TopNovelココロの消費期限Top>ココロの消費期限☆20


…20…

 

 

 一度、解かれてしまった腕はあっけなく元の彼のものに戻る。そして、もう再び沙和乃を包むことはなかった。


 ボーイを呼んで、メニューを切り上げ、デザートのシャーベットとデミタスコーヒーだけを運んで貰う。ふたりの間にもはや言葉は存在せず、ただ食器とスプーンの奏でる響きが辺りに聞こえていた。


「…行きましょうか?」

 周五郎はさっさと立ち上がり、先を歩く。広い背中、もう触れることすら出来ない滑らかな高級素材の布地。手のひらに残る感触が沙和乃の胸を締め付けた。しっとりとして、それでいて滑らかで。あんなに必死に握りしめてしがみついたのに、シワひとつ残ってない。…自分の付けた痕などどこにも残ることはないのだ。

 心の中で。

 たったひとつの言葉だけが、ふわふわと浮遊していた。それを口から出してはならないと必死で押しとどめる。今、沙和乃に出来るただひとつの強がりだった。


 朝と同じように、黒塗りのリムジンに乗せられる。後部座席、人間が4人くらい座れるほどのゆとりのあるスペースにふたりは離れて座った。別に沙和乃が意識したわけではない。あちらのドアから乗り込んだ周五郎が窓際を陣取ったままこちらに進んでこようとしなかったのだ。
 運転席との間にあるカーテンを閉めてしまえば、ここはふたりきりの空間になる。そんなことは承知しているはずなのに、彼はもはや沙和乃との距離をなくそうとはしなくなっていた。

 流れていく風景。ほんの少し前、ここは足元に広がる星屑の街だった。キラキラと動く宝石たちは胸に刺さるほどにきらめき、心を魅了した。宙に浮いた要塞のようなレストラン…その屋内では、現実と幻想の区別が付かなくなっていた。でも今は、違う。
 立派な車に乗って、滑るように街を進んでも、沙和乃の心にはもう通常の時間が流れていた。見慣れた街の風景。少しでもいいから道が混雑すればいいのに。車が渋滞にはまって動かなくなれば、それだけ長い時間を共に過ごせる。…だのに、いつもはのろのろしか動けないような交差点も、今夜に限ってすんなりと抜けてしまう。その瞬間、沙和乃の胸の砂時計の砂が、ずさっと一度に下に落ちた。


 …周…。

 ちらっと、視線の端に意識を運ぶ。
 窓際に肘をついて、流れる風景を見ている横顔。こちらのことなんて気にも留めていないように。ただ、車の進行を確かめているように。

 愛してると言った。…離したくないと。あの柔らかな唇が、確かに絶え間のない愛の言葉を吐き出したのだ。嘘じゃない、夢じゃない。ほんの数十分前に実際に行われていたことだ。力強い腕に抱かれ、熱い抱擁を繰り返す。息も出来ないほど、強く口づけられて我を忘れた。
 上っ面の恋物語に酔いしれる歳などとっくに越えていると思っていた。現実はあくまでも現実として受け止めるしっかりとした目が養われている。年齢を重ねるというのはそう言うこと。…それなのに。

 何を、考えているのだろう? もう、心は明日のスケジュールに向かっているのかも知れない。婚約披露のパーティー。どんなに盛大なものになるのだろう。きっと沙和乃が仕事で過去に関わったどんなパーティーよりも豪奢で輝かしい…彼の未来を祝福するにふさわしい、華やかな宴に違いない。


 冷ややかなものが、胸に注ぎ込んでくる。ひたひたと徐々に満ちてくるそれは水位が上がるごとに、新たな痛みを運んできた。

 …やはり、若いのだ、この男は。

 沙和乃はむき出しの肩を震わせた。車の中が寒いという訳ではない。ただ、感情が震えとなって表れただけのことだ。

 愚かなこと…周五郎は知らない。今、沙和乃がどんな気持ちでいるか。

 確かに彼のセッティング通りの夢のような一日を満喫した。美しい衣装に身を包み、綺麗に飾り立て、誰が見てもため息しか漏れてこないような姿でたくさんの目にさらされた。取り立てて目立ちたがりと言うわけではない。それでも、やはり好意的な視線を向けられるのは悪い気がしなかった。
 …そして。そんなあまたの視線の中でも、一番近くで、一番甘く熱かったのが、彼のものだ。引き寄せられるようにそちらを見れば、いつでもふんわりした暖かさに満ちていた。言葉がなくても十分に想いが伝わってくる。誰の目から見ても…いや、他ならぬ沙和乃自身が愛されていることを深く実感した。

 でも、それが美しく充実していればいるほど、そのあとに来る空しさは計り知れない。

 細いヒールが階段を踏み外す。悲鳴を上げる暇さえ与えられず、奈落の底に突き落とされるのだ。そして、…そんな哀れな自分を周五郎はただ見下ろしている。決して手を伸ばして、すくい上げてくれることはない。冷たい瞳、心の見えない静かな色。

 時間はあまりにも非情に過ぎていく。もしも硝子の靴を落としたとしてもそれを顧みられることはない。沙和乃はもう周五郎の記憶から永遠に消え失せてしまうのだ。あとかたもなく。

 たとえば戯れ言であっても、今ここで互いの手を取り合い肩を寄せ合い。わずかばかりのぬくもりを共有することが出来たら。それだけの男を演じる余裕が周五郎にあったなら。どうして、あと少しの時間、夢を見せてくれないのだろう。当たり前の誠実さではこの心の隙間を埋めることは出来ないのに。

 魔法の解けたシンデレラはどこまでも惨めだ。探し出してくれる王子様がいないと知った時、味わった幸せの何十倍・何百倍もの絶望を感じることになる。それを知っていて、こんな行為に及んだのではないと信じたい。でも…次々に胸を突き刺していく痛みは、もうぬぐい去ることが出来なかった。

 言葉をなくす以外に、沙和乃に感情を抑える術はなかった。


「…こちらに」

 ホテルの地下の駐車場に到着した車から降り、エレベーターで朝の部屋に向かう。ぱたん、と軽い音を立てて、贅沢すぎる空間がふたりだけのものになった瞬間、沙和乃はたったひとつ残った期待を捨てなければならないことになった。

 運転手の目がなくなれば、もしかしたら彼は再び情熱を持って接してくれるのではないかと思っていたのだ。たった一度、そう、もうこれが最後でもいい、あの力強い腕に抱かれて、広い胸に顔を埋める。息の出来なくなるほどの幸せをもう一度だけ我が身に感じ取ってみたい。浅ましいことと知りながら、そう思わずにはいられなかった。

 しかし。周五郎はゆっくりと部屋を横切り、ベッドルームの扉を開く。窓の外は輝く夜景が広がり、朝とはまるで違う趣を見せていた。彼は少し身を避けて、沙和乃ひとりを中へ入れる。そして、背後から静かに言った。

「そのままの姿で戻られても構いませんが、やはりご近所の方の目があるでしょう。沙和乃さんの服は全てクリーニングが済んでいます。隣りの部屋でお待ちしますので、着替えが終わったら声をかけてください。送りますから」

 沙和乃は振り向いた。周五郎の表情が知りたかったのだ。だが、彼は素早く顔を背ける。視線を合わせることすらしなかった。

 彼の手でドアが閉ざされ、ただっぴろい空間に沙和乃はひとり残された。見ると、言われた通り、自分が朝に身につけていた服がビニールの袋をかけた状態でベッドの上に並んでいる。
 沙和乃はまっすぐに進むと、ベッドの端に腰掛けた。綺麗な落ち着いた花模様。そこに手をついて、大きくため息を付いた。

 


「…沙和乃さん? あの、終わりましたか?」

 その声を聞いて、沙和乃はハッとして時計に目をやった。11時にもうじき辿り着くことを示す文字盤が、見える。非情に、どこまでも非情に時は流れる。

「沙和乃さん…?」
 ただ服を替えるだけだ。10分か15分で十分だろう。この部屋にひとりで入って、30分近くが経過している。彼の方がしびれを切らしたのだ。ドアの隙間から覗いた男は、沙和乃の姿を見つけるなり、眉間に皺を寄せて見るからに不機嫌な表情になった。

「どうしたんですか? 早くしてください、運転手だって下でずっと待っているんです。それくらいのことはお分かりでしょう…僕だって」

 こちらに歩み寄りながら言葉を重ねていた周五郎は、そこで言葉を切った。

「…周…」

 沙和乃は未だ、ドレス姿のままだった。あのまま、着替えることもなく、ただ座っていたのだ。顔を上げて目の前の人を見つめると、その瞳から涙の雫がつつっと流れた。頬に涙の痕はない。耐えに耐えて堰き止めていた想いが、今、初めて溢れ出す。限界値を超えたのだ。

「沙和乃…さん?」
 冷たく整っていた表情がわずかに揺らいだ。沙和乃と1メートルくらいの距離を置いて立ち止まる。頬が青ざめて震えるのが分かった。

「あの、あのねっ…周」
 なかなか言葉が出てこない。喉の奥が水分をなくしてひからびている。必死に絞り出しても、かすれた苦しそうな呻きにしかならない。

「背中の。ボタンがひとりでは外せないの。…お願い、外してくれないかしら?」
 それだけ言うと、唇をぎゅっと噛んで俯いた。

 この服を身につける時も、ひとりでは無理だった。あのときは、周五郎がくすりと笑って、はめてくれたのだ。その、まだ幸せに包まれていた時間を思い出す。思い出したくなくても、そうせずにはいられない。


「…沙和乃さん」

 しかし。しばしの沈黙が流れてから、周五郎は今まで聞いたことのない冷ややかな声を発した。

「そのドレスは…セミオーダーではありますが、それでも沙和乃さんのサイズに合わせてお直しをさせたものです。今日が終われば、もう二度と袖を通すことのない不要品になるのです。構わないじゃないですか、そんなもの強く引きちぎってくださって、結構です。さあ、早く着替えを終えてください」

「そんな…」
 まさか、彼の口からこんなに冷たい言葉が出てくるとは思わなかった。ひとりでは外せないくるみボタン、外して貰いたいと思った。そう頼みに行こうと何度も思ったが、その瞬間にふたりの時間が終わってしまうと思うとどうしても立ち上がることが出来ない。そんな風に無駄な時間を過ごしてしまった。

「だって、そんな。こんなに素敵な服なのに、もったいないわ。乱暴なことなんて、したくない…大切じゃないの」

 このドレスを着て、自分は最高の女性になれた。天使のようなふわふわした素材。身のこなしまで可憐に軽やかに見えてくるかたち。それを破り捨てることなんてどうして出来る? それはそのまま思い出を破り捨てることに繋がってしまうじゃないか。

「この服、頂けるなら大事にするわ。ううん、買い取ってもいい。ずっと大切にしたいの、だから、傷は付けたくない」

 震える声で必死に訴えるのに、周五郎の表情は変わらない。

「沙和乃さん、…あなたは」
 吐き捨てるように言う。その瞳は気を確かに持っていなければ見つめることなど出来ないほど、恐ろしく怒りに満ちていた。

「もう着ることなどない服を後生大事に取っておいてどうするんです? それとも、それを将来、他の男とのために身につけるんですか? …そんなこと、許しません。今すぐ脱ぎ捨ててください、それをあなたの手には渡しませんっ…!」

「そんなっ…そんなこと。…周っ…!」

 沙和乃はもう堪えることが出来なかった。その瞳からぽろぽろと涙をこぼして、それでも周五郎から視線をそらさなかった。この思い出を汚すことは出来ない。ただの夢、幻でしかない出来事であっても、抱き続け、ずっと大切にすることは出来る。この瞳を閉じればありありと思い浮かべることの出来る今日の全てを永遠に心に封印したかった。


 大きく目を見開いたまま表情を崩さず、沙和乃を見つめていた周五郎は、そのときふっと瞼を伏せた。額に手をやって、何かを考え込んでいる。そして、再び瞳をこちらに向けると、静かに言った。

「あのね、沙和乃さん」
 そこで一度、言葉を切る。どうやって次の言葉を告げようか、少し考えているようだった。

「沙和乃さんは、知らないからそんなことを仰るんです。今、あなたとふたりきりでこうして部屋にいて、僕が何を思っているのか、お分かりにならないのですか…!?」

「…え…?」
 逆に問いかけられて、沙和乃は絶句した。頭が真っ白になる。だって、今の今まで、時間がないんだ、早く着替えろとそればかりを言っていたじゃないか。それ以上の何があるというのだ。

「沙和乃さん、あなたは…僕をからかっていらっしゃるのですか? 触れたくても触れることなど出来ない女性を前にして、平静を保っていることが男としてどんなにか大変か。それくらい、察して欲しいものです。もしも…その背中のボタンを外してしまったら、その時はもう、それだけでは済みませんよ?」

 怒りに震えていた頬に、少しばかりの赤みが差した。沙和乃が言葉をなくしたまま見つめていると、彼は再び口を開いた。

「さあ、早く、着替えてください。あと15分だけお待ちしますっ…! それでもこちらの言葉を聞いてくださらないなら、その時はその姿のままでお送りします。あなたを無事に送り届けなければ、全てが終わらないのですから…!」


「しゅ、…周…?」
 回りくどい言葉の意味がよく分からない。でも彼が何かを必死で堪えていることは分かった。言葉から察すればそれは簡単なことであろう。沙和乃にとって、思いつかないことではない。

「あの、周…? 本当に、私が欲しいの?」

 しおらしくさめざめと泣いていた割りには、何ともストレートな言葉になってしまった。だが、ここまで来て回りくどい言葉の応酬をしているわけには行かない。何しろ時間がないのだ。はっきりと明確に行かなくては。

「…え…?」
 今度は周五郎の方が言葉を失う番だ。さすがの彼もこんな風に言われては次の言葉を編み出すことが出来ないらしい。その頬にはっきりそれと分かる赤みが広がった。

「いいよ、別に。そんな風に我慢していて機嫌が悪いなら。…そんな周は見たくない。別に減るものじゃないし…それに」

 あの、熱い抱擁の間、どんなにか夢見ただろう。自分が経験を積んでしまった女であることが情けなくなるほどに、ずっと求めていることがあった。多分、このまま家に戻ってもその思いは抱き続けることになるだろうと考えていたのだ。

「さっ…沙和乃さんっ!! 本当に怒りますよっ、いい加減にしてくださいっ!! からかわないでくださいっ!」
 しかし、周五郎は大きくかぶりを振ると、言葉通りに怒りを露わにして食いかかってきた。

「酷いですっ、僕がどんな風に堪えているかっ…。だって、そうでしょう!? もしも、あなたを欲望に負けて求めてしまったら、その瞬間に、僕はあなたを踏みにじった男たちと同じ存在に成り下がってしまうのですよっ!? 僕が…僕が、求めているのは、そんな自分じゃないんです。沙和乃さんの胸に美しく綺麗なかたちで残る男になりたいんですっ…!」

 がくっと膝が落ちる。彼はその場に崩れ落ちていた。四つんばいになった姿勢でカーペットにぎりりと爪を立てる。毛足の長いそれが爪の流れにあわせて色を変えた。

「言ったでしょう? 身体なんて、そんなもの欲しくないって。それよりも、沙和乃さんを最高の女性として一日過ごさせてみせるって。…もうちょっとじゃないですか、もうちょっとで、僕の描いた最高の一日が完成するんですっ…あなたが服を着替えて、車に乗ってくだされば…!」


「違うわっ…周…!」
 沙和乃は立ち上がった、そして周五郎の前まで歩み出て、自分も腰を落とす。俯いたままの輪郭にそっと指を添えた。

「あのね、私。まだ最高に幸せになってないわ。まだ、足りないの…ねえ、今日はまだ、終わってないわ。時間は残っているの…お願い、周っ…!」

 こんなこと、女の自分が望んでしまうのは間違っているかも知れない。でももう…堪えることなど出来なかった。今日が終わる前に、まだ残された時間があるのなら。

「残りの時間で、私を最高に幸せな女にして。…一生忘れられない夜にして、他の男たちとは違うってきちんと証明してっ…!」

 ほとばしる想いが溢れ出す。頬を伝って落ちていく。もうそんなものに構ってはいられなかった。ただただ、欲しかった。

「お願い、周…」
 耐えきれず、顔を覆う。彼の視線がこちらに向かってないとは知っていても、もう顔を上げられる状態ではなかった。

「背中のボタンを外して。…私を、解放してっ…!」


 顔を覆った指の隙間から、こぼれ落ちていく雫の行方を辿ることも出来ない。こうしているうちにも時間は過ぎていくのだ。ふたりに残されたものはあまりに少ない。でも、それでも、一瞬たりとも無駄にはしたくない。与えられた時間がわずかなものだったとしても、その中で震えるような幸福を感じたかった。

 自分の嗚咽の微かな音だけしか聞こえない。そこにいる周五郎の答えが聞きたかった。いや、こうして食い下がって、そして冷たく振り払おうとももう後悔はしない。これだけの情熱が自分の中に存在していたことが分かって、正直に嬉しかった。


「沙和乃…さん…」
 周五郎の震える声がする。静かに肩に手が置かれる。手のひらから感じる体温がとても熱かった。

「きっと、後悔しますよ…そのようなこと、仰って」

 沙和乃は無言のまま、大きく何度もかぶりを振った。乱れた髪が舞い散る。それから、すぐ近くに呼吸を感じながら手のひらの覆いを外し、顔を上げた。

「そんなこと、ない。…ごめん、我が儘言って…私、周が欲しいの。もう一度、抱きしめてっ…一番近くに、行かせて…っ…!」

 多分、夢は叶う。一生に一度だけ、現れる王子様が見せてくれる最高の時間。それがつかの間のものであっても、二度とないことであっても、後悔なんてしない。

「周は、望んでないのに…ごめんね…」

 胸の奥がきしむ。

 もしも。身も心も清純な、周五郎によく似合う娘だったら、こんなことを自分から望んだりしなかっただろう。遅すぎた出逢いを恨んでしまう。

「そんなこと…」
 周五郎の手のひらが、沙和乃の頬を両側から包み込む。

「夢みたいです、本当に…いいのでしょうか…?」
 前髪を吐息が揺らす。湿った目元に唇が落ちてきた。目のフチを舌が辿り、ぞくぞくと艶めかしい快感を運んでくる。

 

「ねえ…周?」
 強く抱きすくめられて、息苦しいほどの束縛が何とも嬉しい。囚われている自分がこんなに満たされるなんて。この腕の中で溶けてしまえればいい。このまま彼の身体に染みこんでしまいたい。

「何故…私? ずっと、分からなかったの。だって…年上だし、それに…」


 知ってしまったらなら、自分の全て。暗い部分まで、最初から知っていて、どうして何でもない感じで付き合ってくれたのだろう? それがずっと疑問だった。

 周五郎の周りには彼にふさわしい女性がたくさんいるはずだ。それに数え切れなくなるほどのお見合いもしたという、仕事上の出逢いを加えたならもっと多いだろう。そんな者たちと比べて、自分が勝ることなどあるわけない。それなのに一心に慕ってくれる周五郎が愛しくて…でも心のどこかで信じがたかった。

 からかわれているのかな、とも考えたが、それにしては彼はまっすぐだった。それどころか、とうとう沙和乃の過去を全て断ち切って、明るい場所に導いてくれたのだ。どうしてここまで、と思わずにいられない。


「そんなの…決まってるでしょう?」

 短いキスをして、それからゆっくりとした動作で抱き上げられた。がっしりした身体は、どちらかというと長身の部類に入る沙和乃を難なく持ち上げる。

 すぐ近くに周五郎の顔があって、それがまっすぐに自分を見つめているから身の置き所がなくなる。仕方なく広い胸に顔を埋めると、耳元に熱い吐息が落ちた。


「初めてあなたを見た瞬間に、この人しかいないと思ったんですよ?」

 

 


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