「……どうしたんだい?」 重い瞼を押し上げれば、目の前は白い靄。まるで夢の続きを見ているような感覚、ぼんやりとけむった空間が広がっている。天井近くの灯り取りから見える空はまだ暗く、夜明けまではいくらかの間があるように思われた。 身体をしっとりと覆う気だるさに、にわかには身体の向きを変えることも出来ない。ようやく振り向いたその場所はすでにもぬけの殻。薄っぺらい布団がかろうじてぬくもりを残していた。 「玄太?」 ああ、やはり思った通りだ。この狭い小屋に隠れる場所などあるわけもなく、大男はすぐ側の板壁に額を押しつけてうずくまっている。一通り着せてやった寝着はすでにあちこちがはだけ、もう一度整えなければその役目を果たすことも出来なそうだ。 「すまねえ、……起こしちまったか」 こちらを振り向くことはない。だが微動だに動かない背中は確かにそう応えた。やはりしっかり目は覚めているのだ、何も寝ぼけたまま歩き回っているわけではなさそうである。 「そりゃ、分からないわけないだろ? ……ほら、もう少し横になってたほうがいい。しっかり身体を休めておかないと道中が辛いだろうよ。そんな隅っこにいたら、風邪ひいちまう。さすがに今夜の冷えはどんな間抜けでも容赦しねえって感じだ」 あちこちによどむ凍えた気までが心地よい馴染みの空間。普段よりは声が物音がはっきりと響くする気がするのは、出立を控えてすっかり荷造りを終えてしまったからだろうか。もともと身の回りには必要最低限の品しか置かないようにしてきた。それでも生活の色が消えると全く違った場所のように思える。 「お……おうよ。そりゃ、分かってる」 刹那、壁板の髪の毛一本ほどの隙間から、外気がつうと流れ込んできた。布団から出た指先にまずはそれを感じ、次にはだけた胸元に乱れた髪に絡ませていく。明け方近くなって、外はさらに冷え込みが深くなっているようである。だが、果瑠は意を決して温かな安息の場所から起き上がった。
再会はいつになるか分からないと覚悟していた男が思いがけず舞い戻って来たのは、今から遡ること丁度一月前。正月を間近に控えてあれこれと準備を始めようとする頃であった。 何しろ急なことであったし、しばらくは夢を見ているような気分で目の前で起こる全てを事実として受け止めるのも難しい有様。しかしながら、もとより存在感が有りすぎな男は視界から外そうとしても不可能な程で、あっという間に永遠とも思えた空白の時間を埋めてしまった。 古馴染みとは言っても、始終顔をつきあわせていた訳ではない。 そして玄太は戻ってきた。もうとっくに期待することも忘れかけた心を持て余していた果瑠の元に。しかも彼の地で知り合ったさる御方の元に仕官し、お役目を与えられていると言う。だから迎えに来たんだと告げられても、すぐにはその言葉を信じることが出来なかった。 「おめぇを連れて戻ると御館様に約束したんだ。今の暮らしは俺にはもったいないほど幸せなものだと思うが、やっぱり何かが足りねえ。やっぱ、果瑠がいねえと始まらないんだ。こんなに誰かを恋しく思ったことはなかった、終いには気が狂ってしまうかと思ったよ」 再び共に暮らせる日が来ればどんなに嬉しいだろうと思っていた。だが玉手箱を開けるように次から次から新しい事実を突きつけられせっつかれてはたまらない。頭の中が混乱しすぎて気が遠くなりそうだ。 しかも新しい生活はそれだけには終わらない。ふたりはたった一夜のこととはいえ、すでに互いを許し合った仲なのだ。夫婦(めおと)と言う新しい関係になれば、共に過ごす夜も長く激しいものになる。何度も何度も繰り返し求められ、それを拒む理由もなかったが、翌日に差し支えるほど疲れが残るのはいかほどかと思っていた。 「どこにいても、おめぇのことばっか考えていた。正直、もうこの辺でくたばってもいいだろうと思ったことも幾度かあったが、そのたんびに果瑠のことを思い出してな。絶対に生きて戻ろう、そして腰が立たなくなるくらい押っ立てて突きまくってやろうとそればっかを考えていたよ」 山のような大男にこんな風に言われたら、ほとんどの女子は裸足で逃げ出すだろう。たいそうな男好きであったとしても、力任せに押しまくられては命の保証もない。しかし果瑠は違った。どんな野蛮な物言いにも驚くほど素直に自分の身体が応じ、柔軟に受け入れていく。初めての夜がそうであったように、ふたりは改めて申し合わせるまでもなく結局は似合いの相手だったのだ。 それは今夜であっても例外ではなく、早めの夕餉を終えると玄太は同居人である小助と阿見を元は自分のねぐらだった小屋へと追い立てた。こちらの都合を分かっている小助はにやにやしながらも大人しく従うが、小さな阿見の方は全く面白くないらしい。大好きな玄太が戻ってきたのは嬉しいが、今まで自分のものだと思っていた果瑠を独り占めされるのは許せないと言いたいのだろう。 「なんだい、玄さんの馬鹿! 一晩くらい替わってくれたっていいじゃないか」 とか何とか、この頃ではあどけない姿からは想像できないほど生意気な口も叩くようになっている。これも成長の過程だと思えば微笑ましいが、毎夜毎夜この通りじゃたまらない。阿見は西南のお屋敷に自分が連れて行って貰えないと知って口惜しいらしく、その荒れようは日に日にひどくなるばかりだ。あれではあとを任される小助もたまったものじゃないだろう。
「ほら、駄目だよ。いくら馬鹿は風邪ひかないって言ったって、ものには限度がある。夜が明ければいよいよ出立だって言うのに、一体どうしたんだい」 幾度も綿を打ち直し、それでもまたぺちゃんこになってしまった上掛けは引きずるようにして持たなければならない。肩に止まる冷気を振り解きながら進むと、まあるい背中にそれを掛けた。こちらの足音も気配もとっくに伝わっているはずなのに、その肩先はぴくりと一瞬動いただけである。 「……玄太、さあ戻ろう。もう一眠りしないと」 一体何処まで踏み込んでいいのか、迷うことはまだ多い。全てを知った仲ではあっても、初めから年の差がありすぎるだけに知らないことが多すぎる。だがここで躊躇っていては駄目なのだ。これから長い人生を互いに寄り添って歩いて行かなくてはならないのなら、心を鬼にして強く出ることも時には必要である。 少し強く肩を押すと、壁際の男はようやく顔を上げた。 「……」 現れたその表情に、果瑠はしばし言葉を忘れた。ふたりを取り巻く気が、さらに凍えた気がする。実際、玄太の額に貼り付いた金色の髪は凍り付いているのか白く色を変えていた。 「……どうした?」 もっと別の訊ね方があっただろうか、だが咄嗟には他の言葉は思いつかなかった。玄太は泣いていた、声もなくただひたすら。その目尻から、堪えきれないひとしずくがまたこぼれ落ちる。 「かっ……果瑠……っ!」 血の気を無くした唇が、自分の名を呼ぶ。そのまま男は再び俯いて、その膝にぼとぼとと新しい涙を落とした。 「あっ、……あいつが俺を睨んでいる。あいつだけじゃねえ、おとうもおかあも……他の弟妹たちも。どうしたらいいのか分からねえ、どうしてやったらいいのか分からねえ……」 話の前後がよく分からない。もしかすると悪い夢でも見たのだろうか、と果瑠は思った。前にも幾度か玄太は互いが寝静まったあとひとり布団を抜け出すことがあった。厠にでも行っているのかと深く考えてもみなかったが、あの夜も同じような目に遭っていたのかも知れない。 「……玄太」 自らの運命に従い、その道から決して逃げることなく人生を全うする。しかし人というものはいつも弱い。弱いから、負けそうになる。そしてどうしたら自らの作った穴に落ちずにすむのかと、いつも悩み続けているのだ。 「あんたは生きておくれ、自分のためにもあたしのためにも生きておくれ。あたしが願うのはそれだけだ、あんたが自分の負った過去が辛くて歩けねえと言うなら、あたしが半分引き受けよう。そういうもんだろ、夫婦っていうのは」 自分の声が信じられないくらい震えている。それは寒さのせいだけではない、何か見えないものに怯える心があるからだ。だが、負ける訳にはいかない。かつて自分は誓った、いつでもこの男の杖になり共に生きようと。あのときの決心を忘れなければ、きっとどんな山でも乗り越えられる。ふたりでひとつの人生ならば。 「……う……ううう……っ!」 玄太は何も答えず、果瑠の背中に腕を回して抱きすくめると声にならない呻きをあげた。遠く近く、高く深く。ただひたすら、何かを祈るように。
気の遠くなるぬくもりの中で、果瑠もまたひらすらに願った。永遠に許されることはなくてもいい、だが残された者としてこの先もお天道様の下で生きていくことが叶うようにと。 心と心を紡ぎ織り合わせ、いつか一枚の反物が美しい錦絵の如く仕上がる頃に。 了(080730)
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