…10…

「玻璃の花籠・新章〜春霖」

 

 

「本日も…暑くなりそうですわ。遠く街道を行くには…慣れぬ足にはさぞ、辛い事でありましょうね」

 ゆうるりと、熱気を含んだ気が流れていく。夏の日は少しの外歩きですら、まとわりつくような気を振り分けながら進んでいく感じだ。今日は特に足取りもあとに引かれる衣も重く感じられる。

 訳の分からぬことをこちらに語りかけながら、和乃は冷たい茶を勧めてきた。もちろん、そのようなものをゆっくりと味わう暇はない。早く狭霧の元に行かなくては。妙な誤解を受けてしまっては困る。

 

 苛つきながらも、すぐに立ち去るわけにも行かなかった。何か…この女子は重大なことを隠し持っている。それが華楠様の侍従として長くお仕えして培った勘で察せられた。

「…何が言いたい」

 あまり強く出て、彼女の気を損ねては面倒なことになる。出来る限り、気を静めながら、春霖は話が本題にはいるのを待った。

「あなた様には…感謝して頂かなくてはなりませんわ…。わたくし、本当に良いことをして差し上げましたの…」

 くすくす。その笑いの奥に何があるのか。奥歯にモノが詰まったように、肝心なことを腹に隠す話し方がカンに障った。だが、ここは堪えるしかない。春霖はじりじりしながら押し黙っていた。

「わたくしに…たくさんのお声が掛かっていることはご存じでしたわよね…? そのひとつにどうしても断れないほどの大切なものがございましてね、でも…それを譲って差し上げたのですわ」

「……?」

 …一体何が言いたいのだ…?

 春霖が合点がいかないように小首を傾げるのを、和乃は紅の口元に満足げな笑みを浮かべながら見つめていた。

「お伝えしておかなくてはなりませんわ。わたくし、いつでも出立の準備は整っておりますの。春霖様が西南のお里に戻られる時にはお供が出来ますように――」

 その話は。再三に渡り断ったことではないか。そう叫びたかった。自分にはもう狭霧という最愛の妻がいるのだ。彼女以外の女子を伴って里に戻ることなど出来るものか。

 しかし、その怒りを含んだ感情もぐっと堪えた。全ては円滑に話を進めるため…狭霧のためだった。いつもの春霖だったら、ここに来るまでに3度は爆発している。そんな気性を知り尽くしている和乃も興味深そうにその姿を見守っているのが分かる。それもしゃくだった。

「…ある者が、はっきりと申してくれましたの」
 こちらのギリギリの感情を知りながら、和乃はゆっくりとした仕草で自分の冷茶の器を持ち、口元に運んだ。器のフチに毒々しく紅が移る。こんな風にして、この女子は今までずっと男たちに爪を立ててきた。

「わたくしこそが、春霖様のお側に仕えるにふさわしいと。ご実家でいかなる正妻様を候補にお考えになっているかは存じませぬが、大抵の方よりも秀でているという自信がございますわ。わたくしの実家は西の集落でも有数の豪族。嫁入りもひときわ豪奢に致しましょう。きっとご実家の御館の皆様にも喜んで頂けますわ。御領地の民も歓迎してくれましょう。春霖様の御祖父様はとくに美しいものがお好きとか。珍しい織物や植木もたくさん運ばせましょう…」

「…和乃っ…!」

 

 これ以上のひとり語りを続けさせる訳にはいかなかった。命に代えての願いだから仕方なく来てやったのではないか。いつもながらの傲慢な語りを延々と聞かされてはどんなに耐えようとしても無理だ。怒りのため、握りしめた手に爪が食い込み、うっすらと血が滲んでいた。

 

「お前の話は何なのだっ!? 早く申さぬかっ! …俺はこのような場で油を売っているほど暇じゃないのだからっ!!」

「――あら…?」

 怒りに満ちた春霖の眼差しを、和乃はすっと立ち上がると涼しげに見下ろしてきた。どう見ても彼女の方が優位に立っている。年も違えば、くぐり抜けてきた修羅場の数も違う。女の顔をして、激しい衝動の波を幾度となく乗り越えてきた。ただのあばずれなだけではない、世渡りに至っては並みの男よりもよっぽど賢い者なのだ。

「里より、春霖様の御衣装もたくさん運ばせましたのよ…? どうぞ中にお入りになって、お好きなものをお選びになって。わたくしの殿方となられる方…これからもっともっと立派になって下さらないと。それに珍しい酒も用意致しましたの。本日はお務めもございませぬのでしょう? それくらいは存じておりますのよ? どうぞ、ゆっくりなさって…」

「俺はっ、忙しいのだからっ…!」
 当たり前のように手を引かれて、慌ててそれを振り払う。

 和乃はその態度に一瞬はひるんだが、すぐに元のように余裕の笑みを顔に戻していた。

「あら…、どうしてなのかしら。お忙しいことなどおありになるの…?」

 病的なほどに透き通った白い手がするっと、障子戸を開く。その奥には和乃が行った通りに数々の装飾品や目のくらむような素晴らしい織りの衣装が並んでいた。一番奥の間には当たり前のように燭台を灯したしとねが用意されているのには、溜まらずに目をそらしてしまった。

 

「俺はっ…!」

 そう言いかけた時に、舌の動きが素早く盗まれるような妙な感覚を覚えていた。こちらの言うことが全部読まれてしまっているような…そんな恐ろしさ。しっかりとこちらを見据えた和乃の瞳には静かに炎が萌えているのが見えた。

「あなた様の居室に…もう誰もいらっしゃいませんわ。これから春霖様のお世話は私が全て致しますの。そのように取りはからいましたから、ご承知下さいませ」

「…え?」

 

 何を…言い出すのだ、この女子は。どういうことなのだ、この自信に満ちあふれた物言いは。まあ、いつもこのように自分の意を全て押し通すような態度を示していた。だが…何故。ここまで強く言える?

 和乃には、しかし、そんな春霖の心の戸惑いまでが全て手に取るように分かるらしい。勝利の微笑みは顔中に溢れ、こちらまで漂ってきそうだった。

 

「表の侍従長が何だと仰いますの。今は飛ぶ鳥を落とす勢いの余市様にあっても、もともとは確かな後ろ盾もないただ人。柚羽様にあってもそれは同じこと。貧しい村の小さな家からあなた様のお家に買われた娼婦まがいの下女と聞いておりますわ。そのような卑しい身分の者が、所詮、私などの相手になるはずもございませんわ…ほほ」

「…和乃…っ?」

 目の前の女子が、一体誰をさして言っているのか。そのくらいはすぐに分かった。どういうことだ、狭霧が…何をしたというのだ。こんな女に恨まれるような真似をするはずもない。このような侮辱が許されるわけもないのだ。

「身の程知らずが、よく自分のことをお考えになった方がいいと申し上げましたの。あのっ、…小憎らしい女っ! 幼き頃からあなた様に目をかけて頂いたのをいいことに、態度を大きくしてっ! わたくし、とっくに存じておりましたのよ? あなた様がわたくしにつれなくなさるのも、すべてはあの女子が原因。まだまだ子供のようななりをして、一体どんな手腕であなた様の前にはべるのでしょうね?」

 

「……」

 言葉が出なかった。頭の中が怒りのあまりに混乱を極め、さすがの春霖も激しく狼狽する。ぴりぴりと眉間に戦慄が走った。

 どういうことなのだ…? 確かにこのいけ好かない女につれなくしたのは自分だ。だがしかし、そこにどうして狭霧が出てくるのだ。自分の妻として抱いた女子ではある。だが、それも春霖の意の通りだ。狭霧の訴えたところではない。狭霧に…ただひとつの非もないのだ。

 

しかし、和乃の滑らかに動く舌は止まることを知らなかった。

「いくら遠回しに訊ねてみても、涼しい顔でかわしてしまいますの。小憎たらしいったらありゃしないっ! …その上、わたくしが春霖様を閨にお呼びする使いを頼めば、二つ返事で引き受けるのも傲慢そのものでしたわっ! こちらとしてはあなた様を本気で奪い合うだけの意志はございましたのに、それもしようとはしませんの。自分の方が優位に立っていると言わんばかりにっ…ああっ! 口惜しいっ…!!」

 怒りにまかせて身を震わせる。揺らめき立った銀の髪がまるで白ヘビのように辺りに這い回る。見るもおぞましい光景だった。

 だが、春霖としては、ここまでねじ曲がった解釈をしてしまう目の前の女子が哀れにすら思えていた。あの奥ゆかしく、いたいけな狭霧を歪んだ風に捉えるその心が悲しすぎる。このように人を決めつけていては幸せになりたくてもその道のりを自分で遠ざけているようなものではないか。

 

 ――それに。

 今更、この女子がなんと言おうが、狭霧はもはや自分の妻なのだ。誰になんと言われようが、狭霧を得た今、春霖にはもう憂うことも迷うこともなかった。この先どんな困難が待ち受けようが、狭霧と共に生きると決めたのだから。

 それが分からぬのか。都一の才女と言われた身が恥ずかしくはないのか…?

 

 しかし。

 次の瞬間。驚くべき事が起こった。一度は立ち上がって庭に立っている春霖を見下ろした和乃が、また静かに縁に跪いたのだ。そして、素早い行為でこちらの手を取る。しっかりと自分の両の手に包み込むと、緩やかに面を上げた。その顔は勝利の色に満ちていたのだ。

「でも…もう、大丈夫。わたくしが、あの卑しい女子からあなた様をお守り申し上げましたわ…ほほほ、もう何も恐れることもございませぬ。やはり、あなた様はお可愛らしい方、愛おしい御方ですから…」

「…なっ…!」

 強く手を引こうとした。だがそれは叶わなかった。女子の力とは思えぬほど、和乃の束縛が強かったのだ。無理に振り解こうとすれば、こちらの腕が抜けるのではないかと案ずるほどに。

「身の程をわきまえなさいと、はっきり言って差し上げたわ。さすがに、自分でも夜な夜なあなた様に身を捧げることを後ろめたく感じていたのでしょうね? すっかり大人しくなってしまわれて。あなた様とのことがなければ、妹のように思っていた者ですもの、さすがに同情致しましたわ。…ですから、いいお話をご紹介致しましたの。最初はあまりに畏れ多いことと腰が引けていたご様子ですけど、…とうとう承知なさいましたわ」

 

 ぎりっ。

 和乃の心が自分に突き刺さってきた。…いや、実際に包まれた手に鋭い痛みを覚えた。力任せに引き抜くと、春霖の腕から手の甲にかけてみみず腫れのあとがくっきりと深く刻まれた。

 

「かっ…和乃っ!! 狭霧をどこにやったっ…! おいっ――」

 跪いたまま、にこやかにこちらを見つめる瞳。笑みのかたちに縁取られた口元が血の滲んだ爪を含んだ。

 

…*…*…*…*…*…


 目覚めた時のあの満ち足りた幸福感はどこに消えてしまったのだろう…?

 ムッとするけだるい夏の中を春霖は必死で走り抜けた。和乃の居室から山道を下れば、近道で目的地に辿り着くはずだ。もっともそんなけもの道を普段使うこともなく、草履は泥に取られ、いつの間にか裸足になっていた。

 

 下り坂を一気に駆け抜けると。急に目の前の木々が姿を消し、広い平地に出た。洗濯物のはためく見慣れた庭先。そこにこちらに背を向けて立ちつくしている女子の背中があった。

「…柚っ…!」

 ぎょっとした顔で振り返るその人の頬がぐっしょりと濡れているのを見逃すわけはなかった。俯いてごしごしと袂で顔を拭っているが、いつもよりも青い顔色に憔悴のあとがありありと感じ取れた。

「柚っ…! 霧は? 狭霧はまだ中にいるの…っ!?」

 声がかすれる。どれくらいの時間走り続けたのか自分でも分からない。途中からは周囲の景色も見えなくなっていた。脳裏に浮かぶ狭霧の横顔、いつか見た消えそうな泣き顔を振り払いながら、必死でここまで辿り着いたのだ。

「若様…、いけません、このようなところにお出でになっては。いつも申し上げているでしょう…? さあ、お戻りになって下さいまし。誰かに見られたらこちらまで恥をかいてしまいます」

 しかし。狭霧の母である柚羽は、春霖の問いかけには答えようとせずにきびすを返した。そのまま、すたすたと居室の中に入っていこうとする。慌てて、小さな肩を掴んだ。久しぶりに触れた衣に隠れたその部分は、記憶の中にあるよりもずっと頼りなくて壊れそうだ。そう言うところが似ている、やはり母子なのだ。

「柚っ、俺は聞いているでしょう? 答えてよっ! 狭霧はっ…!?」

 

「――若様」

 振り向いた柚羽は、もう泣いてはいなかった。真っ赤に泣きはらした目をこちらに向けて、静かに静かに話し出す。きちんと話をしなければ春霖が納得しないことを、親代わりに育ててきた彼女は十分に知っているのだ。

「今朝、まだ夜が明けぬ頃、狭霧は私たちの寝所の前に立ちました。その姿をひと目見て、夫も…私も息が止まるかと…このようなことが起こりうるとは想像も付きませんでしたわ」

 


 両親の前に現れた娘は、もうすっかり旅支度を終えていた。すげの傘を手に持ち、白い長手袋、旅装束。道中が辛くないようなやわらかく編まれたしっかりとした編み上げの草履まで履いていた。

 慈しみ育て、もう嫁ぎ先まで考えていた娘の変わり果てた姿に、しばらくは声も出なかった。だがしかし、狭霧はそんな両親に見たこともないような安らかな笑みを浮かべ、唄うように言ったのだ。

「父上、母上…今まで黙っていて申し訳ございません。私は父上の仰る御方の元に嫁ぐことは出来ません…お務めの先を紹介されました、もう書状も頂いてあります。これからはお目に掛かることもなかなか出来なくなると思いますが、あとのことは余志によく言って聞かせました。お体を大切に、どうぞお健やかにお過ごし下さいませ」

 穏やかにそう言い終わると、口火を切ろうとした父・余市の前に狭霧は一枚の書状を差しだした。それをひと目見るなり彼の顔色が変わる。怯える目で娘を見つめる父に、狭霧はただただ微笑むだけだった。

「誰かが行かなくてはならないのでしたら…私が行くのが宜しいでしょう? それが皆のためです、分かってくださいませ」

 それでいいのか? 決まったことと言っても、まだ正式に任ぜられた訳ではない。悪いことは言わない、四方八方手を尽くしてでも撤回してみせるから、思いとどまってくれないか。それにどうして、どうしてもっと早く打ち明けてくれなかったのだ。

 この半月近く元気のない娘を気にかけてはいた。だが…まさかここまでの重いものを抱えていたとは想像も付かなかったのだ。父と母の必死の説得に、しかし小さな娘は気丈にかぶりを振った。

 


「――そうだよっ、そうじゃないかっ! 余市は表の侍従長じゃないかっ! そんな立派な身分で、しかも竜王様にも覚えめでたくてっ。都にも他の集落の官僚たちにも知り合いがたくさんいる。どうにかして狭霧のお務めの話をなかったことにする方法があるんじゃないか? いや、きっと出来る、余市なら…っ!」

「若様」

 だが、少し見えた明るい日差しも、柚羽にぴしゃりとはねつけられる。そのあまりにも厳しいひとことに春霖はただならぬものを感じた。

「我が夫も、もちろんそうするつもりでした。しかし、狭霧はそれを望んではいませんでした。いいのです、もう決まってしまったこと。あの子が決めた自分の人生に親であっても口を出すことは出来ません」

 あまりにも非情な言葉だった。あの暖かな心で包んでくれた柚羽からよもやこのような物言いを聞くことになるとは。信じたくない、その想いが荒々しい言葉となり溢れ出した。

「何言ってるんだよっ! 柚っ…、お前たちは自分の娘が可愛くないのかよっ!! だって、柚っ、狭霧の務め先は…おいっ! 誰だって、行きたくないよあんなところっ…! なあ、余市はまだ中にいるのかっ! 俺、どうにか説得して――…」

 春霖は言い終わる前に、小さな居室の前に駆け寄っていた。だが、それを一歩早く柚羽が制する。彼女は岩のように戸口に立ちはだかって、通せんぼのかたちを取った。

「おやめ下さいましっ! どうかお引き取り下さいまし…!」

「だってっ! …柚っ!」

 

 思わず食ってかかろうとした春霖を柚羽の手が払った。頬が赤く火を噴く。自分の頬が打たれたことにいくらかの間をおいて気付いた。柚羽の方も必死のことで、そうしようとしての行為ではなかったらしい。青ざめた頬で俯いた。

「…若様。我が夫の辛い胸の内を感じ取ってくださいませ…」

 柚羽がそのあと語ったのは、狭霧の告げた言葉だった。

 

 和乃が春霖に言った通り。余市はただ人で都にやってきた。春霖の父・雷史に拾われた下男ではあったが、ただの使用人であり実家も大したことはない。と言うより、もう実家なんてないも同じだった。

 現竜王・亜樹様のお世継ぎ・華楠様の乳母として都入りした春霖の母・秋茜の口添えもあって彼は侍従見習いの役職に就くことが出来た。それも普通だったら、正式に集落のお偉方より任ぜられて都入りしなければ果たせないような要職だ。それを良く思わぬ者も多くいたらしい。だが彼は言われのない噂話も陰口も気にしないような素振りで、必死に務めに励んだ。そして、確実に出世したのだ。

 今では、誰が見ても立派な役人である。だが、やはり地方から来た名のある豪族の子息などは自分よりもずっと身分の低い彼が上に立つのを良く思わない者も多い。

 その余市が、自分の娘のことであまり事を荒立ててはみっともないことになる。それに…そろそろ息子、つまり狭霧の弟である余志も御館仕えの年齢になってくるのだ。

 

「…狭霧は、今自分のことで夫が高貴な方のお手を煩わせては、余志の時に頼みに出来なくなるではないかと言ってきました。その通りなのです…私どものような身分ではまず最初にどなたかのお口添えがなくては出仕することも叶いません。あの娘がそこまで考えていたなんて…」

 そこまで言うと、さすがに感極まったのか。柚羽は俯くと、衣の袖で顔を覆ってしまった。

「でもっ…だからといってっ…柚っ…!?」

 

 何故なのだ、どうして。こんな風に諦めてしまえるのだ。狭霧も狭霧だ。和乃にどんな風に言われたのかは分からない。でも…どうして、こんな話を承諾するのだ? 妻にすると言ったじゃないか…もう離さないと。あのときの涙とぬくもりは偽りのものだったのか…?

 そんなことはない。あの瞬間に、しっかりとお互いの心は繋がったのだ。では、どうして? 分からない…どうしてなのか、どうしたらいいのか。

 

 足元の地面が崩れていく。自分を取り巻く世界がぐるぐると回り出す。その螺旋の中で行き場のない憤りが気流になってうねる。

 

 夏の盛りのまぶしい日差しを少し避けた木陰で。目の前の人は春霖をしっかりとした眼差しで見つめた。

 それは仕える者が主人を見る時の従順の色。いつだって、どんなときだって、そんな風に全てを包み込んでくれる。誠の家族よりも親しんだこの者たちは、決して自分を見捨てないと信じていた。

 …だから狭霧も。狭霧だって、いつまでもそばにいてくれる。それを疑ったことはなかった。嫁入りの話が出ても、心の底ではそれを本気にしていなかった。狭霧が自分の元を去るなんて、手の届かない存在になってしまうなんて、納得出来るものではない。

 

「若様…もう残念ですが、諦めてくださいませ。狭霧は一刻も前にここを立ちました。今頃はもう、宿場の街を越えて街道に出た頃でしょう。追いかけたところで追いつきません…それに、今更どうしろというのです。決まってしまったことです。若様のお世話なら、他の方で宜しいでしょう…?」

 ――急がなければ、夕刻までにたどり着けない。女子の足ではわずかの距離でも難儀なのだ。それは分かる、分かり切ってる。でもっ…!

 

「よりによって…どうしてっ…!」

 春霖は力無く叫ぶと天を仰いだ。同じ空の下を今歩んでいる狭霧…彼女の行く先は南。西南の集落。しかも、あの悪名高き、西南の大臣・邇桜(ニオウ)様の御館であった。



 

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