TopNovel玻璃の花籠扉>蝶のうたた寝・5


…5…

「玻璃の花籠・新章〜雪茜」

 

 

「嘘ぉ……何、これ……」
 川からこちらに向かって流れてくる夕暮れの気。私の乱れた髪が頬をくすぐって、後ろへとなびく。でも、きっと今立ちつくしている私の姿は、ぼろぼろの朽ち果てた枯れ木のようだと思う。
「ねっ、ねえ……! どうしてなの、琉砂! これって――」
 後から付いてきた男を振り向く。その時の私は、彼が同じように愕然としていると信じていた。予期せぬ出来事ってこういうことを言うんだよね? 一体、どうして。何かが私に刃向かっているとしか思えない……!
 でも、後ろを向いた私はそのままの表情で凍り付いた。だって、……琉砂の顔には驚きや悲しみなど微塵もなく、これが当然と言うようにすら思えたから。口元にうっすらと笑みも浮かんで。
「……琉……砂?」
 呆然とした声で私が呟くと、彼はその問いにはすぐに答えず、私の脇をすり抜け、そのまま川岸までゆっくりと進み出た。そして、落ち着き払った声でこう告げる。
「毎年。春先から初夏にかけて、耕地を潤すために上流のいくつかのため池にある水門を開けるのです。姫がここにお出でになったのは夏の盛りだと言いますから、その頃には水かさはだいぶ減っていたことでしょう。……やはり、ご存じなかったのですね?」
 琉砂の立っている流れの淵。でも私が知っている境界の川には、一段下がったこの下にも広い川原があった。子供の背丈ほど降りた場所に広々と広がるそこには夏の花が咲き乱れていたじゃないか。あの場所は……今、もしかして、この水底にあるの?
「じゃ、じゃあ……! 今、川の深さって、どれくらいあるのよ! あの夏の水かさでも中央の辺りは腰くらいまではあったのよ。それに流れもこんなに勢いよくなかったし――これじゃあ、どうやってあちら岸まで……」
 せっかく、ようやくここまで来たのだ。ほら、目の前、あちらの岸だって見えている。こんなに近いんだよ、すぐそこなんだよ……!
 私がもう泣き出しそうな声でそう叫ぶと、琉砂は屈んでいた膝を伸ばして、ゆっくりと振り向いた。
「まだ、そんな寝言を仰っているんですか? こんな川を渡ろうなんてお考えになるなんて、小さな子供だってすぐに無理だと気づくはず。さすがものを知らない姫君ですね。でも、それを可愛らしいとは申しませんよ。どこまでも愚かな御方とお伝えするしかございませんね」
「そんな……」
 どうしちゃったの、琉砂。あんた、もしかして驚きのあまり頭がおかしくなった? だって、私を見つめる瞳が一瞬にして色を変えてる。同じ水色なのに、すごく冷たそうで……こんな者には近寄りたくないって思っちゃうくらいに残忍な雰囲気。
 これじゃあ……あの晩の館の皆と同じじゃないの。一瞬にしてその表情を変えて。どうして、私を信じていた者たちは、こんな風になってしまうの? でも、琉砂はそうじゃないよね、絶対に違うよね。
 自分の中に湧いてきた負の想いをかき消したいと願うのに、目の前の男はさらに私を突き放そうとする。
「跳ねっ返りのお姫様とはいっても、やはり上の御方はどこまでも単純でいらっしゃる。俺が腹の中で何を思っていたかなど、少しも疑っておられないのには感心しましたよ。もっとも、姫は昔からそうでしたよね。自分に対するものが腹の中で何を考えているかなど、少しも疑われない。自分に接している時の態度が全てだと信じていらっしゃるのですから。ほら……ご覧なさい」
 じゃらん、……それが何かをすぐに確認できる独特の音を立てる麻袋が、彼の胸元から引きずり出された。両手に余るほどのその大きさ。
「これだけあれば、しばらくの間は遊んで暮らせます。最初から御館様は姫を深追いするおつもりなどなかったのですよ。こうして私を使って姫の身の安全を確保し、しばらくして野暮らしが飽きたら館に連れてこいとの仰せです。あの御方は姫が足元にも及ばないほど周到な方ですよ? 今後も甘く見ない方が身のためかと――」
 ずしりとした重みを楽しむように、彼はその袋を手の中でもてあそんでいた。私はもう、何が何だか分からなくなって、大声で叫びたい気分。どうして、どうして琉砂がそんなことを言うの? 他の誰が言ったって、納得するけど、あんたは琉砂でしょ!? 今まで、私の言うことを何でも素直に聞いてくれていた飼い犬のはずよ……!
 たくさんの想いが胸の中で爆発するのに、声が喉から湧き上がってこない。がくりとその場に膝を突いてしまった私を、琉砂はどこまでも蔑んだ目で見下ろす。
「これで……俺も晴れて自由の身です。全く御館様には感謝しておりますよ。我が儘な姫君のお守りも大変でしたからね。こんなに晴れ晴れとした気分になれて幸いです。姫を欺いたことは申し訳なく思っておりますが、それも今までのもろもろを思えば、たいしたことではないでしょう?」
「う……そっ……!?」
 ここまで突き放されたって、私にはまだ信じられない。だってだって、他の皆はともかく、琉砂だけは決して私を見捨てないと思っていたのに……!
 お祖父様は最初から琉砂を使って、私を意のままに動かそうとしていたの? 私が誰よりも信頼している琉砂を金で雇って、こんな風に絶望の風景を突きつける。何故、そんなことをするの? それならどうして最初から、私を駒に使うと仰ってくれなかったのかしら。そう言われていたなら、少しは考えようがあったと思う。それなのに……こんな風に欺くなんて。
「なっ、なに馬鹿言ってるの! し、正気に戻りなさいよ、琉砂! そんなわずかばかりの銭のために、私をお祖父様に売るの、あんたはそこまで性根の腐った奴だったの!?」
 嘘よ嘘……! 心にもないことを言ってるだけよ。私の琉砂がこんなこと言うわけないもん……、こんなことあるわけないもん! 
「すぐにそんな銭、捨ててしまいなさい。捨ててしまいなさいって言ってるでしょう……!」
 腕を伸ばして彼の衣を掴んだけど、汚らわしい者を振り払うような感じですぐに解かれてしまった。そうされてしまうと、もはやさらに追いすがろうとする気力は失せる。
 今までのわずか3日足らずの山歩きで私は悟っていた。琉砂はどこまでも大人の男で、しっかりとした知識と力を持っている。私には出来ないことがたくさん出来て、私の知らないことを何でも教えてくれる。それに対して、自分がなにも持っていない情けないだけの女子(おなご)だと言うことは、とっくに分かり切っていた。
 ――御領地の姫君であるという立場をなくしては、私には何も残らない。
「まあ、ご自分がどれだけ浅はかであったか、しばらくそこでゆっくりとお考えになるといいですね。俺は今夜の食料を調達してきましょう、もう日も暮れますし、御館様へのご連絡は明朝で宜しいでしょうから」
 琉砂は吐き捨てるようにそう言うと、つい先ほど、私が希望に満ちて駆け下りてきた山道に入っていった。うなだれている私の方へ、とうとう一度も振り返ることなしに。

 どうどうと、激しい音を立てて流れていく川。私の希望の全てを押し流してしまう、その勢い。琉砂の消えた山道から振り返って眺める。あかあかと燃える西の天の輝きがその水面に反射して、一面が褐色の宝石を浮かべているようだ。
 水飛沫の向こう、ぼんやりと浮かび上がるあちら岸。すんなりと渡れると信じていた。少しぐらい衣は濡れるかも知れない。でもっ、難なく越えて。私はずっと進んでいけるって思っていたのに。
 ――ううん、流れが速いからって。渡れないって、誰が決めたの? そんなの、やってみなくちゃ分からないじゃない。
 のろのろと立ち上がる。自分の不格好に長い影が、足元からどこまでも伸びていた。

 

*****


 そこに来るまでにも、何度か危険な感じはあった。足元を確認しながら、夏ならば置き石になっているはずの場所を探る。裸足であることが、全てを感じる感覚になって野歩きには必要なことだと琉砂に聞いたけど、全くそうだと思う。指先よりもむしろ足の裏の方が敏感に感じ取れる気がするから。
 ――たぷん。
 嫌だ、耳に水が入った? ってことはもう顔の半分まで沈んでいるってこと……? で、今どれくらいだろう。さっきから少しも進んでいない気がする。半分までは……来てないよな、多分。
 そろり、と足を出すけど、足がかりになる場所が見つからない。両足を交互に出して弧を描くように探したけど、何もない。手にしていた枯れ枝も地を見つけることが出来なくて。
 ――たぷん、たぷんたぷん。
 耳が感じ取る水面。もう……進めないの? そうなの……? ううん、いけるかも知れないよ。私はどうしてもあの場所まで行きたい。あの場所に行けば、新しい自分になれる。ずっとずっと行きたいって願っていたんだもん……私、行きたいの!

 ――がらんっ……! その時、遙か後方でそんな音がした気がした。
「ひ、姫……!? ちょっと、お待ち下さい! 何を――何をなさっているんですか……!」
 馬鹿、今頃戻ってきて。遅いよ、お祖父様の命令で私を守っているつもりだったら、もうちょっと頭を働かせなさいよね。ヤケになった私が何をするかって、少し考えれば分かりそうなものじゃない。少しは賢いかもと見直したけど、撤回するわ。やっぱり、あんたは馬鹿よ!
「お戻り下さい、それ以上は危険です! 流されてしまいます、これから夜に向かってさらに流れが急になって……」
 もう、騙されないんだから。あんたがいくらそんなことを言ったって、それは私を心から思ってのことじゃないでしょう? ただ、きちんとお祖父様に引き渡さないとそのせっかく頂いた銭が手に入らなくなるから、それだけなんだよ? 知ってるんだから、……そんなこと知ってるんだから……!
「姫――!?」
 ざばっと、一瞬水面が揺らいだ気がして。つい振り向いてしまった。絶対に後ろは向くもんかって思ったのに、そう誓ったのに。それなのに、琉砂の声を聞いたら。
「り、琉……!」
 やっぱり、見てはいけなかったんだと思う。だって、あんなに思い詰めたみたいな目で見つめられたら、私の心なんて一瞬で溶けてしまう。慌てた感じで川岸から進んでくる男の姿を見ていると、やはり信じたくなってしまう。キラキラと輝く髪がなびいて、水飛沫の中、赤い光に浮かび上がるその体躯は今までで一番美しかった。
 ああ、そうか。これが私の一番欲しかったもの、何よりも手に入れたかった美しいものなんだとようやく気づく。ホッとして、身体の緊張が抜けた。がくん、と膝の辺りがすくい取られる。

 次の瞬間。バランスを崩した私の身体は、背後のひときわ速い流れにずぶりと沈み込んでいた。

 

*****


 ぱちぱちっと、何かがはぜる音。それを私の鼓膜が震え、感じ取っている。乾いたそんな響きを感じているなんて……どうして?
「……うっ……?」
 私の周りにぬるりとした何かが巻き付いている。身体が重くてだるくて、なかなか反応しない。ぶるぶるっと全身に震えが走って、ようやく瞼が開いた。
「……姫……!」
 その瞬間に飛び込んでいたのは、私がもう二度と見ることはないだろうと思っていた存在だった。丸い水色のその場所が揺らいで、雫がぼとぼとと落ちてくる。それ以上、何も言葉が出てこない様子だ。しばらくその姿をぼんやりと見上げていたが、そのうちにまたぬるりとしたものが私を絡め取っていた。
 それが人の腕であること。そして、ありったけの衣やぼろ布を身体に巻き付けられていることを知る。じっとりと湿った髪から、川の流れの匂いがしてくる。
「良かった……良かった! ……姫……!」
 腕が震えている。ううん、身体全体が。押し殺した嗚咽を聞きながら、ああ――私は生きているんだなって他人事みたいに思った。
「何でっ……あのように無茶を。見れば分かるでしょう、流れがどんどん急になっていることくらい。川原付近よりも中央の方がずっと深くて、水底の方は押し流す力も強いんですよ? 下手をしたら……あのまま」
 この男は、また私を騙そうとしているのかな。情けを掛ける振りをして、その実は素直にお祖父様の元に戻ることを願っているのかも。周りの全てを拒絶する私の心は、迫り来るような感情に包まれても、なお凍り付いていた。ううん、凍り付こうって思っていた。溶けちゃ駄目。また辛くなるだけ。
 ――水面に浮き沈みする風景に、琉砂の姿を見た。その瞬間、私は無意識のうちに腕を彼に向かって伸ばしていたのだ。あんなに打ちのめされたのに、私のみっともない自尊心なんてぐちゃぐちゃになるほど罵倒されたのに、それでもまだ嬉しいと思ったのだろうか。
 琉砂だって、馬鹿だよ。自分だって、流れに飛び込んだらどうなるか分からないんだよ? あんな銭のために自分の命を投げ出すなんて、愚かなこと。私なんて……どうでもいいんでしょ? お祖父様に言われたから、仕方なく付き合っていたんでしょ?
「りゅっ……琉砂ぁ……!」
 それなのに、やっぱり私はこの男を思い切ることが出来ない。「無事で良かった」と言われたら、正直に嬉しい。「単純な上の御方」と言われても仕方ないんだろうな。広い背に腕を回して必死に抱きつくと、琉砂も同じくらいの強さで私を包んでくれた。

 私は向こう岸には行けなかった。琉砂の肩越しに見える山は私たちが歩いたそれで。川の流れに少しだけ流されたものの、どうにか岸に辿り着いたという。同じことなら、あちら岸に打ち上げられれば良かったのに。でも……そんなことを言ったら、せっかく助けてくれた琉砂に申し訳ないよね。
 ……やっぱ、夢でしかなかったんだなあ。

 指の先や足の先がじんじんと冷たい。こうして琉砂に抱きしめられていると、わずかばかりのぬくもりは感じ取れるものの、やはり心許なくて。川に入ったときは夢中だったから、そんなに冷たさも感じなかった。でも……かなり冷え切っていたんだろうな。そして、それは私を助けるためにやってきた琉砂だって同じこと。
「すみません、寒いですよね。……やはり、少し歩いて人里まで参りましょうか? そうすれば、一晩くらいの宿は……」
 自分は肌着一枚になって、全部私に衣をくれているのに、まだそんな風に言う。自分だってがたがたと震えていること、分かってるのかしら。こうやってくっついていれば、全部伝わって来ちゃうんだから。隠しても無駄なんだよ。
 琉砂はいつもそうだった、自分には少しも欲がなくて、全部私にくれようとする。たまに少しばかりの駄賃を渡しても、笑っちゃうくらいちゃちな飾り物やら髪に結ぶ飾り紐やら、そんなものに換えてしまう。みすぼらしいものなんて、私が喜ぶはずもないのにね。恥ずかしそうに差し出されるとそれがとんでもない美しいものに思えてしまう。だから信じていたんだよ、琉砂のこと、ずっと。馬鹿だね、私は。
「ううん……いい、このままで」
 暖を取るために、抱いていてくれるんだって分かってる。それでも嬉しかった。琉砂に見つめられると、自分がとても綺麗なものに思えてくる。そして、こうして腕に包まれていると、とてつもなく大切なものと扱われている気がするよ。満ち足りた幸福の中で、私は大きく息を吸い込んだ。そして、一気に吐き出す。
「……私、明日お祖父様の元に戻るわ」
 抱きしめる腕が、一瞬ぴくんと震えて、次の瞬間に琉砂も深い息を吐いた。
「そう……ですか」
 ホッとしてるんだろうな、厄介なお荷物がなくなるんだから。私は琉砂にとってそれだけの存在だったんだもんね。分かってるよ、もう全部。だけど……私はどうだろう。
「琉砂は来なくていい。ここから一番近い人里の近くまで案内して。そしたら、後は自分でどうにかするから」
「えっ……?」
 意外だったのだろうか、彼は慌てて聞き返してきた。ああ、やはりと思う。そんなことにも気づかないんだから、やっぱり馬鹿だ。
「お祖父様という御方はすごくケチなのよ。それだけの銭を、お前に全部くれようなんて思っていらっしゃらないわ。きっと何だかんだと文句を付けて取り上げて、裸同然で追い出される。そんなの、嫌でしょう? だから、その銭を持ってどこかへ行っておしまいなさい。お祖父様だって、私が戻ればお前のことまで深追いしないでしょうよ。それに、今までこんなに世話になったんだから、それくらいは必死にお願いしてあげる」
 我ながら、おめでたいなあと思うわ。私を裏切ったこんな男、どうなったって構わないのに。
「全部……お前の言う通りよ。私がどこまでも浅はかだったわ。今まで御領地の姫として好き放題に振る舞っていた。きっと快く思っていない者も多いと思うし、こうしてまっとうな場所に輿入れさせて貰えるだけでも有り難いと思わなくちゃならないんだろうね」
「姫……」
 私がしおらしいことを言うので、驚いたのだろうか。琉砂は声を震わせる。
「えへへ、偉いでしょう? ……私だって、色々と考えてるんだからね?」
 言葉の代わりに長い指が私の髪を絡め取る。彼は重い息を吐くと、私をなおも強く抱きしめた。骨がきしむほどのその強さは痛いくらいだったけど、でも……すごく嬉しかった。

「あの……ね、琉砂」
 しばらくは心地よいぬくもりの中に浸っていた。言葉なんて発するのが面倒になるくらい、私は満たされていたから。枝をくべるために、琉砂が少し束縛を解いたから、それに促されるように私は話し始めた。
「私……やっぱり、あちら岸に行きたかったな……」
 彼はちらっとこちらを伺ったけど、すぐに視線を炎に戻してしまった。私はがっしりした肩にそっともたれかかりながら、ばちばちと音を立てて燃え上がる枯れ枝を眺める。あっという間に灰になってしまう、ただそれだけの姿を。
「あのね……あのね。きっとこんなこと言ったら、琉砂はまた馬鹿馬鹿しいって笑うだろうけど。だって、向こう岸に行けば、私はもう御館の姫じゃなくなるんだよ。そしたら、ただ人になって、お前と……ずっと一緒にいられるかなって思ったんだ」
 喉の奥から、こみ上げてくるものがある。食欲なんてまるでなくて、用意してくれた食料も手付けず。溺れたときに水はかなり飲んだらしいけど、岸に上がったときにそれは吐き出したと言うし。じゃあ、今。私の中に残っているものって何だろう……?
 自分でもよく分からなかった、どうしてあんなに向こう岸に渡りたいと思ったのか。そりゃあ、あんなエロ親父の妻になるのが嫌だって言うのはあった。どう見ても、自分が夢見ていた伴侶の姿じゃなかったし。でも、かといって、だったらどんな殿方なら良かったかと言われると曖昧なのよね。
「誰も知らない山奥の土地に廃材と茅で小さな小屋を造るの。人が住むには余りにもささやかな室(むろ)みたいな場所。そして、朝が来たらそこから出て、畑を耕して、山に入って木の実を摘むの。川に行って魚を捕るのもいいわね。私たち、ずっとずっと朝から晩まで一緒にいるんだよ。片時も離れないんだよ……?」
「そんな……そんな暮らし。姫には似合いませんよ? 出来るはずないでしょう」
 琉砂が元のように私を抱きしめながら、そう言った。でも、私は思い切り首を横に振る。当然のことを彼が言ってるのは知っていたけど、こんな風にきっぱりと言い切られたくなかった。
「ううん、ううん……出来るわ。だって、今までの山歩きでそうやってきたじゃない。私だって、木の実を摘むのすごく上手になったでしょう? 木の葉で器を作ったり、薪になりそうな枝を見つけたり。そういうの、すごく楽しかったよ?」
 分かってる。もともと野良暮らしだった者なら何でもないことでも、私にはきっと荷が重い。琉砂が私を突き放したい、見切りを付けたいって思っていることも気づいてる。
「――私たちには暖を取る衣も少ししかないの。だから、夜はそれを全部寄せ集めて重ねて……そして、ふたりでそこにくるまって眠るのよ。こんな風にね……琉砂をすごく近く感じながら。私、貧しくても幸せだなって思うんだわ……」
 堰を切ったように涙が溢れてきた。そうよ、そうなんだ。もしも、ずっとふたりで。離れなくてもいい場所があるなら、そこへ行きたかった。だって裳着の式をして、琉砂にわずか二晩会えないだけで、私は気が狂いそうだったんだよ。琉砂が傍にいてくれないだけで、目に映るもの全てが面白くないと思ったの。
 ずうっと、私の言うことは全部聞いてくれたでしょう、琉砂はとっても聞き分けのいい犬だったよね? だから、私が一緒にいてってお願いしたら、ちゃんと聞き入れてくれると思った。琉砂の眼差しも優しさも独り占めできたら、他には何もいらないの。私はずっと琉砂だけが欲しかった。
 ――馬鹿みたい、私。琉砂が本当は私のことこんなに嫌ってるなんて思わなかったから、信じ切っていたよ。琉砂は私の嫌がることは絶対にしない、全部言うこと聞いてくれるって。
 自分でも知らないうちに抱いていた夢。儚い幻が胸を突く。こうやって……琉砂のぬくもりを自分のものに出来るのも、今夜だけ。夜が明けたら、二度と会えなくなる。
「私たちは子宝に恵まれて……とても賑やかな暮らしになるわね。私と琉砂の子だったら、きっと……」
 思いつきで話をしてるから、幻影は後から付いてくる。ああ、そうか。私たちに子が出来るんだ。そしたら、どんなにか――。
「……ねえ、琉砂」
 その時、私は気づいた。すごく大切なこと。琉砂を手放しても、叶う夢を。そうか……そうだよね。どうして、もっと早く思いつかなかったんだろう。
「何ですか……?」
 私はそっと顔を上げた。すごい顔をしてるだろうね、涙でべとべとで。でも、いいでしょう? こんな風に泣きじゃくるのも今夜だけ。明日からはまた気丈に生きていくから。琉砂のためにしか涙は流さない。私、しっかりした人妻になるからね。
 琉砂も目が赤い。きっと川に入ったせいもあるんだろうな。せっかくの綺麗な瞳が充血してる。頬もこけて、青ざめて。だけど……やっぱり美しいな。初めて出会ったときも、まるで宝石みたいだと思った。ひなびた風景がそこだけきらめいて。やっと大切なものを見つけたって嬉しくなったの。どうしてもどうしても欲しかった。私だけのものにしたかったよ。
 それは今も同じ。でも、それが許されないなら、せめてひとつだけ叶える夢があってもいいでしょう……?

「ねえ……、琉砂。私、お前の子種が欲しい。お前の子が産みたいの」


 

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