その小屋の裏手には、大人ひとりが抱えきれないほどの幹を持つ大きな柚子の木があった。 もともと柚子は日当たりのいい場所に植えるものとされてる。だからなのだろう、猫の額ほどしかない庭の一等地を占領していた。真夏にはいい日陰が出来て嬉しい限りだが、秋から冬にかけては落葉がひどく、それをかき集めるだけでも一日がかりになってしまう。柑橘類は常緑樹が多いとも聞くが、この樹は大層な変わり者なのかも知れない。 毎年、柚子の実がなるたびに楽しかったあの頃ばかりを思い出す。鼻の先がつんとして、何かがこみ上げてくるけど必死で堪える。いけないいけない、こんな風にしていても何も変わるわけはない。せっかく婆さまが遺してくれた住み処なのだから、しっかり守って行かなくてはばちが当たるというものだ。 「おやまあ、……今年も元気なことだねえ」 かろうじて手の届く低い枝に腕を伸ばしかけてやめる。柚子の小枝には鋭い棘がたくさんあって、迂闊に触れると怪我をしてしまう。手に傷でも作ったら大変だ。洗濯屋として生業を立てているのだから、たちどころに収入が途絶えてしまう。 ――さあ、どうしたもんかねえ……。 すべすべした樹の幹に手を当ててあれこれと思案する。踏み台でも持ってくればかごに一杯くらいは取ることが出来るだろう。だが、その先はどうしたらいいのか。このままではたわわに色づいた実が台無しになってしまう。 まあそうは言っても、悪いのは村人ばかりではないのだ。この南峰の集落は豊かな場所とそうではない場所との落差が激しい。特にこの地は南西の集落との境、痩せた土地ではろくな作物も取れず年貢を納めることすらも免除されるほどである。 果瑠の母さまも、やはりそんな風にして娘時代に別の土地に働きに出たひとりだった。織物などを扱う店の下女として務めたが、幸運なことにそこの若旦那に見初められたらしい。本来ならば妾のひとりにでも加えてもらえれば御の字というところだが、何と正妻の座に座ってしまったと言うから強運の持ち主だ。 そんなわけで命拾いをして、こうして今も生きながらえている。もともとは両親のものだったはずの店は、それから程なくして大損した挙げ句に夜逃げしてしまったと聞いた。だからあの番頭に恨み言のひとつも言いたくても、その後どうなってしまったか知れない。やはり人間悪いことは出来ないと言うことなのだろう。
腰に手を当てたまま、しばらくはのけぞるように木のてっぺんを見つめていた果瑠であったが、そのうち表の方で、荒々しい物音が響くのに気付いた。 「――おうっ、今帰ったぞっ!」 その野太い声を聞くだけで、まだ見えない姿が想像出来るほどである。果瑠はおやおやという表情になって、くるりときびすを返しその方向に歩いていった。 「何だよ、騒々しい。もう少し静かに出来ないもんかねえ……」 今年15になると言えば、嫁に行くには丁度いい年頃になる。少しくらいは色めいていてもいいのにと自分でも悲しくなるが、すでに諦めの境地に入りつつある。 「どうした、今回は随分早いじゃないか。また馬鹿をして、お務めをクビになってきたんじゃないだろうね。全くあんたは堪え性がないから、情けないよ」 憎まれ口を叩きながらも、手桶と手ぬぐいを準備してやる。戸口の脇に置いてある大きな石に腰掛けた男は、腰にぶら下げた酒をあおると「けっ」と短く呻いた。 いつ櫛を入れたのかも分からないほどのぼさぼさ頭、もちろん髭の方も伸び放題。さらに獣と見まがうほどの体毛が袖口や小袴の裾からのぞいている。生粋の南峰の血筋で元々は美しい金色だったはずの髪はすすけ、白く埃にまみれていた。肌も乳白色だが、その分赤ら顔が目立っている。「色の白いは七難隠す」とか言うのに、これではその効果も期待出来ない。 この半月ほどは山向こうのお社に働きに出ていて静かで良かったが、またしばらくは騒がしくなりそうだ。この男が戻ってくると一気に食料がなくなるから、前触れもなくいきなり顔を出されては困ってしまう。 「お前こそ相変わらずだな。そんな風に口の減らないことばっかほざいてるから、どこからもお声がかからねえんだぞ? ほら、ひと寝したら出掛けるから、それまでに着替えを用意しておけ。こっちだって、暇じゃねえんだからな、小便臭えガキの相手をしてるより綺麗な姉ちゃんたちと遊んだ方がよっぽど楽しいってもんだ。あ〜、戻るなり胸くそ悪いっ!」 そんな風にわめきつつ男が入っていくのは、隣の自分の家ではなく果瑠の住む小屋だ。しとねを整えるわずかばかりの板間の他はむき出しの土間で、この村のどこよりも貧相な造りになっている。もう毎度のことなので引き留めたりしないが、全く物好きな奴もいたものだと思う。 しばらくして薄い壁越しに大いびきが聞こえてきたのを確認して、果瑠は足下に散らかった手桶と手ぬぐいを片づけた。
◆◆◆
月の半分ほどはあちらでお務めにつき、そのうちふらりと村に戻ってくる。そんなときにまず先に果瑠の小屋を訪れるのも、もうお決まりのようになっていた。 ――まっ、似たもの同士の厄介者だから仕方ないか。 玄太のことを言えた義理ではない。果瑠も村ではそうとうな変わり者で通っている。これでも数年前まではお節介焼きの婆さんどもがあれこれと気遣い縁談の世話などをしてくれた。まあ、期待するような話が来るはずもなく、とんでもない爺さんの元への後添えとか使用人代わりの妾とかそんなのばかりではあったがこちらも文句を言える立場ではないのだ。 しかし、ある事件を境にそんな干渉もぴたりと止み、果瑠の身辺は気持ち悪いほど静かになった。 村長(むらおさ)の息子はいい年になるのに落ち着きがなく、正妻を娶ることもないままにのらりくらりしている。そのくせ女子にはだらしなくて、遊女小屋に入り浸るのはもちろん隙あらば村の女どもを手当たり次第に味見していくのだ。どこの土地でも同じだとは思うが、地位や名誉がある者には従わなくてはならぬのが世の常。自分の女房が手籠めにされたところで泣き寝入りをするしかない悲しさだ。 その日もいつものように村長の家から使い物を頼まれて、川下の村まで魚の干物を求めに行った。それを直々に館まで届けるように言われる。門番に渡してそれで済まされそうなものだが、奴は今日に限って自分の部屋まで上がってこいと言うのだ。馬鹿馬鹿しいと思いつつも従ったのが行けなかった、ふすまを開けたその向こうにはすでに二組のしとねが用意されていたのだから。 「ちょっとっ、待ちなさいよ! いい加減にしなさいよね……っ!」 初めは間違えて別の部屋を訪ねてしまったのかと思ったほどであった。だが、向こうはさすがの好色男、力尽くでも果瑠を我がものにしようとねじ伏せる。いくら暴れたところで、やはり男と女では力が違う。もう駄目かと思ったときに、飛び込んできたのが玄太だった。 その時の奴の形相と言ったら、今でも思い出すと背筋が凍り付くほどである。すでに相当に酒を呑んでいたのだろう、赤鬼のように染まった顔にぎょろりとした眼。辺りにおぞましくとどろく唸り声を上げながら、普通の人間の二倍はありそうな腕が、村長の息子の襟元を掴んだ。 何かがぐしゃりと潰れていく音を聞きながら、そこで果瑠の意識も途切れた。だから、その先のことはよく知らない。どうやって戻ってきたかも分からないが、気付いたときは自分の小屋に寝かされていた。 「――この、馬鹿野郎が」 もっと口汚く罵られるのかと思ったのに、玄太が発したのはそのひとことだけだった。もみ合った時に破けた衣も綺麗なものに替えられている。いつも通りにちびちびとやりながら、その晩ずっと玄太はそばにいてくれた。そして、その日からずっと果瑠の小屋で寝泊まりするようになってしまったのである。
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まあここは街道からもそれた場末の村だったし、辿り着く旅人なんて人里に熊が出るよりも珍しいことだ。だから「宿」などというのは表向きのこと、ここに住まう女たちが一晩いくらで客を取って生計を立てていることは誰でも知っている。 「おや、わざわざ届けてくれたのかい。ご苦労さん、いつも助かるよ」 けだるそうに顔を出した姐さんが、懐から小銭を出して果瑠に手渡す。それと引き替えにこちらが差し出すのは洗い立ての衣たち。抱えきれぬほどの量を仕上げたところで、もらえる駄賃はほんのわずか。それでも村一番のお得意様で、いつもありがたいと思っている。 「玄さん、戻ってきたんだろ? みんな待ってるから、早くお出でと伝えておくれ。ああ、でもあんまり薄汚いのは勘弁して欲しいね、布団に臭いが付くとなかなか取れないんだよ」 んじゃ、お務めまでもうひと寝するかね……そんな風に言って、こきこき首を回す。この姐さんにとっては、汚れた衣を川で洗濯をすることもしとねの上で男を悦ばせることもそれほど変わりないのだろう。「遊女」という名に寄せられる数々の思惑をいちいち気にしていたらこの仕事は務まらない。 「あらあ、果瑠が来てるじゃない」 香油の匂いにむせかえりそうな次の間から、いくつかの知っている顔がひょっこりとのぞく。やはり爪弾き者は爪弾き者同士で寄り合う縁にあるのか。村人からは全く相手にされない果瑠もここの姐さんたちには優しくしてもらえた。だからといって、深く付き合うつもりなどなかったが。 ――あたしも、こんな風になる運命だったんだ。 ぼろをまとって、がさがさになった手のひらで枯れた冬を過ごす。今の惨めな姿を思えば、どこか知らない遠くの宿場で客を取っていた方が楽が出来たかもと思うこともある。別に恥ずかしいことじゃない、どうせまともな人生など歩めるはずもない身の上なのだ。堕ちるところまで堕ちるというのも一興だろう。 「いいよ、遠慮しとく。今夜は久し振りにまともな飯を作らなきゃならないし。頼まれものもたまってるしな」 そう? 残念ねえ……と言いながら、茜色の薄物をまとったひとりが小さな紙包みを持ってやってくる。首筋までべっとりとはたかれた白粉は、数時間後には男たちの汗で流れ落ちることになるのに。 口の奥で礼を言って宿を出ると、果瑠はまたひとつ大きな溜息をついた。
「おう、ようやく戻ったか」 小屋まで帰ってみれば、しとねに転がっていたはずの大男の姿がない。一体何処に出掛けたのかと思っていると、裏でがさがさと木の枝が大きく揺れる音がした。 「――何やってんだい、騒々しいよ」 庭に出てみれば、すでに3つのかごは満杯になっている。さらに玄太は今、大きな図体をものともせずに大木の枝によじ登って大きく揺らしていた。 「ほら、少し離れてろ。実と一緒に枯れ枝や毛虫が落ちるだろうが。それにしても今年も見事だなあ……今夜は久し振りに大根なますが食いたいぞ」 言われたとおりに、少し離れた場所まで下がって成り行きを見守る。全く、図体に似合わず何という軽業だろう。枝から枝へ伝っていく姿も小気味がいいほどだ。ちんたらとお上の警護などせずに、とび職にでも就いた方がよっぽど性に合ってると思う。 「明日はこれを売りに行くからな、今夜のうちに角の家から荷車を借りておけ。ちゃんと油を差して手入れしておくんだぞ? ――さあ、これでもうほとんどいいか。そっちから、取り残しは見えねえか?」 玄太は大きくしなる枝の上で、白い歯を見せて笑う。転がり落ちた実のひとつが柔らかな落ち葉の上を進み、果瑠の足下まで辿り着いた。
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