TopNovel玻璃の花籠扉>蝶のうたた寝・2


…2 …

「玻璃の花籠・新章〜雪茜」

 

 

「おお、おお……! 衣装合わせが済んだか。美しいのお……さすが、雪姫。儂の自慢の孫娘だからな」
 侍女の誰かが呼びに言ったのだろう。丁度最後の腰ひもを結んだ辺りで、向こうの渡りから、どかどかと足音がした。重すぎる装束にゆっくりと振り返ると、満面の笑みを浮かべたお祖父様。まったくもう、本当にあけすけなんだから。恥ずかしいじゃないの。
 侍女が慌てて座を作って、お祖父様を招き入れる。一段高い台の上に敷物を敷く。そこにどかっと腰掛けたお祖父様は、差し出されたお茶をずるずるとすすりながらまた私を見つめた。
「こうして美しい姫を飾るのは楽しいものよなあ……時に雪姫よ。やはり、そなたの伴侶としては、このように優美に過ごさせて貰える者がいいだろうな」
「……は?」
 私は目をぱちくりさせてしまった。伴侶? え? 何を言ってるの。
「なっ、何を仰るの、お祖父様」
 やだなあ、やぶからぼうに。今から嫁ぎ先の心配かしら。そりゃ、裳着を迎えるのだもの、正式に大人の仲間入りをしていつでもお輿入れできるってことになる。けどなあ。
 まだまだそんな窮屈な身分は御免だわ。たぶん、私くらいの美しさと身分を持ってすれば、どこぞのお金持ちの正妻様になるのよね。でも、ひとりで見知らぬ土地に出向くなんて、何か寂しいし面倒くさそう。このままお祖父様の御館でのんびりしていたいなあ。
「ふふふ、そのように慌てて。まだまだ幼き姫よの……」
 私の表情を違うように解釈してくださったらしい。まったくおめでたいお祖父様。まあ、そこが扱いやすくていいんだけど。思いがけないことを言われて戸惑う可憐な姫君を装ってみせるわ。
 まあ、……私だって。いつかは素敵な殿方に見初められて、皆が羨むような結婚をするに決まってる。だって、こんなに美しいんですもの。
「本当に愛らしい限りじゃ。儂の孫であったことが、自慢である反面口惜しいのう。もしも孫でなければ、のう……」
「まあっ、御館様はお戯れを……」
 侍女たちが声を立てて笑う。ちょっと待ってよ、そこは笑う場所じゃないわ。まったくもう、何を考えてるのかしら、この者たちは……!
 お輿入れなんて、遠い未来の話だと思っていたのに。まあ、お祖父様が仰るのだ。きっと素敵な方がたくさん候補として上がっているはず。その中から選べとか言われるのか。
 そうよ。私を妻にしたいと名乗り出てくる殿方は後を絶たなくて、ゆくゆくはその中で一番素晴らしい方と結ばれることになるのだわ。
 婿選びのための華やかな宴とかが何度も催されたりするのかな。そんな時に私は一番見晴らしのいい御簾の内で我こそがと思っている彼らの雅楽や舞を眺めるのね。一輪の花を巡って競い合う公達の姿はそれはそれは美しいに違いないわ。

 ほころび始めた朱花(しゅか)。きっと裳着の当日には、どんなにか美しく薫るだろう。ずっしりと重い装束。かなり肩が凝りそうだけど、大人になるって結構楽しいことなのかも知れないなとか思っていた。

 

*****


「あ〜、かったる〜い!」
 まだまだ中央の客座では賑やかな歌声が続いている。でも、こんな夜更けまで付き合っていられますかって言うの! 私はちょっとご不浄へ……と言った感じで退座したが、もう今夜はあの場所に戻るつもりはさらさらなかった。
 普段は表だっての人付き合いなどあまりお好きではないお祖父様も今日だけは別。お祝いを述べるお客人にも面倒がらずに上機嫌で相手をして、杯を酌み交わす。
 一番上座の席、お祖父様の隣で一日中そんなことをしていたらいい加減飽きるわよ。いくら「なんとお美しい」「まるで天女様のようでございますなあ」なんて賛辞を延々と並べられたって、当たり前のことなんだから今更胸躍ると言うほどのこともない。
 まあ裳着の御衣装はそれはそれは美しかったし、それをまとった私はもう語り尽くせないほどのきらびやかな女人でしょうよ。何て言ったって、元がいいからね。褒めずにはいられないその気持ちも分かるわ。傍らに控えている教育係の侍女からは「くれぐれも無駄なお言葉はお慎み下さい」と言われていたし、にこやかな微笑みで楚々と振る舞うのもだんだん面倒になっていた。
 この日のために指先が切れるほど練習した和琴もどうにかお披露目に成功した。まあ、後ろで一緒に演奏してくれる雅楽の中に、ぴったり同じ旋律を辿ってくれる者がちゃんといたけどね。いくら見目美しい姫君でも、やはり芸のひとつもこなさなければ箔が付かないんですって。何だか面倒よね。
 早朝からお支度やら何やらで、ゆっくりと休む暇もなかった。そりゃ、御領地を上げての宴ですもの、主賓の私が頑張らなくちゃ始まらないもんね。口うるさい侍女たちにもいつものように我が儘を言ったりせずに素直に従ったわ。何て言ったって、私はもう大人ですもの、当然でしょ。
 ……でも、いい加減、疲れたなぁ。
「ねえ、琉砂(リュウサ)。琉砂はそこにいるんでしょ!?」
 私は自分の部屋に戻ると縁まで出て、庭先に叫んだ。天がこうこうと輝いて、御庭は昼間のように明るい。でも光の当たらない影の部分はべっとりと墨を塗ったみたいに黒くて、しんと冷え込んできた気と相まっている。いつもだったら、私が呼べばすぐに現れる男。なのに、今夜は姿が見えない。
「何よぉ! ちょっと、まだ今夜は休んでいいなんて言ってないはずよ! 私がいいと言うまで寝屋に戻っちゃ駄目って言ってるじゃない!」
 疲れが溜まっていたせいもあるんだろう。いつもよりも私の口調はさらにきつかった。でもさ、当たり前じゃない。何のためにこんな重苦しい御衣装もそのままに舞い戻ってきたと思ってるの。そりゃあさ、琉砂は昼間のお披露目の際に、どこか遠くから私を見ていてくれたと思う。しっかりとその姿を認めた訳じゃなかったけど、私には分かるの。
 途中、一度戻った部屋には一盛りの花が飾られた盆があった。私の好きな花ばかり、惜しげもなく挿してあるそれは琉砂の手で施されたものに決まっている。誰も知らない御庭の影にある草花も咲き始めたそのままの姿で添えられていたし。私があの花を愛でていることを知っているのは彼だけ。
「誠におめでとうございます」――そんな想いまでが伝わって来るみたいだった。どんな宝物よりも琉砂の心遣いは嬉しかったけど、まだそれで良しとしたわけじゃないんだからね。どうして、ひとこと言葉をくれないの。普段から美しい私だって、こうして一人前の姿になればもっともっと素晴らしいはずよ。賛辞はどうしたの、賛辞は! あんたに言われなくちゃ、気が済まないわよっ! 一体、どこをほっつき歩いているの。
「あのぉ〜、雪姫様?」
 いきなり背後から声を掛けられたので、腰が抜けるかと思った。暗がりなのでよく分からなかったが、何度も瞬きするとようやくその姿が確認できる。この頃、御館にやって来た女の童(めのわらわ)だ。侍女たちはみんな出払っていると思って安心していたが、こいつが残っていたのか。
「なっ、なによ! あんたなんてもう休んでいいわよ……!」
 吐き捨てるようにそう怒鳴ったが、相手は鈍感なのかそれとも恐れおののいているのか、まったく表情を変えない。ただ、言葉を事務的に伝えていく。
「もしも、姫様がお戻りになったら、お召し替えをして、お休みの際には寝所の前で控えろと申しつかっております。すぐにお支度を」
「え……?」
 何がどうなっているのやら。呆然としているうちに、他の侍女たちもわらわらと舞い戻ってくる。夜だというのに、やたらと騒々しい雰囲気に包まれて、当然のように寝所に押し込まれてしまった。

 

*****


 もう、嫌になっちゃう。何よ、琉砂の奴! 翌朝、夜明けと共に侍女に叩き起こされる。昨日は腹が立って腹が立って、なかなか寝付けなかった。お陰ですごい顔のむくみ! これも琉砂のせいなんだわ。
 鏡に映った私の顔は目がつり上がって、とっても怖そうだった。昨夜の女の童が湯桶を持って入ってきたけど、ぎょっとした顔をしたもんね。ちょっとでも粗相なんてしてごらんなさい。もうお前なんて、クビだからね、クビ! 今日の私は最高に気が立ってるんだから……!

 それでもまあ、若さに光り輝く私の肌は、おしろいもしっとりと馴染んで冴え冴えとした感じ。さすが元が良ければ、こんなもんよね。昨日とはまた別の衣を身につける。もちろんこれも正装用の美しい色目。何重にも重ねた上掛け。今日もお客人のお相手をするという。面倒だけど、仕方ないかな。私のお祝いに来るんだしね、ねぎらいの言葉のひとつもかけてやらなくちゃ。
 ああ、本当に。何て美しいんだろ、私。普段の何でもない装いだってなかなかのものだけどさ、きらびやかな装束に負けないこの艶やかさといったらどう? 正装の装束って重いから、ひとりでは立ち上がれない。あ、王族の方々とか、この装いが当たり前になっている人は別みたいだけどね。私はよっこらしょとかけ声付きで、ついでに両脇から侍女に抱えられてどうにかだった。
 まっすぐな立ち姿で姿見に映った私に、我ながら惚れ惚れしたわ。結い上げた髪に、床の間の盆からひと枝挿して貰う。ほころんだばかりの清楚な香りが、私のためにあるみたい。綿雪の花なんて、良く今の季節に見つけたわよね。真冬に咲く花なのにさ。
 ま、これに免じて許してやってもいいかな。きっと、あいつ、裳着のお式での私があんまり美しかったから、気後れしてるんじゃないかしら。馬鹿よねえ、そんなに臆することもないのに。私に飼われているんだったら、いつも傍に控えていればいいのよ。どうして、そんなに簡単なことも分からないのかしら?

 

*****


「おお、ようやく支度が出来たか。今日の装いも美しいのう……やはりお前にはそのような晴れやかな色が似合うぞ。まったく飾り甲斐のある姫よの」
 いつもは寝ぼすけのお祖父様も、私の晴れ舞台とあらば話は別のようね。でっぷりした身体に似合わない金銀の織りも眩しい上掛けで、私の到着を今か今かと待っていた。
 ああ、本当に。毎度思っちゃうけど、父上は誠にこの人の息子なのかしら。年に何度もお目に掛からないけど、お会いするたびに溜息の出るほどお美しい方なのだ。こんな男の胤から出来てるなんて、信じられない。お祖母様、密かにどこぞの愛人と通じていたんじゃないだろうな。
「ほらほら、お客人が先ほどからお待ちかねだ。早うここに来て、御挨拶をなされよ」
 私の美しさに見とれているお祖父様は、ヘラヘラと笑いながらそう言う。不用意に衣に手を添えるのも、ちょっといやらしいのよね。そんなこといちいち気にしていないけどさ。本当に血の繋がった孫で良かったわよ、そうじゃなかったら今頃どうなっていたのやら。とっくに手籠めにされていたに違いないわ。おお、嫌だ。
 腹の中ではあれこれと思いながらも、表情は楚々として微笑んだまま、完璧な姫君の私は緩やかな身のこなしで座した。

「昨日はあのような盛大な宴にお招き頂き……私どものような田舎者には目の覚めるような思いでした」
 一通りの挨拶を終えると、目の前の男が、すっきりとした身のこなしで顔を上げた。これで、幾人目の接客だろう、もうだんだん疲れてきた。そろそろ退座してもいいだろうと傍らの侍女に目配せしたら、すごい形相で睨み付けられる。そんなわけで、あくびを噛み殺しながらの対面だったが、その面(おもて)を上げたなりを見た途端に、眠気も吹っ飛んだ。
 なっ、何!? この見目麗しい男は! すごい、昨日からずっと田舎者が無理矢理着飾ったみたいな滑稽な男たちばかりを眺めていた。そのような者たちとは全然レベルが違うじゃないの! ええ、昨日の宴にもいたの? どうして気づかなかったんだろ、私っ……!
「あ……いえ。そのように仰って頂けて、光栄ですわ」
 いやあ、目の保養かも! 思わず手にしていた扇で顔を隠して恥じらっている振りをしながら、私は内心ほくそ笑んでいた。
 だって、元はと言えばさ。私は都で過ごしていたのよ。ちょっとの間だったけど、あの環境にいたんだからそれなりの「目」は持っている。何しろ、あそこでは若くて美しい公達も山のようにいて、皆エリートだった。こうして西南の田舎に引っ込んで、気楽な生活だったけど。あの雅な生活がないのが残念だった。田舎者って垢抜けないしね。御館にいるのは父上と血の繋がった者が多いはずなのに、みんなボンクラで。
 それがそれが! 久々の大ヒットじゃないの!
 つややかな赤髪はとても豊かで、濃緑の瞳も穏やかな湖面のように涼やかね。凛とした顔立ちは見るからに賢そうで……それに、私を見つめるその眼差しのまっすぐなこと。その辺のオヤジの様ないやらしさが全くないわ!
「……ええと……」
 ああ、名前も思い出せない。この御方はどこの誰? 困り果てて隣に座したお祖父様に助けを求めると、あちらも心得たもの、私ではなくお客人に向かって言葉をかける。
「久野(クノ)殿、西方の今年の様子はどうかね? 地主殿の采配で全てが決まるのだからな、しっかりとして頂きたいものだ」
 西方……。お祖父様が面白そうに私の方を伺っている。いつもだったらむかつくけど、今の私はそれどころじゃなかった。西方というのは、お祖父様の御領地の一部。ここより西の手に位置して、ひときわ恵み豊かな土地だという。久野という名前に心当たりはなかったが、確かあそこの地主は久弥(クヤ)とか言う名だったはず。そうか、その息子なのか。
「時に、久野殿。我が館の姫をどうご覧になったかな」
 えっ? いきなり何を言い出すのよ、お祖父様! そ、そんな、あからさまに……! 私が仰天していると、しかし下座に座っている公達はそれほど驚く様子もなく、にこやかに答える。
「お噂はかねがね伺っておりましたが……実際にこうしてお目に掛かると、目もくらむばかりで。昨夜も遠目に伺っていたお美しいお姿が脳裏に焼き付いて、なかなか眠れませんでした」
 ――うわ、まっすぐな綺麗な瞳でそんなこと言うの! まあ、それが当然の反応でしょうけど。当たり前の男たちは私の余りの美しさに仰天して、思っていても口には出せないものでしょ。 何て清々しくて、立派なこと……! よく見れば、何気ない庶民の正装も、目の覚めるくらい仕立てがいいわ。
「おお、おお……そうか。儂も自慢の姫をそこまで言ってもらえると嬉しいな。……そうだ、雪姫。そなたもそろそろ疲れてきたであろう。どうだ、この久野殿を中庭にご案内して、満開の朱花などご覧に入れては……?」
「は……はあ……」
 突然の申し出には驚いたが、断る理由もない。肩の凝る衣を着込んでずっと姿勢を正しているのはもういい加減に身体が限界に来ていた。それに、でぶでぶのおじさん相手なら御免被りたいけど、何てったってこんな素敵な公達。目の保養になりそう。丸一日以上、琉砂と会ってなくて、私の心も荒みかけていたのよ。美しいものを愛でていないと、どんよりしちゃうわ。
「宜しいのですか……では、喜んでご同伴致します」
 男は笑みを絶やさない口元で嬉々としてそう告げると、すっと立ち上がった。

 

*****


「おお……これは、なんと美しい……」
 久野殿は心からの感嘆の叫びを漏らしていた。まあ、当然よね。お祖父様はとびきりのお金持ちで、そのほとんどの財を女遊びとあとは御館のお庭造りに投じていらっしゃる。そのために、農閑期には出稼ぎの農民も募るのだ。中庭の朱花は都に上がった折に、竜王様から直々に賜ったものだと聞いている。もちろん、ひと枝だけど。それをお祖父様は後生大事に増やしていったのだ。
 朱花は春の盛りを彩る朱色の大輪の花。上手に咲かせると一抱えほどにもなる。それがたっぷりとした広さを誇る中の御庭に溢れんばかりに咲き誇っていた。
 男はゆっくりとした優美な動作で品良く花を愛でつつ、時折ちらりとこちらを見る。どうもあまりに私が美しすぎるので、直視が出来ないらしい。傍らにいる侍女たちとは親しみを持って語らっているのに、私の方はたまにしか向かないのだ。
「西方の……久弥殿の御屋敷も、お美しい御庭があると聞いていますけど。かなり豪勢でいらっしゃるんでしょう?」
 久弥殿と言えば、お祖父様の臣下でも筆頭の家柄だ。まあ、庶民には変わりないが、どんなに裕福かはその身支度を見れば分かる。艶やかな肌からも、食事がいいんだろうなとか分かるし。
「ええ、まあ。こちらの御館様には遠く及びませんが、なかなかの評判になっております。春の花の盛りには、遠き地よりもたくさんのお客人が参りますよ? その列が遠く山の向こうまで続くほどで、蔵には入りきれないほどの献上品で埋まります」
「へえ……それはすごいわね」
 久野殿は聞きようによっては自慢にしか聞こえないような話を、しっとりと奥ゆかしく告げる。だから少しも鼻につかないのだ。きっとお祖父様を領主としてきちんと立てているからなのだろう。お兄様と同じくらいの年頃だと言うから、私よりは2つ3つしか年長じゃない。でも、なんて風格があるんだろう。
 すらりとしたその姿をうっとりと眺めていると、彼は突然その横顔をふっと曇らせた。
「しかしながら。そんなめでたい折にも、女主人のいない家ではどうも。実は数年前に母を亡くしまして、しっかりと奥を守る者のない家は寂しいですし、落ち着きません。どうかして、今年の花の宴には館の中にも咲き誇る花が欲しいものです……」
「へえ……それは、困ったことねえ」
 そんなことは知らなかったわ。別に御領下のなにがしがどうしたかなんて、全然興味がないし。面倒なことはお祖父様やその家来たちがどうにかするもんでしょ。私のようなやんごとなき姫が気に病むこともないのよ。
 ただ――まあ、そうね。こんな風に困っている久野殿を見ていると、どうにかしてあげたいかなと言う気もしてくる。ああ、やっぱり美しいものには惹かれてしまうのね。
「おや、あちらには池も。遣り水も美しいですね」
 ふいに話を中断して、どんどん行ってしまう。お客人をひとりで行かせるわけにも行かず、慌てて後を追った。何だろう、気が付いたら何人も控えていた侍女たちがひとりもいない。昼餉近いから支度に行ってしまったのかしら。

「そのように。あまり覗き込まれると、危ないではありませんか」
 ようやく追いついて声を掛けると、彼はくるりと振り返った。先ほどまでとは違って、なにやら思い詰めた表情。言いにくそうに何度も口を開きかけてはやめてしまう。何だろうと思っていると、ようやく意を決したように告げた。
「あの、雪茜姫様。実は、これは御館様に以前からお願いして、内々に進めていたことなのですが。もしも姫様さえ宜しければ、私どもと共に、西方へお出でくださいませんか」
「え?」
 な、何を言ってるんだ、この男は。自分の屋敷の花の宴への誘い? いや、違うだろう。それくらいのことなら、こんな風に仰々しくすることはない。
「館をあげて、歓迎致します。もちろん、一生、何不自由なくお過ごしになれるように致しますよ。父も私もそれだけの覚悟がございます。何より、このように美しい姫君がお出でになれば、家もますます繁栄を極めることでしょう」
 水鏡に映った私の姿は、きっと咲き遅れの花のように呆然としていたと思う。だって、ほんと、寝耳に水なんだもの。そりゃ、お祖父様からちょっとはお話があったわ。いい伴侶と娶せたいって。でもっ、こんなにいきなり。昨日裳着を迎えて、大人になったばかりなのに。
 これから半年も一年も掛けて、のんびりと夫選びをするんだと思っていた。まさか、裳着を迎えた次の日にいきなりこんな爆弾発言をされるとは思ってなかったわ。 
 混乱しすぎて、何が何だか分からない。そんな私に追い打ちを掛けるように男は告げた。
「私の気持ちはもう決まっております。男女のことは無理強いは良くないと申しますが――でも、このようにお美しい姫を間近に見れば、心の揺らがぬ男などありましょうか? もう、我が館の方では祝宴の準備も始めておりますよ」
 サラサラと流れる水音も遠ざかる。久野殿の言っている言葉は理路整然としているのに、私にとってはあまりに難解。だって、今まで欲しい欲しいと全てを手に入れてきたけど、こんな風にあちらから求められたことなんてないもの。そりゃ、驚いて当然でしょ。
「御部屋にお戻りになって、ごゆっくりとお考え下さいませ。いいお返事をお待ちしておりますよ」
 どこまでも領主の姫君に対する礼を尽くす男。美しくていつまでも愛でたくなるようなその姿。でも――なんか、しっくり来ない。どこかが違う。自分の戸惑いの理由が、その時の私には分からなかった。

 

*****


 部屋に戻ると、男の言っていた言葉の意味が分かった。
「うわ……、何これ!?」
 見たこともない艶やかな装束、そして色とりどりの飾り物に、お道具。一番広い部屋がいっぱいになるほどの貢ぎ物が並んでいた。衣だけで何十枚あるんだろう、数えるのも億劫だ。
「まあ、まあ、お美しいですわよ、姫様。ほら、こちらなど、お顔うつりも良くて……早速昼餉の後、お召し替えなさいませ。久野様がお待ちですわ」
 何だか、昨日の朝から侍女の数が急に増えた気がする。もちろん、御領地の姫君だから、もともと煩いくらい侍女を使っていた。でも、裳着の朝からは本当に自分の周りに壁が出来るくらいの人数がいて。四方八方を囲われて身動きが取れないのだ。皆、思い思いに手にしたものを戻ってきたばかりの私に当ててみせる。
「ねえ、ちょっと静かにしてくれる? 私、考え事をしたいの。かしましくしないでちょうだい」
 そのままどかどかと進み始めると、教育係のあの小うるさい侍女が慌てて追いかけてきた。
「あらまあ、姫様! 高貴な御方が、そんなに端近に出てはなりません。その辺りは下男なども通る場所。大切なお姫様が下々の者に不用意にお顔をお見せにならぬよう……御館様からのご命令です」
「え……っ?」
 一体何を言い出すんだ、いい加減にしてよ! 今まで、侍女たちの目を盗んで、野山に繰り出すのが楽しかった。そりゃ、短い時間だからそう遠くには行けない。でも、こんな風に始終監視が付いて館の中に押し込められていたら、気が狂っちゃうわ。
 でもたくさんの侍女にあっては、逃げようがない。気が付くとずるずると奥の間に押し込められていた。そして、目の前には御簾が降ろされる。何なのよ、これでは外も見えないじゃないの!
「ちょっと! ねえ、いい加減にしてよ! 私はね――」
 すっごくイライラする。自分たちのいいように取りはかろうとするなんて、どういうことなのよ! 主は私なのよ!
「ねえ、だったら今すぐここに、琉砂を呼んできて! あの男と話がしたいの、すぐによ……!」
 侍女たちに頼むのは気が進まなかったが、仕方ない。だって、琉砂はどこをほっつき歩いてるんだか、全然姿を見せないんだもの。今までは私の気配に気づけば、すぐにやって来たわ。忙しいときだって、手を休めて。あいつにとっては私の命令が絶対だもの。
「何を寝言仰ってるんです! あのような者、もはや姫様にお目通りなど叶うわけございません!」
 でも、教育係の侍女はぴしゃりと言い放った。その口元に、してやったり、と言うような私を見下した笑みが浮かんでいる。何なのよ、こいつは!
「だって! あれは私が飼っている男でしょ、犬や猫と同じなのよ。人のなりをしてるだけじゃない……!」
 何を言っても相手にしてくれない。裳着を迎えたんだからなんたら、大人になられたのだからなんたらと御託を並べ立て、私の言い分など誰も聞き入れてはくれなかった。


 

<< 戻る    次へ >>


TopNovel玻璃の花籠扉>蝶のうたた寝・2