…12…

「玻璃の花籠・新章〜春霖」

 

 

「狭霧っ――!!」

 刹那。

 春霖の絶叫が森中に響いた。人の踏み入れることの少ない場所であるから、この声を聞いたのも狭霧ただひとりのはずだ。いいのだ、この胸の想いを受け止めて欲しい相手は、他にない。狭霧しか、いらない。

「行くなっ、狭霧っ! もしもお前を失ったら、俺はどうしたらいいのだ? もう生きては行けぬっ…、お前が俺を想って鬼になると言うなら、俺も鬼になろう。お前が邇桜様の御館でどんな風にされるのか、考えるのも恐ろしい。…いや、お前を他の男になどっ…触れさせるものかっ…!」

 

 はったりなどではなかった。もしも今懐に懐刀を持っていれば、迷わずこの喉に突き立てたであろう。ようやく差した光なのだ。いつでも狭霧がいたから、生きてきた。あの絶望の日も、狭霧の存在があってこそ、立ち直ることが出来たのだ。

 行かせるものか、決して行かせるものか。この命に代えて、それでもいい。狭霧にはあの沼に入り込んで欲しくない。

 

「…何を、仰っても…私の心は変わりませんわ」
 青ざめた色を通り越して真っ白になった表情で、狭霧の口元が微かに動く。

「…さぎ…り…」
 ぴしゃりとはねのけられて、春霖は呆然とした。

 このように怒りを突き返されたのは初めてだったかも知れない。あの余市とも、たびたび激しくののしり合っていた。だが、それはふたりの間に確かな信頼関係があったからこそのものだった気がする。今の狭霧にはそれがない、こちらの言うことを受け止めてなどくれない。絶望というのはこのようなことを言うのか。

 だが、それでも春霖はまだ諦めきれなかった。

「何故だっ…、狭霧っ! どうしてっ…!」

 これではもう、どちらが年上なのか分からない。春霖はずっと年下の少女に対しているのだと言うことが信じられなくなってきた。

 狭霧は悲しい目をして、それでもふっと微笑んだ。美しすぎて光に溶けてしまいそうな儚さを、白いもやが包み込んでいく。

「若様…ご自分のお立場を良くわきまえて下さいまし。お里に戻られて、ゆくゆくは御館の主となられる方がしっかりした正妻様を娶らずにどうするのです。それくらいのことは私の両親もずっとお伝えしてきたことです。…お里のご主人様やお方様も心よりそれを望んでいらっしゃいますわ。それに、身分違いでは上手く行かないことを、私はもう存じ上げております。畏れながら…若様の御父上様もそうであったようですよ?」


 そう言えば、聞いたことがあった。

 いつか年賀の挨拶に里に戻った時のこと、ひときわ大きくて立派な居室がぼろぼろに朽ち果てているのを見た。春霖の祖父であるその頃の主の館から程ない距離。どんなに高貴な方のお住まいだったのかと不思議に思って訊ねてみた。その時、同伴していた余市が教えてくれたのだ。

 その居室はかつて…春霖の父・雷史が、正妻を娶る前に暮らしていた場所だった。その頃、女遊びにかけては今の春霖に引けを取らないほどひどいものがあった父は、ここで愛妾と共に暮らしていたのだ。とても美しい女子で、元々は父の乳兄弟。幼き頃から慣れ親しんだ女子に、父が手を付けたのだった。
 だが、やがて春霖の母となる人が、西南の大臣・邇桜様の口利きでお輿入れしてくる。すると父は今までのことがまるで夢であったかのように、母ひとりに心を奪われた。
 父が都に上がることになった母の後を追ってこの地をあとにした後…その女子は行方知れずになったという。彼女が残したものは、幼子の為の衣装と色とりどりの玩具であった。


「…お生まれになることのなかったお子さまと共に遠き黄泉の国へ行ったのだと、皆が涙を流したそうです」
 狭霧は笑みを絶やさない口元で告げると、一息ついて付け加える。

「もちろん…ご主人様が悪いわけではございませんわ。ただ…身分違いの末路を私は両親から厳しく言い渡されて参りました。決して幸せにはなれぬと…そんなことは初めから…」

 何かがつかえて、次の言葉が出てこない。どうにか呼吸を整えて、言葉を繋げた。

「でも…そこまで言われていても、私は若様のことを諦めることは出来ませんでした。多くは望まない、だからもし、気まぐれにお呼びが掛かった時だけにお相手をお務め出来れば、それだけで十分だと思っておりました。でもっ…、もう、無理です。こうして若様のお優しさに触れてしまった今、もう…お側にお仕えすることなど出来ません。お許し下さいませ…」

「…何故っ…?」

 

 身分など何だというのだ? かつての父のしてしまった罪が、どうして我が身に降りかかってくるのだ? 父は父、自分は自分である。それくらい、分かるはずだろう? 大丈夫だ、何があってもこの想いは変わらない、狭霧だけが生涯の妻なのだ。

 がくっと膝が落ちる。痛みすら忘れていたが、もう感覚のなくなった片足が言うことをきかない。春霖は土の上に両手を付いてうずくまった。

 

 さくさく、と。地を踏む音がして。狭霧がすぐ近くまでやってきたのが分かった。彼女の行く手は行き止まり。目的の場所に進むには今来た道を引き返すしかないのだ。そして、春霖にはもう追いかけるだけの体力が残っていなかった。片足を引きずったところで、到底追いつけるはずもない。

 ――通り過ぎるのか、と思った時。歩みが止まった。ゆっくりと顔を上げる。狭霧の泣き出しそうな笑顔がこちらを見ていた。

「若様は…ずっと都暮らしで、西南のお里のことが良くお分かりにならないのです。こちらではあまたといらっしゃるお役人のおひとりであっても、あちらでは広大な領地を治めるご立派な地主様。そして、それだけの地位に就けば、しかるべき正妻様がなくてはやっていけません。もしも何かが起こった時に、しっかりと後ろ盾になって下さるようなご実家を持たれた方が…。私のような使用人の娘では到底務まりません。それどころか、若様の顔に泥を塗ることになりかねませんわ」

「……」

 言葉の意味は分かるのに、何も答えられない。狭霧の言うことはあまりに正論だった。今まで面白くない都暮らしに飽き飽きして、簡単に里に戻ると言っていた。だが…その事実の向こうには大きな責務があったのだ。

「侍女として、今まで通りにお側に仕えるためにご一緒にあちらに参ることは出来ますでしょう…、しかしながらそれだけはお許し下さいませ。
 ただ…このままお別れするのも辛くて。出来ることなら、二度とお目にはかかれない、でもどこからか若様の噂が流れてくる場所にいたいと思いました。邇桜様の御館ならば、それが叶います。若様はきっと御父上様とご一緒に任に就かれて、御館にお出でになりますものね…」

 

 そんな…そこまで考えていたのか。

 聡明な、歳の割に出来すぎた娘だと思っていた。だが…その想像を遙かに超えて、狭霧は素晴らしい女子になっていたのだ。

 

「もしも、この身体が汚れようと…私は若様のもの。一夜の想いだけを大切に抱き続けますわ。往年の願いが叶ったんですもの、祠の神様に御礼を申し上げに参りましたの。――もう行かないと間に合いません。今までお世話になりました…、どうかお体を大切に、…お酒など過ごされませんよう…」

 途切れ途切れの言葉の隙間から、痛々しいほどの想いを感じる。これほどまでに想い合って、どうして別れなければならないのだ。もう夜は明けないのか、自分の未来には陽は差さないのか…!?

「狭霧っ…さぎ…りっ…!」

 物乞いのように、腕を伸ばす。白い旅装束の衣。膝の下でまくり上げられた短い丈。ハッとした狭霧が飛び退く前に、その布を掴んでいた。力強く引き寄せる。真新しい布もほんのりと狭霧の香を移していた。

「行くな、狭霧。俺を捨ててどこに行くのかっ…お前がいなくなってはもう生きていられない。俺に死ねと言うのかっ…、おいっ、それでいいのかっ!?」

 見上げた顔がわずかに歪む。

「おっ、お離し下さいませっ…もう、決まったことですからっ。もしも私が夕刻までにあちらに付かなければ、家族が問いつめられましょう。両親や弟妹たちにどんな仕打ちが待っているか知れませんっ…お許し下さいませっ…!」

 狭霧は衣が引きちぎれるくらい暴れた。でも春霖はどうしても握りしめたものを手放すことが出来ないでいた。この一枚の布を離せば、もう永遠に狭霧は手に入らなくなる。唯一の光なのだ、どうしてもそれは出来ない。

「若様っ…、お許し下さいませっ…!」

「――嫌だっ! 離すものかっ…!」

 暴れる足を制しようとして、春霖は後ろから狭霧の足に飛びついた。女子の足元に跪く姿など、誰かに見られたら一大事だ。でもそんなこと今言ってられるか? 狭霧は…どうしても行かせたくない。

「…やっ…!」
 足を取られた状態でこれ以上もがけば、今度は自分が倒れてしまうと悟ったのだろう。狭霧が動きを止めた。

 

 ホッとしてもっと深くすがりつく。…あたたかい、狭霧は今ここにいるのだ。確かにこの腕に感じている。一緒にいたいのだ、この先ずっと。そのためには、邇桜様の御館に行くことをやめさせなくては。

 …でも、どうやって。

 

「困りますっ…若様っ…駄目っ…!」

 さらさらと目の前を朱の帯が舞い踊る。柔らかな香り、狭霧の存在を示すもの。

 大きく深呼吸したのが分かる。密着した身体で全てを感じ取っていた。やがて、狭霧が静かになだめるように話し出した。

「…若様は…違いますよ?」

 穏やかに語ろうとするが、その語尾が悲しくかすれていく。彼女を包み込む夏の気が、陽炎のように揺らめいた。

「私、聞いたんです…若様がどうしてこの地を去りたいと仰るのか。それは…どんなにこがれても届かない御方への想いを断ち切るためですよね? 遠き地に行ってしまわれた…一の姫様…、竜王様の正妃様に良く似ていらっしゃるとてもお美しい御方であったと。
 私など…ただ、若様がお小さい頃から親しんでいた我が母上への思慕の想いを勘違いされて愛されただけですわ。まさか、母自身をどうこう出来ませんものね? …もう、いいのです。お気づきになって下さいませ。私など、物の数にも入らない女子ですわ。ただ、母に似ているから…そんなこと、誰に言われなくても知っていましたからっ…!」

「…狭霧…?」

 いきなりかの人の名を出されたことよりも、そのあとの言葉の方に春霖は我が耳を疑っていた。

 

 信じられない。いきなり何を言い出すのだ。誰がそんな馬鹿げたことを…そりゃ、狭霧は柚羽の娘だ。微塵も似てないと言ったら嘘になる。だが…そのように考えたことなどなかったのに。いつの頃から、思い違いをしていたのか?

 …和乃か?

 あの女ならやりかねない。狭霧を愛でる自分が許せなくて、あることないこと吹き込んだのだ。可愛がっている振りをして居室に招き、お前は所詮相手にされていないと言い含める。あの女のことだ、心の奥にあるものを悟られぬようにやったに違いない。

 繰り返し話を聞かされて、どんなに傷ついてきたのだろう。その時の狭霧の気持ちを考えると、腹の奥からあの女への新たな怒りがこみ上げてくる。

 

「俺が…お前を見ていなかったとでも、言うのか? ただ、柚と重ねていただけだと言うのか…?」

 馬鹿馬鹿しいにも程がある。そんな話を鵜呑みにする狭霧も腹立たしいが、そう思わせてしまう行動を取ってしまった自分も情けない。

「馬鹿な…お前、鏡に映した自分をきちんと見ているのか? 体つきこそは母に似ているかも知れない、でもその面差しもしっかりとした性格も…全て全てが父譲りではないか? 俺も初めは分からないでいた、お前はあの余市に本当に良く似ているのに、何故か惹かれてしまう己が。だから、辛くしたり冷たくしたりしてみたが、やはり、お前に泣かれるのは嫌だった」

「え…?」

 それは狭霧にしてみれば、思いも寄らぬ言葉だったのだろう。緊張がすっかり解けてしまったように大人しくなっていた。

「そんなっ…そんなこと…。でもっ…」

 

いまさら、どうしてこんなことを言い出すのか。そして、動揺するのか。分かり切っていることじゃないか。

 ぱっと見た感じは、確かに母のもの。だから、皆がそう思っても不思議はない。だが、春霖は狭霧の家族と長い間共に過ごしてきた。些細な仕草や表情の造り方まで、狭霧が父親である余市の気質を濃く受け継いでいるのは知っていた。

 春霖自身にも覚えがある。自分が誰に似ているのかなど、水鏡に映してみてもよく分からないものだ。父に似ていると言われればそんな気がして、母に似ていると言われればそれもあるかなと思う。血のつながりはどこまでも曖昧なものなのだ。

 少なくとも。狭霧の中に柚羽を見たことなどなかった。…今までずっと。

「私っ…困りますっ…そんなっ…!」

 身体中で恥ずかしさに震えている。膝の辺りがこそばゆくて、愛おしくてたまらない。もう離せない…でもどうしたらいいのだ? あの余市ですら、どうにも出来ないことなのだと柚羽は悲しげに首を振った。ならば、どうすれば…。


 ――いや。

 その時、春霖の頭に、キラリと閃光が走った。

 そうか、そうだったのだ。

 

 どうして気付かなかったのだろう、こんな簡単なことを。心の中の霧が晴れていく、清々しい夏の日差しが直に注ぎ込んできた。

 

「あ、あのっ…狭霧。俺、決めたっ、里には戻らないっ! ここで、都で、きちんと官職に就いて過ごすことにする。そうすれば…お前を妻として迎え、添い遂げることが出来る。里の領地の家督などは弟たちがたくさんいるのだ、誰か他の者に譲ればよい。…そうだ、そうだろうっ!?」

「は…? え…、きゃあっ…!」

 狭霧もいきなりの事に驚いたのだろう。足を取られた格好で体勢を崩し、前に倒れ込んでいた。

 慌てて腕を解いてやると、そそくさと衣を整えて後ずさる。だが、腰が抜けてしまったようで、立ち上がれなくなってしまった様子だ。座り込んだままの姿勢で、たどたどしく言葉を紡いだ。

「何を仰るのです。だって、…若様は正式な官僚職に就くために皆様にご挨拶に行くのは面倒だと仰ったでしょう? 上下のしがらみも煩わしいし、だったら里で領民を従えている方が良いと。…そうでしょう?」

 何ともきまりの悪い気が辺りに漂う。

 毎日、朝な夕なそう言ってきた。狭霧にとってはもう暗記してしまうほど聞いてきた言葉だ。余市との口論も幾度となく耳にしている。驚くのも無理はない。

「大丈夫だ、狭霧と共にいられるためなら、誰にだって頭を下げていい。そんなの辛くも何ともない。狭霧を失うのだと思えば、何だって出来るのだ…それくらい、愛おしく思っているのだ。これと同じだけの気持ちをもしも一の姫様に持っていたら、俺はあのとき手を貸したりしなかった」

「…若様…」

 狭霧は春霖の言葉がきちんと飲み込めないらしく、大きく目を見開いて呆然としている。こうしてみると、昨夜のしどけない様子など想像が付かぬほどあどけない存在だ。辺りに敷き詰められるほどに咲き誇った恋花が白い装束に映える。だが、美しい白衣もいつまで着せておくわけには行かない。

「でも…そんなことを仰っても…私は、もう…」
 そう言うと、静かに俯いてしまった。長いまつげが雫を含んでいく。

 

 正式に邇桜様の御館の使用人となると言う書状を受け取っているのだ。このことを覆すことは出来るわけがないと言いたいのだろう。

 頭のいい娘だ、誰もどうにも出来ないような状況まで話を進め、反対されたところで始まらないとはねつけるつもりだったのだ。だから余市や柚羽にとっても、寝耳に水の出来事で、どうにも出来なかったに違いない。もしももっと時間があったなら、表沙汰にしないようにゆっくりと根回しが出来たのだから。

 

「大丈夫だよ? …霧」

 心細く震える肩に手を置いて、顔をのぞき込む。頬を伝う涙を、そっと拭ってやった。衣の胸の辺りもだいぶ濡れている、あの場所で祠の前に跪いていた間もこうして泣き濡れていたのか。

 

 何故、信じてくれなかったのだ。馬鹿な思惑の方を真に受けて、こちらの想いをねじ曲げて受け取っていた。情けないことだ。

 だが、今それを言ったところで始まらない。まずは、これからどうしたらいいのか考えよう。腹の奥にぐっと力を込めて、それから狭霧には出来る限り安心させるように微笑んで見せた。自分でも上手く行くか不安だった、だがやるしかない。そうしなければ、狭霧はもう永遠に手に入らないのだ。

 

「これからすぐに御館に戻って、竜王様にお目通りを願おう。そして、西南の大臣様に書状をしたためて頂く。早馬を使えば夕刻までに大臣様の御館に届くだろう。里の父上や…あと西南ゆかりの官僚の方も何人かは面識がある。大丈夫だ、しっかりお願いしてくるから」

「…若…さま?」
 狭霧は訳が分からないと言うように目をぱちくりとさせている。涙もいつか引っ込んでいて、頬には白い流れのあとだけが残っていた。

 

 邇桜様は、春霖如きが直談判をしたところで、どうにかなるような相手ではない。直接にお目に掛かることも不可能だろう。下手をしたら館の門を守る侍従に切り捨てられるかも知れない。だいたい、いきなり狭霧をお務めに出せないと言えば、かえって彼の欲情を誘ってしまうだろう。出し惜しみをするほどの女子なら、一度味わってみたいものだと。

 やはりここは、周りから徐々に固めていくのが得策だ。急がば回れ、なのである。

 確かに、竜王様のお口添えがあれば、どんなにか心強いことか。何しろこの地の誰よりも高貴な御方であり、その上邇桜様にとっては、血のつながりの限りなく濃い実の息子に当たられるのだ。

 

 しかし、誰もが知っている。春霖にそのようなことが出来るはずないことを。犬のように尾を振り、権力に従うくらいなら役職など欲しくないと豪語していた。そうなのだ、ずっとそう思ってきた。

 だが…これからは違う。

 

「あの余市が恐ろしくて、今まで言い出せずにいたが俺とお前はもうとっくに誠の夫婦であったとそう言いふらそう。それでいいじゃないか、…駄目か?」

 わざと真顔でじっとのぞき込むと、狭霧は戸惑った瞳を行き場もなく揺らした。

「え…、そんなっ…でもっ…!」

「あの邇桜様であっても、初めから人のものであれば、少しは気もそがれよう。それに、もともとは和乃が行くはずだったのだし、お前が憂うことはないぞ? 竜王様のお言葉があれば、大丈夫だ。
 その代わり、俺の出世は遅れるかも知れないが…もう何度も頭を下げるわけにも行かないからな。知らないままに話を進めてしまった余市に非はない、責められるなら全て俺が受けて立とう…他の誰でもない、お前のためだからな」

 優しく言い含める。狭霧は唇を震わせたままそれ以上の言葉を発することが出来なくなっていた。そっと腕を回して抱きしめる。恋花の香りに狭霧の匂いも重なり、その甘さに胸が震えた。

「…そんな、無理です。若様にそのような…きっと後悔なさいます。このようなことを軽々しく仰って、いつかご自分がどんなに愚かであったかとお嘆きになりますわ…」
 言葉ではあらがいながら、それでももう彼女には抵抗する力は残っていない様子だった。ただわずかに残った理性で、力無くかぶりを振る。

「出来る、必ず。俺は今日から生まれ変わるのだ。信じられぬか? そのようなこと無理だと申すのか? …俺のこれからをお前にしっかりと見守って欲しい。それとも嫌か? 俺のような心許ない男のことは期待など出来ぬと言うか…?」

 一度腕を解いて、小さな手を取る。

「一年…いや、半年でもいい。しばらく俺に時間をくれ。必ずや皆が目を見張るほどの男になろう。その頃にはもう、お前が疑いようもないほど深い愛も見せつけてやる。己の心の全てでお前に尽くそう…お前のために生きていこう」

 

 狭霧は恥ずかしそうに俯いたまま、はらはらと涙をこぼした。

「仕方のない…若さまですこと。そのように仰って…私が断り切れないと、とっくにご存じなのでしょう…?」

 春霖は。全ての想いを込めて、繋いだ手に力を込めた。

「…待ってみてくれるか? お前のために頑張ろうというこの決意が偽りでないと…お前の目でしっかりと確認してくれるな? …そうだな?」

 

 狭霧が袂で頬を拭い、顔を上げる。そして潤んだ瞳で静かにこちらを見た。…まっすぐに、たとえようのない想いを込めて。春霖も彼女の大切なその心を、ゆっくりと受け止めていく。静かに笑みをたたえた表情で。

 どんな茨の道も、越えていける気がする。このぬくもりさえあれば。ただ、腕を伸ばして抱きしめていればいい。優しく、穏やかに慈しんでいけばいい…無理をせずに時間をかけて愛し合うのだ。

 

「…若様…」

 そして、また。胸を揺らす声。春霖は、震える指先を覆う旅装束の白い長手袋をはぎ取った。それを手早く懐に押し込める。

「お前を…もう、どこにもやらない。分かるな…?」

 

 静かすぎる山奥の森。どこかを流れるせせらぎの音が耳に届いた。その清らかな調べに乗せて、そっと唇を重ねる。

 永遠が始まるその瞬間に、春霖の瞼の裏には一面の野に燃え盛る青い花が残像のように映った。

了(030905)



 

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