…4…
「玻璃の花籠・新章〜雪茜」
「とにかく、衣をどうにかしなくてはなりませんね……いくら何でもその格好では」
琉砂は小さく溜息をつくと立ち上がった。
「すぐこの下に、木こりの小屋がありました。あそこに行って、何か恵んで貰いましょう……」
そう言いつつ、いきなりばさばさと着ていた衣を脱ぎ捨てた。あっという間に肌着だけになった琉砂は、私にも小袖を脱げと言う。髪も目立たないように後ろでまとめるようにと。余りのことに驚いていると、彼はきっぱりとした口調で言った。
「何を仰っているのです。正直に話をしたら、すぐに気づかれますよ? ここは追いはぎにでもあって、着ぐるみ剥がされたとでも言うしかないんです。姫が傍に行くとまずいですから、少し離れたところから見ていて下さい。……行って参ります」
勝手も分からずにいる私を置いて、流砂はずんずんと坂を下りていく。慌てて後を追うと、ぽっかりと拓けた場所に、小さな小屋が建っていた。彼は臆することなく進んでいって、戸を叩く。すぐにずんぐりした中年の男が中から出てきた。
遠目に見ていても、その話の内容までは分からない。小屋の男が途中でこちらを見たので、慌てて頭を下げた。琉砂が何か説明したのかも知れない。もしも気づかれたらどうしようかと胸がドキドキと高鳴った。
やがて一度中に戻った男が差し出すものを手にして、琉砂が戻ってきた。こちらを向いた彼はホッとした表情をしている。急いで元の場所に戻ると、彼は包みを開いた。現れたものに、私は驚いてしまう。
「なに、これ……私にこんなものを着ろと言うの」
埃だらけのそれは野良仕事をする者たちが着る作業着。元は草木染めなんだろうけど、何度も水を通したためか色もあせて、その上すすけている。こんなみっともない衣を着るなんて、御免だわ! でも琉砂はそんな私に向かって、きつい口調で言う。
「我が儘を仰るなら、このまま山を下りても宜しいのですよ。考えてもご覧なさい、庶民の姿をしている方がどれくらい都合がいいか。それがお嫌なら、そこまでですよ」
――ひど。そんな風に言わなくてもいいじゃない。私はあまりの仕打ちに打ちひしがれてる可哀想な姫君なのよ。もっと優しい言葉を掛けてくれたって。そう思うけど、琉砂の言葉にも一理ある。ここは大人しく従った方が良さそうだ。彼が言うには下男の格好も御館の者だと気づかれるので農民になりきった方がいいらしい。
でも、なんてごわついた肌触りなんだろう。こんなのを一日身に付けていたら、私のやわらかい肌がすれて痛くなりそうだわ。
「あ……あと、これを下さいました。どうぞ、お召し上がり下さい」
どうにか着替えると、今度はにぎり飯が出てきた。何かまぶってあるとか、そう言うこともない。ただの塩にぎり。でも、それを見た途端、腹の虫がぐうと鳴った。夢中でそれを頬張る。いつもだったらこんな得体の知れないものを食べたいとは思わない。でもっ……背に腹は代えられないから。
片手では持ちきれないほど大きめのそれを、二個あっという間に平らげていた。残るはあとひとつ。それを腹に収めても、多分また満腹にはならない。そう思いつつ手を伸ばし、はたと気づいた。
「ねえ、お前は食べなくていいの。腹が減ってるでしょう」
私の言葉に、彼は静かに頭を振った。
「いえ、姫がお召し上がり下さい。俺は大丈夫ですから、全部召し上がって結構ですよ」
ふうん、そうかと最後の一個を手にして。でも、まだ何となく気になった。そりゃ、これは食べたい。でも私よりも琉砂の方が大変だったはず。男だし体も大きいし、あれだけ山道を走って腹が減らないわけないじゃない。それに、それまでだって満足に食事を与えられていたのやら。お祖父様に邪険にされて、琉砂はいつもおなかをすかせていた。私の食事の残りを毎食分けてやってたんだから。
部屋に来なくなったら……そう言うことも出来なくなったし。
私は意を決して、にぎり飯を彼に差し出した。
「私ももうおなかがいっぱい。捨てるのももったいないから、食べていいよ」
びっくりした顔で、私を見つめる水色の瞳。にっこりと微笑み返す。そうよ、こうじゃなくちゃ。私だって、たまにはいいことするのよ。まあ、飼い主なんだから餌をやるのは当然なんだけど、こんな風に自分の食べるものを削ってまで差し出すなんて見上げたものよね。隙間の残る腹はちょっと心細かったけど、心はたっぷりと満たされていた。
…*…*…*…*…*…
……やっぱ、前言撤回。心が膨れたって、腹が空いちゃ何にもならないじゃない。
歩き始めたのがもう昼近かったから、思ったよりも道中は進まなかった。まあ、やんごとなき姫君の私がよく頑張ったと思うわよ。何しろ、一度も弱音を吐かずに、琉砂が進む山の斜面を自分の足で歩いた。そうよ、あの貼り薬代わりの葉をくっつけた足でよ?
慌てて御館を飛び出したから、もちろん裸足だった。せめて草履でもないかなと思ったけど、どうも山の中を歩くにはそういうものはかえって邪魔になるらしい。足の裏の感覚を頼りに滑らないように気を付けて進まなくちゃならないんだから。もう神経は使うし、体力も消耗するしで大変っ!
お祖父様の御館の裏手から東西に延びる長い山脈。ここは西南でも海底国全体でも丁度中央に当たるところらしいわ。別名「神の山」とも呼ばれている。狼や狐などの獣が多くいるから、狩りを生業とする者も躊躇するんだって。もちろん、私だって怖いわよ。でもっ、この山を下りて、あのスケベ爺の好きにされる方がもっと嫌。それだけは御免被りたい。
そんなわけで夕刻。天が茜色に染まっていく。ちらちらと木々の間から見え隠れする遙か下の街道にも人影はまばらだった。何かそれには拍子抜け。もっと大々的に捜索の手が伸びるんじゃないかと思っていたから。まあ、あのスケベ爺はお祖父様の家来だものね。下々の者には少しくらい無礼があってもいいのかも。
それにお祖父様のことだから、私がすぐに音を上げて戻ってくると思ってるのかもね。そうはいくものですか、冗談じゃないわよ!
目の前が闇の帯に覆われ始めた頃、ようやく琉砂は今夜のねぐらを探し始めた。あちこちを伺っていると、びっちりと樹が生い茂った山のすそ野に室(むろ)のように掘られた穴蔵がある。こういうのはここに来るまでにも数カ所見た。きっと山ごもりをして山菜を採ったりする者たちが雨露をしのぐために掘ったのだろう。
「とりあえず、今夜はここで休みましょう」
琉砂がそう言ったとき、私は糸が切れた人形のようにくたんと膝を地についていた。こんな山の中で野宿するなんて、とんでもないことだと思う。今までの私では信じられないことだ。でも、そんな文句を言う気力もないほど、私は疲れていた。しかも空腹で、さっきから腹の虫がグーグーと鳴っている。
ざらざらした岩肌に背中を押しつけてぼーっとしていると、その隙に琉砂は器用な手つきで枯れ枝を集めてそれを山にした。丁度穴の入り口の辺りだ。そしてこれまたどこから見つけてきたんだか平べったい石をかちかちと打ち付ける。何してるんだろうと思っているうちに、そこから枯れ葉にぼうっと火の手が上がった。
「すごい! あんた、なかなかやるじゃない」
まるで妖術でも見てるみたいだった。私は実際に石を打ち付けて火を付けるのを見たのは初めて。毎晩燭台に灯を灯すのは全て侍女たちがやってくれたし、私には関係のないことだった。火打ちには専用の石を用いる。黒っぽくてすごく固いの。でも、琉砂が手にしていたのは私が知っているのよりはかなり色が薄かった。
「獣よけですから、この火を絶やしては俺たちが餌食になってしまいます。……では、私はちょっと行ってきますよ?」
そう言って、また立ち上がる。腰を落ち着ける暇もないほどの働きぶりだ。御館の侍女だってこんなに動かない。琉砂ってすごい働き者だったのかも。ただ飼って言うことを聞かせているだけだったから、こんな風に色んな事が出来るなんて知らなかったし。
「えっ、ちょっと! 私を置いてどこに行くのよ」
ずんずんと遠ざかる背中。急に不安になって慌てて後を追った。そりゃ、疲れてる。腹も減って動くのも嫌。でも、どんどん闇が濃くなるこんな夕べにひとりで取り残されるのはもっと嫌。
「お待ち下さればいいのに」
彼はちらりと振り向くと、まるで私を厄介者のように見る。何よ、そんな風に言わなくたって。全くもって失礼な奴。こっちはね、お前がひとりじゃ心許ないから付いてきてやったんじゃないの。
しばらく行くと、大きな木の下で立ち止まった。春浅いというのに平べったい大きな葉をたくさんに茂らせている。琉砂は長い腕を伸ばして高い枝を手にすると、枝を持った方の袂をつまんで袋のようにした。何をするのかなと思っていると、空いた方の手で、何かをぷちぷちと摘み始めた。赤黒い木の実だ。
「何なのよ、それは」
私が訊ねると、琉砂は手元を見たままで言った。
「鳥の実ですよ、この辺りは他に何もなさそうですし、これが今夜の食料です」
「……え?」
一粒、顔の前に差し出されて、夢中で口に含んだ。桑の実……のような感じだろうか? でも、こんなのひとつくらいじゃ、なお腹が減る。なまじ、一粒口にしてしまったために、今までの我慢が破裂してしまった。食べたいと言ったら、すぐに食べたい! 口いっぱいに頬張りたい! 私はしゃがんだまま、琉砂の衣の裾を引いた。
「ねえっ、もっとちょうだいよ。今、そこにあるだけでも分けて! 私もう、おなか空いて動けない……ねえってば!」
大人げなくたっていいじゃない、だって、食べたいんだもん! 今すぐに腹に少しでも入れないと空腹で気を失っちゃうわ。私のような高貴な姫君が空腹で失神なんて、哀れだと思わない。いいじゃない、両手に掴めるくらいでも、こっちによこしなさいよ。
「まっ、待って下さい。今離したら、もう枝が取れなく……!?」
くるり、と振り向いた琉砂は、次の瞬間にバランスを崩す。と、同時に彼の手にしていた枝がぴしゃりと外れ、袂を打って空に向かう方向に戻っていく。
ばらばらと、袂が重くなるほどに摘み取られていた実があたりに散らばる。赤黒い実は闇に紛れてそのほとんどが姿を消した。
…*…*…*…*…*…
「……琉砂……」
ぱちぱちと火の粉が飛ぶ。先ほどのたき火の傍に戻っても彼は無言だった。わずかに残った足元の木の実を寄せ集め、何事もなかったようにすたすたと元の場所に戻っていく。座り込んだままの私の方なんて、いっぺんも振り向かないで。
追いかけて来たけれど、火の近くに人影はない。大きな葉の上にうず高く盛られた木の実だけがあって、琉砂はと言うと、穴蔵の隅で横になっていた。
「ねっ……ねえ、琉砂」
そんなに怒らなくたっていいじゃない。そりゃ、私だって悪かったわよ。だからこうして反省してるでしょ? 知らなかったんだもん。枝は軽くなると、もっと高いところに行ってしまって、一度離したらもう取れないなんて。あの木、育っていて途中に足がかりになる枝もなくて。あの場所だけだったんだよね、摘み取れそうなの。闇が深くなる前にって、必死で頑張ってくれたのに……ほとんどどこかに行っちゃった。
「そちら、召し上がって下さい。そしたら、お疲れでしょうから早くお休みなさい。その頃には火の番を代わりますから」
背中を向けたまま、すごく冷たい口調で言う。やだ、こんな怖い琉砂。私の言うことはいつでも何でも聞いてくれたでしょう? 少しぐらい気に障るようなことを言ったって、琉砂なら許してくれた。他の者たちが「駄目」って言う難しいことも、琉砂なら何でもしてくれた。
……ほんの、お椀にふた盛りほどの木の実。きっとこれを全部腹に収めたところで、空腹は続くと思う。それは分かってる。それでも食べないよりは食べた方がまだマシ。琉砂は食べていいって言うんだし。――でも。
琉砂だって、腹が減ってるはず。多分、私よりずっと。身体も大きいし、たくさん働いたし。何も分からずに後を付いていくだけの私とは違って、色々考えて動いてくれていたはず。私、琉砂がいなかったら、ここまで来られなかった。きっと、すぐに追っ手に捕まって、今頃は――。
「あっ……あの。私、もうおなかいっぱいだから、あとは琉砂にあげるね。じゃ、じゃあもう寝るから、おやすみ、本当、ごめんね!」
上に掛けるものもない。あるのは枯れ草だけ。がさがさとひなびた草の山の中に足を突っ込んで、寒さに身体がきんとなる。夜露はしのげると言っても、それだけ。春浅い宵はどこまでも冷え切っていく。私に背を向けたまま動かない琉砂。その足元には、半分より少しだけ多く残した木の実が盛られていた。
…*…*…*…*…*…
黒い帯を流していたはずの闇もいつか消える。だんだん白んでいく天に闇が浄化したような朝靄が深く立ちこめていた。明るく光り始めた東の空。露に濡れた葉っぱのふちがキラキラと玻璃細工のように輝いてる。ああ、山全体が宝石みたいだな。ざくざくと湿った落ち葉を踏みしめてなだらかな坂を下りていく。その場所に辿り着く前に、手前の大木の影からそっと覗いた。
――やっぱり。
不安そうな表情で辺りをうかがっている琉砂がいる。昨日はあの後、とうとうひとこともかわさなかったけど、こうしてやっぱ心配して貰えるんだな〜。うんうん、可愛い奴だ。さすが私の愛玩動物。
「姫――」
私がそーっと顔を出したら、すぐに気づいて駆け寄ってくる。ああ、寝起きの乱れた髪もまた素敵ね。そして何よりも私をまっすぐに見つめる水色の瞳。どうしてこんなに綺麗なんだろう。
「どちらにいらっしゃったのですか。明け方までは確かにいらっしゃったと思ったのに。まさか寝相が悪くて谷底に落ちてしまったのかと、本当に心配しましたよ」
ちょ、ちょっと心配の方向が可愛くなかったか。でも、私の寝相が悪いのは元々だもんね。お祖父様もそれには辟易していて、ちょっと蹴っ飛ばしても動かない几帳とか特注で作らせたりしてたから。寝具だって普通の二倍くらいの幅があった。
「それに、そのお顔……」
琉砂の顔がすっごく近づいて、うっとりを通り越してクラクラ来るくらい。長くて綺麗な指先が頬に触れたとき、私はそれまで後ろ手に隠していたものをばっと差し出した。
「じゃ〜ん、すごいでしょ。……見て!」
その時の、琉砂の驚いた顔と言ったら。もうそれが見られただけで、慣れない早起きをした甲斐があったというものね。いや、それは余りにも土の上が痛くて冷たくて、目が覚めてしまっただけなんだけど。
「うわ、すごいですねえ。こんなに、どうしたのですか」
いやあ、嬉しいなあ。こんなに驚いて貰えるなんて。私はもうにこにこしちゃって、踊り出したいくらいだった。
どうしようかと思ったのよね。昨日は悪いことしちゃったし。多分、夜が明けてきてホッとしたんだろう、琉砂が少し横になったのと入れ替わりで起きあがった。穴蔵をそーっと抜け出す。そして昨日の木よりもうちょっと奥まで行って、私でも手の届く木の実を見つけた。まるで秘密の冒険みたいだった。
「ね、食べよう! きっとおなかいっぱいになってもまだ残るよ!」
私は片袖を抜いて袖口を結んで底にした中にたっぷり入っていた木の実を土の上に広げた。実は摘みながらどんどん自分の口にも放り込んでしまったから、私の方はだいぶおなかが膨れてしまってるんだ。
「全く……里の童(わらわ)のように、こんなに顔をくしゃくしゃにして……」
そんな風に言いながら眉をひそめた琉砂は、森の中を歩き回って露に濡れた袂で私の顔を拭ってくれた。
きっと山道に少しは慣れてきたんだと思う。昨日よりはずっとたくさんの道のりを進むことが出来た。時には琉砂よりも先に出たりしてね。楽しくて楽しくて仕方ない。野良着を着て、泥だらけになって歩いているのに、お祖父様の御館で綺麗な衣を着て飾り立てられているよりもうきうきしていた。
琉砂は木や草のことをとてもよく知っていて、見慣れない野の花の名前も教えてくれた。どの木の実が食べられるものなのか、そしてこの木の根っこは薄荷の味がするとか。すごいねえ〜、と感心したら「里の者なら当然ですよ」なってあっさり言ってのける。
ううん、当然でもすごいよ。私の教育係の侍女だって、ここまでは賢くない。いくら難しい書物を理解して、偉そうな物言いをしたって、こうして自然の中でしっかりと生きていけなかったら仕方ないんじゃないの?
…*…*…*…*…*…
「……この分だと。明日の夕刻には御領地の境界まで行けると思いますよ?」
火の中に枯れ枝をくべながら、琉砂が言った。私は思ったよりもあっけなく目標が達成できることに驚きを覚えていた。
「本当! うわ、嬉しいな! 私、都から戻ってきて、お祖父様の領地の外に出たのなんて数回しかないの! 中央の西南の大臣様の御館にはまだ子供だからと連れて行って貰えなかったし、お祖父様の御領地はとにかく広いんだもの。川の向こうは急に風景が変わると言うわ、楽しみ!」
一日歩いて南下しただけなのに、今夜はみずみずしい果物や良く熟した木の実をたくさん手に入れることが出来た。それをたらふく食べたので、もう動けないほどだ。自分で収穫して腹に収めるものは格別の味がする。山葡萄の一種だというプチプチした実は、甘酸っぱくてほっぺたが落ちるくらい美味だった。
知らなかった、御館で暮らしているよりもこうして山を歩いている方がずっと楽しいじゃないの。庶民の暮らしなんて貧しいしひもじいし、とんでもないと思っていたのよね。全然そんなことないかも知れない。
「琉砂は川の向こうから来たのよね、確か。ずっと向こうの……山をいくつも越えた土地から。そんな場所までも行けるかしら?」
「……姫」
弾んだ口調の私に対して、何故か琉砂の声は沈んでいた。陶磁器のように白くて綺麗な頬が少し青ざめて見える。そういえば、今日の昼の刻を過ぎたくらいから、言葉数も少なくなってきてたよね。どうしたんだろうなって、やっぱ心配してたんだよ。
「そろそろ、御館様の元にお戻りになりませんか。きっとお付きの皆様もとても心配していらっしゃいますよ。御館様だって、あんなに姫を可愛がって下さっていたのですから。きちんと謝ればお許しになるはずです」
「えっ?」
私は満腹でうっとりしていた気分がすうっと引いていくのを感じた。ちょ、ちょっと待ってよ。そんな、そんなこと言うもんじゃないわ。琉砂がそんな逃げ腰でどうするのよ、あんただけが頼りなのに。
「なっ、何言ってるのよ、馬鹿……! 私があそこに戻ればどうなるか、分かってるでしょう。あの西方の地を治めてる久弥とか言うジジィの妻にされちゃうのよ。 あんなおなかが脂肪ででっぷりしている袴帯もなかなか回らないような奴、絶対に嫌! 琉砂だって、それじゃあ私が哀れだと思うからこうして付き合ってくれてるんでしょ……?」
「でも……」
思わず、襟元をぐいっと抑えてすごんで見せたけど、琉砂の表情は青ざめたままだ。何をそんなに不安になっているんだろう。いいじゃないの、このままもう一日歩いて川を越えたら。そうしたら、私には新しい暮らしが待っているのよ。
「川の向こうは無惨に枯れた土地です。作物もなかなか育ちませんよ。だからこそ、無法地帯なのです。このように……毎日のように食べ物が手に入る生活なんて送れはしない。女子供が売りに出されるなんて、当然のことなんですから。雪姫はなにもご存じないから、簡単に仰るんです。本当の飢えというものを、ご存じないから――」
薄い唇を噛みしめて、琉砂は自分の言葉に震えていた。何を思い出しているんだろう、彼の記憶の中にあるものを私は知らない。私が知っている琉砂は、飼い始めてからの従順な犬としての姿だけだ。
「西方の久弥様も、きっとお優しい方だと思いますよ。そのように毛嫌いしては可哀想です。姫のことをとても好いていらっしゃると思いますし……心根に触れられればきっと――」
「どっ、どうして!? 信じられない、そんなこと言う琉砂は嫌いよ、可愛くないわ! 私は美しいものが好きよ、だって優美で綺麗なものじゃなくちゃ、この私には似合わないでしょう」
口惜しい、どうしてこんな当たり前のことを言わせるの? 琉砂は知っているはずよ、私が何を好きか、どんなものに心を動かすか。ずっと長い間、一番傍にいてくれたんだもの。
「でも、美しいものだけでは、幸せになれませんよ。それは俺だって良く知ってます。知ってるからこそ……姫には早く引き返して欲しいのです。今なら間に合いますよ。どうして、好きこのんで、辛い道を選ぼうとするのです」
琉砂はそこまで言うと、私に背を向けてしまった。赤い炎に照らされた広い背が震えている。その時――彼の言わんとすることが分かった気がした。琉砂は生まれ育った地が飢饉の年に、売りに出された子供だったのだ。そして、きっと他にも兄弟はいたはずで。もしも……それが姉や妹だったとしたら、彼女たちが今どこでどうしているかなんて分かり切っている。美しいからこそ、不幸のどん底に落とされるというのを、絵に描いたような……。
「でも、嫌なのよ! ……どうしても嫌っ! 私は絵巻物のような美しい恋をして、心を捉えて離さない素晴らしい御方の所に輿入れするの、そう思っていたんだもん! ねえ、琉砂、お願いよ。見捨てないで! 私、川を越えたい。お祖父様にどこまでも逆らいたいの……!」
琉砂の言うことはよく分かる。私は我が儘を言いすぎてきたのだ。だから、お祖父様にも匙を投げられてしまった。まだ、信じたくないけど、黙々と山歩きをしていれば、今までの様々なことも思い出す。あんな風にいきなり手のひらを返したような態度を取られて、お祖父様を恨んだ。だけど、それは突き詰めて考えたら、私の思い上がりだったの?
もしも……もっと素直で心の綺麗な女子だったら、もう少しマシな縁組みを用意してくれたはずなのに。
――あのような姫、何の得もなくて今まで世話などするものか。いずれこのように駒として使えると思ったからこそ、度重なる我が儘も聞き入れてきたのだ。あれだけの器量だからな、きっとどこぞの好き者が相手をしてくれるだろうと――
忘れたくても忘れられない。あの夜の久野殿とお祖父様のやりとり。お優しかったお祖父様が腹の底でそんな風に考えていらっしゃったなんて。ああ、どうして。何が間違っていたというの?
でも、このまま西方に行くのは嫌、絶対に嫌! だって、だって、西方に行ってしまったら……ううん、もう山を下りたその時に。琉砂とは二度と会えなくなる。
お祖父様はきっと琉砂を許さない。どこに逃げても必ず捕まえて、とんでもない仕打ちをするに決まっている。もともと快く思っていなかったんだもの、こうして大義名分が出来たら容赦しないはず。
――私の琉砂が、そんな目にあわされるなんて、絶対に嫌なの……!
「ねえ、川を越えようよ、琉砂。これは命令よ。あんたは主人の私の言うことを聞いていればいいの。私……川を越えたい。違う土地に行きたい!」
すがりついた背中から薫る琉砂の匂い。咲きこぼれる花のような清らかで清々しくて、この世の美しいものを全て集めたような心地がする。琉砂を飼って、本当に幸せだった。だから、最後までちゃんと言うことを聞いて欲しい。琉砂と一緒にいられるなら、それがいい。お祖父様は決してそれを許してくれないから。それだけは確かだから。
「――姫は、強情ですね」
その言葉は諦めの響きをしていた。私は嬉しくて、ぎゅっとその背を抱き寄せると、額をもっと強くこすりつけた。
どんなに我慢ならない我が儘を言ってみても、思うがままに全部通ってしまう。最初はそれが心地よくて得意になっていた。だって、私だけ特別の存在なんだもん。
でも……気づけば、そんな暮らしが馬鹿らしくなっていた。何もかもが思い通りになったら、実はとてもつまらないんだよ? 何か刺激が欲しくて新しいことを始めるのに、それが何の引っかかりもなくするすると流れてしまっては面白くも何ともないの。
裳着を迎えて、大人になって。何も変わるもんじゃないと思っていた。でも、違ったんだね。館の皆は私を早くお払い箱にしたくて、ずっと画策してたんだ。こんな我が儘な姫なんていらないって、思っていたんだ。知らなかったのは、多分私ひとり。
琉砂がいなくなったら、私はひとりぼっちになってしまう。そんなのは嫌、ずっと傍にいてよ。今まで見たいに「仕方ないな」って顔しながら、我が儘を聞いて。もしも悪いことをしたら本気で怒って。
――その水色の瞳で、まっすぐに私を見つめていて。いつまでも飼われていて。……どこにも行かないで。
…*…*…*…*…*…
昼過ぎから、どうどうと地鳴りのような音が山肌を揺らし始めた。最初は地震かと驚いたけど、琉砂に聞いたら、川が近い証拠だという。西の天がだんだん朱に染まり始めた。なだらかな坂道。一気に駆け下りる。ぱっと拓けた目の前。
――でも。そこで私が見たものは、想像だにしなかった情景だった。
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