TopNovel>鈴と羽根・2


…2…

 

 婆さまとの別れは突然だった。

 昨日はいつものようにふたりで一緒に夕餉を食べて、そのままひとつのしとねで横になったはず。それなのに、普段なら一番鶏と一緒に起きるはずの婆さまがいつになっても動かない。どうしたのかと思って身体を揺すったら、ぞくっとするほど冷たくてすでに硬くなっていた。
  そのまま呆然と座り込んでいたら、陽が高くなった頃に異変に気付いた村の人たちがどやどやとやってくる。いつになくたくさんの足音が土間に響き渡っても、果瑠はやっぱり死装束で横たわった婆さまの隣でぼんやりしていた。

「何だい、可愛くない子だねえ。たったひとりの婆さまが死んだってのに、泣きもしないよ」

 気が付いたら、もう通夜の支度は全部整っていた。忙しく料理を運んでいた近所のおかみさんが、果瑠に躓きそうになった拍子にそんな言葉を吐いていく。間に合わせにムシロを敷いた狭い土間に村中の男衆が集い、賑やかに酒の酌み交わしが始まる。祝言だろうが通夜だろうが、皆で騒いで夜を明かすのが常。何もこの場だけが特別なものではなかった。
  ろくな炊事も出来ない子供を手伝わせようという気にもならないのか、勝手に小屋に上がり込んだ女たちは今や唯一の家主である果瑠のことはお構いなし。まあ邪魔さえしなければいいのだろうと判断して、隅の方に縮こまっていた。

 ――何で、みんな楽しそうにしてるの。これじゃあうるさくて、婆さまが可哀想だ。

 動かない頬の下で、果瑠はそんな風に思っていた。でも、いくら小娘ひとりがわめいたところでどうなることでもないのは分かってる。今までは何があっても婆さまが守ってくれた。でももうこれからは、自分ひとりで生きていくしかない。そう思ったら、何が何でも強くならなければと思う。べそべそと涙を流したところで、婆さまが戻ってくるわけもないのだから。
  何よりも信じられなかったのは、そんな馬鹿騒ぎの一番真ん中に玄太がいることだった。まあ、いつもと変わらないと言えばそこまでだ。あいつは酒が振る舞われる場所だったら、自分には縁があろうとなかろうと潜り込んでしまう。赤ら顔で高笑いをする姿なんてもう慣れっこだったのに、その時はとてつもない裏切りのように思えてならなかった。

 ――全く、あの馬鹿めが。少しくらいは、しんみりしたらどうなんだい。

 男のひとり住まいで、しかもあの通りのがさつな奴だ。自分ひとりの飯のために釜に火を熾すことすら面倒がって、何かと理由を付けては果瑠たちの小屋に顔を出す。手みやげは小魚の干物をほんのちょっと、それで自分は婆さまと果瑠が三日かかっても食いきれないほどの飯をかっ食らう。婆さまも婆さまだ、あんな奴とっとと追い出しちまえばいいのにやたらと世話を焼く。だからあの馬鹿がますますつけ上がるんだ。

  突然性格を改めろとは言わない。ただ、こうして婆さまをあの世に送る夜くらい静かに過ごしてはくれないだろうか。今頃、婆さまの魂もどこかで悲しんでいるはずだ。

 

 運ばれた膳にも手を付けず、ふて腐れて膝を抱えているうちにいつか眠り込んでしまったらしい。

 ふと目を覚ましたときはもう真夜中で、辺りはしんと静まり返っていた。あんなに飲めや歌えやで騒いでいた村人も今はすっかり姿を消している。たった一本の送り蝋燭がゆらゆらと土壁を照らしていた。

 すすり上げるような声が耳に届いて、はっと向きを変えた。自分の上には薄っぺらい衣が掛けられている。まだ暖かい季節だったから、それだけで十分だった。

 ――何……?

 目の前にあったのは、壁のように大きな背中。いや、最初は樽か何かがそこに置かれているのかと錯覚したほど、それは無機質な存在に見えた。眠りから覚めたばかりの視線でぼんやりと見守っていると、ただの塊にしか見えなかったそれがかすかに震えている。そしてまた、ずるっと大きくすすり上げる音がした。

 玄太、だった。いつからそこにいるのだろう、横たわった婆さまの亡骸と向かい合っている。時折、しゃくり上げる声、それがだんだん大きくなっていく。そう、……玄太は泣いていた。一体どういうことだろう、さっきまではあんなに陽気に騒いでいたのに。あまりのことに目の前の事実を信じられず、果瑠はそのまま寝たふりを決め込んだ。
  ぼそぼそと何かを話しかけているようであるが、その内容までは聞き取れない。変な時間に目覚めてしまったためか妙に冴えてしまった頭で、再び眠りに就くことも出来なかった。狭い小屋に、今はふたりきり。白々と夜が明けていくまで、果瑠はそのまま玄太の背中を見守っていた。

 

 玄太がろくでもない男だと言うことは周知の事実であったし、果瑠もそれに異存はなかった。

 婆さまがいなくなっても、取り残された小娘を親代わりになって養ってやろうという立派な心がけなどあるはずもない。それどころか十にも満たない子供相手に食事の支度をしろとのたまう。しかも半月ほどほっつき歩いて戻ってきたときには、山のような洗い物まで抱えてくる。
  どこまでが嘘で誠か分からないような馬鹿馬鹿しい武勇伝を並べ立て、ひと寝したあとはお決まりで川向こうの宿に出掛けていく。あっちの女たちには洒落込んだ土産物などをせっせと買い込んでいるようであるが、果瑠の方はいつもだんご一本などで簡単に誤魔化されていた。

 

◆◆◆


「何だぁ、どいつもこいつもしけてやがって。あんなにたんまりと積んできたのに、たったこれだけの銭しか手に入らないとはな。けっ、おもしろくねえっ!」

 空になった荷車の脇で、玄太は大声でわめき立てた。

 本当に情けない男だ、こんな風にわざわざ大袈裟に騒ぎ立てることなどないのに。道行く人がちらちらとこちらを振り返っていくのに耐えきれず、果瑠は他人の振りで車から少し離れたところに遠のいた。こんな奴と知り合いだとは思われたくない。それは当然の思考だろう。

 丁度、村の市と重なったため、街道にはかなりの人が出ていた。いつもの年と同じように、柚子は面白いように売れていく。あのぼろ小屋の裏に生えた木はなかなか良い仕事をするらしく、味が濃くて汁が多いと評判になり毎年決まって買いに来てくれる顔もあった。
  手にした分け前は丁度半分。収穫も荷車引きも客の呼び込みもほとんどは玄太の仕事であったから、この配当は公平とは言えないかも知れない。だが、あの柚子の木は果瑠のものだからいいのだと玄太は言う。変なところで、少しだけ律儀な男だ。

「さあっ、酒だ酒だ! おい、果瑠。今日はみみっちくするんじゃねえよ? どーんと、特級なのをたんまりと買ってこい。分かってるだろうな、玄太様にしっかりと振る舞えよっ!」

 とりあえず、その酒代は自分の懐から出してくれるらしい。いくらかの銭を受け取りながら、果瑠は大袈裟に溜息をついた。

「……いいけど。上等な酒なら、ほんのちょっとしか買えないよ? あんたの舌は酒の味の違いなんて分かりゃしないんだから、ほどほどにしておいた方が腹がふくれると思うがね。その分、肴を弾んでやるよ」

 そう言い合いつつも、自分の懐に忍ばせた銭が心地よい。ああ良かった、これで今年もどうやら新年を迎えることが出来そうだ。方々への一年分の支払いを済ませても、まだいくらかのものが残るだろう。そうすればふたり分の餅と、尾頭付きの魚が一匹くらいには回りそうだ。
  別に隣を歩くならず者の分まで正月の膳を整えてやる義理はない。それなのに、婆さまが死んだあとは毎年大晦日にはきっちりと戻ってくるのだから始末に負えないのだ。所帯持ちではない働きには、出仕先で正月の振る舞いがある。そこでたんまりと胃に詰め込んできたほうがよっぽどいいと思うのに、馬鹿な男だ。奴の欲しがる特級の酒とやらも浴びるほどにあるだろうに。

 自分たちが住むちっぽけな村から一刻ほど下ったところにある宿場町。街道が何本か交差しているから、自然と人が集まってくる。軒を連ねた店もこの辺りでは一番品揃えが良く、注意深く覗いていけばとんでもない掘り出し物に巡り会えたりする。髪の黒い者や銀の者、そして果瑠のように赤茶の者もちらちら見える。だからこの場所が好きだった。ここでなら、自分も群衆の中に紛れることが出来る。
  膝の辺りまでの衣の裾は、すでにぼろぼろにほつれている。何度も裏から布を当てて繕ってきたが、そろそろ限界のようであった。もともとが古着であったため、すでに元の色はなく薄汚い模様がぽつぽつと残っているのみである。道行く者たちの誰よりも自分がみすぼらしい格好をしているとは分かっていたが、特に惨めったらしい気持ちになることもなかった。

「……あ」

 辻を曲がる少し手前。古着屋の店先で、ふと足が止まる。果瑠は玄太の方を振り向くと、先ほど渡された銭をその毛むくじゃらの手に戻した。

「先に酒屋に行っててくれないか? あたしはここにちょっと用があるんでね」

 面倒くさそうに銭を受け取った玄太は、次の瞬間にふと思いついたように色とりどりの衣に目をやる。そして積み重ねられた木箱のひとつから、花色の衣を抜き出して手にした。

「どうだい、まだこれは新しそうだぞ。織りもしっかりしてるし、お前の正月の晴れ着には丁度いいじゃねえか?」

 玄太の言葉に、果瑠は初めてその衣に目をやった。今まで全く視界に入ってなかったのだから仕方ない。最初から、女物の品には目もくれていなかった。それにしても、よくもまあ玄太がこんな衣に気付いたものである。
  茜色の織りは良質の糸を使っているのだろう、艶々として目に鮮やかだ。袖や裾に散った白と紅色の桜の花びらも、この頃の流行のものである。しかしその気もなしに裏になった札をのぞいたとき、乱暴にそれを元の箱に突っ込んでいた。

「馬鹿だねえ、どっかの立派な御館のお姫さんじゃあるまいし。あたしみたいな女がこんな衣を持ってたって、どうなるんだよ。いくらめでたい正月とは言っても着飾りすぎれば、身の程知らずといい笑い物になるだけさ」

 別に自分を卑下したわけではない。本心からそう思ったから口に出したまでだ。人にはそれぞれ、自分にふさわしい生き様がある。果瑠のような娘がどんなに飾り立てたところで、人々の失笑を買うだけなのだ。

「それより、これ。せっかくの正月だから、たまには取り替えてあげたらどうだい? そんなぼろだと、今にちぎれてどこかに落っことしてしまうよ」

 猫に鈴、と言う言葉があるが、何故かここにいる大男はいつも首から飾り紐に通した鈴をぶら下げていた。お務めの時も遊女たちと遊ぶ時も肌身離さずいるらしい。大振りの鈴は赤子の握り拳ほどの大きさがあり、身体を揺らして歩くたびごろんごろんと寝ぼけた音を出した。
  何しろ乱暴に扱うから、丁寧に編み込まれたはずの紐もすぐに弱ってしまう。簡単なものなら果瑠もどうにか編むことが出来るが、正月くらい綺麗なものに取り替えてもいいのではないかと思った。いくら手仕事と言っても、紐ならば値段もそれなりだ。今日の礼にこれくらいはいいだろう。

「けっ、そんなもので誤魔化そうとしたって無駄だからな。だいたい女の買い物は長くて敵わん、とっとと決めて追いかけてこい。俺はもう車のところに戻ってるからな」

 素直に喜べないのが、この男の性分だ。そんなことはとうに分かり切っているから、今更腹を立てることもない。色とりどりに提げられた紐を一本ずつ改めて一番気に入ったひとつを選び出す。そして懐から銭の入った袋を取り出して店の奥に声を掛けようとしたとき、また先ほどの木箱に目がいった。

 ――あ、あれなら玄太に丁度いいかも。

 選んだ紐を腕に回したまま果瑠が手にしたのは、かなり大振りの男物の羽織であった。庶民の服装は御館務めでもしない限りは女も男も寸詰まりの衣になる。そして男の方が裾を短く、その下に膝丈の下履きをつけるのだ。暖かい頃ならそれで十分であるが、凍てつく冬ともなればたまらない。下履きを長くしたり厚めの草履で暖を取るほかに、暖かい綿入れは必需品であった。
  変なところで見栄っ張りな玄太は、お仕えするお上から古着を頂くことを良しとしない。お偉いさんは毎年毎年身につけきれないほどの衣を買い込むのだから、そのおこぼれくらい何でもないのにおかしな奴だと呆れてしまう。下働きであるなら、真冬であっても外に出ることがほとんどである。いくら肉付きがいいとは言っても、相応のものを身につけなければ身体の方が参ってしまうだろう。
  だが、玄太はあの通りの大男だ。普通に仕立てた衣では、全く身体に合わない。だから、いつも求めた古着を一度解いてぼろをつぎ足してどうにかかたちにする。縫い物をきちんと習ったことはないが、それくらいのことは知らないうちに出来るようになっていた。でもこの羽織であれば、ほとんど直す必要もない。 

「それ、お勧めですよ。なかなかの値打ちものですからね、悩んでいるとすぐに脇から手が出て売り切れてしまいますよ?」

 商人の顔をした女将が奥からひょっこり顔を出す。恭しい手つきで羽織を果瑠に良く分かるように広げて見せ、人懐こそうな笑みを口元に浮かべた。確かにその言葉に嘘はないと思う。だが、恐る恐る訊ねた売値はかなり無理をしないと工面出来ない金額であった。

 ――どうしよう。だけど、こんな掘り出し物、二度とお目にかかれるか分からないし……。

 こちらの気持ちがかなり傾いていることを察したのだろう。女将はさらに染め物の下履きまで付けてくれると言い出す。それでもなかなか首を縦に振ることが出来ず、果瑠は途方に暮れてしまった。

 

◆◆◆


「馬鹿な奴だ、正月くらい気張らなくていいのかい。お前がいつまでもそんな風じゃ、婆さまも墓石の下でさぞ嘆いているだろうよ?」

 玄太の言葉に一瞬どきりとしてしまった。でも、すぐに彼が示しているのが先ほどの女物の衣だと気付く。戻りの車は軽く、空の荷台は広々としている。まだまだ小さい頃は、この上に乗せてもらって帰るのが楽しかった。今でも無理をすれば乗れないことはないが、いくら何でも大人げない。

「馬鹿はどっちだい、よく考えてみろよ。あんな衣であたしやあんたの腹が膨れるかい? 着るもんの心配はまずはしっかり食って腹を満たしたあとに考えればいいんだよ」

 かなり投げやりな口調になってしまったが、何もあの衣に少しの未練があるわけでもなかった。そりゃあ、果瑠だって若い娘だ。心躍るような美しい絹を見れば、羽織ってみたくなるのが正直なところである。だがそれの代償に失うものの大きさを考えたら、すんなりと簡単に諦めることが出来た。

「ふん、偉そうに言いやがって。ちったあ、しおらしくしたらどうなんだい」

 岩の多い山道にさしかかったため、荷車はごとごととさらに大きな音を立てる。その響きに負けないほどの大声で、玄太はぼやいた。

「ま、今に見てろよ。給金を使い切れねえほどもらえるでっけえ仕事を手に入れて、おこぼれをお前にも回してやるとするか。村の奴らが目ン玉を剥き出すほど上等な衣で飾ってな、どっかの偉いお役人にでも縁づけてやるよ」

 偉そうに胸を張ってそんなことを言うが、果瑠は気にも留めない風にかわした。全く、いつものことながら大ボラ吹きの好きな男である。雀の涙ほどの給金は全て呑み買いに消えていき、ちっとも懐には残らない。そんな風にその日暮らしでずっと生きてきた奴が、今更態度を改めることなど出来るものか。

「俺だって、あの婆さまにはえらく世話になったんだ、それくらいはしてやんねえといつか化けて出て来るかも知れねえからな。ほらさ、馬子にも衣装って言うじゃねえか。騙されたと思って試してみろ、まだまだ捨てたモンじゃねえぞ」

 この話も、もう耳にタコが出来るくらい聞き飽きた。

 初めのうちはこっちもそれなりに期待して聞いていたが、いつの間にか馬鹿馬鹿しいとしか思えなくなる。だいたい、どんな風にして自分が名のある御方に縁づくことが出来ると言うのだろう。ああいうのはやはりそれなりの段取りがあるものだ、どこの馬の骨か分からないような女子(おなご)では、名のある御館に下働きに出ることすら難しい。

 果瑠の母親は思いがけないことに立派な店の正妻に収まったが、特に器量よしであったという話も聞かない。あの婆さまの娘であり、自分の母親である。赤子の頃に死に別れて顔も覚えていないが、だいたい想像が付くと言うものだ。
  ただ明るく朗らかで気持ちのいい娘ではあり、誰からも好かれていたらしい。まあ顔が人並みであれば、それで道が拓けることもある。そう考えれば、果瑠の場合はさらに絶望的であった。いい年をして色気もなく誰かに媚びを売ることも知らない。口は達者であるが、それが何の得になるはずもなかった。

「さあね、ご大層なことを並べ立てる前に、とにかくは今のきっちりとお役目を果たしておくれ。あんたが惚れ込んでるお社様とやらはかなり出来たお人のようだが、それでもやはり我慢の限界ってもんがあるだろうしね。これで愛想を尽かされたら、もうあとがないよ。分かってんだろうね?」

 がつんと言ってやると、玄太は口の中で「けっ」と小さく呻いてそのまま押し黙ってしまった。

 

 それきりふたりの間には会話がなく、歩みに合わせてごろごろと荷車の回る音が辺りに響くだけ。そのうちにようやく村の入り口まで辿り着いた。刈り取りの終わった耕地に人影もなく、もともと貧相な村が冬の訪れと共にさらにみすぼらしさを増したように思える。

 一年前も、こうして玄太とふたりで柚子を売りに行った。多分、また来年もその次の年も、同じ年の瀬を迎えることになるだろう。十年後の姿までが容易に想像出来る、そんなしみったれた気分を振り払うように、果瑠はしっかりと背筋を伸ばした。

 

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