TopNovel>鈴と羽根・8


…8…

 

 開け放った戸口から、昼間の輝きが差し込んでくる。明るい部分に背を向けて、顔が暗がりになった役人はそのまま大股にすぐ目の前まで歩いてきた。

「……えっ……」

 さすがの果瑠も、これには咄嗟に反応が出来ない。

 ちょっと待て、こいつはどこのどいつだ。何を馴れ馴れしく名前を呼ぶんだろう。自慢じゃないが、こっちは都の役人様になど知り合いはいない。飛んだ人違いだと言いたいが、向こうは自分の名前を知っている。

  飯粒の付いたままの手を前掛けで拭いながら後ずさりをしてみたが、悲しいかな狭苦しい小屋の壁はすぐ後ろまで来ていた。

「お、おいっ! 果瑠? ……どうしたって言うんだ、俺だ、俺。何でぇ、そんな変な顔をするんだよ、勘弁してくれねえか!?」

 見たこともないような艶やかな織りの袂からこぼれるのは、毛むくじゃらな太い腕。見るからに装いとは不似合いなそれが自分の方にぬっと伸びてきて、今にも掴まれそうになる。ああ、どうしよう。何か武器になるようなものが手元にあればいいのに。

「ねえ、ねえ、ねえ」

 叫びたくても声も出て来ないまま震え上がっていると、大きな影のすぐ後ろにいた阿見が無邪気に役人の衣を引っ張った。次の瞬間に初めてその存在に気付いた男が振り向くと、いよいよ確信したんだろう。嬉しさを隠しきれない様子で長袴に包まれた足にまとわりつく。

「うわぁ、やっと帰ってきたんだね! ねえ、玄さんっ……、ボクだよ、ボク。覚えてる〜っ!?」

 踊りださんばかりにはしゃぎ回る子供の姿を視界に捉えながら、果瑠はそのままへなへなと座り込んでしまった。

 

◆◆◆


 ――何が、どうして、どうなっているのか。

 順序立てて冷静に考えてみようとしても、悲しいかな頭の中の歯車は鈍い音を立てて空回りするばかり。
  騒ぎを聞きつけて戻ってきた小助と、子犬のように客人にじゃれついている阿見。そして――戸口の向こうから好奇の目で小屋の中を覗き込む村人たちの姿。目の前の全てを受け入れられないまま、果瑠は相変わらず部屋の隅から動くことが出来なかった。

「本当に驚いたよ! すげえじゃないか、玄さん……! まさかこんなに早く戻ってくるとは思わなかった、それにこの身なりは一体何だ? とんでもない大出世じゃないか!」

 いつの間にどこからかき集めてきたのか、彼らの目の前にはいくつもの酒瓶が置かれている。もちろん、子供の阿見には飲めないが、ふたりの男どもは上機嫌で次々にぐい飲みをあおっていた。そのほか板間には小魚を炒ったのや干し豆、正月用の餅菓子まで並んでいる。

「まあなぁ、そりゃ色々あったがよ。あっちの生活も話に聞くほど悲惨なもんでもなかったぞ。共に流れ着いたのはみんな気のいい奴らだし、こんな貧乏な村にいるよりもよほど上等な食事にありつける。
  もう少し長居をしても良かったが、任期を終えて領地に戻ることになったお役人様が俺にとことん惚れ込んでさ、一緒に付いてきてくれと泣いて頼むのには参った。あんまりしつこいから、後ろ髪を引かれる思いで俗世に舞い戻ってきたってところよ」

 不格好なほどに反っくり返って笑う姿は、昔と少しも変わらない。そう、あれは玄太だ。あの日全ての想いを堪えてこの小屋から送り出した荒くれ男に間違いない。以前とはかなり面差しが変わってしまった上に、この通りの派手派手しい衣装。記憶の中に残っている姿と重ね合わせるまでには、しばしの時間が掛かった。

「へええ、それじゃあ、玄さんは今は西南の御領主様の元にお仕えしているんだ。さすがだなあ、やってくれるよ。で、どんなお人なんだい、その御方は」

 さあもう一杯、と小助が空になった器になみなみ酒を注ぐ。玄太はそれを上機嫌で飲み干すと、だらりと口元から流れた雫を躊躇うことなく金ぴかの袂で拭った。

「お年は若いが、とにかくご立派な御方だよ。何しろ、俺様を選んでくだすったんだから、人を見る目は確かだ。領下の民衆からも慕われていて、将来性もある。しかも目の覚めるようなお美しい奥方に今春お生まれになったばかりの若君もおられて、お住いになる御館の華やぎはたとえようのない程だ。お仕えしている者たちもみんな気持ちのいい奴らばっかりでな」

「うわー、赤さまがいるの? いいなあ、ボクもそんな御館に行ってみたいよっ! 玄さんの子分だって言ったら、ご馳走がもらえるかな?」

 阿見は先ほどから玄太の膝に乗っかったまんまだ。干し豆や餅菓子を頬張りながら、必死にふたりの会話に付いていこうと口を挟む。こんなに楽しそうにしている姿は初めて見た。やはり両親と次々死に別れてしまった過去があるからだろう。突然姿を消した玄太を、彼は不安な心のままでひたすらに待っていたのだ。

「なーに、言ってんだ、このガキが。御領主様って言ったらな、あのふんぞり返って威張っている村長の百倍くらい偉い御方なんだぞ。お前なんか、御館の土間にも上がらせて貰えないよ」

 そんなことがあるもんかと阿見は真っ赤な顔をして応戦し、からかった小助に食って掛かろうとする。玄太は陽気に笑い、膝の上の子供をなだめていた。

 

  再会を喜び合う、仲間たちの席。和やかなやりとりの中に、果瑠だけが入り込めない。小屋の外はいつか日も暮れて、開け放しの戸口から冷たい気が流れ込んできた。

「ね、姉さんもこっちに来なよ。せっかくのめでたい日だ、たまには酒もいいだろう? 今日のは特別に上等な奴なんだよ」

 そんな問いかけも何度目になるだろう。しかし、果瑠は小助の方をちらっと見ただけで返事もしなかった。

 自分でもよく分からない、確かに玄太が戻ってきたのだから嬉しいはずだ。それなのに、心は鉛を詰め込んだように重く、時が経つにつれてさらに苛立ちが募ってくる。
  よほどこの場から飛び出してしまいたいと思ったが、よくよく考えたらここは自分の家だ。出て行くのはむしろ人の家に勝手に上がり込んで馬鹿騒ぎをしているあっちの男どもの方じゃないか。

「……姉さん……?」

 再び探るように呼びかけられたが、今度は顔も上げなかった。小助も相当に困り果てているのだろう。努めて明るく過ごしてはいたが、やはり始終こちらを気にしているのには気付いていた。だからといって、どうすることも出来ない。果瑠としては、胸の中に渦巻く理由も分からない怒りをどうにか抑え込むだけで精一杯だった。

 しん、と辺りが静まり返る。かたかたと戸口を揺らす音までが、耳に響いてきた。その静寂を破ったのは、やわら立ち上がった小助である。

「あ、――もうだいぶ夜も更けたしっ。そろそろ、俺は戻るわ。……な、阿見。お前は今夜、俺んとこに来い」

「えー、どうして? ボクは姉さんと一緒がいいーっ!」

 すぐさま反発した阿見に、小助は何やら耳打ちをしている。しばらくして話が付いたのか、ふたりは額をくっつけるほど顔を寄せて頷き合った。

「んじゃあ、また明日! 玄さん、姉さん、おやすみっ!」

 小助は草履に足を突っ込むと、阿見を抱えるようにして戸口から飛び出していった。その足音が遠ざかるのを耳で追いかけたあと、果瑠は壁にもたれかかったまま深い溜息をついた。

 

◆◆◆


「――何だい、閉めることないだろ? だったら、あんたも出て行きな。ここは、あたしの家だ」

 ようやく数刻ぶりに果瑠の口からこぼれ落ちたのは、そんな言葉だった。

 戸口に立ちつくしている男が息を呑んだのが重く部屋を満たした気を通して感じ取れる。何でこの小屋はこんなに狭いんだろう。自分以外の人間の動きが、目を閉じていても全て伝わってくる。

「かっ、……果瑠?」

 立派な体格にはおよそ似合わない、何とも情けない声だった。だが、それすらも、果瑠には鬱陶しいばかりである。ぎりりと一度唇を噛みしめてから、さらに言葉を吐き出した。

「それだけ出世したんなら、懐だってたいそう潤っているだろうよ。ほら、忘れた訳じゃないだろ、あんたの馴染みは河向こうの宿所。あそこに行って、存分に振る舞ってくればいいじゃないか。きっと今頃は酒や肴もたぁんと用意して、お越しを待っているだろうよ」

 全く、小助も余計なことをしてくれる。奴としては気を利かせたつもりなんだろうが、はっきり言って迷惑だ。こんな風にふたりだけで取り残されたら、嫌でも話をしなくてはならないじゃないか。

「……か……」

 かすれた呻きは、それ以上声にならなかった。だが、奴は立ち去る気配もない。ただ呆然とこちらを見つめている。いちいち顔を上げて確認しなくても、そんなことは分かっていた。

「でっ、出て行けって言ってるだろうがっ……! 目障りなんだよ、とっとと目の前から失せてくれ……っ! あんたの顔なんて、金輪際見たくないよ――」

 頬を乾いた涙が伝っていく。もう限界だった、これ以上はどうしても駄目だ。胸を巣くう苛立ちはすでに抑えきれない程に大きくなっている。苦しい、何故こんなに胸が痛いのだ。そんなはずはない、自分はずっとこの日を待っていたはずだ。この先だって、何年でも何十年でもこの場所で玄太の帰りを待ち続ける覚悟だった。どんなに再会を夢見ていただろう、……それなのに。

「か、果瑠っ! おい、どうしたんだよ、果瑠っ! 何でぇ、そんなことを言うんだ、嘘だろっ、そうだよな、そんなはずないよなっ……!?」

 玄太の方もとうとう溜まり溜まったものが爆発した感じだった。大声でそう叫ぶと、裸足のまま土間を進んでくる。

「何でだよ、信じられねえよっ。俺はおめぇに会いたくて、やっとここまで戻って来たんじゃねえか。あ、……ああ、服役を終えてすぐに戻らなかったから怒ってるのか? それなら、謝る。これにはな、色々訳があってな、新しい御館様って言うのが、その……」

 耳の側で大声を出されちゃたまらない。仕方なく顔を上げてみれば、玄太は犬のように這いつくばってこちらを伺っていた。きらびやかな衣が汚れるのも構わずに膝も腕も地に付けている。口では偉そうなことを言っていたが、やはり西の果ての服役は過酷なものだったのだろう。頬の輪郭も別人のようにすっきりしたものに変わっていた。

「……果瑠」

 こちらが反応を見せたのが、相当に嬉しかったのだろう。泣き出しそうな顔に消えそうな笑みが浮かぶ。

「な、もうこれ以上へそを曲げないでくれ。すぐに戻ってこなかったのは、本当に悪かった。それは謝る。だがな、ちゃあんとこうして戻ってきた。ほら、さっきも言っただろ、色々土産も運んできた。御館様にはおめぇのことを話してある、だから何の心配もいらねえ。一緒に来てくれ、もうこんな貧乏暮らしはおしまいだ。この先はおめぇのこと、御館の奥方様にも負けねえほど、大事にする。な? ……いいだろ?」

 玄太が馬につけてきた包みは、先ほど小助たちに自慢げに披露されていた。

 あとからあとから何枚も色の違う衣が広げられる、それのどれもが玄太が今まとっている衣に勝るとも劣らない素晴らしい品ばかりだった。しかもそれらは果瑠がいつも身につけているような野良着ではない。御館にお仕えする侍女がまとう小袖や袴、そして肩から掛ける重ね。そんなもの、自分には一生縁がないと思っていた。

「御館様と、約束したんだよ。里に残してきた、おっかあを連れてくるって。皆、いい奴らばかりだから、何も心配いらねえ。身ひとつで来てくれりゃあ、それでいいんだ。な、信じらんねえ話かも知れねえが、正真正銘本当だ、とにかく来てみりゃ分かるって……!」

 ―― 一体、この男は何を言っているのだろうか。

 勢いよく動く口元をぼんやりと見つめながら、しかし果瑠にはその言葉のひとつも理解出来ないままであった。必死に説得しようとしている、その心意気は伝わってくる。だが、どうして。胸奥の苛立ちは次第に絶望に色を変えていく。

「……何を、馬鹿なことを言ってんだ。いい加減にしろよ」

 目の前の、見てくればかり立派になった男の顔がぐにゃりと歪んだ。そして、潤んだ瞳が揺れながら次第に大きく見開かれていく。だけど、果瑠はもう自分の言葉を止めるつもりはなかった。

「確かに、あたしはいつ戻るかも分からないような亭主を待っていたよ。だけど、そいつはもう死んだんだ、一生ここには戻ってこない。でも、それがどうしたって言うんだい。人ひとりが死んだって、何も変わることはない。あたしはこれからもずっと、この村で生きて行くよ。あてのない約束を信じる必要がなくなっただけ、せいせいしたもんだ。ようやっと、肩の荷も下りたってことかね」

「え……、ちょっと待て。何、言ってんだ、おめぇはっ……!?」

 玄太はまだ往生際悪くうろたえている。かすれて息ばかりになっていく声。大きく首を横に振りながら、その菫色の瞳でじっとこちらを見つめている。

「わ、忘れたとは言わせねえ。そりゃ、あれは一度きりのことだ。だが、嘘じゃねえだろ。待ってるって、言ってくれたじゃねえか。だから、……だからっ、俺は覚悟を決めたんだよ。御館様に拾われたのは夢みたいな出来事だったけど、でも、何があったっておめぇの元に戻ってくるって、そう思ったから俺は……っ!」

 あの夜のように、玄太はぼろぼろと涙を流した。でも違う。ここにいるのはあの時の玄太じゃない。姿は似ていても、長く会わない間にすっかり変わってしまった。だから、もうひとつになれない。

  どこまでも、真っ直ぐで嘘偽りのない男。それが玄太だった。怖いもの知らずの一途さが、周囲の者たちを巻き込んでいく。分かっていた、分かっていたのに、どうしてこんなに口惜しいのだ。

 

 刹那。果瑠の中で、最後に残っていた心が割れた。

 

 嗚咽を上げながら四つんばいでうなだれる男を見下ろしながら、果瑠はゆっくり立ち上がる。そして板間の一番奥に置かれた一抱えほどの行李を持ち上げると、そのまま男の鼻先めがけて投げ出した。

「……っ?」

 鈍い音がして上蓋が外れ、中身が飛び出す。きれいに畳まれた男物の衣と板間に仁王立ちになったままの果瑠を玄太は代わる代わる見つめていた。

「あたしも馬鹿だね、こんなものをご大層に揃えて奴の帰りを待っていたなんて。ほらごらん、これがあたしの死んだ亭主の野良着だよ。だらしない奴でさ、すぐあちこち汚したり破いたりするから何枚あっても足りないと、気付いたらこんなに大量になってた。あいつは普通の男の倍くらいでかい奴だったから、仕立て直しをしないと他に回せやしない。全く、余計な手仕事が増えちまったよ」

 散らばった衣に、自分でも驚いてしまった。

 いつの間にこんな数になったのだろう。手頃な古着や安い反物を見つけるたびに買い求め、忙しい毎日の合間を縫って針を進めていた。気が凍るほど冷たい夜には、どんなにかひもじい思いをしてるかと胸を痛めてしまう。不安に押しつぶされそうになる心を必死で奮い立たせ、涙を堪えて手を動かした。

  阿見がいて小助がいて、変わらない村で毎日を過ごしてきたはずなのに、ぽっかり空いたひとり分の存在がとてつもなく大きかった。寂しかった、もう二度と戻らないのではないかと絶望的な気持ちが絶えず押し寄せてくる。だが、それでもここで待つと決めたから。一生掛かっても待つと決めたから、負けるわけにはいかなかった。

「本当に……こんな……っ!」

 もう泣くもんかと思うのに、それでも涙は溢れてくる。

 ずっと、信じていた。きっと、玄太はぼろぼろに変わり果てた姿で戻ってくるだろう。あの朝に揃えてやった衣など、見る影もないほどすり切れているはずだ。しばらくは鍬を持つことすら出来ないかも知れない。それでもいい、そしたら自分が養ってやればいいんだから。
  玄太もこれで懲りたはずだ。二度と間違いなど起こさない。大それた夢など忘れて、この先は静かに畑を耕しながら暮らしていくんだ。婆さまが遺した柚子の木に見守られながら、ふたりで共に生きよう。

 浮き草のように、頼りない生き方をする男には二度と振り回されたくない。一番大切な想いまで押し殺してその背中を見送るのは嫌だ。いくら立派な身の上になったって、そんなのはもう、自分が待っていた男じゃないんだ。

「や、これは俺のだろ、仕立て直しなんて必要ねえ。俺の衣だ、全部、まとめて俺のだ。そうだろ、そして、おめぇも俺のおっかあだ。俺はおめぇの亭主だ、……決まってるだろ? 待っててくれたんだろ、そうなんだよなっ……!?」

 玄太はなおもぼろぼろと泣きじゃくりながら、そこら中に散らばった衣を全部ひっかき集めた。そして、一枚たりとも渡さないと言わんばかりに抱え込む。

 しかし、そこまでされても果瑠の心は動かなかった。

「はん、何をほざいてるんだか。飽きるまで勝手にやってろ、……付き合いきれないね、全く」

 確かにこんな風に泣いてすがられたら、悪い気はしない。以前の果瑠だったら、ここでまた玄太の熱意に根負けしてしまっただろう。だが、今度は違う。流されてはならない。
  玄太はもう、自分ひとりの力でちゃあんと生きていける。新しい希望を胸に、どこまでも歩き続けることが出来る。そしてまた、置いて行かれるんだ。いつもと同じ、延々とひとり待つ日々が始まる。もうそんなのはたくさんだった。

 

「……果瑠……」

 玄太はこの上なく情けない声で呻くと、また涙と鼻水をだらだらと一緒に流した。震える唇が何度も空を切り、やがて小さく呟く。

「違うんだ、果瑠。……本当は、そうじゃねえんだっ……」

 次の瞬間、玄太は土下座のかたちになり、土間に額をすりつけた。何事かと見下ろすと、そこで大きく深呼吸する。

「す、すまねえっ……! ちっと、見栄はってしまった!」

 この通りだ、とさらに地面に這いつくばる。とてもじゃないが、見られた格好ではない。

「あのなぁ、果瑠。俺の御館様はそりゃ、素晴らしい御方だが、治めているのは御領地の分所だ。俺たち使用人たちも、それほど物騒な仕事はしねえ。普通に野良仕事して、生計を立てるんだと。本当はこんな立派な衣なんて、俺には必要ねえんだ。だけど……だけど、その。どうせなら、おめぇを腰が抜けるくらい驚かしてやろうと思って――」

「……は……?」

 これにはさすがに呆気にとられてしまう。金ぴかの衣装と、潰れガエルのような無様な格好とがあまりに不似合いだ。

「だって、そうだろ? この村にいたんじゃ、その見てくれでおめぇはいつまでも余所者だ。俺だって同じだ。婆さまの土地もこれっぽっち、しかも畑の半分は借り物じゃねえか。俺は果瑠が好きだ、でも御館様のことも好きだ。だから、どっちも捨てられねえんだ、分かってくれよ、頼むよ……っ!」

 果瑠は返事をすることも出来ず、黙ったまま目の前の男を見下ろしていた。一応、聞き届けてもらえると安心したのだろう。玄太はなおもすがるように話し続ける。

「そ、そんでも、果瑠がこの村にいたほうがいいと言うんなら、それでいい。だったら、御館様のことは諦める。だから、捨てないでくれ、おめぇに冷たくされたら、俺、俺はどうしたらいいのか分からねえ……! 頼む、この通りだ、おめぇの側にいさせてくれ。亭主になれねえなら、今まで通りだっていい。だから、お願いだ、頼むっ……!」

 足下にうずくまって泣きじゃくる男。その身なりがあまりに立派なだけに、とても滑稽な姿である。冷たく突き放せば、腹を立てて出て行くのかと思っていた。だが違う、玄太はやはり玄太だった。

 

 そうだ、そうだったじゃないか。今も昔も、変わったことなんて何ひとつない。

 

「馬鹿な男だねえ……、どうしてそんな風に情けないんだか」

 ややあって、果瑠は大きな溜息をついた。がちがちに凝り固まっていた頭の中がだんだんほぐれていく。そうすると目の前にある一番大切なものだけがしっかりと見えてきた。

「せっかく御館様が揃えてくださった御衣装なんだろう。そんな風にくしゃくしゃにしたら、申し訳ないよ。ほら、もう顔を上げて。どこにもやらないから、そんな風に何もかもみっともなく抱え込むのはやめてくれ」

 奪い返した野良着はすっかり涙と鼻水でとんでもないことになっていたが、とにかくは元の通りに畳んで行李にしまい直す。しっかりと蓋を閉めると、今度はまたもうひとつ同じくらいの行李を出してきて蓋を開け、その中をひとつひとつ改め始めた。

「あ、……あの。果瑠、おめぇはいきなり何を……」

 前触れもなく。大掃除のようにあちこちを片づけ始めた果瑠に、驚いた玄太が背中から呼びかける。しかし果瑠はその声に振り向くこともなくせっせと手を動かした。

「そりゃ、あたしは貧乏だし大した品も持ってないけどさ。それでも出来るだけ綺麗な衣を用意したいじゃないか。余計なものはみんな置いていくよ、新しい土地に行くならそれなりに新しく揃えないとならないね。ああ、また忙しくなっちまった」

 それにしても、どれもこれもぼろばかり。少しはまともな品がなかったのかと呆れてしまう。今まで玄太のものばかり揃えて、自分の衣は後回しだった。我ながら、どこまでも情けないと思う。ここまで奴に惚れ込んでいたのだから。

「え、あのっ。……そういうことは、何だ? その、果瑠、ええと……いいのか?」

 すぐ背後まですり寄ってきた玄太であったが、しかしそれ以上はどうすることも出来ないらしい。所在なげに情けない声で何度も繰り返す。果瑠はもう、笑いを堪えるのに必死であった。

「そうさね、たまにはねぐらを変えてみるのもいいんじゃないかい? 疲れてるところに悪いがな、明日は早起きして朝から裏の柚子をもぐよ。売った金で、あたしの衣を買うんだからね。あんたの分はこれで十分だ、酒も今夜たらふく呑んだならもういいだろ?」

 ゆっくり振り向いて、笑いかける。

 それから。今はもうずっとそこにあるのが当然となっていた鈴を胸元から外して、元の持ち主の首に結び直した。相変わらずぼろぼろのすすけた姿だが、やはりあるべき場所に戻るとたいそう嬉しそうに見える。

「おかえり」

 ああ、良かった。素直にそう思えたときに、やっと口からこぼれた言葉。

 玄太はもう泣いてるのか笑ってるのか分からないぐしゃぐしゃな顔になっていた。すでに半分脱げかけていた衣の袖を抜きながら、必死にしがみついてくる。そしてまた、おいおいと声を上げて泣き出した。

「おっ、俺のおっかあだ。……やっぱ、おめぇは最高だ。良かった、本当に良かったっ……!」

 力任せの抱擁は息苦しいばかりで感激の再会などとは程遠いものであったが、それでも気が付けば果瑠は自分の倍ほどもある体格の赤子をしっかりと抱きしめていた。本当になりばかりが立派で、中身が情けないほど伴っていない。考えなしにどこへでも飛び出していくような男だ。やはり舵取りをする者が側に付いていないと駄目なのだろう。

 ――そのお役目を、お天道様から命ぜられたなら。ここは腹を据えて付き合うしかないのかも知れない。

 

 しばらくはひいひいと死にかかった鶏のように呻いていた玄太であったが、そのうちに果瑠の背中に回していた手がだんだん下に降りてくる。そして片手で腰の辺りをさすりながら、潜り込んだ首筋に熱い息を落とした。

「ひっ、……いきなり何だい! こっちは忙しいんだよ、大人しくしてな」

 突然のことに慌てて振り払おうとはしたが、すでに後戻りは出来ない状態になっていた。もがこうとした腕には乱れた衣が巻き付き、身体を動かすごとにさらに前が大きくはだけていく。

「おっ、大人しくなんてしてられっか。こっちはもう我慢ならねえっ! 俺が今までどんなにおめぇが恋しかったか、たっぷりと教えてやらあ。……覚悟しろよっ!」

 これではまるで、さかりのついた獣だ。仰向けに倒された上にのしかかられ、身体の自由を奪われる。片方の脚を大きく持ち上げられ、あっという間にその部分が広げられようとした時……。

 

「―― ねえねえっ、もういいだろうっ! 大人の話、終わったよな、そうだよな……!」

 ふいに表で阿見の金切り声が聞こえて来る。さすがの玄太もハッと我に返り、ふたりは慌てて身を起こした。あちこちはだけた衣を必死で整えていると、そのうちにつっかえ棒をしていなかった戸口ががたがたと開く。ようやく人ひとりが入れるほどになった隙間から、阿見が顔を覗かせた。

「おっ、おいっ! やめろって、言ってんだろ! ……このボケがっ!」

 後ろの方から慌てる小助の声がする。しかし阿見は捉えようとする腕から一瞬の間で逃れると、そのまま土間を突っ切ってきた。

「姉さんっ、やっぱ小助の兄さんは嫌だ! なっ、いいだろ? 今夜も一緒に寝てよ。俺、姉さんの方がいい!」

 すでに夜も更けて、相当に眠くなっているのだろう。阿見は傍らにいる玄太のことなど気にする素振りもなく、当然のように果瑠の膝にすり寄る。そして衣の胸元に腕を伸ばすと、そのまま袷から中に突っ込んだ。

「なっ、……なぁにやってんだ、おめぇはっ!」

 しばらくは呆然とその成り行きを見守っていた玄太だったが、これはあんまりだと思ったのだろう。大声で叫ぶと、阿見を果瑠から引き剥がそうとした。

「いやぁだよっ! 玄さんは一人前の大人だろ? ひとりで寝てくれよ。ボクは家にいた頃から、かあちゃんとこんな風にして寝てたんだ。小助の兄さんの乳はぺたんこだから、嫌だよっ!」

 しかし、阿見はひるむこともなく、果瑠の胸に忍ばせた手をごそごそと動かしながらとろんとした目になる。さらに優しく頭を撫でてやると、嬉しそうにくぅんと声を上げた。

「なっ、なななな……何だっ! ちょっと待て、果瑠っ! なぁにふたりで乳繰りあってんだ、いい加減にしろっ!」

 盛り上がったところを途中で寸止めされて、どうにも収まりがつかないままなのだろう。玄太はなおもわめき立てると、阿見の頭をこづいた。

「この馬鹿が! 子供に何てことしてんだよっ!」

 これには果瑠の方が負けていない。肘で玄太の脇腹を思いっきり突き返し、そのままくるんと背中を向けてしまった。

「ほらほら、阿見。可哀想にね、もう大丈夫だよ。やだねえ、乱暴者はすぐにこうだ。お前は決してこんな荒くれ者になるんじゃないよ?」

 どうしたものかとことの成り行きを見守っていた小助も、このやりとりには必死で笑いを堪えている。つられて笑い出す果瑠の衣の裾を、玄太が諦めきれないとでも言いたげに指先でつまんで引っ張った。

「――立派ななりをした大人だろ? 少しは辛抱しろよ」

 

 胸を探っている小さな手の動きが、だんだん鈍くなってくる。

 膝に乗るぬくもりを静かにゆり上げながら、果瑠は影になった方の手で玄太の股の付け根をそっと撫で上げた。

了(060201)
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