TopNovel玻璃の花籠扉>蝶のうたた寝・7


…7…

「玻璃の花籠・新章〜雪茜」

 

 

 瞼の向こうに白。小鳥のさえずり。頬をくすぐる心地よい気の流れ。
「う……?」
 傍らに人の気配のないことに気づいて、ハッとして起きあがった。辺りは当たり前の朝。ここは山のすそ野。とっくに燃え尽きたたき火の灰が朝露をしっとりと含んでいた。その向こうに遠く、人影が動く。
「姫、お目覚めですか」
 輝きに背を向けているので、少し顔が影になっている。そんな表情のよく分からない男がこちらに向かって駆け寄ってくるのだ。私の耳がおかしいのかなあ。なんか、声が弾んでない? 何よぉ……私はもう、節々が痛くて痛くて。動けないくらいだるいのに。ああ、でも男はもうすっかりと身支度を終えている。私の方は肌着を掛けただけのあられもない姿。朝の光の中ではやっぱり恥ずかしくて、慌てて袖を通した。
「姫、そんなことはいいですから! 早く、早くこちらへお出でください……!」
 なっ、……だから。何をそんなに慌てているの、琉砂ってもうちょっと落ち着いていたはずよね。これってなんか立場が逆みたいよ? 昨日の晩にあんなことがあって、私たち入れ替わっちゃったのかしら。
 それにしても。記憶がイマイチ繋がらないんだけど。確か、私たちは夜が明けたら別れ別れになるふたりだったはずよね。こうして手を引かれていると夢の続きを見ているみたい。もしかして、まだ夢の中? ううん、ひんやりとした気の流れが川面の方から上がってくるよ。これは現実。じゃあ……目の前にいる男は、誰?
「……えっ……?」
 引きずられるように連れてこられた私は、目の前に広がる風景に絶句してしまった。
「嘘ぉ……、何? どうしたの、これ――」
 驚きのあまり結びかけていた腰巻きの紐が手から滑り落ちて、慌てて持ち直す。でもっ、でもっ……どういうこと? 私は直立不動に真正面を向いたまま、隣に立つ男の野良着を握りしめた。

 ――だって。
 あのっ、川が。川が……ええと、水が嘘みたいに少ないの。あれだけたくさんあったのに、夜の間にどこに行っちゃったのと思うくらい。水底に沈んでいたはずの川原がどろどろと現れて、そこは私の知っている夏の川辺の姿と同じかたちになっていた。どんな魔術を使ったって、こんなこと……。

「この川は農作業のための貴重な水源となってます。そして、今の春先の時期は毎朝耕地を潤すために一時的に川を堰き止めて耕地を巡る水路への水門を開く作業があちこちで行われるんですよ。だから、毎朝多少水かさが減ることは聞いていましたが――どうも、水門を開く間合いが重なると、こんな風に一気にかさが減ることも……あるのでしょうか」
 琉砂の声が震えている。どうも、彼もこの事実は知らなかったらしい。……って言うか、知っていたらこんなに慌てないでしょう。こっそり覗き見た横顔、真っ青になってるもん。
 私は結構賢いから、今の説明でだいたい分かったわ。川を堰き止めて、耕地の中に水を回すのね。要するに迂回路がたくさん出来て、水の落ちてくるまでに時間が掛かるようになるのか。……あれ。
「ねえ! 琉砂、あそこ……!」
 川原の泥の中に、銀色の輝きがピチピチしてる。
「うわあ! 魚よ、魚! ねえ、捕まえて朝餉にしない? すごい、魚なんて何日ぶりだろう。ずっと木の実ばかりの暮らしだったもんねっ!」
 最後の食事は少し体裁が整うかな。黙っていると湿っぽくなっちゃうから、私も弾んだ声を出した。ああ、そうか。琉砂もそう言うつもりなのかな。いや、違うかも。ただ単に私のお守り役から解放されるのが嬉しいだけかも。……ま、どっちでもいいや。
 思わず、足を踏み出したとき。琉砂が私の手をとって押しとどめた。ものすごい力で。
「――何を仰ってるんですか! 早く支度してください……、魚なんていつでも食えるでしょう! ほらっ、水かさが戻る前にあちら岸に辿り着かないと」
「……え……?」
 なんか今、すごく不思議なことを叫ばなかった? 私はなんだこいつ、と言う面持ちで振り向いた。でも琉砂の方は真剣そのもの。これ以上突っ込んだりしたら、何を言われるか分からないくらいカッカしてる。
「あちら岸に行くの? どうして……?」
 訳分かんないこと言わないでよ! 今更、そんなこと。私は久弥殿の妻になるって決めたんだから。何よ、そんなに真っ赤な顔しちゃってさ。琉砂って肌が白いから、綺麗なピンク色に染まるのね。ほとんど表情を変えない奴だから、今まで知らなかったわ。
「ど、どうしてって。姫がそう仰ったんでしょう!?」
 やだなあ、もう。私がいつまでも聞き分けのない我が儘な姫君だと思ってるんでしょう? そんなことないんだからね。もう、裳着も済ませて、立派な大人なの。そして、琉砂の子の母上になるんだから。
 ああ、綺麗だなあ。私を見つめる瞳、空の色。おなかに宿した子の瞳もこんな色をしてるといいのに。でも、無理かな? 西南の血はとにかく強い。他の集落の民と交わっても、赤髪で濃緑の瞳の子が出来ることがほとんどって聞いてるもんね。
 だいたいさ、そう言う態度は誤解を招くわよ。お祖父様や御館の者たちは今考えてみれば、皆いかにも裏のありそうな態度だった。歯の浮くような物言いだったもんね。もしも私がこんなに美しくなければ「ふん、心にもないことを言って!」と鼻で笑えたのに。ああ、私って不幸だわ。でも、琉砂って。真面目な顔して誠実そうに人を欺くんだもの。本当は一番嫌な奴なのかも。
「やっ、……やあだ、もう! そんなの嘘よ、ちょっと駄々をこねてみただけ。私、もうお祖父様の御館に戻るんだから。野暮らしはおしまい、飽きちゃった。やっぱ何不自由のない生活がいいもの」
 何て顔してるのよ、馬鹿。もっと喜びなさいよ。そんな風に支度が整っているなら、早いとこどこかに行っちゃえば? もしも、お祖父様に見つかったりしたら、あんたどうなるか分からないわよ。とっととお行きなさいよ。
「あんたにも世話になったわね、色々ありがとう。どうぞ、達者でね」
 もっと言いたいことがあったはずなのに、胸が詰まって次の言葉が出てこない。それどころか、視界までぼんやりと霞んで、何も見えなくなった。慌てて俯くと、雫がぼたぼたとこぼれる。嫌あねえ、何感傷に浸ってるのよ、全く。高貴な姫君がこんな風に何度も下々の者に涙を見せるもんじゃないわ。

 私、考えたんだ。昨日、寝付くまでの間に。もしも……あのまま川を越えていたとしても、どうなることではなかったんだよね。川下の方に一刻歩けば、お祖父様が作った立派な橋がかかってる、街道沿いに。だから、九死に一生を得て万が一、願いが叶ったとしても……すぐに追っ手に捕まっちゃう。遅かれ早かれ、私は連れ戻される。お祖父様は大切な駒である私を執拗に探し回るはず。そんな場面にまで付き合わしたら、琉砂が気の毒だもん。もう、十分って思うくらい、世話になったもんね。
 お祖父様がどこまでも恐ろしい方であることは今回のことでよく分かった。私を打ちのめすために、あえてあんなに嫌っていた琉砂に頼み事をする。そこまでのことが出来る方。西方に私が嫁ぐことで、ご自分にどんな利があるかもきっちり計算していらっしゃるはず。だったら――それだけの方の孫として、私も悪どく生きていこうかなって。
 頬に掛かる髪がだいぶやつれている。ああ、早く館に戻って香油を塗って綺麗に梳かなくちゃ。せいぜい、この若さと美しさで久弥殿を骨抜きに出来るよう頑張りましょ。
 ついでにあのいけ好かない息子の方! あれを色気たっぷりに誘惑しちゃうって言うのもいいわよね? あ、もちろん振りだけよ。もしもあいつが本気になって寝所に忍んでこようとしたら、久弥殿に言いつけて追い出して貰うから。もうっ、人を騙そうとした罰よ! あいつにコケにされたことだけは許せない。
 ――大丈夫だよ、琉砂。私は昨日までの何も出来ない我が儘な姫じゃない。だから、あんたにはもう世話にならないよ。

「……渡らないと、仰るんですか?」
 顔を上げたら、まだ琉砂はこっちを見ていて。信じられないって言うように、どうしてって言うように瞳で訴えかけてきてた。うわぁ……思わず吸い込まれちゃいそう! でも、でも……これに惑わされちゃ駄目! 琉砂のためよ、ここは鬼にならなくちゃ……!
 もしも彼の中に、ほんのちょっとでも私への情が残っていたりして。そのせいで、道を外すようなことがあってはならないと思うわ。どうせそのうち捨てるつもりなら、今すぐに捨ててよ。
「姫がいらっしゃらないなら、俺がひとりで行きます。それでいいんですね」
「え……?」
 この言葉には、ちょっとびっくり。だって、流砂は最初から川を渡る気なんてなかったって言ったじゃない。お祖父様がくれた銭で、この地でのんびりと暮らすんだって。お祖父様の治めるここは豊かな土壌だから、食うには困らない。川の向こうの痩せた土地よりもずっと住みやすいって。まあ、いいや。気が変わったのかな? 別れたきりの父上や母上に会いたくなったのかなあ。
「別に……いいけど。じゃあ、それこそ早く行きなよ。ほら、この辺の荷物、きちんと持って。あ、……やだ! あんた銭の袋を忘れてるわ」
 川の土手を上がって程なくの草原に、琉砂があの夜着ていた水干と小袴がきっちり畳まれて置かれている。そう、私が見立ててやった地味な割には結構な品の衣。その上に、すぐに分かるようにその袋が置かれていた。最後に身に付けようとして忘れたのかしら。馬鹿ねえ、他のものはなくても金があればどうにかなるのに。
「……姫!」
 屈んで拾い上げてやろうとしたのに、後ろから抱きかかえられて動けなくなる。
「そのようなもの、いりません。そこに置いていくんです」
 は……何言っているのよ。そりゃ、全ての者がお祖父様のような守銭奴とは言わない。でも、必要最低限の銭があるとないとでは、絶対に苦労が違う。貰ったものなら素直に受け取りなよ。
 胸の下に回された腕が、ぎりりと音を立てる。そして、琉砂はさらに信じられないことを言った。
「そんな銭……最初から、受け取るのもおぞましかった。でも、受け取らなければ御館様は姫を俺に任せてはくれなかったでしょう。金にくらんだ恩知らずの真似をするのは口惜しかったけれど……姫にもう一度お目にかかれるなら、そうするしかなかったのです。御館様の目を盗むことなどは不可能でした、あの方は最初から姫が窮地に立たされれば俺の所にいらっしゃると言うことまで計算しておられたのですから」
「りゅっ……?」
 何言ってるの、どうしちゃったの。あまりに驚きすぎて、頭がおかしくなった? あんただって、せいせいしてるんでしょ? 私みたいな主人がいて、面倒なことばっかりで。やっと、解放されるんじゃない。
 でもっ、……でもね。昨夜の全てが蘇るように、手のひらで首筋を辿られると、私は自分のことが抑えきれなくなる。琉砂が与えてくれた一度きりの夢。二度と見ることのないと思った幻影。あの時、漂っていた甘い香りの中に私はいる。包まれている。もしかして、これが続くのかなって、心のどこかで願ってる。ああ駄目、また騙されちゃうよ。どうしたらいいの、私。
 琉砂、私のこと欺いたんでしょ? 忠実な犬の振りして、実はお祖父様の命に従っていただけで。晴れて自由の身だって、お祖父様には感謝してるって、そう……言ったじゃないの。そりゃ、ものすごく驚いたし悲しかったわよ。天が落ちてくるほど。でも、それも今までの私の行いを思えば仕方ないかって反省して。だから、腹をくくったんじゃないの……!
 それがどういうことよ。あんな風に私を絶望に陥れるために見せつけた銭を本当は受け取りたくなかったって? 今更何を言い出すのよ。そんな戯言、信じられるはずないじゃない! 私がどんな気持ちで、自分の本当の想いを振り切ったと思ってるの? 辛かったんだからね、一生掛かっても語り尽くせないほど。
「だ、大丈夫!? どこか打ったりしてない? 琉砂、どうしたのよ……おかしいよ、おかしい!」
 必死で腕を払って、私は向き直った。顔を見ながら話をしなくちゃ、そうしなくちゃ何だか上手くいかない! でも、私が見つめるとすぐにふっと目をそらしちゃう。ああん、せっかくの美しい顔、こっちに向けてよ。
「琉砂、ってば!」
 身を寄せて、下から見上げる。私たちはちょっと背丈に差があるから、琉砂は見上げるしかないのよね。いや、私だってあと数年経てば、もうちょっとは背も伸びてとびっきりの熟女になる予定なんだけど。
 怯えるように……何かを探るように。力をなくした目が私を捉える。ああ、この感覚。どこかで知ってる。そう……遠い昔にこんなことがあったね。
 感慨深く、思い出していると。琉砂も意を決したように口を開く。
「実は……姫のことを、とある方に託されておりまして。その方は仰いました、姫が……幸せになれるようにずっと見守っていて欲しいと。その約束を守るために、俺は姫を何重にも欺いてきたのかも知れません。それに……姫の本当の幸せなんて、俺には分かりませんでした。
 受け取った銭を見せて、姫が御館へと戻られるお気持ちになられるなら、それが一番いいのかも知れない。そう―― 一度は思ったのですが」
 琉砂は辛そうに頭を振った。何がそんなに悲しいの、どうしてあんたはそんな目をするの。私が、してあげられることは何? 今までたくさん我が儘を聞いて貰ったから、今度は……あんたのために何かできないかなって思っちゃうよ。私、すごい大人になったかも。
 知らないうちに私の口元はほころんでいた。琉砂がぼんやりとこちらを見る。その瞳に何かが過ぎった。
「あの日も……姫が俺の前に来て。そして、じっと顔を見上げられたんです。『今日から、あんたは私が飼うわ。あんたは私のものね』って……だから、あの日から、俺は姫だけのものです。御館様なんて関係ありません、あの方の仰ることなど聞きませんよ?」
「はっ……はぁ……」
 そうだったっけ? そうだったような気もする。お祖父様がとうとう折れてくださって、琉砂を連れて戻っていいって仰ったから嬉しくて。もう自分で縄を解きに行ったのよ。先導の男がやるのを待ちきれなくてね。
「俺の生まれた里は貧しくて、とうとう凶作の年に親の手で人買いに売られてしまいました。姉や妹は泣いてましたが、俺は涙も出なかった。ただ自分がもう必要とされていないと気づいただけで」
 琉砂が、泣いてる。綺麗な雫がどんどん落ちてくる。それが一粒二粒、私の頬に落ちて。なんか……変なの。私が泣いてるみたいじゃない。
「だから……姫のお側に置いて貰えるのは嬉しかったんです。姫は俺の姿が見えないだけで、泣いて泣いて悔しがって。本当は御館様に邪険にされてることは分かってましたから、西の対へは行きたくなかったのですが……姫の願いならそれでも聞き入れてしまいました。
 でも、俺には何の力もないんです。姫の縁談について御館様たちがなにやら画策していらっしゃるのは分かっても、それを止める術はなかった。もしかしたらそれが姫にとっての幸せであるのかも知れませんし。姫をずっとこのまま輝かせて行けるのは地位や財力のあるご立派な御方。私など……到底……」
 もしかして、これも演技? 私を騙してるの……? でも、苦しそうな琉砂の言葉を聞いていたら、それだけで胸がいっぱいになってしまった。少しでも、辛い気持ちをなくしたくて、背中に腕を回して抱きしめる。琉砂よりはずっと小さいし、心許ない私だけど、心だけは琉砂の母上なの。
 ――そう……だなあ、私も同じだったかも。私も、ずっとひとりぼっちだったから。たくさんの者たちに囲まれていても、心はひとりぼっちだった。
「私ねえ……都にいた頃、母上にとっても甘えたくて。でも、母上は華楠様の乳母だから、華楠様の方へばかり行ってしまうの。私の母上なんだから、私のことだけを一番に考えてくださればいいのに。我が儘を言うと、ぴしゃりと厳しくたしなめられたわ。すごく……すごく、悲しかったの。ただ、母上に抱き上げて頂きたかっただけなのに……」
 それにお兄様も下の兄弟もいた。だから、私には母上を独り占めすることは出来なかったんだ。都には誰ひとりとして、私を必要としてくれる人などいなかったから。でも……里に戻って来たからって、何が変わるというわけではなかったのよね。
 琉砂に会うまで、私はひとりぼっちだった。今もし、琉砂と離ればなれになっちゃったら、私はまたあの頃の気持ちで生きていくのだろうか。そりゃ、今に琉砂の子が生まれる。でも……この子だって、いつか愛する人を見つけて私の元から巣立っていくんだ。
 一緒に、行けたらどんなにいいか。でも……私が付いていったら、お祖父様の追っ手が――。
「御母上様のことを悪く仰ってはなりませんよ。姫はどうして、真実をご覧になろうとなさらないのです」
 琉砂は低い声でそう言った。何故、いきなりそんなことを言い出すのか分からない。でも、私の中にあるねじ曲がった心を無理矢理引き延ばすみたいな、不思議な物言いだった。
 でも、それは一瞬のこと。すぐに彼は我に返る。
「ああ……水かさが戻ってくる。急がなくては! 姫、早くあの夜身に付けていらっしゃった小袖をここに……!」
 琉砂は慌てた声を出して、私を促した。やだ、だからっ! 何言ってるの、私は駄目よっ、琉砂のためには私はここに残らなくちゃ……! いざとなったら、あんたの命乞いだってしてやるんだから。
 それなのに私が動かないでいたら、琉砂はさっさと荷をまとめる。でもそれらを手にしようとはしないで、代わりにただひとつ、私の腕を引いた。
「早く……! こうして全てを置いていけば、御館様も怪しまれないでしょう? あの御方が金を置いて生き延びようとするやり方にお気づきになるはずもございません。水かさの戻った川とこの荷を見れば、世をはかなんだ私たちが川に身を投げたと勘違いしてくれるかもしれませんよ……!」
「え……?」
 私は思わず、目を見張った。……確かに、そうかも。お祖父様はご自分の侍女が間男と逃げたときも、深追いをするのは金品を持ち出した者の場合だけだった。着の身着のままで逃げ出した輩については、放っておくことも多かったから。――そんな風に、上手くいく場合ばかりじゃないと思うけど。
「俺は万が一、追っ手に見つかっても、その場で斬り殺されても構いません。姫と……一日でも長くご一緒に過ごしたい、それだけです。姫は……姫は、そうではないのですか? お嫌ですか、外の暮らしは」
 うわっ、その眼差しでこっちを見ないで! そんな風にすがりつかれたら、もうおしまいよ! 私……だって、あんたのその美しい顔が好きなの。逞しい身体がたまらないの。抱きしめられるその瞬間が幸せの絶頂だって気づいた。――もう、戻れないかも。
「……これ以上は待てません! ど、どうしますか。俺が背負いましょうか? それともご自分の足で渡りますか!?」
 腕を引く強さを、信じていいのだろうか。私は……この川を渡っていいの? 本当に、一緒にいてくれるの、ずっと……? 怖いよ、今の私のこの決断が、琉砂を不幸にしてしまうかも知れない。ここに残った方が、結局は琉砂のためかも。だって、私に何が出来る? 
「――琉砂、私と一緒で本当にいいの。苦労するわよ」
 この男が心からの言葉を述べているのか、確かめる術はない。人の心の誠なんて、そもそも完全に知りうることは出来ないんだから。信じるか、信じられないか……それに尽きるのだ。
「姫のための苦労なら、何でもありませんよ。あの日から、俺は姫だけのものですから」
 ふっと目を細めて笑う。どんな表情をしても琉砂は綺麗。ああ、いいのかな。もうしばらく夢を見ていても。私こそ、琉砂のためならどんな苦労もしたいよ。我が儘だって、言わない。いい子になる。
「で――どうしますか? 背負いますか」
「も、もちろん……! 自分の足で行くわ、私の新しい門出ですもの……!」
 琉砂がまっすぐに私を見る。ああ、いいなあ、この瞳。ずっと見つめていてくれるなら、それだけでいいや。お前が宝よ、私のとっておきの宝物よ。

 一歩踏み出すのは……逃げるためじゃない。私が川を越えるのは、新しい道を拓くため。幸せになるために、渡っていくんだから。

 春先の水は、キンとして足の指がちぎれそう。置き石の上まで水が戻り始めている。滑らないように、足の裏で確認しながら、私は琉砂の後に続いた。



 

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