…9…

「玻璃の花籠・新章〜春霖」

 

 

 夢を見ていた。

 辺りに霞が掛かっている。現実とは別の空間に意識だけがふんわりと移動したと感覚で分かる。それくらいはっきりした夢だった。

 ああ、久しぶりだと思いつつ、耳を澄ます。この後に何が起こるのかも全部承知していた。何度も繰り返して見るあのときのこと。夢の世界ではあるが、これは実際に起こったことなのだ。


 ことん。

 戸口の方で音がする。でもそんなものは無視して、また酒をあおる。盃を飲み干してとっくりを取ると、もはやそれが空になっていることに気付いた。手にしたものの他にも、数本の同じような入れ物が辺りに転がっている。先ほど運ばせたものがもう全て胃に収まったのか、早いことだ。

 ――口にしているのが酒なのか、水なのか、それすらも判断が付かなくなっている。

「…若ちゃま…?」
 こちらが相手もしないのに、そろそろと入り込んでくる。いても邪魔にならぬほどの小さな身体、足音すら小鳥のように軽い。

「何だっ、また小言でも言いに来たのかっ!?」

 顔も見ずにいきなり怒鳴ってしまう。相手がぴくんと震えたのが気を伝って感じ取れる。しばらくふるふると震えていた様子だったが、やがて消えそうな声で言った。

「風が冷たくなったので…そろそろ奥の窓を覆った方が宜しいかと」
 もう彼女の目には、散乱したとっくりが見えているはずだ。自分が運んできたものがこんなにわずかな時間で飲み干されてしまった、その事実にも気付いているはず。でもそれに関しては何も言わない。言ったところで聞く相手ではないし、怒鳴り散らされるだけだと知っているのだ。

 すすすっと、脇を通り抜けて窓際に向かった少女が手にしているものが目に付いた。

「何だっ、それはっ…! こんな居室を飾り立ててどうするつもりだっ!!」

 柔らかな匂い。

 優しくしなやかな秋の草花を摘み取ってきたのだ。色とりどりにあわせて。そんな風にして朝な夕なにささやかに窓辺を飾ることを、狭霧は誰がに教えられたわけでもなく当たり前のようにやってのけた。

 …そんな細やかな心遣いまでが疎ましく感じられるようになっていたとは。

「若ちゃま…如何されましたか…?」
 いつもは風流なことに聡い春霖がそんなことを言い出したので、狭霧は慌てたらしい。あの頃、まだ自分の世話を初めて数年、8つくらいか。背も低くあどけない顔立ちだった。でも、心から心配した様子でこちらを見る。酒に溺れ、よれよれになっているはずの自分にも少しの嫌悪の意もない。親愛に満ちた瞳で。

「煩いっ! そんなもので俺を慰めようなどと、軽々しく考えているのかっ! お前如きに俺の気持ちが分かるはずもないっ! 何だっ、どうせなら見たこともないような珍しい花でも差し出して驚かせるとか気の利いたことを考えられないのかっ…、お前のやることはいちいち目障りだっ!」

 そんなことを言うこともなかったのに。どうして、あんな風に。幼い狭霧は大きな目に一杯に涙を溜めて、花を窓際に活けるとそのまま静かに出て行った。

 

 薄紫の秋草は…あの御方がお好きだった花。だからこそ、思い出すのが辛かった。狭霧はそれを知るはずもない。ただ、美しいからと手折ったのだろう。

 ――深窓の姫君。確かに身分違いではあった。自分はお側に仕えてはいても、地方の一豪族の家の者。とても王族の御方には釣り合わない。ただ…母がその御方の弟君の乳母であった。父も竜王様に覚えめでたい。新しい王族の方々は考え方も柔軟で、それほど身分にはこだわらない風であった。

 …お前たちさえ、良ければ。

 現竜王・亜樹様には直々にお言葉を頂戴していた。もちろん、それの指し示していたのは春霖ひとりではない。他にも数名…青樹なども候補に入っていたが。…乳母の子だとか遠慮することはない、自分が望んでいるのは姫の真の幸せ。それを約束してくれるなら、喜んで託そう…。

 神の声とも言えるお言葉。もったいないばかりだったが、本当に嬉しかった。姫君のためなら何でも出来る。あの御方の笑顔のためなら…しかし。あの方の真の幸福が自分にないことも分かっていた。

 もしも、手を貸してしまえば、二度とお会い出来なくなる。それは分かっていたのに。春霖は強引に彼女を連れ出していた。東の祠…かの地とこの海底の国を結ぶ門の前に。あのとき、どうして願わなかったのか、自分と生きてくださることを。もしも春霖が望めば、彼女は頷いてくれたかも知れぬのに。

 

 …春霖。

 あたたかく儚く、呼ぶ声。淡い微笑み、花の香り。ふたつの世界の狭間で己の存在を揺らし続けた人。

 

 酒に浸ろうと、女に溺れようと…忘れることなど出来なかった。それが辛かった。もう生きているのも面倒になりつつあったのだ。

 小さな狭霧だけが、そんな春霖のそばにいた。震えながらも、身の回りの世話を焼き、必死になって場を和ませようとしていた。幼い手で行われることは、あまりにも分かりやすい。だから、その優しさまでが嫌になっていた。


 そんな狭霧が忽然と姿を消したのは、翌朝のこと。探し回っている父親の余市に訊ねられて知った。彼の顔色から、ただ事じゃないと言うことが分かる。さすがに深酒の酔いも抜け、自分も手の空いた時間に探してみることにした。

 行きそうなところは全部調べたという。あとは御館の敷地の外まで出たか…水にでも足を取られたか。どちらにせよ、想像するだけで恐ろしいことだった。昼の刻を回ったら、御館内の水場をさらう段取りになっているという。最悪の事態も想定しているのだ。

 

「…あ、春霖様っ!!」
 当てもなく歩いて。御庭の外れまで来ると、ぴょこんと頭を出した子供がいた。ああ、青樹の一番下の弟だ。…確か青佐とか言ったか。狭霧よりもいくつか年若で、まだその辺で野遊びをするのが日課。

「何をしてる、お前は」
 あまり外れの方には来てはならないことになっている。この地は竜王様が司る結界に護られた場所。しかし、ところにより気の薄いこともあり、注意が必要だ。小さな子供は肺も小さく、すぐに呼吸が苦しくなる。

「えへへっ…!」
 こちらが緊迫しているというのに。彼は無邪気に微笑んだ。ちょっとムッとする。

「ボクねっ! 番をしてるのっ…、誰にも教えちゃ駄目なのっ!」

 幼い瞳にふっと強いものが感じ取れた。その時、春霖はハッと気付いた。しかし、それは悟られぬようにして、ゆっくりと切り出す。

「へえ…、じゃあ、俺も一緒にその任務につかせてくれ。一体何を護っているのかい?」

 すると、思った通り。さっさと「秘密」は破られた。

「霧ちゃんがねっ! この先に出かけていったのっ…大人が来ても知らないって言うんだっ。ね、春霖様も守ってねっ!」


 深い森…天寿花の林の向こうは獣道だった。決して入り込んではならないと言われている。どうして、そのような場所に出かけていったのか。小さな子供の足では途中で何かあっても不思議ではない。急がなければっ…胸騒ぎがした。

 そして。

 森の奥。春霖ですら、気が薄くて容易には進めないその場所の果てに、小さな背中を見つけた。丸くなってうずくまっている。その衣には見覚えがあった。頬を覆っている髪は伸びかけの朱色。間違いない。

「…霧っ!」

 慌てて駆け寄って抱き起こす。軽い身体がぞっとするほど冷えていた。でも、ふっと意識が戻り、薄目を開ける。

「あ…若ちゃま…!」
 弱々しいながらもにっこり微笑んで、そっと手を差し出す。そこに握りしめられていたもの。

「これを…珍しいお花だから、若ちゃまに差し上げようと思って…でも、何だか歩けなくなっちゃって…申し訳ございませんっ…お世話に行くのが遅くなりました」

 

 春霖は、言葉が出なかった。

 青い花びら。幾重にも重なり合った花の中央が薄紅に染まっている。ここでしか花を付けない恋花。簡単には手に入らないものだからこそ珍重された。そして、この先にある果ての祠には恋愛成就の言い伝えがある。ここに来て花を手折り、祈れば恋は必ず叶う。…それだけの心意気があると言うことだろう。

 馬鹿な。どうしてこのような場所に…とはとても言えなかった。差しだされた花で、狭霧の言いたいことは全て見通せた。

 ――若ちゃまに喜んで頂きたくて。多分、彼女はそう言うだろう。

 昨日、ありふれた秋草を飾ったことを叱りつけた。だから、幼いながらに考えたのだろう、どこか奥深いところに咲く、珍しい花を手に入れようと。春ならまだしも秋が深まってはそれほどに咲いている花も多くない。探し回って、とうとうここまで来てしまったのか。

 恋花は不思議な草で、3つの季節をまたがって咲き誇る。遠目にこれを見つけて、喜んで足を速めた狭霧が目に浮かぶようだ。

 

 ああ、何のために。こんな情けない自分のために、どうしてそこまでするのか。その真意が読みとれない。

 ぐったりした狭霧を抱えて立ち上がると、振り向いてみた。

 …花に埋もれるように建っている…祠。初めて踏み入れたこの地、でももう祈るものがない。あの方はもう…二度と手に入らない。

 それが、悲しかった。だが、見つめているうちに心が安らいできたのも事実。…あの方の幸せを祈ろうと思えた。自分を喜ばせるためにここまでしてくれる幼子のために、立ち直らなければ。そうしなければならないだろう。


「…なあ、狭霧?」
 戻り道、負ぶった少女に静かに語りかけた。

「この花をお前は俺にくれたが…その意味が分かっておるのか…?」

「え…、いえ」
 森の入り口がそこまで来ている。気も濃くなり、もう大丈夫だろう。背中で狭霧がけだるそうに小さくかぶりを振った。

 何だか可笑しくなって、喉の奥で笑ってしまう。久々に無意識にこぼれる笑みだった。

 また、少し沈黙が流れる。しかし息苦しいものではなかった。しばらく進んでから、春霖はまた口を開く。

「花の祠の恋花を…手折って捧げるのは…妻請いだと言われている。さもあろう、あのような地に普通女子は出向かない。必死の覚悟の男が、愛する女子を得るために行くのだ。…分かるか?」

 話が難しいのか、狭霧は黙っている。春霖は構わずに続けた。

「この花をくれたのなら、霧は…いずれ俺の妻になるのかな? …そう願うか?」

 答えはなかった。無視してるのではない…早朝から起き出して山歩きをしたため、疲れてしまったのだろう。狭霧はいつか静かに寝息を立てていた。


 あのときの花を、今朝摘みに行った。そして、文を結んで余志に託す…最初から、そう言う意があった。ただ、恋花を昔一度見ただけの狭霧にはそこまで思い当たらなかったのか。

 …もうよい。全ては…こうして満たされたのだ。もう、何も憂うことはない。

 

…*…*…*…*…*…


 翌朝…すっかり夜の明けた寝所で目覚めると、もう隣に狭霧の姿はなかった。

「…霧?」
 朝餉の支度でもしているのかと、辺りを見回してみたが、気配はない。上がり口にはいつものように膳が置かれていた。

 どうしたのだろう、自分の居室にでも帰ったのか。

 昨夜は家族にも告げずに抜け出してきたのだろうから、ばれないようにとこっそりと戻ったのかも知れない。そのようなことを今更することもないのに…どこまでも奥ゆかしく、それが歯がゆく感じられる女子。だが…もう、ただ見つめているだけの存在ではないのだ。

 この腕にかき抱いたやわらかな身体は、もう二度と離さないものになったのだ。もう狭霧は自分の妻なのである。誰がなんと言おうがそれは譲れはしない。

 

 ――さて。これからどうしたものか…?

 朝餉の膳を早々に片づけ、いつまでも現れない狭霧や余志に痺れを切らして、ひとりで衣を改める。今朝の衣装は全て揃えられていた。色目も合わせ、季節を考えた品の良い合わせは、間違いなく狭霧の手によるものだ。しっとりと身体に馴染むそれを愛おしみながら、春霖は今日これからのことを思案した。

 窓から差し込む光はまぶしさを増し、今日も暑くなりそうな気配を感じさせる。狭霧の選んでくれた水色の薄ものは、そんな陽気にもさらさらと肌に優しいものだった。薄い色は軽々しく思われがちだが、これだけ凝った織りになっていれば、御館に赴く用のない日なら十分だ。

 差し迫ったお務めはない。だとしたら、何がともあれ、まずは狭霧を迎えに行こう。恥ずかしがっているのだろうか? そのような必要もないのに。だが、彼女にとってはまだ春霖の妻になったことを受け入れられないのかも知れない。だったら、安心させてやらなければならない。

 狭霧の父・余市に事実を伝えるのは気が重い。だが、狭霧のためだと思えば仕方ない。長いこと自分の世話をしてくれていた狭霧の母・柚羽もどんなにか驚くことであろう。あの夫婦にとって最初から春霖は狭霧の相手としての候補から外されていた。身分違いな関係がやがて上手く行かなくなると思っているようである。だが、そのようなことがどうして言える…? 本人たちの努力次第なのだ。

 まあ、いくら渋い顔をしたとしても、もう決まったことだ。自分の方から切り出せば同意してくれるに違いない。そう思って、手早く準備した。妻請いの為に女子の両親に捧げる品物を仕上げる。綺麗に結ばれる飾り紐。その中の小さなつづらに様々な品物を詰める。季節の果物の枝、薄文様の和紙、金銀を織り込んだ細帯…などなど。ひとつひとつ確かめなら納めていく。

 いつもならこのような面倒な行為は投げ出してしまう。さもなくば、狭霧に頼んでしまう。

 だが、今日は違う。姿勢を正し、神聖な儀式のように進めていく。狭霧を得たことで、自分の内面が何か変わり始めている。そのすがすがしさを感じながら。

 

…*…*…*…*…*…


 ようやく支度が整った時、戸口を静かに伺う音がした。

「…誰?」

 狭霧…ではない。かといって彼女の弟の余志でもないだろう。あの姉弟ならこんな風に遠慮したりしない。不思議に思って声をかけた。

「あ…、あのっ、失礼致しますっ…!!」

 そろそろと上がり間まで進んできた女の童…、しばらく考えてようやく思い出す。ああ、そうだ。和乃のところにいたあの娘か。自分がちょっと遊び心を出したために、あの後、女主人にはたいそう辛く当たられたらしい。だが、そんなことを気にする事もなかった。

「何か、用か…?」
 招かざる珍客に眉をひそめ、春霖は面倒くさそうに対応した。何か今更、あの女子が言い出したのだろか?

 もう用はないとはっきり言ったはずだ。

 確かに、和乃は春霖に対してただならぬ強いものを抱いていた。それは知っている。里へ戻ると言うこともいち早く聞きつけ、自分を同行させるように何度も迫ってきた。鬱陶しいだけのそれを、振り払ってきたのだ。あんな女子、とても添い遂げる気にはならない。

「あっ…あのっ…。ご主人様がっ…これをお渡しするようにとっ…!」

 直接触れたわけでもないのに、緊張のしすぎで娘はもう息が上がっている。こんな事で主に仕えることが出来るのか…? 他人事ながら心配になってしまう。どうも狭霧を基準にしてしまうためか、他の使用人は心許なく感じられて仕方ない。

「ふんっ…」

 何を言ってきたというのだろう。春霖は鼻を鳴らして娘の差しだした布の包みを奪い取った。中から小さな行李が出てくる。両手に乗るくらいの一番小さな型のものだ。文を入れるにしては情緒がない。何だろうと軽く振ると、からからと軽い音がした。

 

「……っ!?」

 それを開けて、中を改めた途端、思わず立ち上がっていた。

「おいっ、和乃は今どこにいるっ…!?」

 居室にいらっしゃいます、と答える言葉を背に受けながら、春霖はもう表に飛び出していた。

 

…*…*…*…*…*…


 行李の中から出てきたのは…懐刀の鞘(さや)だった。刃を覆っている部分だ。それだけを手渡すのは特別の意味がある。いくら相手が、もう情の欠片も湧かない和乃であっても、その者の元に出向かないわけにはいかなかった。

 ――あなた様がいらっしゃらないその時には。懐刀で胸をひと突きして、儚く散ります…

 そんなせっぱ詰まったギリギリの訴えだ。話には聞いていたが、直接このようなものを受け取ったのはさすがに初めてだった。おいそれと行える行為ではない。何しろ、相手が来ない場合には本当に死を選ばなければならない。決死の覚悟である。

 春霖にとって、和乃はただ閨の相手をするのに都合のいい女子でしかなかった。捨てるのも簡単だと思っていたのだ。あれほど気位の高いあの者が、いつまでも自分のような者にすがりつくとも思えない。さっさと新しい男に走り、自らが春霖を見限ったというように周囲に知らしめなければ気が済まないと見ていた。

 …だがしかし、まさか。

 別に、和乃の身に何が起ころうと今更知ったことではない。だが、自分はこれから狭霧を妻に迎え、ささやかながら幸せな生活を始めようとしているのだ。そんなときにこんな不祥事は頂けない。どうにか思いとどまって貰わなければ。そのようなことになったら、誰よりも…狭霧が悲しむではないか。あんな和乃のように気位ばかりが高い女子に対しても、細やかに気配りする娘なのだから。


 大股に庭を横切り、かの居室の前に立つ。すると、まるでこちらの到着をとっくに知っているかのようにするすると障子戸が開く。そして中から艶やかな衣装に身を包んだ和乃が現れた。

「まあ…、よくぞお出で下さいました…。ほほ…やはりあなた様も…お優しいお心をお持ちでしたのね」

 あまりのことに青ざめた顔色のままの春霖をにこやかに出迎え、縁の奥へと誘う。――謀られたのだ。この女子が一筋縄でいかないことなど知っていたはずなのに。

「どういうことなのだっ、このような真似をしてっ! …何の用だっ! お前にはもう、会うこともないと言ったはずだっ…!」

 軽はずみな行為に出てしまった自分を恥ながら、荒々しくなじっていた。だが、そんな春霖に余裕の笑みで応える和乃は、そのこってりと塗りたくった紅の口元で告げた。

「あなた様の方はそうでも…わたくしには、大切なお話がございますの…」

 碧の瞳の奥が、妖しく揺らめく。自分の背筋を冷たい汗が流れていくのを春霖は感じていた。



 

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