて更におぞましい。そんな顔を周五郎の前に晒していると思うと、ついついうつむきがちになる。何が悲しくて、こんな女性の舞台裏をふたりで鑑賞しているんだ。こういうのは内密に行って、蝶のように羽化した姿で男性の前に現れるのがお決まりなのに。ま、相手が相手だからいいけど。

 リフトクリーム…それっぽいものは試したことがあるけど、効果が出る前に面倒でやめてしまった。芸能人の影響で小顔が流行した頃に流行りだしたもので、肌をきゅっと引き締めて、ハリを持たせるという代物だ。でもマッサージをしたりする手順がなんともまどろっこしくて。かといって、エステに頻繁に通うほどの時間もお金もなかった。

 ボーっとしていると目の前にじゃんじゃんと見たこともないメイクの数々が並んでいく。うわ、ファンデーションだけで何種類あるんだろう? パウダーにリキッドにクリームに。これ、どんな風に使うんだと思うようなものもたくさんある。チークやシャドウに至っては芸術家のパレットのよう。

「…あの、周…?」

 何だかすごく悪い予感がする。まさかとは思うんだけど、もしそうだったどうしようというような。

「これから、何をするつもりなの? …まさか」

 周五郎はふっと振り返ると、顔面土色マスクの沙和乃に向かって、嬉しそうな微笑みを浮かべた。

「沙和乃さんを、お姫様にするんですよ? 決まってるでしょう」


 確かに。一流のメイクアップアーティストには男性が多い。それだけじゃない、その道の一流には何であっても男性が多いのはお決まりの事実だ。だが、だからといって…。

「ね、ねえっ…周…!?」

 沙和乃は自分の置かれている今の状況をどうしても受け入れることが出来ない。悪い予感というのは当たるもので、自分をメイクするのは他の誰でもない周五郎だったのだ。それなら自分がやると言いたいところだが、こんなに色々並べられても、はっきり言って何からどうしたらいいのかも分からない。
 メイクなんて、化粧水を叩いて、乳液に下地を塗って、ファンデを付けて、多少の陰影を付ければいいのじゃないだろうか? もともとがけばい顔立ちなので、ビューラーもたまにしか使わないし、アイラインもマスカラも持ってるだけで減ったことがない。

「…ほら、動かないで下さい。上手く色が乗らないでしょう…?」
 そんなことを言いながら、すごい至近距離で答えてくる。息が頬に額に掛かる。それくらい近いのだ。

「だって…っ!」
 内緒だから、と鏡は片づけられてしまい、今自分がどうなっているのかさっぱり分からないのだ。歌舞伎役者みたいにコテコテに塗られていたらどうしよう。だって、もう1時間もこんな風にしているのだ。顔が何層にも塗りたくられて、大変なことになっていたら…。

「なんで、あんたがこんなことをするのよっ! …プロを呼べばいいでしょう、プロをっ!!」

 こんなところで経費をケチってどうするのだ? 周五郎が自分を飾り立てようと躍起になっているのはよく分かる。だが、こういうことは付け焼き刃で出来ることではないのだ。メイクを始めた頃は誰でもすごく塗りたくったりして失敗する。どこまでやったらいいのか分からないのだ。自分に似合ったやり方を習得するまでには長い歳月と経験を要する。

「え…、でも」
 くすくす。パレットの上でグロスをあわせながら、周五郎が目を細める。何だか今日の彼はとても色っぽい。ホルモン注射でもしたのではないだろうかと疑いたくなるくらい、その瞳は妖しげな光を放っているのだ。

「今日の綺麗な沙和乃さんは僕が全部独り占めするんですから。みすみす他の者に渡すわけにはいかないでしょう…、修行の成果を見て下さいよ。元々、手先は器用なんですから、大丈夫です」

 どこが、あのボケボケの男なのだろう。どうしたら、こんな風にきっぱりと言い切れるのだろう。

「ま、プロにはとても敵いませんけど。…ほら、どうでしょう? まだ途中ですけどね」

 自分に向けられた姿見には全く見たことのない女性が映っていた。驚いた顔で沙和乃を見つめているのは、どう見ても20歳そこそこのお嬢様。顔が二回りくらい締まって見えるのは、もしやリフト効果? …こんなに早く効果が出るなんて、何が入っているんだっ!? どこをどうしたらこんなに変わるのか分からない。シンデレラの魔法よりもすごい。ま、首から下はバスローブだけど。

 そして、それよりも。その後ろに控えている嬉しそうな微笑みの男が印象的だった。


「ねえ、…周…?」
 ヘアメイクまで自力でやるとは。器用にピンを何本も使って、本当の美容師のように綺麗にアップにしていく。髪はただひとまとめにして引っ張り上げては駄目なのだ。いくつかのブロックに分けて、その流れを大切にして行かないと不格好になる。

「修行って…あの、まさか…」
 たっぷりとムースを付けた髪はふわふわと綿毛のように広がる。それを丁寧に編み込んで、まとめ上げる。後れ毛の出し方も完ぺきだ。ラメ入りのハードスプレーを吹きかけ、まとめた根元にパールと造花を飾っていく。

「そう、容子さんに。空き時間を使ってみっちりと教わりました。…今日のために」

「え…?」

 今日のため? それって何よ、どういうことよ。昨日の晩にいきなり考えたのではないのか? いつからどんな風にこのことを思案していたのか?

「あ、あのっ…!」

 聞きたいことがたくさんある。疑問に思うこともたくさんある。問いただしたらきりがないほどに。でも、沙和乃のその声は周五郎の携帯が鳴ったことにより、途切れてしまう。

「…あ、丁度良かった」
 また、短い会話で通話を終えると、周五郎が立ち上がってドアの方に歩き出す。

「服が届いたそうです…お召し替えなさって下さい。僕も準備しないといけませんし」

 


「…で、これは、何?」

 取り残された部屋で呆然としてしまう。

 周五郎に渡された平べったい円筒形の箱。いくつかあるうちの一番大きなものの中から出てきた代物は、どう見ても沙和乃が朝に着てきた服ではなかった。自分も着替えるから、とベッドルームの方に沙和乃を押し込めて、周五郎はさっさと出て行ってしまう。特大ベッドの上に投げ出したそれに視線を投げて途方に暮れる。どうすりゃいいと言うのだ。

 真っ白でふわふわしたものが最初に見えた時は、まさかウエディングドレス!? と驚いた。いくら何でもそれはないだろう。女性の最高の夢だとは言うが、相手もなしにコレを着るのは虚しい。恐る恐る広げてみたら、ちゃんとスカートの部分とトップがセパレートになっていた。

 言われるがままに…着てしまっていいのだろうか? そんな不安がよぎるが、きちんとセットされた首から上とバスローブがあんまりにも不釣り合いだ。ここまで来たら仮装でも何でもやってやろうと言う気になる。欽ちゃんの仮装大賞で顔を真っ黒に塗りたくるのだと思えば、このくらいのことがなんだと言うんだ。

 違う箱には下着が一式入っている。ビスチェにストッキングにガーターベルト。お目に掛かったことのない様な品に唖然としながらも、どうにか装着した。ビスチェはやわらかい素材に見えたが、しなやかに伸びて身体を綺麗に覆う。背中には一応留め具がついていたが、外さなくても大丈夫だった。どうなっているのか分からないが、バストトップがすっと高くなった感じ、背筋も伸びてる。
 本当にいい下着というのは締め付けるわけではなく、身体を綺麗に包み込んでくれるのだ。

 とりあえず、ドレスの方から身につけてみた。ウエストのホックをはめて驚く。なんともジャストフィット。採寸したわけでもないのにどうして分かるんだろう? そう言えばビスチェもソフトガードルもとにかく身体にすすっと馴染んだ。見るからに上品なレースが幾重にも重なり合って、ペティーコートなしでもふんわりとしたシルエットを描いている。
 足首が見えるくらいの丈。下着とは思えないほどの綺麗なビスチェを上に付けていたので、そのまま立ち上がって歩いてみる。姿見の向こうでふわふわと揺れる羽のようなドレス。ウエストがきゅっと高く、細く見える。こんなに膨らんだドレスなのに、まったく野暮ったくないのはどうしてなのか?

 トップスはシンプルなデザインでサテン地にドレスと共布のレースを重ねてあった。脇に向かって細かくて綺麗なドレープが寄っていて、身体に沿う。肩はないビスチェスタイルだ。

「…あれ?」
 ぴったりと重なった背中に手を伸ばして気付く。何これは、くるみボタンじゃないの。手が滑って、どうにも留めることが出来ない。試しに前に回してきちんと留めて後ろに回そうと思ったが、下のビスチェが一緒に回ってしまって変な風になる。トップスは伸びないのでボタンをはめてから、上から被るのも不可能だ。

「うっそ〜…」
 沙和乃は胸元を押さえたまま、しばらく途方に暮れていたが、こうしていても仕方ない。腹を据えて立ち上がった。

 


「…周?」
 片手でしっかりとトップスを押さえて、ドアを開ける。ソファーの向こう、窓際に立っていた周五郎がくるりと振り向いた。

 …うわ。

 思わず目を見張ってしまう。声を出して叫ばなかった自分を誉めてあげたい。沙和乃はずり下がるトップスを気にしながらもドアにしがみついた。

 モーニングコート。昼のもっとも格調高い正礼装だ。黒い上着。大きくカットされた前衿とおしりをすっぽり覆うほどの長い着丈。でも前のボタンは小さいものが三つだけで、下に着たベストのおなかの辺りが見えるデザインだ。ウエストの辺りが色っぽいくらいきゅっとしまっている。幅広のアスコットタイをウイングカラーのシャツと合わせて、縦縞のコールズボン。
 自然な感じに後ろに流した髪に、ふわふわと残した前髪。もしかして、婚礼用の衣装を着ているんだろうかと不安になるくらい素晴らしかった。仕事上、たくさんの結婚式を見てきた沙和乃も、ここまでのモーニングを見たことがない。そりゃ、日本を牛耳るような企業のオーナーになるべき男なのだから、そこら辺の人間と違っても当然だが。
 細身のデザインは最初の頃に見たあの野暮ったいスーツと似ているはずなのに、こっちは断然格好いい。もちろん、黒縁の眼鏡なんてかけてない。

「待ちくたびれてしまいましたよ? 沙和乃さん、支度は整いましたか…?」

 そう訊ねられてはじめて、うっとりと眺めていた自分に気付いた。ハッとして俯く。何層にも塗られたはずなのに、驚くくらいナチュラルに仕上がった頬が紅潮しているのが感じ取れる。耳たぶも灼けるように熱かった。

「あ、あの…。周…」

 もう駄目だ、完全に立場が入れ替わっている。弟のように扱っていたはずの男が、信じられないくらい堂々と立派に見える。と言うことはどんなにか自分が情けなく心許ないかと言うことだ。

「…どうしました?」
 周五郎は落ち着いた足取りでどんどん近づいてくる。沙和乃は身が縮まる思いだった。あまりに恥ずかしくて、もうこのまま溶けて消えてしまいたいかと思った。


 トップレディーって何? 周五郎の最愛の女性って…どういうこと? こんな風に自分には似合いそうもない服を必死でまとって、年齢よりもだいぶ若作りをして。何やっているんだろうか、自分は。これは今夜の12時で解ける魔法の時間だ。

 だったら、楽しめばいいのに。周五郎がなにやら企んでくれたイベントをこなせばいいじゃないか。ふんだんにレースを使いながら、羽のように軽いドレス。幼子のようにきめ細やかになって、ファンデーションが吸い付く肌、きゅっと上がった顎のライン。シンデレラみたいにまとめられた髪。

 ――こんなの。作り物なんだよ? どうやって無邪気に楽しめと言うの…?


「沙和乃さん…?」
 頭上で声がする。えんじ色のカーペットの上に周五郎の履いているボタン留めの靴が見えた。

「あのね、周…背中のボタンが…」
 沙和乃は俯いたままで、こみ上げてくるものを必死で堪えた。

「…なんだ」
 くすり、と笑う声がする。こちらの想いも知らずに、あんまりに不謹慎だと思う。

「背中を向けて下さい。これは…ちょっとお一人では無理なデザインでしたね…女性の着替えは僕にはちょっと無理ですから、やはり人を頼んだ方が良かったかな…」

 するんするん、とボタンが留まっていく。身体に吸い付いていく布地。まるで肌の一部のように当たり前の存在。

「…ほら」
 後ろから両方の肩を掴まれて、背筋をきゅっと伸ばしていた。自分の視線が目の前の姿見に向かう。そこに映っていた自分を正面から見つめてしまった。

「今日は、僕のために笑っていて下さい。俯かないで…沙和乃さんはとても素敵なのですから…」

 …ふわり。肩からオーガンジーのストールを掛けられた。霞のような淡い輝きが沙和乃の身を包む。

 確かに。どこから見ても、美しかった。自分がここまで変われるとは正直思わなかったから。それだけに心許なくて、情けなくなる。こんなことをしてどうなるのかと、後ろ向きにばかり考えて。周五郎が一体何を思ってこんな風にするのか、さっぱり分からないから。

「…沙和乃さん」

 周五郎がすっと目の前に進み出て、騎士のように跪いた。そして沙和乃の右手を取ると、素早くそこに巻き付ける…。

「これで、今日一日、あなたは僕のものですよ。僕のために微笑んで、僕のために堂々と立ち振る舞って下さい。お願いします」

 沙和乃はそれを見て、思わず息を飲んだ。

 こんなものはいらない、そう思ったはずの…ブレスレット。周五郎と自分の立場の違いを見せつけられて口惜しくて気が狂いそうだったあの日の…ピンク色のコンク・パール。

「本当は肘より上までの手袋を着けるのが正式なのですが…せっかくのお美しい肌なのですから、存分に見せびらかしましょう」
 そう言って、恭しく手を取る。

「誰よりも…愛おしい人…」

 

 ――あまりにも芝居じみた行為。

 ああそうか、これは演技なのだ。心のどこかでそう納得していた。やわらかく手の甲に触れる周五郎の唇。これはどこかの国の上流階級の挨拶に過ぎない。必死にそう思いこもうとしている自分がいた。

 だから、顔を上げたその男をにこやかに微笑んで迎えることが出来た。最高のもてなしには最高の振る舞いで応えよう。指先は震えるほどに本心を示していたが、そんな自分の想いごと封印した。

 


「あ、あの…ここは?」

 来た時と同じように、高速エレベーターを使って地下の駐車場に降りる。そこには先ほどの運転手がリムジンのドアを開けて待っていた。滑るように走り出す車がやがて辿り着いたのは、つい最近オープンしたばかりのショッピングモールだった。
 若者向けに広々とした敷地内にたくさんの店舗が並ぶ。遊歩道には煉瓦が敷き詰められ、花壇には春を先取りした花が咲き誇っている。おしゃれな街灯、電話ボックス。向こうには本物の海が見える。そう言えば、人工海岸もあると聞いていた。

 きょろきょろと辺りを見回している沙和乃に、周五郎は穏やかな口調で告げる。

「沙和乃さんにご用意した靴、少し大きいでしょう? この通りにあるショップに丁度いいサイズのものがあるというので、そこまでちょっと歩きませんか?」

「…え…!?」
 平日だというのに、若者たちがわんさか湧いている場所。そこを正装して歩くなんて、それも真っ昼間から。そんなの恥ずかしくて出来ない。

 沙和乃がリムジンを降りたところで躊躇していると、周五郎は慣れた手つきで手を差し伸べてきた。その指先がブレスレットをかすめる。

「ここはナカノが造り上げた街です。言うなれば、僕の造った街…そこを最愛の人と歩くのは当然のことだと思いませんか…? ほら、女優さんになった気分で。皆さん、どうしてこんなお美しい人が現れたのかと驚いていらっしゃいますよ」

 その声に俯いて煉瓦ばかりを見ていた視線を上げてみる。いつの間にか人だかりが出来ていて、皆、好意的な好奇の目をこちらに向けていた。

「さ、…行きましょうか?」
 周五郎の腕に腕を絡める。すがりつくように歩いたのはほんの数歩、そのあとは何だか自分でも不思議なくらい余裕が出た。


 人垣から「わ、花嫁さん?」「違うでしょ、何かの撮影だわ」…とか声が上がる。「お似合いね〜」と言う声が耳に届いた時は、ぴくっと反応してしまった。年増女とツバメみたいに見えているんではないだろうか? そんな後ろ向きな想いがどうしてもぬぐえないでいた。ふたりの間にある5年という時間は、付け焼き刃のスキンケアくらいじゃ乗り越えられない。そう思っていたから。

 暖かい春の風がドレスを揺らす。後れ毛が耳元で控えめに踊る。

 いつの間にか、沙和乃はそんな自分を心から楽しんでいた。


「周五郎様っ!!」
 少し歩いたところで、向こうからライトグレーのスーツを着た男性が走ってくるのが見えた。

「お出で下さる時には前もってご連絡下さるように申し上げているでしょう!? お願いしますよっ、私の顔を潰さないで下さいっ…!」
 知的な上品そうな顔立ちが歪んで、どんなに慌てふためいているか分かる。年の頃は50を過ぎた辺りか。どう見ても周五郎の倍くらいの年齢だ。

「すまないね、森山。今日は仕事抜きで、こっそりと来るつもりだったから」
 腰を折って低くなっている男に対して、周五郎は悠然と答える。

「こっそりって…周五郎様っ、頼みますよ〜」
 もう泣き出しそうな男、だがしかし、やはり年の功か? 彼はハッとして沙和乃の存在に気付いた。

「こ、これはこれは…今日はまたお美しいお方をご同伴で…」

 そう言いながら、親愛の色を乗せた笑みを頬に浮かべる。それをとってつけたようではなく、感情を伴ったように見せてしまうのがすごいと沙和乃は思った。

「ああ…沙和乃さん。こちらはこのショッピングモールの総支配人の森山ですよ?」
 周五郎はまず、沙和乃に男を紹介した。そのあと、甘い視線をこちらに投げながら、男に告げる。

「森山、こちらは…僕の大切な女性だから。今日はここを案内して差し上げようと思って。…ねえ、沙和乃さん。如何ですか、この場所は。お気づきになったところがあったら、何なりと仰って下さい」

「え…?」
 いきなり話を振られてどうしていいのか固まってしまう。咄嗟に言葉が出てくるわけがないじゃないか。

「とても…素晴らしい場所だと思いますけど。東京の真ん中にこんなゆったりしたスペースがあるなんてすごいわ」

 緊張に舌を噛みそうになりながら、かろうじて言葉を押し出す。その間にも道行く人が自分や周五郎に視線を投げてよこす。心臓がばくばくと高鳴って、気がおかしくなりそうだった。ほんの数十メートルのシューズショップまでの道のりが果てしなく遠く感じる。隣を歩く周五郎があまりに落ち着いているのが憎らしかった。

 


 朝露に濡れた純白のバラのようなヒールに履き替えて。次にふたりが向かったのはすらりとした外観が特徴的な劇場だった。

「イタリアの有名な賞を受賞した歌劇団の特別公演なんですよ? 全世界をくまなく回るのだとか。日本では一度しかない上演なので、一般の方にはチケットを販売しないそうです。…今日こちらに来ている方は全て優待の特別な方ばかりなのですよ?」
 周五郎はそう説明しながら、美しく装飾された階段を上っていった。マリーアントワネットが降りてきてもおかしくないほどの豪華な造りで、白い手すりには金色の模様が埋め込まれている。

 スカートの裾を気にしながらだから、足元がおぼつかなくなる。彼はそんな沙和乃の腰に手を回して、何気ない感じで支えてくれた。

 席に着くまでの間にも、TVや雑誌で何度も見たことのある著名人たちと挨拶を何度も交わす。その誰もが「素敵なお嬢様」と沙和乃を賞し、周五郎もそれに嬉しそうに応えていた。すらりと長身な周五郎は優美な服装に身を包んでいることもあって、ただでさえ目を引く。その上、彼はナカノの専務だ。挨拶をしてこない者はない。

 いいのだろうか、こんなところに。婚約者でもない自分がしゃしゃり出て。そう言う想いが湧いてきては必死で打ち砕く。今日1日しかない時間を悩んで無駄にしたくない。周五郎がせっかく演出してくれたなら、それを存分に楽しまなければ。



 大きくせり出した二階席は、劇場の中でも最高にいい場所だった。ここに皇族の方が座っているTV映像を何度か見たことがある。総理大臣や閣僚などが訪れた時などもここを使うらしい。

「うわ…」
 知らなかった。劇場の席なんて、一階の一番前がいい席なのかと思っていた。でも、こうやって上から眺めた方が舞台の全体を見渡せるし、ちゃんと役者の表情まで見える。これは視力が2.0だから、って訳でもないと思う。

「なんか、プリティー・ウーマンみたいね…」

 そう言えば、こんなシーンがあった気がする。思わず呟いて振り返る。傍らに座る和製リチャード・ギアが、首をすくめてくすりと微笑んだ。



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