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…19…

 

 

 舞台は身分違いの恋を描いたオペラで、まあ、「ロミオとジュリエット」のハッピーエンド・バージョンと言ったところか。舌を噛みそうなラテン語(…じゃないかも知れない)のタイトルは覚えられなかったが、舞台装置も衣装もそれはそれは素晴らしくて、言葉が通じなくても十分楽しめた。

「日本語に翻訳された舞台も見たことがありますが、やはり音楽に歌詞が上手に乗らないのですよね? 心地よいメロディーだと思って頂いて大丈夫だと思います」
 そう言う周五郎は舞台の役者たちが何と言っているのか分かるのだろうか? まあ、ある程度は理解しているのかも知れない。顎に手を当てて舞台を見入っていた彼は、時折口元を緩めて頷いていた。

 沙和乃はもう舞台を駆けめぐる彼らの身振り手振り、そして表情から物語を感じ取るのに必死だった。でも感情は万国共通。甘い瞳で恋人に語りかければ、それが愛の言葉なのだと分かる。幾度となく運命に引き離されては、それでもまた巡り会う。縁の深さに身が震えるようなお話だった。

 女優が男優の手を取る。そして、かすれる声で歌い始める。じっと相手の目を見て囁くのは「好き」と言う言葉か、それとも「愛してる」…? 綿毛のように揺れる金髪がキラキラとライトに反射して、幻想的な光の輪を辺りに無数に浮かび上がらせていく。
 そこには全てを越えた、ふたりだけの空間が形成されていた。


 割れるような拍手と歓声。そして、アンコール。幕が下りたあとも、しばらくは席を立つことが出来なかった。周五郎の施してくれた本格的なメイクは、涙を多少流したくらいで崩れるものではなかったが、あまりにもしっかり見入ってしまったため、感情の入り方がすごかった。どうして自分の目から涙が溢れてくるのかも分からない。それでもほとばしるものが止まらないのだ。

 俯いたままの沙和乃に周五郎が静かにハンカチを渡してくれる。指先が触れただけで、胸が震えてしまう。一階席の客がほとんど退出してライトの点いた客席に人気がまばらになるまで、何も言わずにふたりで寄り添う。周五郎の規則正しい呼吸だけが、肩先から伝わってきた。

 


 建物を出ると暮れかけた外気が肌を刺す。女性の正装は日没後の外を歩くのには適してない。真夏ならともかく、まだ早春。長い石畳の階段を下りる頃には、オーガンジーをかけただけの腕が凍るように冷たくなって、鳥肌が立った。

「…ほら、沙和乃さん。これをどうぞ」
 いつの間に手にしていたのだろう。周五郎が後ろからふわふわした毛のコートを掛けてくれる。もちろん、真っ白で毛足が長いものだ。ケープのように袖はなく、ふんわりとしたかたち。

「じゃあ、僕たちは歩いていくから。しばらくはゆっくりしていて」

 車を用意して待っていた運転手にそう言って、歩き出す。時間は…5時過ぎくらいか。目の前には東京湾が広がり、向こう岸の工業地帯に灯りがともり始めていた。水面からもやが立ち上り、辺りに立ちこめていく。空が群青色に色を変えていた。

「どこへ行くの…?」
 数歩は付いていったが、足が止まった。立ちつくしたまま動けなくなる。時間が、過ぎていく。かさかさと耳元で後れ毛が踊る。前を行く周五郎の背中が、ゆっくりと振り向いた。

「少し早いんですが、食事にしましょう…ほら、あそこのビルまで。そんなに距離はありませんから、歩きませんか?」

 彼の指さした場所には誰でも知っている老舗のホテルがあった。先日改装工事を終え、外装も内装も美しく生まれ変わったと聞いている。建物自体はとても古い。ナカノも押しも押されもしない日本を、世界を代表するような企業だ。ただ足りないものといえば「歴史」かも知れない。戦前から名前を轟かせているそことは違う。

「…本当はね、こんな服装のままじゃおかしいのですが」
 周五郎の大きな目がふっと細くなる。声と共に息が白くなって闇に包まれ始めた辺りに漂っていく。

「ディナーはモーニングではまずいですよね? テイルコートかタキシードに着替えないと。そして、沙和乃さんも夜会用のドレスに」

 そう言いながらこちらを見る瞳が寂しそうに揺れる。沙和乃は唇を動かすことも忘れ、それに見入っていた。

 初めて会った時、この男は確かに堅苦しいスーツに身を包んだあか抜けない風貌だった。誠実だけど肝心なところで抜けていて、どこか頼りない感じで。こちらが手を差し伸べたら、嬉しそうに微笑んだ。そうだったのに、確かにそうだったのに。

「でも」
 視線が外されて、海に向かう。綺麗な輪郭が丁度沖を通っていく客船のライトに照らしだされた。

「一分でも一秒でも…わずかな時間も惜しい。残された時間は貴重です」

 周りの風景も音も。全てが消え失せた。ただひとりの人の呼吸にだけ、心が向かう。ふたりの中の時計が同じ速度で進み始める。…終焉に向かって。


 最上階、展望レストラン。そこに入ることだって、一生に一度も出来ないかも知れない。その席をリザーブするために、庶民の感覚では到底想像も付かないほどの金額が提示される。見合うだけのサービスが提供されると知っていても、とても払いきれるものではない。そう言う場面で人間は確かに「分けられて」いるのである。

 沙和乃が案内されたのは、さらにその奥の、VIP専用の個室だった。個室、と言っても普通のリビングよりずっと広い。テーブルは普通より少し大きめではあるがふたりがけ用。広々としたスペースは何のために必要なのか全く見当が付かない。
 料理の邪魔をしないように控えめに配置されたグリーン。ゆったり流れるクラシック、窓の外に広がる夜景。東京の美しさを全て凝縮したような輝きに思わず心を奪われていた。遠くにそびえ立つのはサンシャインだろうか? その手前の大きな森が皇居?

 しかしボーイに引かれた椅子に腰掛けた時、自分を見つめる目の前に座る男の視線の他は何も視界に入らなくなっていた。

 


「…どうしたんですか? 進みませんね、お口に合いませんか?」

 静かな声にいざなわれて、肉を細かく切り刻んでいた手元から視線を上げた。そう訊ねた周五郎の皿も運ばれたままのメインディッシュがそのままそっくりのかたちで放置されている。柔らかな眼差しがまっすぐに沙和乃に向かっていた。

 ずっとそうだった。今日はこのけだるいほどの視線に絶えず包まれていたのだ。今までもそうだったのかも知れない。でもこれほどの艶も甘さはなかった気がする。どうしてしまったのだろう、一晩のうちに何が変わってしまったのだろうと信じられないほどに、今の彼には戸惑いも迷いもなかった。

 フォークとナイフが皿の上をかする微かな音も、周五郎の背後にあるこの場に似つかわしい大きさの置き時計に共鳴する。カチカチと耳を澄ませないと聞こえない微動がひとつ音を刻むたびに、沙和乃の心に一本ずつ細い針を突き立てていく。その先から伝わる鋭い痛みが、指先の動きを鈍くしているのだ。

 …時間が、過ぎていく。

 ディナーはゆっくり過ぎるスピードで進んでいく。最高級の素材を最高のシェフが調理したはずなのに、料理からは少しも味がしなかった。いや、正確には、沙和乃の舌が味覚をなくしていたと言った方がいい。先ほどレストルームで引き直したルージュが乗った唇。動かして音を発するのも難しい。

「ごめん…何だか、もう、胸がいっぱいで。だって…あんまりすごい一日だったんだもの」
 それは心の中から取り出した、素直な感想だった。

 ここに来て、もはや強がる言葉など出てくるわけもない。始終スポットライトを浴びているような経験は今までの人生では到底考えられなかったことだ。「ナカノ」の次期後継者である周五郎と同伴していると言うだけで、沙和乃は皆の注目を集めてしまった。確かにひと目を引いてもおかしくないほど美しく飾られている。でも同じ格好をしていても、隣りに違う男がいれば扱いは全く変わっていただろう。
 周五郎が恭しく沙和乃に寄り添うから、周囲の人々は注目する。控えめな笑みをこぼすだけで感嘆のため息があちこちから漏れた。

 魔女のおばあさんに魔法をかけられて、カボチャの馬車に乗って舞踏会に出かけたシンデレラだって、ここまでの視線にはさらされていないだろう。

 沙和乃が登っていくガラスの階段はもうすぐ一番高いところに辿り着く。そして…その先に道はない。


「では…」
 周五郎は立ち上がると、沙和乃の後ろに回って椅子を軽く引いた。給仕をしてくれるボーイはこちらが呼ばなければ室内には入ってこない。誰にも邪魔をされることのないふたりきりの空間だった。

「少し、腹ごなしに外でも眺めましょうか? 今夜はそれほどもやもかかっていませんから、とても美しく見えますよ?」

 薄いベールのようなカーテンを引かれた一角。そこまで足を進めると、周五郎は傍らのロープをゆっくりと引いた。

「……っ…!」

 その瞬間。沙和乃は自分が今どこにいるかを、把握出来なくなっていた。まるで触れることが可能なくらい間近に現れる夜景。そして、それは彼女の靴底の下にまで広がっている。窓がそのまませり出した造りになっていて、足元までガラス張りになっていたのだ。

 …まるで、宙に浮いているように。ぐらっと身体が後ろに倒れそうになり、斜め後ろにいた周五郎に背中が当たった。

「大丈夫ですか? …確かに少し、恐ろしいですね」

 くすくすと笑う声が頭の上から降ってくる。170近い身長の自分にこんな高い位置から話しかけるのはこの男が始めてかも知れない。滑らかな上着越しに感じられるぬくもりに、ホッとする。

「すごいわ。…まるで足元に星空が広がっているみたい。どっちが空なのか、分からなくなりそうだわ」
 曇りひとつないガラスに指を当てて、その宝石のような風景を見下ろす。流れていく首都高がまるで天の川みたいだ。折り重なる環状線、光の帯。

「本当に…綺麗…」

 そう呟いたら、胸の奥がじんと熱くなった。この美しすぎる夜景をこうして眺めることは最初で最後だろう。周五郎にとっては当たり前の造作ない出来事かも知れない。でも、当たり前の庶民にとっては決して手に入れることの出来ない遠い場所。


 …あんまりに、あんまりに違うふたり。だから、もう…時間がない。デザートとコーヒーが運ばれれば、今日が終わる。ホテルに戻ってこのドレスを脱げば、もう二度と関わり合うことのない存在になるのだ。


「周は…」
 震える肩に静かに手が添えられる。支えてくれるその体温が頼もしくて、どうにか立ってられる。そうでなかったら、とっくに床に崩れているかも知れない。

「こんな美しい夜景を何度も見てきたのね? こんな風に…信じられない風景を、見ることが叶う人間なんだわ…」
 背後の男ではなく、自分に言い聞かせるように沙和乃は言った。

「いえ…」
 しかし周五郎は、静かに息を吐くと、ぽつんと言う。

「僕も、これを見るのは初めてなんですよ。だから、沙和乃さんと同じくらい感激しています」


「え…?」

 そんな、馬鹿な。信じがたい言葉に思わず振り向く。そこには自分に熱い視線を注ぐ男が立っていた。彼はゆっくりと微笑むと静かに言った。

「確かにね…ランチでしたら、お祖父様たちと何度か来たことがあります。でも、ディナーは特別ですから。ここは…僕の父が母にプロポーズをした場所なんですよ? …ですから」

 大きく目を見開いた沙和乃の表情をのぞき込むように、周五郎が少し身をかがめた。熱い吐息が額に掛かる。ぱらぱらと落とした前髪が揺れた。

「ここは…僕が心から愛した、最愛の女性を伴う場所だと決めてました。そんな方が現れたら、是非ご招待したいと。やっと…夢が叶いました」


 …え、嘘。どういうこと? 沙和乃はまっすぐな視線に向かっても、しっかりとした告白を耳に受け止めても、まだきっちりと理解することが出来なかった。

 確かに、周五郎は言った。今日一日は、彼の最愛の女性として過ごして欲しいと。最高のおもてなしをさせて頂きます、と。…だからなのか?


 どこまでが演技でどこまでが本心なのか分からない。今日一日で消えてしまう泡沫の魔法ならば、この言葉も全てが本当ではないだろう。舞台の上でだけ甘い愛の言葉を囁いたあの役者たちのように、これも沙和乃を「最高に愛される女性」にするために彼が計算して落とした言葉なのだろうか?

 飲まれていい訳がない。作り物の愛になど心を囚われてはならない。払いのけて、立ち去らなかったら、自分のプライドがなくなってしまうではないか。…でも。

 こんな風に愛されてみたいと、遠い昔に思った気がする。まだ少女の純粋さを留めた心はどこまでも自由で透き通っていて、限りなかった。いつかきっと自分ひとりを愛してくれる素敵な王子様が現れる。その胸に飛び込む瞬間こそが、幸せの頂点なのだと。
 そんな戯れ言を真に受ける年ではなくなっていたと思っていた。沙和乃にとって、現実と幻想の間の線引きは当たり前に出来るようになっていたのだから。

 待っていたのか、それでもまだ。性懲りもなく。

「…周…」

 その言葉に、沙和乃は想いの全てを託した。背伸びして、顔を近づける。すぐに側まで。息が掛かるくらい。周五郎の手のひらが頬を包む。暖かいぬくもりに全てを預けて、沙和乃はそっと目を閉じた。

 …プライドなんて、もう、いらない。

 湿った感触が唇に落ちてくるその瞬間、沙和乃は泣きたくなるような想いで自分の全てを解放した。



「実はね…」
 かする程度の淡いキスのあと、周五郎が赤らめた頬で言った。

「…初めてじゃないんですよ? 沙和乃さんとは」

「え…?」
 沙和乃は自分の頬がかっと熱くなるのを感じて、思わず俯いた。一瞬だけ、見つめ合ったその視線で全てがばれているようなそんな気がして。

 …確かに、初めてじゃない。周五郎がひと束のしおれた花を持って自分の帰りを待っていてくれた雨の夜。あの晩に自分のしてしまった行為を忘れることは出来ない。あまりに接近した心の距離に、思わず我を忘れていた。あのとき、自分の中にある欲求が怖くなって。もう、やめなければと思ったのに。

 そんな馬鹿な、気付いていたの? やだ、そんな…。額を広い胸にこつんと押し当てたら、周五郎が恥ずかしそうに言った。

「沙和乃さんの家に泊めて頂いた日、明け方目を覚ましたんです。そしたら…知らない部屋にいて、ここどこだろうって――」

「……?」

 どうも、違うらしい。じゃあ、どういうこと? 沙和乃が顔を上げると、周五郎が恥ずかしそうに、でもしっかりと沙和乃の目を見ながら話してくれた。


 ………

 ほんのりと部屋に白い光が差し込んでいる。

 周五郎は目を開けて、視線の先に見慣れぬ天井があるのに驚いた。自分が一体どこにいるのか、分からない。起きあがると身体を毛布がすべって落ちていった。部屋の中はしんとして物音ひとつしない。やがて、テーブルの上、白い花が活けてあるのを見て、ハッと気付いた。

「…沙和乃さん…?」
 きんと冷え切った空気。音のない空間を自分の声だけが浮遊する。部屋の中…ここはリビングだろうか? 誰もいない。そう言えば沙和乃の両親は地方に赴任中で自宅には彼女しかいないと言っていた。

 どこにいるんだろう? まさか、自分がいるからと言って、どこかに出てしまったと言うことはないだろう。あんな雨の夜更けだったのだ。…じゃあ、どこに? そう思って人の家とは知りながら、探してしまった。1階には台所とリビング、客間、あとは水回り。ためらいつつも2階に上がる階段を上っていた。

 廊下の突き当たり、ぴっちりと閉まっていないドアがあり、それを開けてみる。それほど広くない部屋に置かれたベッドの上に彼女はいた。

 …沙和乃さん。

 会いたかった、一目会いたくて、明日まで待てなくて、それで来てしまったんだ。自分の情けないほどの欲求を思い出す。安らかに寝息を立てるその表情は少し苦しそうに眉間に皺を寄せていたが、周五郎の目にはどこまでも純粋な天使のように映った。

「…ごめん、今から迎えに来てもらえるか?」

 枕元に腰を下ろして、小声で携帯を使う。従順な運転手は眠りから起こされても嫌な顔ひとつしないだろう。いや、彼は昨日自分を勝手に連れ出してくれて、その後こうしてずっと連絡が付かなかったのだから、どんなに辛い想いをしたか。もしかしたら一晩中、眠れなかったのかも知れない。

 すぐにそちらに向かいます、と言う返事を聞いて通話を切る。

 ほっと一息ついて、また沙和乃の顔を眺めた。今、起こしたら少し話が出来るだろうか? 昨日の晩は話らしい話も出来なかった気がする。でも、やめよう、もったいないな、とすぐに考え直す。微かな表情の変化も、眠りを誘うようなやわらかい寝息も、今は自分だけのものだ。こうして、ゆっくりと眺めていたい。そう思わずにはいられなかった。


 やがて。携帯が最小にしてある受信音を鳴らす。運転手が下に着いたのだ。もう行かなくては。沙和乃の小さな輪郭を縁取るやわらかい髪に触れることすら出来ず、周五郎は名残惜しく立ち上がった。

 ドアのところまで歩いて、振り返る。つい先ほど入った時よりも、明るさを増した室内。ベッドの上の人が、くるんと寝返りを打った。

「…ん、周…?」

 ドアノブから手が滑る。胸がびくんと波打った。もしかして、目覚めたのだろうか。少し期待したが、すぐにまた寝息に戻ってしまった。それだけのことで体中の血液が逆流してしまった気がする。このまま立ち去ること何てどうして出来る? 周五郎はもう一度、足早に枕元に戻っていった。


「…聞き違えかも、と思ったんです。でも、沙和乃さんが僕の名前を呼んでくれるなんて。もしかしたら、沙和乃さんの夢の中に今、僕がいるのかも知れない、そう思ったら、もう、たまらなくなって。――気がついたら、額に掛かった髪をかき上げて、そこに…そうしたら、鼻先から今まで感じたことのないくらい沙和乃さんの髪の匂いが飛び込んできて、背筋がぞくぞくっとしてしまったんです。

 そして、…こうして…」

 熱い吐息が沙和乃の唇を揺らす。何度も何度もついばんで、終わりのない想いを震えさせる。

「僕は…あのとき、このままどこかに行ってしまいたいと思いました。沙和乃さんを連れて、誰もいない場所に。ふたりっきりでずっとそこにいたい。――あなたを離したくないっ…って…!」

 ふわ。沙和乃の身体の周りに微かな風が巻き起こる。もう迷いなどない腕がぎゅっと抱きすくめて、背中が折れるほど、強く強く締め上げてくる。


 …周…!?

 そんな、そんなの、知らない。あの朝、自分の身体を吹き抜けた情熱が存在したなんて。

 頼りない男だと思った。年下である、5歳の年齢差以上に幼く見えて、大きな身体であっても思わず守りたくなるような雰囲気があった。放っておけなくて、ついつい連れ回して、自分の好みの姿に変わっていく彼が微笑ましかった。
 こんなに逞しく力強い腕の中では、自分がどこまでもはかない存在に思えてくる。泣きたくなるほどのこの感情を全て抱き留めて欲しい。そう願わずにはいられない、雄々しい存在。


 わずかの時間に孵化し、脱皮を繰り返し、見事なまでの成虫になる。蝶のように生まれ変わるというのは女性のためのたとえではなかったのか。

「あなたに出会うまでは、知らなかったんです。世の中にこんなに愛らしい存在があることも。恋愛を夢見てはいましたが、もうそんなことは幻想でしかないと思い始めてました。…なのに」

 周五郎が静かに腕を解く。そして、また沙和乃を上向かせると、唇を押し当ててきた。

 その、徐々に展開されていく行為に酔いそうになる。回数を重ねていくと、彼の動きから徐々にためらいが消えていった。軽く押し当てたあと、舌を滑り込ませてくる。びっくりしている間もなく受け入れて、お互いに求め合っていた。

「は…、沙和乃さん…っ!」
 わずかに浮かせた時に苦しそうにそう呻いて、また繰り返す。余りの熱さに受け止めきれずに身体が揺らぐ。崩れ落ちそうになって、慌てて広い背中に腕を回してしがみついた。


 …愛してる、のキス。そう思った。想いを伝えるために、ただ、それだけのためにお互いを求め合う。

 その官能的なときめきに深く酔いしれ、意識が遠のきそうになりながら、ハッと我に返る瞬間がある。

 これは演技なのだ、この男はこんな至福の時を自分に与えるために、こうしているだけなのだ。しかし、そう思っても巻き込まれていく頼りない自分。


「こんなに…こんなに、愛してるのにっ…! どうしてっ…っ!」

 熱い情熱に身体を全て預けて、息も出来ないほどの狂おしさに堕ちていく。私も同じ、愛してると告げてしまえたら、どんなに楽だろう。どんなに満たされた気分になるだろう。でも、そんなこと出来ない。してはならないことだ。

 …ああっ…! 周――っ!!

 新しい涙が頬を伝う。もう、止められない想い。これから、どこへ行けばいいのだろう? 明日のないふたりには、もう…何も残されていないのに。あるのはこうしてお互いを確かめるささやかな時間だけ。

 嵐のような息づかいの中で、何度もお互いを求めて、口づけあった。美しい夜景も優美な内装ももう関係なかった。お互いがお互いを求め、交わしあうだけが全て。一番単純な愛のかたちだった。

 

 ――ポーン…。

 耳元に確かに落ちてきた音に、ハッとする。視線の先にある大きな文字盤の上に、長針と短針が105度の角度を描いて垂れ下がっていた。しっかりと抱きしめられていた腕が解かれる。周五郎が静かに時計を振り向いて言った。

「…時間です。もう、戻らなくては」




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