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時計を見るのはやめた。せっかくの時間を悲しみの中に葬りたくはない。ただ、ふたりの残された最後の一秒まで、散らばる一粒一粒を手のひらですくい取るように大切にしたかった。
「…外しますよ?」 ぴくんと細い身体が震える。でも、そんなこと、気付かれたくない。沙和乃はベッドに腰掛けたまま、隣りにやはり腰掛ける周五郎の首にそっと腕を回した。少し背筋をのけぞらせて、楽に外れる体勢を取る。ああ、招いているな…と気付いて、指先が震える。ごめん、ごめんね、周…と瞳を閉じて、何度も心の中で反芻した。 小さな吐息が頭上から落ちて、その次の瞬間にぷつっと外れる。上半身を覆っていた束縛がなくなり、心細さに泣きたくなる。瞼が震えるけど、とても開く勇気がない。静かに静かに背中から倒されて、シーツの冷たい感触に触れた時、ふっと身体が軽くなった。 ひやっと、胸の先が冷たくなる。上体を包んでいた布地が取り払われたことを知る。空調の吹き出し口からの淡い風を敏感な部分が感じ取ったのか。ふるっと肩を震わせると周五郎の首に回していた腕を解き、無意識のうちに両手でふたつの胸を隠していた。 「…沙和乃さん…?」 「すごく綺麗なのに…隠さないで。ちゃんと見せて…?」 「…やっ…!」 「恥ずかしいのっ…、お願い、そんな風に見つめないで」 「綺麗なんかじゃない…ごめん、ごめんね。こんな風で…許して」
「そんな風にご自分を侮辱するのは許しませんよ? あなたは最高の女性なのです、僕が愛する人は…どこまでも気高く清らかであるはずです。実際にこんなに美しいじゃないですか…忌々しい過去なんて、忘れてください、今は。僕のことだけを考えて、感じてくださいっ…!」 そう言うと、強引に両腕を開く。再び視線に晒されていることを肌が感じ取り、消えてしまいたいくらい情けない気分になる。 「…し、周…」 「あっ…、あぁっ…」 「沙和乃さんっ…」 沙和乃が急に不安になって見つめると、彼は目を細めて微笑み、唇を頬に額に落としてくる。舌を絡め、お互いの熱さを伝えあう間に、彫像のように美しい上体がはちみつ色の空間に晒し出された。 思わず、腕を伸ばしていた。程よく色づいた逞しい胸は、今までのどの男たちよりも広く厚い。とてもこの世のものとは思えなくて、自分の感覚で確かめるしかないと思ったのだ。…いや、無意識のうちに触れて感じたいと思っていたのかも知れない。沙和乃の指先が熱い肌に届く頃、周五郎の手は、彼女のドレスのウエストに掛かった。 吐息が絡み合う。 ふわふわのスカートがはぎ取られ、続いて下着が繋がったまま足から引き抜かれる。本当はどうやって脱ぐものなんだろう? こんな西洋風の素材は実は初めてでよく分からなかった。洒落た落ち着いた行為と言うよりは、ただただ、早くお互いを包む無用のものを排除したいという欲求が先走っている。
「あっ…うっ…!」 「沙和乃さんっ…、沙和乃さんっ…!」 周五郎は何度も腕の中の存在を確かめるように名を呼び、腕に力を込める。手のひらが動き出す。背筋を伝って骨の位置を確かめるように徐々に動く範囲を広げていく。たどたどしいながらも迷いのない行為に、沙和乃は彼を助けるように身体をずらして受け入れていく。ウエストを周り、前に這い上がり、やがてふくらみに届く。やわらかく包み込まれると、たまらず、甲高い叫びが上がった。
「あ…、…あのっ…」 その瞬間、周五郎がぱっと手を剥がした。申し訳なさそうに慌てている。熱い波がいきなり遠ざかって、沙和乃もその顔をのぞき込んでいた。戸惑いを浮かべた頬で、こちらを見つめている。 「…どうしたの?」 「あ、…いえっ、あの、強すぎましたか? 沙和乃さん、いきなり叫ぶから、びっくりして…」 「…え…」 「あ、あのねっ…違うの、周…」 どうしよう、こんなこと。きっと、手慣れた女だと思われるに違いない。それでもこれを告げなければ、このまま時間が途切れてしまうのか。それだけは嫌だ。片腕を彼の首に回し、湿った胸の香りを確かめる。 「…嬉しかったの、すごく。だから、あんな風に声が出て。…ごめん、びっくりさせて…」
そんなこと、出来ない。出来っこない。 何故なら、そんなゆとりなど微塵もないほど、自分は怯えているのだ。これから起こる出来事を激しく求めているその一方で、捨てられた子猫のように惨めな心細さを感じている。 …もしも、満足して貰えなかったら? こんな女で、がっかりしたと思われたら? 男は初めての女性を好む。自分ひとりのものにしたい征服欲が満たされるからだ。誰かのお下がりなど好きこのむ者はいない。女を売り物にして生きてきた、そんな人間ならなおさら払い下げだろう。
「いいんですね…? あの、そんな風に仰るなら、もう何があっても止めませんけど。…宜しいのですか?」 泣きたくなるほどの愛おしさが確かにこの世には存在する。それこそが目の前にある男に向けられるものなのだと思った。
再び熱い雨が降る。絶え間ないスコール。 身体に当たらないところがないほど、それは降り注いでくる。どこまでも濡れて行きたい、一粒たりとも余さずに受け止めたい。吸い付く熱は、落とされた部分に鋭い痛みを残す。体中が焼けただれていくようだ。しっとりと汗ばんだ手のひらが身体を這う時、指先の震えが伝わってくる。それは彼が確かに手慣れていないことを知る、唯一の手がかりだった。 「ああんっ…、んんっ…、ふっ…ふうっ…、はあっ…!」 「周っ…、周っ…!」 「沙和乃さんっ…!」 こんなに密着していては、さすがに動きづらいだろう。彼は軽くいやいやと首を振り、沙和乃の腕を剥がそうとする。でも、そうされると更にしがみついてしまう。…どこにも行かないで。ひとりにしないで。 「ああっ…、うんっ…!」 「…周っ…!」 「…ね、お願いっ…、来て?」 「ふっ…っん、ふうっ…、もう、駄目っ…待てないのっ…!」 「…ここに?」 ずぶっと…彼の指が侵入してくる。十分な湿り気を伴って受け入れ、腰を動かして奥へといざなう。それだけで信じられないほどの快感が身体を駆けめぐった。 「うわっ…どうしよう。とても、熱くて…指がとろけそうです…」 「…ううんっ…、駄目っ。周が来て、周が…来てくれないと…」 「いっ…いいんですか? あ、あのっ…」 「ええと…、そうだ。あのっ…まずは…」 「大丈夫よ? …私、ちゃんとしてるから」 唯一手の届く膝にそっと触れて、言い聞かせるよう囁く。 あんな男と関わってきたのだ。何があっても避妊だけはしっかりしようと思っていた。あの男の方が気に留めてくれる様な正常な精神を持ち合わせていないことなどとっくに知っていたから。欲望のままに求められれば、自衛するしかなかった。 「そっ…そうですか」 ほうっと息を吐いたその声に、少しばかりの憂いを覚える。 こんな風になって、こちらの身体を気遣ってくれているのは女性として光栄なことだと思わなければならないのかも知れない。でも、正直哀しかった。所詮は真剣に避妊を考えなければならないような間柄なのだ。全てを取り払って、何もかもなくしてまで、愛し合うことは出来ない。 …ひとときだけの、恋。一度だけの夜。
「…沙和乃さんっ…!」 再び覆い被さってくる周五郎は肘をついたままの姿勢で、沙和乃をきつく抱きしめた。 「僕っ…本当にっ…夢みたいだ、こうして…」 言葉が途切れ、息に変わる。入り口に自身をあてがい、ずっと中に差し入れる。教えられたわけではない本能的な行為。太古の時代から生き物たちが繰り返し行ってきた愛の行為は、頭で考えることもなく受け入れられるように出来ている。 「あっ…っん、ふっんっ…!」 …こんな気持ち、ずっと忘れてた。 「ああっ…!」 「すごい…こんな。こんな風に、沙和乃さんが僕をっ…もう駄目ですっ、このまま気が狂ってしまいそうです。こんな…こんな風に…っ!!」 「動いて、いいんだよ。周…」 「…え…?」 「あっ…あのっ…!」 「…素敵よ、周…このまま導いて…」 彼の中にある、最後の理性を吹き飛ばしたかった。ただこの時に、全てのものを取り払い、ただの男と女に戻る。そうすればきっと最高の夢が見られるはずだ。
「あっ、ううっ…沙和乃っ…さんっ…!」 周五郎は堪えきれないように呻くと、沙和乃を抱いていた腕を乱暴に外した。ベッドに沙和乃をまたぐように腕を身体の両側に置き、動き始める。いきなりの激しい波に、沙和乃は一気に飲み込まれた。 「んっ…ぁ…んっ! やっ…、駄目っ…、はぁんっ…!」 少しばかりの否定的な言葉が飛んでも、もう周五郎には関係ないようだった。一気に引き抜き、ギリギリのところでまた深く突き立てる。肩の胸の筋肉が動き、吐息がふたりの間を行き交う。 「駄目っ…そんなにっ! やぁっ…、ねえっ…周っ…っ!!」
性行為は自分の快感を高めるために、相手を揺らすものだ。自分の働きかけが、相手を潤す。何とも単純な相互作用が働く。だからこそ、人はそれにのめり込み、足が抜けなくなる。手っ取り早い欲望の昇華が行われ、繰り返される。 …でも、何かが違う。めくるめく快感に何度も我を忘れそうになりながら、それでもわずかに残った意識で沙和乃は感じていた。 周五郎は確かに沙和乃のために、こうしているのだと思う。その証拠にこんなにも深く身体と心がもつれ合い、満たされて行くではないか。もしもあの男や他のあまたの男たちのように、沙和乃によって自らが快感に溺れたいと思っていたら、こんな…熱さは感じられなかったはずだ。
波が止まる。一気に熱が引いて、体を覆っている熱さがひんやりとした空調に晒されていく。けだるさに沈みそうになる感覚を必死で振り払って瞼を開くと、周五郎の顔がすぐ近くにあった。心配そうにこちらを見ている。 「だ、大丈夫ですかっ…、あのっ…、すみませんっ、途中から、本当に何も分からなくなっちゃって…」 汗の流れる身体を震わせながら、周五郎が慌てている。身体は未だに繋がったままであることを、下半身に残る熱さで感じ取る。 「ん…平気よ? ごめん、びっくりした?」 「へ、平気なんてっ…そんなじゃないですよっ! だって、沙和乃さん、本当に怖かったです。がくっと…あの、意識が途切れたみたいに…」 「す、すみませんっ…あのっ、ええと…」 慌てて身体の繋がりを解こうとするから、沙和乃はそれを制した。軽く腕を引くと、周五郎がぴくっとしてこちらを見た。 「まだ、行かないで。…終わってないでしょう?」 「…え、でもっ…」 「もう、これ以上は。沙和乃さんが可哀想で、出来ませんっ…僕っ…自分のことしか考えてなくて…無理させて…」 沙和乃はゆっくりと震える身体の方を見た。何て愛おしいんだろう、こんなに深いものを自分に与えてくれながら、まだ、あまりある愛情を抱えている。ためらいも、迷いももう捨ててしまいたい。ありのままの自分でいればいい。 「周…」 「あのね、周。さっきの、辛かったんじゃないの、…そうじゃなくて、とても良かったから。私、こんな風に男の人と感じあったのって、初めてかも知れない。何だかね…身体がふわふわして、シャボン玉に包まれてそれが音を立てて割れて行くみたいで。すごく、幸せだったの。…ありがとうね、周…」 そして、自分も身を起こす。けだるくて、くらくらっと来て、なかなか体勢を保てない。それでもどうにか周五郎の胸まで辿り着いて、そっと寄り添った。 「…今度は、周も、一緒に行こう? もう一度、夢を見せて…」 周五郎がほうっと息を吐く。その中にありとあらゆる想いが込められているような気がした。やわらかく抱きしめられて、腕の中で見つめ合う。深く口づけを交わし、お互いの頬に笑みが浮かんだ。
静かに横たえられて、身体を重ねられる。しっかりと繋がりあったその部分から、また新しい快感が体の中を吹き荒れる。なんて甘美な、なんて深い嵐だろう。激しい息づかいまでが、ふたりを司る魂に変わる。 「あぁっ…、周っ…周っ…っ! うっ…あふぁ…っ!」
長い長い飛翔、その辿り着く場所に、手と手を取り合ってのぼりつめる。もう…何もいらない。たったひとつの希望がそこにある。
辺りが真っ白に弾ける。沙和乃はその瞬間に、全てのものを投げ出して、周五郎を抱きしめていた。
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