TopNovel>鈴と羽根・1


…1…

 

 その小屋の裏手には、大人ひとりが抱えきれないほどの幹を持つ大きな柚子の木があった。

 もともと柚子は日当たりのいい場所に植えるものとされてる。だからなのだろう、猫の額ほどしかない庭の一等地を占領していた。真夏にはいい日陰が出来て嬉しい限りだが、秋から冬にかけては落葉がひどく、それをかき集めるだけでも一日がかりになってしまう。柑橘類は常緑樹が多いとも聞くが、この樹は大層な変わり者なのかも知れない。
  変わり者ではあるが実の付きは最高で、貧乏人にとってはまたとない収入源であった。この木があったから、毎年の年越しが出来たと言っても良いだろう。
  まだ果瑠(かる)が小さくて婆さまが元気な頃は楽しかった。良く晴れた冬の初め、ふたりで木の根元に出てかごに何杯もの実を収穫する。婆さまは腰が不格好なほどに曲がっていて上を仰ぐのも大変そうな有様ではあったが、竹の棒を器用に扱って次々に枝に突っかけていく。そして神業のように黄金の実はひとつの傷も付けずに山積みになった。
  それを荷車に積んで遠くの宿場町まで売りに行く。年の暮れに時期を合わせれば、荷台に山盛りの量も半日足らずで売り切れてしまう。一年ぶりに手にする驚くほどの銭を懐に婆さまはとても嬉しそうだった。普段は口に出来ない餡がたっぷり付いた団子をふたりで頬張り、綺麗な飾り紐や端布まで買ってくれる。村では親なし子と罵られ一緒に遊ぶ相手もいない子供時代だったが、婆さまがいれば寂しくなんてなかった。

 毎年、柚子の実がなるたびに楽しかったあの頃ばかりを思い出す。鼻の先がつんとして、何かがこみ上げてくるけど必死で堪える。いけないいけない、こんな風にしていても何も変わるわけはない。せっかく婆さまが遺してくれた住み処なのだから、しっかり守って行かなくてはばちが当たるというものだ。

「おやまあ、……今年も元気なことだねえ」

 かろうじて手の届く低い枝に腕を伸ばしかけてやめる。柚子の小枝には鋭い棘がたくさんあって、迂闊に触れると怪我をしてしまう。手に傷でも作ったら大変だ。洗濯屋として生業を立てているのだから、たちどころに収入が途絶えてしまう。
  あの頃の婆さまよりはよっぽど背が高くなったと思う。でも、そんな果瑠に負けないくらい樹の方もずんずん成長した。もう少しこまめに枝を剪定すれば手頃な大きさのままでいるのだろうが、男手のない家ではどうすることも出来ない。いや、婆さまがおっ死んでしまったあとは、男手どころか女手だって自分のこの両手しかないのだけれど。

 ――さあ、どうしたもんかねえ……。

 すべすべした樹の幹に手を当ててあれこれと思案する。踏み台でも持ってくればかごに一杯くらいは取ることが出来るだろう。だが、その先はどうしたらいいのか。このままではたわわに色づいた実が台無しになってしまう。
  村の者たちに頼むわけにはいかなかった。そんなことをしたら、せっかくの実が全部奴らの手に渡ってしまう。それを口惜しいと思ってしまう自分が浅ましくて嫌だったが、今まで受けた仕打ちを考えれば致し方ないだろう。
  何しろ奴らと来たら、こともあろうに婆さまの葬式の席でただひとり残された小娘を遊女小屋にでも売り渡そうと話し合っていたのだ。当時、まだ果瑠は5つ6つの年の頃だったが、それでも下働きくらいなら出来るはずだとあっという間に話が決まりかける。あの時、居合わせた玄太(ゲンタ)が一喝してくれなかったら今頃はどうなっていたか分からない。

 まあそうは言っても、悪いのは村人ばかりではないのだ。この南峰の集落は豊かな場所とそうではない場所との落差が激しい。特にこの地は南西の集落との境、痩せた土地ではろくな作物も取れず年貢を納めることすらも免除されるほどである。
  若い者は男も女もそのほとんどが別の村や町に働きに出てしまう。あとに残ったのは年寄りと小さな子供ばかり。もしも若い者が残っているとしたら、そこは大層裕福な家か本人がどうしようもないへそ曲がりなのかどちらかである。

 果瑠の母さまも、やはりそんな風にして娘時代に別の土地に働きに出たひとりだった。織物などを扱う店の下女として務めたが、幸運なことにそこの若旦那に見初められたらしい。本来ならば妾のひとりにでも加えてもらえれば御の字というところだが、何と正妻の座に座ってしまったと言うから強運の持ち主だ。
  そして生まれたのが果瑠。自分では全く覚えていないが、赤子の頃はお姫様のような扱いを受けていたらしい。しかし幸せは長く続くことなく流行病で両親が次々に死んでしまうと、腹黒い番頭が店を乗っ取ってしまう。一時は命も危ない有様だったらしいが、そこは忠義者がいて救われる。母さまと同じく下働きだった女子(おなご)が必死の想いで果瑠を婆さまの元に届けてくれたのだ。

  そんなわけで命拾いをして、こうして今も生きながらえている。もともとは両親のものだったはずの店は、それから程なくして大損した挙げ句に夜逃げしてしまったと聞いた。だからあの番頭に恨み言のひとつも言いたくても、その後どうなってしまったか知れない。やはり人間悪いことは出来ないと言うことなのだろう。
  ただひとつ難を言わせてもらえば、この金茶の髪と黄味がかった肌の色。父さまが西南の民だったから、あいの子の果瑠はこんな風に中途半端になってしまった。もう少し器量よしに産んでくれれば人生が変わっていたと思う。見てくれで相手の反応が変わることは、今まで生きてきた中で嫌と言うほど承知している。
 
  婆さまの住んでいたこの小屋と柚子の木とそして我が身。果瑠が持っているのはそれだけだ。他の若者たちのようにたくさんの家族を養っていく必要もないので、こんな風に村に残っていても生活していける。寂しくないと言ったら嘘になるが、気楽なことはこの上ない。

 

 腰に手を当てたまま、しばらくはのけぞるように木のてっぺんを見つめていた果瑠であったが、そのうち表の方で、荒々しい物音が響くのに気付いた。

「――おうっ、今帰ったぞっ!」

 その野太い声を聞くだけで、まだ見えない姿が想像出来るほどである。果瑠はおやおやという表情になって、くるりときびすを返しその方向に歩いていった。

「何だよ、騒々しい。もう少し静かに出来ないもんかねえ……」

 今年15になると言えば、嫁に行くには丁度いい年頃になる。少しくらいは色めいていてもいいのにと自分でも悲しくなるが、すでに諦めの境地に入りつつある。

「どうした、今回は随分早いじゃないか。また馬鹿をして、お務めをクビになってきたんじゃないだろうね。全くあんたは堪え性がないから、情けないよ」

 憎まれ口を叩きながらも、手桶と手ぬぐいを準備してやる。戸口の脇に置いてある大きな石に腰掛けた男は、腰にぶら下げた酒をあおると「けっ」と短く呻いた。

 いつ櫛を入れたのかも分からないほどのぼさぼさ頭、もちろん髭の方も伸び放題。さらに獣と見まがうほどの体毛が袖口や小袴の裾からのぞいている。生粋の南峰の血筋で元々は美しい金色だったはずの髪はすすけ、白く埃にまみれていた。肌も乳白色だが、その分赤ら顔が目立っている。「色の白いは七難隠す」とか言うのに、これではその効果も期待出来ない。
  さらにこの大山がそのまま歩いているような図体はどうだろう。今は座っているからまだいいが、目の前に立たれると一気に視界を遮られてしまいどうにもならない。その形相だけでも十分に恐ろしいのに、態度までがふてぶてしいのだから救いようがない。

 この半月ほどは山向こうのお社に働きに出ていて静かで良かったが、またしばらくは騒がしくなりそうだ。この男が戻ってくると一気に食料がなくなるから、前触れもなくいきなり顔を出されては困ってしまう。

「お前こそ相変わらずだな。そんな風に口の減らないことばっかほざいてるから、どこからもお声がかからねえんだぞ? ほら、ひと寝したら出掛けるから、それまでに着替えを用意しておけ。こっちだって、暇じゃねえんだからな、小便臭えガキの相手をしてるより綺麗な姉ちゃんたちと遊んだ方がよっぽど楽しいってもんだ。あ〜、戻るなり胸くそ悪いっ!」

 そんな風にわめきつつ男が入っていくのは、隣の自分の家ではなく果瑠の住む小屋だ。しとねを整えるわずかばかりの板間の他はむき出しの土間で、この村のどこよりも貧相な造りになっている。もう毎度のことなので引き留めたりしないが、全く物好きな奴もいたものだと思う。

 しばらくして薄い壁越しに大いびきが聞こえてきたのを確認して、果瑠は足下に散らかった手桶と手ぬぐいを片づけた。

 

◆◆◆


 玄太との出逢いは、覚えていない。この村に赤ん坊の果瑠が流れ着いた時にはすでに奴は婆さまの隣にひとりで住んでいたと思う。物心ついた頃にはもう今のような大男だった。図体もでかければ態度もでかく、さらに声もでかい。酒を飲んで暴れたときなどは手のつけようがなくなり、村人たちからも厄介者扱いされていた。
  顔中ぼうぼうに毛むくじゃらだから、年齢もよく分からない。でも気付いた頃にはもう堂々とした大人の体格になっていたし、だから相当な年頃なのかも知れないと思う。そう言えば、角の修理屋の若旦那とは幼馴染みだと言っていた。あそこの家にはもう7つ8つになる子供がいるから、実はそれくらいの子がいてもいいのだろうか。
  ただ本人もあの調子だし、人並みに所帯を持つ気もないのだろう。飄々として根無し草のような生き様である。あれでいて人情に厚い部分もあり、この数年は山向こうの分所に出入りしているようだ。別名「お社様」と呼ばれるその場所は、周囲の土地の平穏を守るために遠く都から遣わされた官僚が住まっている。何とかと言う名のその人に玄太は相当入れ込んでいるらしいのだ。

 月の半分ほどはあちらでお務めにつき、そのうちふらりと村に戻ってくる。そんなときにまず先に果瑠の小屋を訪れるのも、もうお決まりのようになっていた。

 ――まっ、似たもの同士の厄介者だから仕方ないか。

 玄太のことを言えた義理ではない。果瑠も村ではそうとうな変わり者で通っている。これでも数年前まではお節介焼きの婆さんどもがあれこれと気遣い縁談の世話などをしてくれた。まあ、期待するような話が来るはずもなく、とんでもない爺さんの元への後添えとか使用人代わりの妾とかそんなのばかりではあったがこちらも文句を言える立場ではないのだ。
  表の川で大水が出るたびに、何度も流されそうになったあばら屋。若い娘のひとり住まいなど、流れ者が居着いたりしては村にとっても面倒なことになる。村人たちも自分たちにとって不利になることを見逃すわけにはいかないと言うことだ。

 しかし、ある事件を境にそんな干渉もぴたりと止み、果瑠の身辺は気持ち悪いほど静かになった。

  村長(むらおさ)の息子はいい年になるのに落ち着きがなく、正妻を娶ることもないままにのらりくらりしている。そのくせ女子にはだらしなくて、遊女小屋に入り浸るのはもちろん隙あらば村の女どもを手当たり次第に味見していくのだ。どこの土地でも同じだとは思うが、地位や名誉がある者には従わなくてはならぬのが世の常。自分の女房が手籠めにされたところで泣き寝入りをするしかない悲しさだ。
  ある時、ほんの出来心だったのだろう。その息子が果瑠にちょっかいを出してきた。村はずれに住んでいる変わり者の娘など彼の嗜好に合うはずもないと思って気楽に構えていたが、そうではなかったらしい。こちらがすげなく断るのがよほど新鮮だったのか、諦めるどころかさらに絡んでくる。
  そうしているうちに、だんだんそのやり方も陰湿になっていった。こちらが断れないような理由を付けてはたびたび館まで呼び出すのだから始末に負えない。

 その日もいつものように村長の家から使い物を頼まれて、川下の村まで魚の干物を求めに行った。それを直々に館まで届けるように言われる。門番に渡してそれで済まされそうなものだが、奴は今日に限って自分の部屋まで上がってこいと言うのだ。馬鹿馬鹿しいと思いつつも従ったのが行けなかった、ふすまを開けたその向こうにはすでに二組のしとねが用意されていたのだから。

「ちょっとっ、待ちなさいよ! いい加減にしなさいよね……っ!」

 初めは間違えて別の部屋を訪ねてしまったのかと思ったほどであった。だが、向こうはさすがの好色男、力尽くでも果瑠を我がものにしようとねじ伏せる。いくら暴れたところで、やはり男と女では力が違う。もう駄目かと思ったときに、飛び込んできたのが玄太だった。

 その時の奴の形相と言ったら、今でも思い出すと背筋が凍り付くほどである。すでに相当に酒を呑んでいたのだろう、赤鬼のように染まった顔にぎょろりとした眼。辺りにおぞましくとどろく唸り声を上げながら、普通の人間の二倍はありそうな腕が、村長の息子の襟元を掴んだ。

 何かがぐしゃりと潰れていく音を聞きながら、そこで果瑠の意識も途切れた。だから、その先のことはよく知らない。どうやって戻ってきたかも分からないが、気付いたときは自分の小屋に寝かされていた。

「――この、馬鹿野郎が」

 もっと口汚く罵られるのかと思ったのに、玄太が発したのはそのひとことだけだった。もみ合った時に破けた衣も綺麗なものに替えられている。いつも通りにちびちびとやりながら、その晩ずっと玄太はそばにいてくれた。そして、その日からずっと果瑠の小屋で寝泊まりするようになってしまったのである。

 

◆◆◆


 今にも壊れそうな木板の橋を渡ると、水場を引き込んだその向こうに村唯一の宿屋がある。

 まあここは街道からもそれた場末の村だったし、辿り着く旅人なんて人里に熊が出るよりも珍しいことだ。だから「宿」などというのは表向きのこと、ここに住まう女たちが一晩いくらで客を取って生計を立てていることは誰でも知っている。

「おや、わざわざ届けてくれたのかい。ご苦労さん、いつも助かるよ」

 けだるそうに顔を出した姐さんが、懐から小銭を出して果瑠に手渡す。それと引き替えにこちらが差し出すのは洗い立ての衣たち。抱えきれぬほどの量を仕上げたところで、もらえる駄賃はほんのわずか。それでも村一番のお得意様で、いつもありがたいと思っている。

「玄さん、戻ってきたんだろ? みんな待ってるから、早くお出でと伝えておくれ。ああ、でもあんまり薄汚いのは勘弁して欲しいね、布団に臭いが付くとなかなか取れないんだよ」

 んじゃ、お務めまでもうひと寝するかね……そんな風に言って、こきこき首を回す。この姐さんにとっては、汚れた衣を川で洗濯をすることもしとねの上で男を悦ばせることもそれほど変わりないのだろう。「遊女」という名に寄せられる数々の思惑をいちいち気にしていたらこの仕事は務まらない。

「あらあ、果瑠が来てるじゃない」
「お出でお出で、お上がりよ。美味しい菓子があるんだよ、食べていけば?」

 香油の匂いにむせかえりそうな次の間から、いくつかの知っている顔がひょっこりとのぞく。やはり爪弾き者は爪弾き者同士で寄り合う縁にあるのか。村人からは全く相手にされない果瑠もここの姐さんたちには優しくしてもらえた。だからといって、深く付き合うつもりなどなかったが。

 ――あたしも、こんな風になる運命だったんだ。

 ぼろをまとって、がさがさになった手のひらで枯れた冬を過ごす。今の惨めな姿を思えば、どこか知らない遠くの宿場で客を取っていた方が楽が出来たかもと思うこともある。別に恥ずかしいことじゃない、どうせまともな人生など歩めるはずもない身の上なのだ。堕ちるところまで堕ちるというのも一興だろう。
  それに、何も今からでは遅いということもないのだ。地に這いつくばって生きるばかりが能じゃない。もしもそんな話をちらつかせれば、ここにいる姐さんたちはすぐに親身になって落ち着き場所を探してくれるだろう。

「いいよ、遠慮しとく。今夜は久し振りにまともな飯を作らなきゃならないし。頼まれものもたまってるしな」

 そう? 残念ねえ……と言いながら、茜色の薄物をまとったひとりが小さな紙包みを持ってやってくる。首筋までべっとりとはたかれた白粉は、数時間後には男たちの汗で流れ落ちることになるのに。
  誰もが願う幸せなんて、おいそれとその辺に落ちているものじゃない。大抵のものはすでにお上の手の内にあって、こっちはいいとこそのおこぼれにすがるまでだ。どんなにあがこうと誰もが似たような人生、どこに違いを見いだすかと言えば、上を向いて生きるか下を向いて生きるかの心がけくらいか。

 口の奥で礼を言って宿を出ると、果瑠はまたひとつ大きな溜息をついた。

 

「おう、ようやく戻ったか」

 小屋まで帰ってみれば、しとねに転がっていたはずの大男の姿がない。一体何処に出掛けたのかと思っていると、裏でがさがさと木の枝が大きく揺れる音がした。

「――何やってんだい、騒々しいよ」

 庭に出てみれば、すでに3つのかごは満杯になっている。さらに玄太は今、大きな図体をものともせずに大木の枝によじ登って大きく揺らしていた。

「ほら、少し離れてろ。実と一緒に枯れ枝や毛虫が落ちるだろうが。それにしても今年も見事だなあ……今夜は久し振りに大根なますが食いたいぞ」

 言われたとおりに、少し離れた場所まで下がって成り行きを見守る。全く、図体に似合わず何という軽業だろう。枝から枝へ伝っていく姿も小気味がいいほどだ。ちんたらとお上の警護などせずに、とび職にでも就いた方がよっぽど性に合ってると思う。

「明日はこれを売りに行くからな、今夜のうちに角の家から荷車を借りておけ。ちゃんと油を差して手入れしておくんだぞ? ――さあ、これでもうほとんどいいか。そっちから、取り残しは見えねえか?」

 玄太は大きくしなる枝の上で、白い歯を見せて笑う。転がり落ちた実のひとつが柔らかな落ち葉の上を進み、果瑠の足下まで辿り着いた。

 

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