「……な……」 失いかけた視界では、舞い踊るそれが何であるかすぐには分からなかった。絹を裂くような悲鳴が狭い部屋の壁に響き渡り、耳元で何度もこだまする。頬が強く床に叩き付けられて、口の中にわずかな血の味を覚えた。 「やっ、やあっ……! やめて、これはあたしのっ……、あたしのっ……!」 のろのろと身を起こすと、鶸の髪の女子が、辺りに散らばったものを必死にかき集めていた。ひらひらと気の中を舞っている時には分からなかったが、それはよく見るとおびただしい量の白い紙切れであった。指の先に触れた一枚をたぐり寄せる。そこにしたためられた墨文字を見た瞬間、狼駕の顔色が変わった。 「……すず……?」 信じられない面持ちで、向き直る。娘は狼駕の存在のことなど忘れてしまったかのように、一抱えほど集めたものを胸にしっかり抱いた。 「これは……あたしの。とのが、あたしに、くれるって言った。あたしのもの、あたしの……あたしの、との……」
まるで。 目の前に透明な壁が出来上がってしまったようだ。こんなにも近くにいるのに、娘には狼駕の姿が見えない。いや、最初から見知らぬ男のように。出会ったこともなかったかのように。 我が眼は、その光景に吸い寄せられたまま動かない。身体の震えが止まらなかった。
「……との、との……との……、との」 たどたどしい言葉で、でも想いを振り絞るように呻く。繰り返し繰り返し、うわごとの如く。 狼駕は信じられない面持ちで、もう一度手元の紙片を見る。そこにある文字を忘れるわけはない、かつて妻である人に送り続けた文の一枚であった。 「そんな……」 散らばるものを拾い上げてみる。どれにも見覚えがあったが、中には書き損じのものまで混ざっていた。西の対でしたためたそれらをいつの間に集めていたのだろう。狼駕の脳裏に、あの日の双葉の言葉が蘇ってきた。
「あの御方は……文字を綴ることはおろか、読むことも出来なかったのです」 言われてみれば、想像に容易いことである。この地で読み書きを習得しているのは、一部の限られた者だけだ。言い換えれば、実際の生活の中でそれが必要な立場にある者だけ。それは領地を巡る狼駕もとっくに心得ていた。自分の名を綴ることすら出来ない者がほとんどなのだ。何もかも知らないままに、可哀想なことをしてしまった。 妻へと幾たびも送った文は、その心を伝えるには至らなかった。もちろん、双葉はひとつひとつの言葉を説明してそこに込められている想いを妻に届けてくれた。そんな時、妻は嬉しそうに微笑んで何度も何度も文字の上を指でなぞっていたという。その文は手元に置いていいと言われるといつも寝所の奥に大切そうに持ち込んでいた。 だから、彼女は信じられなかったのだ。七日で戻ると言った夫がその日を過ぎても顔を見せないその訳を。双葉は文の内容を伝えてはくれたが、悲しみに暮れるばかりの人にはとうとう聞き届けられることはなかった。 「多分……ご主人様が、あれきりいらっしゃらなくなるのだと思っていらしたのでしょうね」
知らなかった、そんな風にこちらの何気ない行為が妻を悲しませていたのだ。あの閉ざされた世界で、誰も寄せ付けず、何を想っていたのだろう。狼駕の手元の文にも、乾いた涙の跡がたくさん残っていた。中には文字が滲んで読みとれなくなったものまである。 こんな塵のようなものを、後生大事にしているなんて。何よりも大切にしていた塗箱だ、きっと妻にとって何よりも手放すことに出来ないものが入っていると思っていた。だが、それは……多分、彼女とその母親との思い出の品だと信じていたのだ。 「お……、おお、すず。すず、何をしている……!」 もう、なりふり構わず。狼駕は泣き濡れるその細い肩を掴むと大きく揺すった。 「何をしている、俺はここにいるだろう。お前の『との』だぞ、承知しているのだろう? 会いに来たのだ、お前に会いたくて、ここまでやって来たのではないか……!」 今までのやりとりの中で、妻が自分に気付いていることは分かっていた。それなのにここまで拒絶されるのだから、もう仕方ないと諦めていたのだ。 互いが互いをこんなにも想い合いながら、何故、さすらっていたのか。 「そんな紙切れが、お前を愛するか。お前に優しい言葉をかけ、抱きしめてくれるのか。そうではないだろう、もうそんな形代にすがるのはおやめ」 「や……、違う」 「違う、とのはあたしのじゃない。とのは……お姫様のもの、あたしのじゃない……!」 固唾を呑んでその姿を見守っていた狼駕の頬にも、熱いものが再び流れていった。そうか、そうだったのか。嘆くことなど微塵もなかったのだ。 「お……おお、違うのだよ。俺はお前のものだ、お前だけのものなのだ」 妻が黙ったままゆっくりと面を上げる。目の淵に溜まった雫がほろりと頬をこぼれた。翠の泉が揺れる。狼駕は自分の中に再び熱い血潮が流れ始める音を聞いた。 「あの姫は……その後、俺の弟の元に輿入れした。もともとあの館主は、跡目には俺の弟の方を推していたのだからな。俺は出奔して行方知れずになったため、弟が後釜に座ったと言うわけだ。もう……俺はあの家の跡目などではない。お前の……すずだけのものになったのだ」
自分が去ったあとの家のことは風の噂でしか知らない。だが、もう狼駕の知る場所はないと思う。すぐ下の弟はいつも狼駕の務めを手伝い、代役も難なくこなすほどにまでになっていた。新しい跡目としてなんの不足もないはずだ。館の中にも、あの山持ちの家に傾く者が増えてきていたはず。こうなってはいくら正妻である狼駕の母の実家の勢力が強くとも、太刀打ち出来ぬだろう。 あの時に、すぐに領主の館に引き返していれば、山持ちの館主の悪事も暴くことが叶ったであろう。それが、領主の跡目としての正しい道であったと思う。だが……心に反して生きることで、得るものなどあるのか。己の真の心は、何を望んでいるのであろう……? 残してきた自分に好意的な人々のその後も気に掛かった。だが……彼らはどうにか生き延びてくれるだろう。何もひとつの勢力にすがるばかりが生きる道ではない。しなやかに己の進みたい方向に足を向ければ、新たな未来が拓けていくはず。そう信じたい。
西の果ての、まるで隠れ里の如くひっそりと佇むこの地まで。心がいざなわれ、辿り着いた。これもふたりの魂が導き合い、いつしか同じ鼓動で高鳴りだしたからではなかろうか。 この娘は知っていたのだ、初めから自分がただの身代わりでしかないと言うことを。時期が来れば別れなければならぬと言うことを、双葉から繰り返し諭されていたはず。あの聡明な侍女はこのどこまでも清らかな心を持っている娘を出来る限り明るい方向へ導こうと必死だった。あまり名残を残しては馬鹿げたことをしでかさないとも限らない。 もう再び巡り会うことも叶わない……何故なら、自分は偽りの存在であったから。そう思いこんだ方が傷が浅くなる。深く想いすぎることは痛みを増すだけのこともあるのだ。それは狼駕とて、我が身にくさびを打ち込むほどに、重々心得ていた。 こうしてかつてまみえた男が突然自分の元に現れたのも、生まれた子を奪いに来たのかと思ったのかも知れない。だからこそ、あそこまで強くあらがったのだ。
――こんな、こんな風に。愛しく想い続けていてくれたのか。やはり、あの日のふたりは真実であったのだ。
しかし、自分はどうであろう。 着の身着のままであの村を飛び出したは良いが、何の支度もなかった。物乞いをしながら、村から村へ渡り歩く日々。それはとても言葉では語り尽くせないほどの辛さであった。かつての領主の跡目としての姿はもうどこにもない。貧しい身なりに、おぞましいものを目の当たりにしたような憎悪の視線を向けられたことも数え切れぬ。早く出て行ってくれと、芋や豆をぶつけられることもあった。 朽ち果てた亡霊のようななりで現れて、どんなにか驚いたことであろう。初めは誰なのかも確認できぬほどだったのだ。それほどに、己の姿は変わり果てていたに違いない。
「と……の?」 だが、震える唇でそう言った妻の瞳に、自分を蔑んだり恐れたりする心は感じ取れなかった。そこにあるのはただ純粋な愛の色。やわらかな暖かい心だけであった。 「あたしの、との?」 「そうだ、すずの、だ」 妻は何か言おうとしてそれでも声にならず、口元を押さえて涙をほろほろとこぼした。狼駕が腰を落とした姿勢のまま静かに寄り添うと、昔のように恥ずかしそうに胸に顔を埋めて来る。躊躇いがちに控えめだったのは最初だけ。互いの香りが触れ合う距離で、もう心を止めるものはなかった。 「との……、との、との……っ!」 骨と皮ばかりになった身体に、温かいものが絡みつく。大きく震えた柔らかい身体からは、変わることのない想いを感じ取ることが出来た。もう、これ以上に何を望むのか。妻の誠の心に出会うこと、それが狼駕の辿り着くべき場所であった。 「お……おお、辛かったな。すまなかった、苦労かけたな。ひとりで……寂しかったであろう。会いたかったぞ、ずっと……ずっと会いたかったぞ」 胸がじんと震え、痛みや恐れが全て辺りの気に溶けていく気がした。ぬるり、と何かがうごめき、次の瞬間に身体ががくっと落ちた。
「……との?」 腕の中の人が、心配そうに覗き込んでくる。大丈夫だよと微笑み返したかったが、もうそれだけの力が狼駕には残っていなかった。妻の背に回した腕からも力が抜けていく。限界を遙かに超えていた身体が軋み始めた。 ――ああ、良かった、間に合ったのだ。 次第に薄れていく頭の中で、そんな想いが広がっていく。もうとっくに、我が身は朽ち果てていたのだ。だのに、こうして妻に一目会いたくて、そのために心だけで繋いできたのだ。ようやく再会を果たし、変わらぬ愛を知った。もうこれで……憂うこともない。旅立つことが出来る。 「との、とのっ……!」 妻もただならぬものを感じたのだろう。何度も何度も繰り返し名を呼ぶ。もはや、どんな言葉も使えるようになったというのに、こうして向かい合うとその一言しか出てこないらしい。閉じた瞼で、くすりと笑った。
そして、記憶が途切れるその刹那。部屋の隅から、壁を打ち抜くほどの泣き声が上がった。 「……あ……!」 その声が妻のものであったのか、自分のものであったのか。とにかく妻が、声の方に駆け寄っていき、ひくひくとうごめいていたものをゆっくりと抱き上げた。 「……との」 妻は向き直ると歩み出でて、そっとこちらに腕を差し出す。狼駕の胸に先ほどまでとは違う、甘い温かいものが乗せられた。しっとりとしたささやかな重み。 「との……は、あたしのもの。この子は、あたしのもの。でも……とのの、もの」 「……あたしの、もの」 ゆっくりと妻の手が狼駕の右の袖をたぐる。そこに現れた腕の飾りを見て、彼女はにっこりと微笑んだ。 「同じ……ずっと、一緒」 新しい雫が頬を伝う妻の腕にも、同じ輝きがきちんと巻かれていた。
彷徨う日々、これを手放せば幾日かは満たされた生活が出来ると思った日もあった。だが、どうしてもそれをすることは出来なかった。狼駕にとって、妻に託されたこの腕の飾りは唯一のものであったから。
「ああ……そうだ、そうだったな」 安らかな、静かな場所に導かれそうになった心を、狼駕はかろうじて自分を引き戻していた。身体にはにわかに痛みが戻り、胸が苦しくなる。でも、この身体のままでもいい、もう少し長く生き延びたい。だが、それが許されるのだろうか。 ふいに赤子の手が伸びて、手入れもしていない狼駕の髪を掴む。その思いがけない強さに、生きる血潮を感じた。 「す……」 名を呼びかけて、口をつぐむ。そうだ、この女子の名も知らぬ。「すず」と言う名はあの姫君のものだ。そんな偽りの関係であったのに、妻はいつも微笑んでいた。そう思うと今更ながらに胸が痛む。 「……この、赤子の名は? 何というのだ」 妻はまっすぐな瞳で狼駕を見つめる。そして、嬉しそうに言った。 「これは、あたしの子。だから、……『こすず』」 ごつごつと骨張った手のひらに、妻の細い指が添えられる。まだそこが少し震えているのは、この瞬間が信じられないからなのだろうか。
三つのぬくもりが静かに寄り添ったとき。狼駕の瞼の裏に、また白の幻影が舞い踊った。でももうその花びらは消え失せることはない。心に静かに積もって根付き、安らぎに変わるのだ。 ――明日の、ために。 了(040603)
(2004年6月11日更新)
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