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…待っていた。ずっと、待っていたの。 いつか私だけを深く愛してくれる人が現れるって。それは運命の出逢い…お互いがお互いを求め合う、ベスト・ハーフ…林檎の片割れ。 いくら待っても現れないから、自分で探すことにして。それから、長い長い旅に出た。履き慣れない靴で何度も足にマメや靴擦れを作り、とうとう裸足になっていた。 もう、駄目だと思った。こんなに探してもいない。きっと今までの人生のどこかで、私は道を違えてしまったんだ。だから…もう、その人には永遠に会えない。
会えたんだよね、私。ギリギリ、間に合ったんだよ。自分の中にこんな風に綺麗な部分があるって、それが分かって嬉しかった。体裁とか打算とかそういうのを考えなくても、心の底から求めてしまう気持ち。たった一度でいいから、最高の幸せを手に入れたいという想い。 応えてくれて、ありがとう。嬉しいよ、周…。
「…沙和乃さん…?」 そんな彼女の願いは、やわらかい声に引き戻されて途切れる。 「…ん…?」 「すみません、朝になっちゃいました。お疲れのところ申し訳ないですが…そろそろ支度をして頂かないと」 「あ…」
とても目を合わせる勇気がない。怯えた視線をシーツに落とす。最高級の素材を使っているのだろう。一晩の睡眠を終えてもシワひとつない滑らかな純白の海。沙和乃の動きにあわせて波打つ微かなうねりが、銀色の陰影を落とした。
「……」 青ざめた頬で。沙和乃は再び彼を見た。 もうすっかりと支度を終え、昨日とはまた違うスーツを着込んでいる。ピシッとしたシルバーグレイ。肩先の微妙なカーブは彼の若々しい肉体を思い起こさせる。女性の服のデザインが身体に沿ったやわらかいシルエットに変わりつつある。そうなると男性の服のデザインも微妙にそれに添うかたちになっていくのだ。 男性に支配されているように見えて、いつも時代の流れを司るのは女性だ。それは過去の歴史のどの事実からも容易に見つけることが出来る。 静かな深い湖のような瞳が、揺らぎもせず穏やかに沙和乃を見つめていた。口元には自然な笑みが浮かんでいる。物言えぬ惨めな女を慈しむように、静かに視線を投げかけていた。
ありがとう? …それともごめんなさい? ううん、そんな言葉じゃ足りない。今、自分が告げたいのはもっと別の音。 …周…、私…っ! 大きなベッド。彼は向こう岸に腰掛けて。寝返りをふたつくらい打たないと近くには行けない沙和乃を見つめている。ただ静かに…穏やかに。 沙和乃は、ふうっと息を吐いた。そして、もう一度大きく吸って吐く。高鳴る心臓…震える唇。ただひとつの言葉が出てこない。どうやって、音にしたらいいの? どうしたら、この想いを伝えられるのっ…!?
どれくらい見つめ合っていただろう。どれくらい…迷っただろう。とうとう最後に、我が身を保てなくなった水滴が蛇口からこぼれるように、沙和乃は口を開いた。 「すぐ、支度する。…待っていて」 でも、この格好のままじゃ、こんなまぶしい朝の輝きの中、人前を歩くことは出来ない。そんな沙和乃のためらいが届いたのか、周五郎は静かに立ち上がる。 「隣りの部屋で、…お待ちしてます」 その足音は寸分の乱れもなく、やがてドアの向こうに消えた。それを確かめた瞬間、ようやく沙和乃の瞳から熱い雫がこぼれ落ちた。
頭に強すぎるシャワーを打ち付けながら、沙和乃はタイルに手をついて、激しい嗚咽を上げた。昨日の朝と同じように優雅なバスタブにはラベンダーの泡が沸き立っていたが、そんなところにゆっくりと身を沈めるだけの精神的なゆとりはなかった。 こうして、頭から湯を被るだけで、昨日の激しさが身体に戻り、そして排水溝から流れ落ちていく。身体の隅々まで愛された軌跡を永遠に刻印したいのに、首筋に胸元に彼が咲かせた花がもう薄く消えそうになっている。 とうとう立っていることも出来なくなり、裸体のままその場にうずくまる。ばらばらと耳元に届く水の粒の弾ける音。髪の間を流れ落ちる雫。 「…あぁ…、周っ…!」 「…やっ…、周っ…!! こんなのっ…、こんなのは、嫌っ…!」 …一度きりでいいって、そう言ったのに。あの瞬間、本当に、ひとときだけの夢が見たいと思った。もしも周五郎の腕に抱かれて、ひとつの心を分かち合うことが出来たなら、それを一生の思い出にしようと。激しく熱い想いを受け止めた身体を、永遠の誇りに出来ると思ったのに。 …だのに、どうして!? 自分で自分が信じられなかった。今更、何を言ってるの? こんな一度きりじゃ満足出来ないなんて。それこそ、諦めの悪い馬鹿な女になってしまう。せっかく周五郎がくれた最後の慈悲を踏みにじっては駄目だ。そう思うのにっ…! 泣いて泣いて泣いて。もう喉がかれるくらい、絶叫して。…そして。 肩で息をしながら、コックを閉めた。涙とお湯が一緒になって身体をしたたり落ちていく。
くるりと、きびすを返す。バスルームのドアを開ける瞬間、沙和乃は最後の名女優としての自分をしっかりと感じていた。それが、周五郎に出来る最後の愛情だと自分に言い聞かせて…。
バスローブをまとって、ベッドルームへ戻る。少し身体を冷ましてから、本来の自分に戻る当たり前の服を着ようと思ったのだ。…しかし。 「え…どうして!?」 きちんと並べてあったはずの服が消えている。やだ、この期に及んで、また誰かが部屋に入って持っていったのか? でも…クリーニングのビニールが掛かっている服を、また洗いに出すなんて、そんな馬鹿な。 慌てて駆け寄ると…服があった場所がわずかにくぼみ、手のひらに乗るくらいの小さな純白の箱が置かれていた。 ――それを手にして。息が止まる。
髪から雫をまき散らしながら、沙和乃は次の間へのドアを開けていた。 ベッドルームと同じように大きく海に向かって開かれた窓は、キラキラとまぶしい青をたたえている。ああ、目がくらみそうだ、と思うのは背後の部屋にはカーテンが引かれていたからだ。そのため、あの部屋では淡い日差しが差し込んでくるのしか分からなかった。 しかし、海に面した室内のどこにも周五郎の姿はない。広い部屋ではあるがテーブルと椅子と…そんなに家具はない。小さな子供でもなければかくれんぼの場所を見つけるのも困難なくらい、見通しが良かった。 「え…?」 見ると右手奥…あのラウンジとの間の扉が少し開いている。沙和乃はそちらに向かって足早に進んだ。
でも、だったら、周五郎はっ!? どこいっちゃったのよっ…! 「あ…」 「ちょっとっ…!? 周っ…!!」 こぽこぽこぽ。規則正しいポンプの音。形相を変えて歩み寄る沙和乃のことなんて我関せず、と言う感じでゆったりと泳ぐ熱帯魚。黄色にしましまの菱形のかたち、ゆらんゆらんと揺れる尾ひれ。やわらかく伸びた水草の森。
「…周…?」 「ねえ、周っ…、どうしたの? 具合でも悪いのっ…!?」 しゃがみ込んで、肩に手を置くと、そこがびくんと波打つ。やがてがくがくっと震える首を彼は持ち上げた。その顔を見た瞬間に、沙和乃は言葉をなくしていた。 「うっ…、沙和乃っ…さぁん…っ!」 ぼろぼろぼろ。涙が頬を伝って、幾重にも流れている。よく見るとスーツの袖口も、スラックスの膝も股の辺りも、色が変わるくらい濡れている。彼はずるずるとハナをすすり上げて、ひっくと喉を鳴らした。 「沙和乃さんっ…、沙和乃さんっ…、ごめんなさいっ! 僕っ…!」 それに、コレでは話が全然進まないじゃないか。他に適当な物が見つからず、沙和乃は自分のまとったバスローブの裾を持ち上げて、彼の顔を拭った。白い股が露わになってしまったが、今更そんなことどうでもいい気がする。 「うっ…うぁんっ…、くっ…、ひっく…!」 どうにかして涙を止めようと頑張っているらしいが、その努力は情けないほど虚しい。子供のように胸に飛び込まれてバランスが崩れる。後ろに尻餅を付いて座り込み、そのまま胸の中の頭をぎゅっと抱きしめた。
一体どうなっているのか、それが分からない。どうしたんだ、さっきまでの落ち着きはどこに行ったんだ。これではいつもの周五郎ではないか。
「あのっ…、周…?」 「これ、…何?」 周五郎がのろのろと頭を上げる。沙和乃はハッとしてはだけた胸元を整えた。ロックされている室内だとは言っても、朝っぱらからものすごい格好だ。 「あ…」 「あのっ、…指輪です」 「そ、それは、見りゃ分かるわよっ…! だからっ…!」 だって…コレの中身はあの「コンク・パール」…夢のようなピンク色の真珠の付いた指輪なのだから。小さな石の並んだブレスレットが一千万とか言っていたあの真珠が…ころんとものすごく大きな粒で鎮座してる。周りにキラキラと縁取ったダイヤが全然負けてないのも怖い。 じーっと見つめ続けたら、また周五郎の顔が目に見えて崩れていく。下唇をぎゅーっと噛みしめて、うるるるっと目に涙を溜める。 「うわんっ、沙和乃さんっ…!!」 「沙和乃さんがっ…支度して出てきたら、これをお渡ししようって思ったんですぅ…。でもっ…、もしかしたら、いらないって言われるかも知れない。受け取って貰えないんじゃないかと怖くなって。服を着てたらそのまま外に出ちゃうかも知れないからっ…だから、服を隠しちゃったんですぅ…!!」 「…はぁ…?」 「おっ、お願いしますっ…! 沙和乃さんっ、これを受け取ってくださいっ…! 僕の妻になって、一生側にいて下さいっ…!!」
…へ? は…? 何っ…?? 涙と鼻水がしたたる顔で見つめられて、とんでもない告白を受けて。沙和乃は感動するどころか、呆れていた。何なんだ、急に何を言い出すんだ!?
「あの…? 周、だって、あなたは…」 いくら何でもおかしい。今日、さるご令嬢と婚約披露パーティーだと言ったじゃないか。夕方の4時から、ナカノ・ホテルの本店の大広間で…日本を代表するお偉いさんがたくさん来るって。実は総理大臣もお忍びでお祝いに来るとか…そんなことを。 「さっ…沙和乃さんっ…! 僕のこと、嫌いですかっ! だって、僕、頑張ったんですよっ…沙和乃さんに似合う最高の男になろうって、すごくすごく頑張って…それなのにっ、僕のこと嫌いなんですかっ! あんな風に、なってくれたのにっ…。沙和乃さん、すごく可愛らしくてっ…さっきまで、僕の腕で寝息を立てていらっしゃたんですよっ! …あんなに親密だったのにっ…」 ――うっ、うっわわわわっ…! いきなり何を言い出すんだっ!? こっちの顔が真っ赤になってしまうじゃないの。そりゃあ…昨日の周五郎はすごかった。人前にいる時はもちろん、ベッドの中だって…最高にいい男だったと思う。でも、それとこれとは次元が違うことだ。 「そ、それはっ…それは…ねえ…」 「僕っ…男として、立派じゃなかったですか!? 駄目なんですかっ…沙和乃さん、喜んでくれてるって思ったのにぃ…!」 「やっ、やだっ…。ちょっとぉ…泣かないでよっ、反則だよっ!」 「うぅっ…、沙和乃さんっ…!」 鼻水ずるずる、目は涙の中に沈んでる。そんなすごい顔で見つめられて、吹き出さないでいられる自分が立派だ。
「あっ…あのねぇっ…」 「そりゃ、…そのっ、すごく良かったわ。周は最高に素敵だったと思う…」 このくらいは正直に答えていいだろう。これからの彼の男性機能に支障をきたしては気の毒だし。ベッドの上で女性を満足させると言うことは、男性にとってとても重要なことらしいし。 「だけどね、周…」 それと、これとは、違うでしょ? …と付け足そうとしたのに。沙和乃の言葉を聞いた周五郎はいきなりのオーバーアクションで涙をがしがしとふき取った。そして、こちらに向き直り、にっこりと笑う。 「満足して、下さったんですねっ!? …そうなんですねっ!」 ひっ…、ひえぇぇ…! ちょっとぉっ!? 話している話題もすごいけど、どうしていいんだこの展開。さっきまでのメロウな気持ちがぶっ飛んでしまっている。 「あっ…あのぉ…」 「僕のこと、好きですよねっ! 愛してくださっているんですよねっ…!?」 がばっ…。両手を掴まれて、じっと見つめられる。キラキラと輝く瞳。期待と自信に満ちあふれて。沙和乃の答えを、待っている。ひとつしかない答えを待っている。
こう言う時、さらりとオトナの女を演じるのが本筋だろう。この雰囲気に飲まれてどうするんだ。自分はそれほど純でもちゃちでもない。それなりの修羅場を乗り越えてきたオトナの女性だ。今更…心のままに想いを伝えることなんて、出来っこないじゃないか。 …でも。 綺麗に包み隠すには、あまりに引きずり出されてしまった心。消費期限ギリギリで間に合った大切な想いは、隠してはならない気がした。…ううん、どうやって隠したらいいのか、それも分からなかった。
「すっ…好きよ。大好き…でも、ね…周…」 本当の気持ちなんて、時として辛くなるだけなんだよ。すれ違ったまま終わった方が、幸せなことだって世の中にはたくさんあるの。そう言うものなんだよ、現実なんて。
しかし。口から溢れてしまった想いを自分で持て余している沙和乃は、次の瞬間、大きな波に巻き込まれていた。 「…っ、いゃったあっ…!!」 強い力、跳ねるように腕が回って、ぎゅっと抱きしめられた。周五郎ははぁはぁと肩で大きく息をしながら、更にぎりりと締め上げてくる。もう堪えられないように、沙和乃の濡れた髪に唇を落とした。 「もう、離しませんからねっ! 沙和乃さんはもう、僕の妻になるんですからねっ…! 今更っ、嘘だって言ったって…もう絶対に聞いて上げないんだからっ…!!」 ……? 「えっ…!? ちょっと、周っ…待ってっ…!」
「…爺と、賭けをしたんです」 「…え…?」 「一週間で、どうにかするって。爺は沙和乃さんは僕には無理だって、抱えきれる人じゃないって言いました。でも…それでも手に入れたかったから、爺を敵に回しても、どうしても沙和乃さんが欲しくて。だから、戦うことにしたんです」 「……?」 「この1週間で、沙和乃さんの心をちゃんと掴んで、手に入れれば僕の勝ち。でも…爺もたくさん邪魔するって、僕にたくさん障害を与えるって言いました。正直、仕事は普段の倍も多いし、例のお嬢様との予定は入れられるし…挙げ句の果てに、沙和乃さんに直接…すみません、彼も必死だったんです。僕がふがいないから…」 「でも、さすがに。僕の頑張りに爺も見直してくれたらしいですよ? 昨日の朝、家を出る時には、こっそり耳打ちしてくれましたから――『ご健闘をお祈り申し上げます』…ってね」 周五郎が言葉を切るたびに、水槽のポンプの音が鼓膜を打ち付けてくる。 「あのね、沙和乃さん…」 「この長引く不況は、いろいろな方面に大きく影響しています。ナカノは見た目は立派な企業かも知れない。でも…それはあくまでも僕の祖父が築いた各方面への太いパイプラインがあってこそです。僕の代になったら、そんなもの紙くず同然のものになってしまうかも知れません。 確かに由緒正しい立派な家柄の女性なら、後ろ盾という面でかなり有効ではある、とも周五郎は言った。その意味でも婚約者として上げられた女性の家はうってつけ。ナカノの少し弱い部分をカバー出来るだけの力を持っていた。祖父も側近も…重役の者たちも、その絶大な効果を望んでいた。 「そんなっ…、でも…」 いきなり、言われて。はいそうですか、なんて言えるはずもない。だって…自信がない。将来はナカノの第一人者となる周五郎のパートナーに自分がなれるわけもない。絶対に無理だ。 …それに。こんなうまい話。信じられるはずもない。やっぱり、周五郎には彼に似合った女性の方が…。 汚れのないまっすぐな言葉が胸に落ちるたびに湧きあがる期待。それを押さえ込むのに必死だった。 「あなたのお家の方は…現頭取とその夫人と…あと、まだたくさんの方が。周の婚約パーティーを待っているんでしょ? それを台無しにすることは出来ないわ。それにっ…あなたのお祖父様が、現頭取がそんなこと許すはずも…」 愛されるのは嬉しい。こんなに純粋に、まっすぐに愛されたら幸せだと思う。でも…この先、何が待っているのかも分からない。すぐに崖から突き落とされるかも知れないじゃないか。 怖いっ…、絶対に無理。身体がガクガクと揺れる。周五郎の言葉を信じるには、沙和乃は世間を知りすぎていた。 「大丈夫ですよ?」 「お祖父様には、パーティーで僕の最愛の女性をご紹介しますとだけ伝えてあります。厳しい方ですが、人を見る目の確かな人ですから…沙和乃さんが心配することなどありませんよ。それに何があっても、僕があなたを守ってみせます。あなたの愛が得られるなら、どんなことだって出来る。いえ、して見せます。 「…は…?」 「それに…」 「爺が僕に課してくる課題など、大したことではありませんでした。沙和乃さんを取り巻く闇を取り除くことだって、朝飯前だったんです。僕にはほとんど何でもすんなりとこなすことが出来た。…でも、ひとつだけ出来ないことがあって。それは、あなたのお心を自分に向けて頂くことだったんです。それだけは今まで学んだ経営学も帝王学も何も役に立たない。最大の難問でした」 「そんな…」 「…沙和乃さん」 「あなたじゃなくちゃ、駄目なんです」 「僕が涙を見せたのは、沙和乃さんが初めてかも知れない。…こんなことを言っても信じては頂けないでしょう、でも。
こんな風にして、ずっとひとりきりで痛みを堪えていたのか? 泣いたこともないなんて、そんなの酷すぎる。
「本当に…? ずっと、側にいられる? 途中で、嫌になって捨てない? …だって、私は周よりもずっと早く年を取るのよ? みすぼらしくなったら、興ざめするかも知れないわ…」 ひとときの夢のために、全てを捨てられない。そのあとの絶望が大きいから、それに耐えられなくなりそうで。 「…やだな、沙和乃さんはっ…」 「僕の愛で、あなたはいつまでも光り輝いているのですよ? 世界一素敵な女性でいてください、一生、僕の隣りで」
…もう。 そんなこと、信じられますか。どうして、しゃあしゃあと言えるの? あとで後悔したって、知らないんだから。 ふくれっ面の頬も大きな手のひらで包まれると、指先から怒りが流れ出てしまうみたいだ。周五郎の顔がゆっくりと近づいてくる。沙和乃も静かに目を閉じる。たとえようのない甘さが口の中に広がった。
「昨日のあなたが忘れられない。このまま夜までなんて、とても我慢出来ません。…もう少し、時間もあるし…いいでしょう?」 …え? と思った時にはもう足が浮いて、抱き上げられていた。ころんと白い箱が落ちて、周五郎が慌てて拾う。箱を開けて、そこに収まっていたものをつまみ上げた。 「これは…なくしては大変ですから、きちんと定位置に置いておきましょうね?」 「あっ、あのっ…!? ちっ、ちょっとっ! 待ってっ…!!」 「ほらほら…おとなしくしないと酷くしますよ? 今、デザイナーたちが必死で仕立てている今日のパーティー用のドレスで隠しきれないところに情熱の痕を付けちゃっていいですか? …もっとも、僕たちの愛の深さを皆に知らしめるには。それこそ、とても有効な手段かも知れませんけどね…?」
「…覚悟してくださいね? 僕は体力がありますから…年下の男は普段は少し心許ないかも知れませんが、ベッドの中では強いんですよ?」
――本当にそうかも知れない。たまらないなあ…朝からじゃ。でもっ、まさか、毎日がこれの繰り返しではないでしょうね!?
期待と不安が交錯する心が次第に泡立って。 満開のラベンダー畑の中に投げ込まれたように…深くて甘い香りの中に、沙和乃はずるずると包み込まれていった。 了(030617)
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