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一度、解かれてしまった腕はあっけなく元の彼のものに戻る。そして、もう再び沙和乃を包むことはなかった。
周五郎はさっさと立ち上がり、先を歩く。広い背中、もう触れることすら出来ない滑らかな高級素材の布地。手のひらに残る感触が沙和乃の胸を締め付けた。しっとりとして、それでいて滑らかで。あんなに必死に握りしめてしがみついたのに、シワひとつ残ってない。…自分の付けた痕などどこにも残ることはないのだ。 心の中で。 たったひとつの言葉だけが、ふわふわと浮遊していた。それを口から出してはならないと必死で押しとどめる。今、沙和乃に出来るただひとつの強がりだった。
流れていく風景。ほんの少し前、ここは足元に広がる星屑の街だった。キラキラと動く宝石たちは胸に刺さるほどにきらめき、心を魅了した。宙に浮いた要塞のようなレストラン…その屋内では、現実と幻想の区別が付かなくなっていた。でも今は、違う。
ちらっと、視線の端に意識を運ぶ。 愛してると言った。…離したくないと。あの柔らかな唇が、確かに絶え間のない愛の言葉を吐き出したのだ。嘘じゃない、夢じゃない。ほんの数十分前に実際に行われていたことだ。力強い腕に抱かれ、熱い抱擁を繰り返す。息も出来ないほど、強く口づけられて我を忘れた。 何を、考えているのだろう? もう、心は明日のスケジュールに向かっているのかも知れない。婚約披露のパーティー。どんなに盛大なものになるのだろう。きっと沙和乃が仕事で過去に関わったどんなパーティーよりも豪奢で輝かしい…彼の未来を祝福するにふさわしい、華やかな宴に違いない。
…やはり、若いのだ、この男は。 沙和乃はむき出しの肩を震わせた。車の中が寒いという訳ではない。ただ、感情が震えとなって表れただけのことだ。 愚かなこと…周五郎は知らない。今、沙和乃がどんな気持ちでいるか。 確かに彼のセッティング通りの夢のような一日を満喫した。美しい衣装に身を包み、綺麗に飾り立て、誰が見てもため息しか漏れてこないような姿でたくさんの目にさらされた。取り立てて目立ちたがりと言うわけではない。それでも、やはり好意的な視線を向けられるのは悪い気がしなかった。 でも、それが美しく充実していればいるほど、そのあとに来る空しさは計り知れない。 細いヒールが階段を踏み外す。悲鳴を上げる暇さえ与えられず、奈落の底に突き落とされるのだ。そして、…そんな哀れな自分を周五郎はただ見下ろしている。決して手を伸ばして、すくい上げてくれることはない。冷たい瞳、心の見えない静かな色。 時間はあまりにも非情に過ぎていく。もしも硝子の靴を落としたとしてもそれを顧みられることはない。沙和乃はもう周五郎の記憶から永遠に消え失せてしまうのだ。あとかたもなく。 たとえば戯れ言であっても、今ここで互いの手を取り合い肩を寄せ合い。わずかばかりのぬくもりを共有することが出来たら。それだけの男を演じる余裕が周五郎にあったなら。どうして、あと少しの時間、夢を見せてくれないのだろう。当たり前の誠実さではこの心の隙間を埋めることは出来ないのに。 魔法の解けたシンデレラはどこまでも惨めだ。探し出してくれる王子様がいないと知った時、味わった幸せの何十倍・何百倍もの絶望を感じることになる。それを知っていて、こんな行為に及んだのではないと信じたい。でも…次々に胸を突き刺していく痛みは、もうぬぐい去ることが出来なかった。 言葉をなくす以外に、沙和乃に感情を抑える術はなかった。
「…こちらに」 ホテルの地下の駐車場に到着した車から降り、エレベーターで朝の部屋に向かう。ぱたん、と軽い音を立てて、贅沢すぎる空間がふたりだけのものになった瞬間、沙和乃はたったひとつ残った期待を捨てなければならないことになった。 運転手の目がなくなれば、もしかしたら彼は再び情熱を持って接してくれるのではないかと思っていたのだ。たった一度、そう、もうこれが最後でもいい、あの力強い腕に抱かれて、広い胸に顔を埋める。息の出来なくなるほどの幸せをもう一度だけ我が身に感じ取ってみたい。浅ましいことと知りながら、そう思わずにはいられなかった。 しかし。周五郎はゆっくりと部屋を横切り、ベッドルームの扉を開く。窓の外は輝く夜景が広がり、朝とはまるで違う趣を見せていた。彼は少し身を避けて、沙和乃ひとりを中へ入れる。そして、背後から静かに言った。 「そのままの姿で戻られても構いませんが、やはりご近所の方の目があるでしょう。沙和乃さんの服は全てクリーニングが済んでいます。隣りの部屋でお待ちしますので、着替えが終わったら声をかけてください。送りますから」 沙和乃は振り向いた。周五郎の表情が知りたかったのだ。だが、彼は素早く顔を背ける。視線を合わせることすらしなかった。 彼の手でドアが閉ざされ、ただっぴろい空間に沙和乃はひとり残された。見ると、言われた通り、自分が朝に身につけていた服がビニールの袋をかけた状態でベッドの上に並んでいる。
その声を聞いて、沙和乃はハッとして時計に目をやった。11時にもうじき辿り着くことを示す文字盤が、見える。非情に、どこまでも非情に時は流れる。 「沙和乃さん…?」 「どうしたんですか? 早くしてください、運転手だって下でずっと待っているんです。それくらいのことはお分かりでしょう…僕だって」 こちらに歩み寄りながら言葉を重ねていた周五郎は、そこで言葉を切った。 「…周…」 沙和乃は未だ、ドレス姿のままだった。あのまま、着替えることもなく、ただ座っていたのだ。顔を上げて目の前の人を見つめると、その瞳から涙の雫がつつっと流れた。頬に涙の痕はない。耐えに耐えて堰き止めていた想いが、今、初めて溢れ出す。限界値を超えたのだ。 「沙和乃…さん?」 「あの、あのねっ…周」 「背中の。ボタンがひとりでは外せないの。…お願い、外してくれないかしら?」 この服を身につける時も、ひとりでは無理だった。あのときは、周五郎がくすりと笑って、はめてくれたのだ。その、まだ幸せに包まれていた時間を思い出す。思い出したくなくても、そうせずにはいられない。
しかし。しばしの沈黙が流れてから、周五郎は今まで聞いたことのない冷ややかな声を発した。 「そのドレスは…セミオーダーではありますが、それでも沙和乃さんのサイズに合わせてお直しをさせたものです。今日が終われば、もう二度と袖を通すことのない不要品になるのです。構わないじゃないですか、そんなもの強く引きちぎってくださって、結構です。さあ、早く着替えを終えてください」 「そんな…」 「だって、そんな。こんなに素敵な服なのに、もったいないわ。乱暴なことなんて、したくない…大切じゃないの」 このドレスを着て、自分は最高の女性になれた。天使のようなふわふわした素材。身のこなしまで可憐に軽やかに見えてくるかたち。それを破り捨てることなんてどうして出来る? それはそのまま思い出を破り捨てることに繋がってしまうじゃないか。 「この服、頂けるなら大事にするわ。ううん、買い取ってもいい。ずっと大切にしたいの、だから、傷は付けたくない」 震える声で必死に訴えるのに、周五郎の表情は変わらない。 「沙和乃さん、…あなたは」 「もう着ることなどない服を後生大事に取っておいてどうするんです? それとも、それを将来、他の男とのために身につけるんですか? …そんなこと、許しません。今すぐ脱ぎ捨ててください、それをあなたの手には渡しませんっ…!」 「そんなっ…そんなこと。…周っ…!」 沙和乃はもう堪えることが出来なかった。その瞳からぽろぽろと涙をこぼして、それでも周五郎から視線をそらさなかった。この思い出を汚すことは出来ない。ただの夢、幻でしかない出来事であっても、抱き続け、ずっと大切にすることは出来る。この瞳を閉じればありありと思い浮かべることの出来る今日の全てを永遠に心に封印したかった。
「あのね、沙和乃さん」 「沙和乃さんは、知らないからそんなことを仰るんです。今、あなたとふたりきりでこうして部屋にいて、僕が何を思っているのか、お分かりにならないのですか…!?」 「…え…?」 「沙和乃さん、あなたは…僕をからかっていらっしゃるのですか? 触れたくても触れることなど出来ない女性を前にして、平静を保っていることが男としてどんなにか大変か。それくらい、察して欲しいものです。もしも…その背中のボタンを外してしまったら、その時はもう、それだけでは済みませんよ?」 怒りに震えていた頬に、少しばかりの赤みが差した。沙和乃が言葉をなくしたまま見つめていると、彼は再び口を開いた。 「さあ、早く、着替えてください。あと15分だけお待ちしますっ…! それでもこちらの言葉を聞いてくださらないなら、その時はその姿のままでお送りします。あなたを無事に送り届けなければ、全てが終わらないのですから…!」
「あの、周…? 本当に、私が欲しいの?」 「…え…?」 「いいよ、別に。そんな風に我慢していて機嫌が悪いなら。…そんな周は見たくない。別に減るものじゃないし…それに」 あの、熱い抱擁の間、どんなにか夢見ただろう。自分が経験を積んでしまった女であることが情けなくなるほどに、ずっと求めていることがあった。多分、このまま家に戻ってもその思いは抱き続けることになるだろうと考えていたのだ。 「さっ…沙和乃さんっ!! 本当に怒りますよっ、いい加減にしてくださいっ!! からかわないでくださいっ!」 「酷いですっ、僕がどんな風に堪えているかっ…。だって、そうでしょう!? もしも、あなたを欲望に負けて求めてしまったら、その瞬間に、僕はあなたを踏みにじった男たちと同じ存在に成り下がってしまうのですよっ!? 僕が…僕が、求めているのは、そんな自分じゃないんです。沙和乃さんの胸に美しく綺麗なかたちで残る男になりたいんですっ…!」 がくっと膝が落ちる。彼はその場に崩れ落ちていた。四つんばいになった姿勢でカーペットにぎりりと爪を立てる。毛足の長いそれが爪の流れにあわせて色を変えた。 「言ったでしょう? 身体なんて、そんなもの欲しくないって。それよりも、沙和乃さんを最高の女性として一日過ごさせてみせるって。…もうちょっとじゃないですか、もうちょっとで、僕の描いた最高の一日が完成するんですっ…あなたが服を着替えて、車に乗ってくだされば…!」
「あのね、私。まだ最高に幸せになってないわ。まだ、足りないの…ねえ、今日はまだ、終わってないわ。時間は残っているの…お願い、周っ…!」 こんなこと、女の自分が望んでしまうのは間違っているかも知れない。でももう…堪えることなど出来なかった。今日が終わる前に、まだ残された時間があるのなら。 「残りの時間で、私を最高に幸せな女にして。…一生忘れられない夜にして、他の男たちとは違うってきちんと証明してっ…!」 ほとばしる想いが溢れ出す。頬を伝って落ちていく。もうそんなものに構ってはいられなかった。ただただ、欲しかった。 「お願い、周…」 「背中のボタンを外して。…私を、解放してっ…!」
自分の嗚咽の微かな音だけしか聞こえない。そこにいる周五郎の答えが聞きたかった。いや、こうして食い下がって、そして冷たく振り払おうとももう後悔はしない。これだけの情熱が自分の中に存在していたことが分かって、正直に嬉しかった。
「きっと、後悔しますよ…そのようなこと、仰って」 沙和乃は無言のまま、大きく何度もかぶりを振った。乱れた髪が舞い散る。それから、すぐ近くに呼吸を感じながら手のひらの覆いを外し、顔を上げた。 「そんなこと、ない。…ごめん、我が儘言って…私、周が欲しいの。もう一度、抱きしめてっ…一番近くに、行かせて…っ…!」 多分、夢は叶う。一生に一度だけ、現れる王子様が見せてくれる最高の時間。それがつかの間のものであっても、二度とないことであっても、後悔なんてしない。 「周は、望んでないのに…ごめんね…」 胸の奥がきしむ。 もしも。身も心も清純な、周五郎によく似合う娘だったら、こんなことを自分から望んだりしなかっただろう。遅すぎた出逢いを恨んでしまう。 「そんなこと…」 「夢みたいです、本当に…いいのでしょうか…?」
「ねえ…周?」 「何故…私? ずっと、分からなかったの。だって…年上だし、それに…」
周五郎の周りには彼にふさわしい女性がたくさんいるはずだ。それに数え切れなくなるほどのお見合いもしたという、仕事上の出逢いを加えたならもっと多いだろう。そんな者たちと比べて、自分が勝ることなどあるわけない。それなのに一心に慕ってくれる周五郎が愛しくて…でも心のどこかで信じがたかった。 からかわれているのかな、とも考えたが、それにしては彼はまっすぐだった。それどころか、とうとう沙和乃の過去を全て断ち切って、明るい場所に導いてくれたのだ。どうしてここまで、と思わずにいられない。
短いキスをして、それからゆっくりとした動作で抱き上げられた。がっしりした身体は、どちらかというと長身の部類に入る沙和乃を難なく持ち上げる。 すぐ近くに周五郎の顔があって、それがまっすぐに自分を見つめているから身の置き所がなくなる。仕方なく広い胸に顔を埋めると、耳元に熱い吐息が落ちた。
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