TopNovel玻璃の花籠扉>蝶のうたた寝・3


…3 …

「玻璃の花籠・新章〜雪茜」

 

 

 ――じゃあ、琉砂(リュウサ)はどこに行ったのだろう。

 その晩、横になってもいつまでも寝付けなかった。このままでは、二晩続けての寝不足になる。こりゃ参った、お肌の敵だと思うんだけど、何だかな。それに、今日はいきなり色んなことが起こりすぎて、誰にも相談できないし、困っているのよ。
 昼餉の後。今度は久野(クノ)殿と、それから御父上の久弥(クヤ)殿とお目に掛かった。まあ、またこの男が田舎者丸出しの冴えないおじさん。どうして西南の民って、みんな男は中年太りするのかなあ。父上みたいにいつまでもすっきりしてる殿方って本当に少ないもん。まあ、久野殿はそうならないように願うわ。
 ……って、私。まだこの縁組みに同意した訳じゃないのよ。歯の奥に何かが挟まったみたいに嫌な感じがして。それが何なのか分からないんだけどね。でも、そんな私を無視して、お祖父様と久弥様はどんどんお話を進めている。どうも西方の館ではもう新しい部屋も造らせているんだとか。
「何を仰るのですか! こんな良縁他にございませんでしょう。姫様にはまたとないお相手です、西方には私も夫共に同行致しますから」
 私の隣に始終ぴったりと吸い付いた教育係の侍女はとても嬉しそうだ。そうか、そう言う理由だったのか。御領主の御館から来たとあっては、新しい館でもたいそう優遇されるに決まっている。だからこんなに乗り気なんだな。
 今だって物音ひとつしないけど。寝所の表にはびっちりと侍女が控えている。私がくしゃみのひとつでもしようものなら、懐紙を持って飛んでくる。ああ、煩い。どうにかしてよ。
 御簾の向こう、今宵も天が明るい。こんな晩は人の少なくなった部屋を抜け出して、琉砂と夜の御庭を歩いた。ほんの数日前まで当たり前のことだったのに、どうしてこんなに変わり果ててしまったのだろう。もしも琉砂に会えなくなるなら、裳着のお式なんてしなかったのに。
 大人になる儀式を済ませるだけで、こんなに自分の身の回りが変わってしまうことをどうして分からなかったんだろう。裳着なんて、美しい御衣装で着飾るのが嬉しいと思っていたなんて。確かに数え切れないほどのお客人に祝いの言葉を貰ったし、うずたかく積まれた貢ぎ物は、幾山にもなっている。でも―― 一番祝って欲しいはずの男が傍にいない。
 あいつもあいつよ。どうして皆の言いなりになるのよ。そのままだと無理なら、侍女の装束でも着込んで忍んでこようとか思わないの? それくらい頭を使いなさいよね。可愛くないわ、まったく。それに……私が梳いてあげないと、きっとぼさぼさの髪をしてる。自分じゃあ、せっかくの美しい自分も構わないで身なりもおざなりなんだから。
 私、このままだと西方に行っちゃうわよ。二度と会えなくなってもいいの。そんなのあんたには辛すぎて耐えられないでしょ。涼しげな顔をしていたけど、でも心内では私に会うのを楽しみにしていたんだよね、そうだよね。可哀想に、きっと今頃世をはかなんで泣いてるかも知れないわ。

 ――ことん、と音がした。最初は空耳かと思ったけど。ううん、渡りを進んでくる確かな足音がする。あれはそれなりに体重のある男の足。えっ……じゃあ、まさか。
「だあれ……、琉砂?」
 半分うつらうつらしていたからかなあ。すぐには身体が反応しない。眠い目をごしごしこすってみる。御簾の向こう、ちらっと人影が動いた。
 何だろう、あれ。そう思うんだけど、冴えている頭とは裏腹に、何故か重い身体。手足は何となく動くものの、全身がけだるくて寝返りを打つのも億劫な感じ。そうしているうちにずるっと御簾が上がって、黒い影が進んできた。結い上げた髪が赤っぽい。と言うことは琉砂じゃない、それだけは分かる。
「えっ……と、どなた? 場所をお間違えではありませんか……?」
 一応、私は姫君だし。面倒くさくてもよそ行きの声を出してみる。いくら迷子になるくらい広い御屋敷だって言ったってね、ここに渡ってくるまでには侍従や侍女がたくさん控えているはず。それなのに、やんごとなき姫君の部屋に踏み込むなんて、礼儀知らずもいいところだわ。
 影は私の問いかけには気づかない。燭台の灯りも消えていて、こちらを向いているその人が誰かは判別できないし。暗がりが揺れながら近づいて――。
「どな……、きゃっ……!?」
 そんな馬鹿な! いきなり襲いかかってこないでよ。御領主の姫君の私に夜這いをしかけるなんて、百年早いわ! ああ、でも……身体が重い。やっとのことで腕を払い起きあがると、関節がみしみしと音を立てた。
「おやおや……震えているのかな? まあ、良い。その方が初々しくてそそられますなあ……」
 ようやく「影」が声を立てた。でも、何よ、このしわがれたお爺さんみたいな声は! ……ちょっと待って? この柔らかい香りは確か。――そうだわ、昼間久野殿から薫ったものと同じ! きっと同じ香の物を焚きしめているんだわ。でも、この方は彼じゃない! 私を掴もうと伸ばした腕もでっぷりと脂肪が……脂肪が!?
「ひいっ! まさか……あんた!」
 私は必死で近づいてくる腕を払いのけた。
「 ――久弥殿……!? 何よ、寝ぼけないで! 私よ、雪茜姫よ! どこぞの侍女の部屋と間違えているんじゃないでしょうね。これ以上無礼な真似をすると、人を呼ぶわよ……!」
 一瞬、昼間のあの男・久野殿が思いあまって忍んできたのかと思った。でも、違う。これは父親の方だ。確かに夕餉の時にかなり酒を過ごしていたような気がするが……信じられない、こんな臣下の者が、私のような高貴な姫の寝所に……!
「誰か、ここに曲者……! ねえ、誰か……!!」
 上に掛けていた衣をぐいっと掴まれる。冗談じゃないわよ、何寝ぼけてるのよ……! 息子ならとにかく、どうして親父の方が来るの!
 慌てて飛び退いて、裏手の戸に手を掛ける。……えっ、動かない! 開かないわよ、どういうことよ……! 焦ってガタガタとしていると、ぬうっと背後に寄ってくる気配。首筋に掛かる息。やだ、酒臭い!
「おやおや……変ですなあ。夕餉の膳に一盛りしておいたはずなのに。あれで身体の力が抜けて、どんな女子でも腰抜けになるはず……」
「えっ……!?」
 そういえば。寝ぼけていたとはいえ、この緊急事態に身体が上手く反応しないなんて変だ。一盛りって、何よ。特別の眠り薬でも入れたの? 冗談じゃない、って言うか、ちょっと! 侍女たちはどこに行ったの、あんなにたくさん控えていたじゃないの、まさか彼女たちもこの男が――!
「お、お待ち下さい……久弥殿! 私はあなたの息子殿に所望されている女子ですわ! 息子の想い人に手を出そうとは……嫌っ、冗談じゃないわよ……!」
 逃げ出したくても、袴の裾をぎっちりと押さえ込まれている。そうだ、そうだった。この者、お祖父様にも勝るとも劣らないすごい好色家だと聞いていた。手当たり次第、気に入った女子に手を付けるって。でもっ、嫌よ……ちょっと……!
「ふふふ……何を申されます。こんな美しい姫君、あんな若造にやれませんよ。さあ、もう観念なさい。可愛がって差し上げますからね、存分に――ぎゃあ……!」
 震えて小さくなっている振りをしていた私。でも、そんなのかたちだけよ! 袴の帯を解いてそこからすり抜けると、すぐ傍にあった几帳(きちょう)を親父めがけてなぎ倒した。ついでに花が挿してあった壺も不格好にふくらんだ部分に投げつけてやる。水がばしゃっとかかって、くぐもったうめき声が聞こえた。
「あっ、あんたなんて……! 私の相手になるわけないでしょ! いい加減になさい、お祖父様に言いつけてやる……! もう、あんたなんて御領地の中を二度と歩けないようにしてやるわ……!!」
 寝着の小袖は膝までしかなくて、あまりに心許ない。でも、着替えなんて探していたら、目の前の男が這い出して来てしまう……!
 私は慌てて男の上を踏みつけて、そのまま表に飛び出した。そして唖然とする。
 ――どういうこと? 先ほどまでは巣に群がる蜂のようにうじゃうじゃといたはずの侍女たちが全て消えている。庭の灯り取りの燭台も消えていて、いつの間にか薄暗くなった天の下、真っ暗闇。でも、わずかな視界を頼りに、私は中央の間への渡りをひた走った。

 ああ、どうしてこの屋敷はこんなに入り組んでいて、広いの! お祖父様の部屋の前まで辿り着いた頃にはすっかりと息が上がっていた。あのエロ爺のことだ。今の時間は、お気に入りの女子でも侍らして、あやしげな振る舞いをしているのかしら。もう、大切な姫君の大事にそんなこと許さないわ! いいわよ、踏み込んでやる……!
 戸口に手を掛けたとき。中から聞き覚えのある若者の声がするのに気づいた。思わず手を止めて耳を澄ましてしまう。
「……いやあ、御領主様も策士でいらっしゃる。恐れ入りましたよ、まったく……」
 この声は、久野殿。こんなところでお祖父様とのんびり語らっていたの? ちょっと、自分の親父の世話くらいきちんとしなさいよね! もうちょっとで危ないところだったじゃないの。もう、あんたに何てこれっぽっちも情が湧かないわ、即刻お戻りなさいって言うの!
 私の怒りは脳天を突き抜けるほどで、蹴りでも入れてやろうかと思っていた。だが、次の瞬間、もうひとつの声がして。
「ふぉふぉふぉ……そうであろう。あのじゃじゃ馬め、今頃白目をむいているだろうが、それも自業自得というもの。今まで、あの姫にはさんざん手を焼いてきたからな、少しは仕置きが必要だろう。久弥殿は我が領地にとって、大切な男。姫とて、それくらいはわきまえるであろう……自分のような跳ねっ返りを喜んでくれる男なぞ、そういないんだからな。久弥殿も好き者よのぉ……」
「何を仰る……お人が悪い。あんなに可愛がっていらっしゃったのに」
 ま、おひとつどうぞ、と酒を酌む間合い。ふたりの男の他にも、幾人かの侍女がいるのが伺える。何なの……どういう――私の頭は混乱していた。だが、そんな哀れな姫君など置き去りにして、ふたりの話は続いていく。
「いや、儂は人のいい爺であるよ? そうであろう、あのような姫、何の得もなくて今まで世話などするものか。いずれこのように駒として使えると思ったからこそ、度重なる我が儘も聞き入れてきたのだ。あれだけの器量だからな、きっとどこぞの好き者が相手をしてくれるだろうと。久弥殿にも世話になるのぅ……あの姫を快く引き受けてくれたのに、さらに、……」
「はい、我が館の綺麗どころの侍女をこちらにたんと上がらせますよ。もし、ご所望ならどうぞ可愛がってやって下さい。皆、素直で気持ちのいい女子ばかりです。私も父とは違いますから、女子は大人しい気だてのいい娘が宜しいです。気位ばかり高いお人は肩が凝るばかりで」
 昼間は大変でしたよ、と忍び笑い。何、この者……! 私に気があるんじゃなかったの、どう見たってそう言う感じだったでしょ! だから仕方なく相手してやったんじゃないの。私がきいいーっと柱に爪を立てていると、お祖父様がまた声を掛けている。
「そうは言っても……久野殿だってお人が悪い。あのように尽くされたら、姫がその気になるのも不思議ない。まさか、自分には気がなくて、父上の女にするのが所望なんて……」
「何を仰います。私はひとことも、我が妻にとは申しておりませんよ。ただ、館にお出で願いたいと……ただし、母上として、ですけど――」
「まあ、良かろう。あの姫とて、閨のうちには情も湧くと言うことだ。男と女の関係は、いつも奥深い。きっと夜が明ければ、あの姫も久弥殿の妻としての自分を受け入れているであろう」
 お祖父様のお言葉に久野殿が声を立てて笑う。
「そうですよ、父はあれでいて女子にマメですからね。女の扱いも心得ていて、どんな未通女(おぼこ)でも一度で骨抜きにさせてしまうのですよ。私もまだまだ父には敵いそうにございません」
 ふたりの話を聞いていた女たちからも、きゃあきゃあと嬌声が上がる。酒宴はますます盛り上がっていった。

 ――なんですってっ……!?
 春浅い夜更け、寒さからではない震えが私の全身を覆っていた。どういうことっ、お祖父様は最初からあの親父に私をくれてやるつもりだったの? 息子の方もそれを承知で、まるで自分が気があるように振る舞ったというの。それは館の皆も承知のことで。
 冗談じゃないわよ、あんなスケベ親父! どうしてあんな奴の妻になんてなってやるものですか……! いい加減にしなさいよ!
 そんな、信じられない。お祖父様、まさか本気でこんな風に話をしているんじゃないわよね、悪い冗談よ、絶対。そうじゃなかったら、何か理由があるのよ! だってだって、私には素晴らしい公達を紹介してくださるんでしょう。あのお優しいお祖父様が私を陥れるなんて信じられない。きっと、今すぐ泣いて飛び込んでいけば、いつものお祖父様に戻られるわ。そうに決まってる。
 そして、そして……あの憎ったらしいことをほざいている息子とエロ親父をまとめて成敗してくれるわ。それくらい、領主として当然よ! そうでしょ、お祖父様!?

 怒りで沸騰しそうな脳みそ。しかし、ほんの少し残った理性の部分で、私は背後からのどよめきを聞いた。
「姫がこちらに逃げたか! すぐに取りおさえて、久弥殿に差し出すのだ!」
「取り逃がしたとあっては、御館様からどんなお仕打ちがあるか……、皆の者! 隅々まで良く探せ! 館の外に逃がすでないぞ……!!」
 無数の足音。侍女も侍従もいるようだ。西の対から蜂の巣をつついたような大騒ぎ。これではすぐにお祖父様も気づかれる。案の定、ガタガタと乱暴に木戸が開いた。
「何だね、騒々しい! 夜更けであるぞ……!」
 ここは領主らしい威厳のある態度で、お祖父様は怒鳴り散らす。
「こっ、これは! 申し訳ございません、御館様!」
 侍従頭の男が、すぐさま歩み出て、仁王立ちのお祖父様の足元に跪く。板間に額を押しつけるくらいひれ伏して。
「姫様が、雪茜様が、寝所から飛び出されたご様子で……! 久弥殿もお怪我をされて、今侍女たちが薬師を呼んでお手当を」
 たった今、私を襲った事件を的確に伝える侍従頭。でも、まだその時、私はお祖父様を信じていた。きっとあのエロ親父を罵倒してくれると。だのに、信じていたのに、どういうことか想像だにしない言葉がなおも飛び出す。
「何だと! お前たちが付いていながら、なんたる失態! 何が何でも探し出すのだ、縄を掛けても引きずり出せ!」
 お祖父様は怒りを露わに、床をどんと踏みしめた。
「あの姫はもはや、久弥殿に差し出したもの。我が館の姫と思わなくて良い、もしも抵抗すればどんな扱いをしても構わない。一刻も早く見つけ出すのっ、手足を縛ってでも良い!」
 嘘――、どうして。ドスのきいた声が夜更けの中庭に響き、その迫力におののいた者たちがまた庭に屋敷の中にと散らばっていく。一体、何十何百。こんなにこの館には仕える者がいたのか。今更のことながら驚いてしまう。
 冗談じゃないわ、みんなもお祖父様もどうしちゃったの? これは悪い夢よね、現実に起こっている事のはずはないわ。だってだって、お祖父様が御館の皆が、私にこんな仕打ちをするなんて思えない。皆、私の言うことなら何でも聞いてくれて、欲しいものは何でも与えてくれたでしょう? それが当然だったわ。私の嫌がることなんて、するはずないもん!
 でもっ、今はそんな悠長なことを言ってはいられないかも。真偽のほどはとにかくとして、血眼になっている侍従たちに捕まったら大変! だけど、あちらは大勢、こちらはひとり。
 こっ、このままじゃ。本当に捕まっちゃうっ! 捕まったら……そしたら、私はあの親父の元に連れて行かれてしまうのかしら。で……、そんなっ! 嫌よ嫌!! ぜ〜ったいに、嫌!!
 でも、皆がこんな何かに操られたみたいになってしまっている今、この身を守ってくれる者なんてもう――。

 私は隠れていた縁の下から抜けだし、植え込みの影を身を潜めながら進んだ。いつも館を抜け出すときに使った、誰にも見つかりにくい場所。塀の下をくぐり抜けて、館の裏側の荒れ野に出た。この辺は夜になると狼なども出ると言われている。だから、誰も寄りつかないのだ。
「……琉砂! 琉砂、ねえ! 出てきて……!!」
 あいつのねぐらはすぐ近くにある。お祖父様は琉砂を嫌っているから、下男の寝部屋にも入れてくれない。こんな寂れた場所にひとりで住まわせているのだ。だから、きっとどこかにいるはず。
「いないの!? ……ちょっと、出てきてよ!」
 背後ではそこら中に灯りが焚かれ、騒々しい感じになってきている。表にいなければ、いつかこちらまで追っ手が来るはず。そうなったら、もう逃げられない。お祖父様の侍従たちは腕っぷしのいい者が揃っているのだから。
 嫌よっ……! あの久野殿だって、なんだかピンと来なかった。すっごく格好いいんだけど、自分の婿にするにはちょっとなあとか。お祖父様がお話を進めていても、いつか断ろうと思っていた。輿入れなんて面倒くさい。まだまだ、ここで御領主の館の姫として気ままに暮らしていたかった。
 それなのに。もし、追っ手に捕まってあの親父の前に差し出されたら、一体どんな仕打ちが待っているか。ああいう男たちは自分がコケにされるのを許さない。お祖父様だってそうだから、きっとあいつも同じだろう。殺されるのだろうか、いや、そうじゃないかも。もっと……死ぬよりももっと辛い仕打ちが待っているんだ。
「……え、姫? どうされました、あの館の方がなにやら騒がしくて……」
 と、目の前。白い影が浮かび上がった。ふうっと一瞬切れた天の隙間、まっすぐに金色の帯が差し込んでくる。その場所に立っている男。
「あっ、……琉砂……!」
 腕を伸ばして、必死ですがりつく。私を心配して身をかがめた男は、いきなりの行為によろめいた。
「お願い! 私を連れて逃げて……! ねえっ、早くしないと、皆に見つかっちゃうの。皆、気が触れてしまったみたい、館中がおかしいの……!」
「……は?」
 琉砂は何が何だか分かっていないようだ。私の顔を見つめて呆然としている。そりゃそうかも。いきなり袴もはかないすごい姿で、この館の姫君である私が逃げてきたのだ。驚くなと言うほうが無理だろう。そこら中を慌てて逃げまどったから、髪も乱れてすごいことになっているはず。
「おいっ! ……ここに新しい足跡があるぞ……!」
 塀のすぐ向こう、大声が響いてきた。私は身を固くして、琉砂に必死でしがみついた。
「命令よ、琉砂!! 今はあいつらに捕まらないように、逃げて! 私と逃げて!!」
 胸元から、ほんのりと甘い香りがこぼれる。琉砂って、男なのにいつもすごくいい匂いがしていた。髪も柔らかくて、笑った目が優しくて。ほんの二日会えなかっただけで、とても懐かしい気がした。
「早く……!」
 木戸をぶち破る勢いで、侍従たちが飛び出してくる。きらりと光る長刀の刃が、月明かりにきらりと光った。

 

*****


 ――どこかでせせらぎの音がする。ぼんやりとそれを聞きながら、頬に触れる朝の気を感じ取った。何だかいつもと違う。私を包んでいるしとねも様子が……。
「う……ん、あ――」
 ざりっと、土の感触が指先に届いて、ハッとして起きあがった。身体の節々がとても痛い。横たわっていたのはいつもの寝所じゃなくて、一面の美しい花園だった。色とりどりの花の香りが鼻をくすぐる。仰ぎ見ればそこにあるのは当たり前の天井などではなく、どこまでも続く水色。泥だらけの足元は小袖が膝の上までめくれ上がって、そこにぼろの衣が掛けられていた。
「……ようやくお目覚めですか? 姫」 
 声のした方を振り向く。水干に小袴。下男の装束を身につけた男が顔を覗かせた。
「あ……、琉砂……」
 どこかで鳥の声。流れる気も涼やかで、ここがだいぶ山深いことが分かる。どうして、こんな所にいたのだろう……そう思考を巡らした時、昨夜の出来事がぶわ〜っと蘇ってきた。途端に、身体が大きく震え出す。何かとてつもなく恐ろしいものに追い立てられるような気がして、私は夢中で自分の身体を抱きしめていた。
「姫っ……! 大丈夫ですかっ!?」
 琉砂が慌てて駆け寄ってくる。がさがさと草をかき分けてやって来た男に、私は昨晩と同じように抱きついていた。彼の香りを胸一杯に吸い込みながらぬくもりに包まれると、ようやく緊張が解けていく。ああ、良かった。私、捕まらなかったんだ。どうにか、逃げられた。
 そう思ったら、昨日の晩に琉砂の背で涸れるほど流したはずの涙がまたこぼれてくる。あの時、私の足はもうパンパンに腫れ上がっていて、とても歩ける状態ではなかった。いつも館の外にあまり出ることはなく、動くことに慣れていない。そんな堕落した生活の中で、私は人としての機能を失ってきたのかも知れない。
 足が痛いと訴える私を背負って、琉砂は山道を逃げてくれた。追っ手の灯りが見え隠れする。もしも捕まったら、私たちはどうなるか分からないんだ。すごく怖かった。怖くて怖くて仕方なかった。でも……それよりも琉砂ともう一度こうして会えたことが嬉しかったんだ。侍女たちに意地悪されて部屋の奥に押し込められてしまった。あんな風に堅苦しいのは嫌。もっと自由がいい。
「姫……姫。もう大丈夫ですから、そのようにお泣きにならないで下さい」
 何て心地いいのだろう、琉砂の声は。背中を優しくさすってくれる手のひらもあたたかで、止めようと思ってもこぼれる雫が頬を伝う。私の震えを感じ取ったように、琉砂も震えている。私の心を全部受け止めていてくれるの……?

「おみ足を……少し手当てなさいませんと」
 私が落ち着くのを待って、琉砂はそっと身体を剥がした。とたんに心細くなる。私がまた泣きそうな顔になると、琉砂は大丈夫ですよと微笑んで見せた。手にしていた数枚の大きな葉を、石の上で叩く。ツンと鼻をつく香りが辺りに漂ってきた。
「……何をしてるの?」
 ままごと遊びのようなその姿に、不思議になって訊ねる。琉砂はまた私の方を見て少し笑った。
「この葉には、炎症を鎮める効用があるんです。こうして叩いて汁を出して、患部に貼っておくとだいぶ楽になりますよ?」
 そう言いながらぼろ布を裂いて、葉を私の足に貼り付けてくれる。すうっと気持ちのいい刺激がそこから広がって、身体の芯から疲れが取れていくような気がした。

「どうなさいますか、これから。……すぐに御館に戻りますか?」
 辺りを片づけながらあっさりと告げる。私はぎょっとして身を乗り出した。
「嫌……! 何を言うのっ! あそこに戻ったりしたら、私がどうなっちゃうのか分かってるでしょ! あのスケベ親父に好きにされちゃうのよ、あんな男の妻にされちゃうんだから! そんなの嫌……、それにあんただって、私の逃亡に手を貸したとすれば、お咎めがあるわ。お祖父様、あんたを殴り殺しちゃうかもしれない……!」
 何を言い出すのよ、それだけは嫌! 何でこんなに若くて美しい私の夫があんな男なの? いくらお金持ちだって、あんなおじさんは嫌! もっと美しくて若くて……素晴らしい男じゃなくちゃ私には似合わないわ!
「そんな……でも、そのように仰っても」
 琉砂は力無く首を振る。昨晩はどうにか追っ手をまいたが、こうして明るくなればもっと人目に付きやすくなる。人里などに降りていけばすぐに見つかってしまうだろう。昨晩のうちにそこら中に早馬が飛んでいるはずだ。本格的に山狩りが行われれば、すぐにここも知れてしまう。
「昨晩何があったのか、はっきりとは存じ上げませんが。いくら御館様であっても、あんなに可愛がっていらっしゃった雪姫の願いならきっと受け入れてくれましょう。きちんと謝って許しを請えば、大丈夫です。お祖父様なのですから、姫の幸せを一番に考えて下さるはずですよ」
 そう言って、力無く笑う。琉砂としても困っているんだろう。言われるがままに山を登ってきたが、この先の道はない。下手に顔が知れている御領地の姫だから、誰が見てもすぐに素性が知れるというものだ。それは……それは分かってる。多分、どうにもならないんだろう。でも……、嫌っ! このまま、御館に戻るのだけは嫌!
「ねえ、琉砂。私を哀れだと思うなら、どうか助けて……! あんな奴の妻になるくらいなら、私は死んだ方がいい! 手に掛かる前に、舌を噛むわ、それでもいいの? あんたはそれが分かっていて、私をあそこに連れて行くの……!?」
「姫……」
 琉砂はどうしようもないと言った表情でうなだれた。こんな時なのに、見とれてしまう。流れる金の髪が美しくて、揺れる水色の瞳が綺麗で。ほっそりした腕なのに、私を抱きしめてくれるときは力強くて。軽々と負ぶわれて嬉しかった。あのまま、背中に羽が生えたみたいに、どこまでもどこまでもゆけると思ったのに。
「あ……そうだわ! そうよ、琉砂!」
 私はハッとして顔を上げた。どこにも逃げ場はない。御領地の中は敵だらけ。でも……それならひとつだけ、方法があるじゃない。
「このまま進んで、領地を抜け出せばいいのよ! そうすれば、もう大丈夫……! 南の地は、お祖父様の御領地とは違って、それほど管理の行き届いていない荒れた土地だと聞いているわ。方々から年貢を納められない者たちが逃げてくるとか。そこへ渡って、お祖父様が正気に戻られるのを待つわ。それしかないじゃない」
「は――?」
 今度こそ、言っている言葉の意味が分からないと言った様子で、琉砂は目を見開いた。
「確かに向こうは流れ者が大勢住まっている土地です。でも、そこまでは辿り着けませんよ。だって……領地の境界には川があります。あれを越えていくというのですか? それに……西や東はとても広くて、誰にも会わずに進むのは無理です」
「じゃあ、南に行けばいいわ。うちの領地は南北はたいした距離がないんでしょ?」
 我ながら名案だと思った。確か南の境界にはとても太い川が流れていた。でも、夏に何度か水遊びをしたけど、水かさは膝くらい。どんなに深くても腰くらいまでだった。もちろん、街道には橋がかかっているけど、そこにはきっと追っ手が来ている。役人だっているから、簡単には出入りできない。人里離れた誰も通らないような場所から水の中を渡るしかないけど。
「そんな……簡単に仰らないで下さい」
 琉砂はまだ渋っている。どうして、こんなに慎重になるの。後に戻れないなら進むだけでしょ、決まってるじゃないの。
「街道には降りられないんですよ、このまま山道を行くのは姫の足では無理です。俺だって……ひとりならどうにかなっても、姫様をお助けするまでは。まっすぐ行けばわけなくても、登ったり下ったりすれば3日も4日も掛かってしまいますし」
 そんな風に言いつつも、最後は承知してくれた。そうよ、決まってるじゃないの、琉砂は私の言うことは絶対に聞くの。だから、一緒に行ってくれればいいのよ。

 私が何も出来ない姫だからって甘く見たら、痛い目に遭うんだから。
 お祖父様もどうしてあんな風に変わられてしまったのだろう。あんな親父に私を差し出すなんて、何かとんでもない理由でもあるのかしら。
 まあ、いいわ。理由はどうであれ許せるものじゃない。その醜く潰れた鼻をあかしてやるわ、見てらっしゃい!


 

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