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「玻璃の花籠・新章〜瑞菜」

 

 柔らかな花びらを揺らしながら、匂い立つ姿で誇らしげに微笑みかける。ご隠居様ご自慢の春の庭はますます盛りとなり、敷地内のどちらを見渡してもむせかえるほどの花の香が漂ってきた。
  その中を、日に何度も牛車が行き交っていく。それは次々と本館の前に止められ、後ろに積まれた数えきれぬほどの荷が下ろされていき、瞬く間に大広間は山のような行李やお道具で埋め尽くされていた。

「ほらご覧なさい、やはり私の見立てに間違いはありませんでした。この絹で取り急ぎ晴れ着を仕立てさせましょう、そろそろあちらからも詳細な日程が示されることとなりますでしょうから、休む暇などありません。やはり良家に輿入れさせるとなれば、並大抵のお支度では後々まで物笑いの種になってしまいますよ」

 帰館した祖母はお召し替えもそこそこに瑞菜を呼びつけ、自分が方々で求めた品々を自慢げに披露した。ここまでの品を用意して頂くのは申し訳ないと恐縮しても、祖母は全くこちらの意を汲み取ってはくれない。確かに仰ることはもっともであったが、ものには限度というものがある。
  それを言葉にしてどうにかお伝えしたいと思ったが、やはり嬉しそうなお顔を見ればその決心も鈍ってしまう。祖母にとっては、自分が手塩に掛けて育てた孫娘がまたとない良縁に恵まれたことが誇らしくてたまらないのであろう。それが分かっているだけに、どうすることも出来ない。

「お分かりですね、瑞姫。ゆくゆくはあれほどの御館の女主人となられる身の上なのです、この先は気を強く持って何事にもしっかりと対処して行かれなくてはなりません。まずは早く子宝に恵まれることが第一、あちら様もそれを心より望んでおられることでしょう」

 嬉々としてそう語る祖母の顔を、瑞菜は神妙な面持ちで見守っていた。自分はまだ、相手の方の顔もひととなりも知らない。なのに祖母はそんな御方の子を産めと言うのだ。何とも不思議なこと、この上ない。
 だが、ここで言葉を返すことは良策ではないと言うことも重々に承知していた。淡く微笑んで頷けば、祖母はますます嬉しそうな表情になる。

 

◆◆◆


 しかし、そんな穏やかな日々も程なくして打ち切られた。

 その朝、にわかに表の方が騒がしくなったかと思うと、いきなり本館の正面に見たこともない艶やかな牛車が横付けにされた。
  そこから降り立ったのは、一目で南峰の民と分かる色白の女人たち。身につけている衣こそは控えめな色目であったが、その立ち振る舞いからかなりの身分の者だと推察出来る。訳も分からずに対応に出た年若の侍女に、一番風格を感じられる女人がきっぱりとこう告げた。

「我らは南峰の大臣家より遣わされた者にございます。主の命により姫君のお輿入れまでの全てを取り仕切らせて頂きますゆえ、どうぞよしなにお取りはからいくださいませ」

 聞けばこの女人は先方の館で代々跡目殿の乳母(めのと)として仕える家柄の者だと言う。その肩書きにふさわしく、堂々とした身のこなしにはこちらが有無を言わせぬ勢いがあった。
  まだ家人の許しも得ていないというのに当然のように館に上がり、さらには自分たちが滞在の間に住まう部屋を用意しろとのたまう。あまりの横柄な態度に度肝を抜かれていると、彼女はこれを見よとばかりに主人からの書状を突きつけてきた。

「来月の初め、吉日を選んで我が主が御自らこちらにお出ましになります。そこで姫君をとくと見定め、我妻として真にふさわしいかどうかの見極めを行うとのこと。そうでありましょう、どこの馬の骨とも分からぬ女子に我が館の将来を預けることは出来ません。このことは当然のこととして、あらかじめご承知くださいませ」

 金糸の髪を翻した女人は厳しい口調でそう吐き捨てると、射るような眼差しで一同を見渡した。

 招き入れたばかりの客人が放つ突然の暴言に、さすがの女主人も度肝を抜かれた様子である。瑞菜が恐る恐る振り向いてそちらをうかがえば、きつく一文字に唇を噛みしめた祖母は袴の膝頭を握りしめた手を小刻みに震わせていた。

  いくらこちらが格下になるとはいえ、正妻と揺るぎない立場であればあちらで婚礼の儀を行ってから床を共にするのが通例。確かなお披露目もないままに相手を寝所に招き入れるなどという軽々しい行為は、身分の低い者たちのやり方だ。さもなければ、側女(そばめ)としての扱いに他ならない。

「もちろん、我が主殿がこちらの姫君を気に入られれば、正式に婚礼の運びとなりましょう。ご心配なさいますな、そのために我々がはるばるこうして足を運んだのではございませんか」

 女人はまるで自分たちこそが救いの者だと言わんばかりに胸を張る。とんだ異邦人の出現に、ようやく一日が始まったばかりの館は重々しい雰囲気に包まれていく。

 もとよりこの西南の地にあっては、他の集落の民を排除する傾向にあった。「陽の民」と呼ばれる自分たちこそが一番優れた民族だと信じて疑わず、その思想が浸透しているだけに瑞菜の住まう館にあってもそのほとんどが西南の民で占められていた。
  それだけに突然現れた無礼な者たちのその姿を見ただけで、館の者たちは皆度肝を抜かれてしまう。まばゆすぎる髪の色も透き通る肌の色もどこまでも冷たく、厳しく突き放される心地がした。

 やがて、来訪した女人の視線は広間の奥に控えていた瑞菜の方へと向けられる。まるで自分の落胆ぶりを皆に伝えたいと言わんばかりに大袈裟に溜息をついて、さらに小さくかぶりを振った。

「まあ、こちらが噂の姫君にございますか。これはまたなんとも頼りない、まるでお人形のような方でいらっしゃいますね。どうしてまた、このような方をお選びになったのか……跡目殿の気まぐれにも困りものですわ。これでは私共もかなり気合いを入れて仕込まなければなりません、気が遠くなるとは丁度このような心地を申すのでしょうねえ……」

 後に控えた女人たちからもさざめくような笑い声が漏れる。一体ここがどこなのか、どちらがお客人なのか、それすらも曖昧になっていく。

「こちら様もとんだ命拾いをなさったことで。何もご存じないまま我が主の元にお上がりになれば、大変でございましたよ。しかし、我らが来たからにはもう大丈夫。必ずや南峰の大臣家の女人の頂点に立つご立派な御方になられることでしょう」

 眼差しの奥に隠された冷ややかなものを感じ取れば、身体の芯の部分が凍り付く心地がする。しかしその場に居合わせた館の者の中ではただひとり、瑞菜だけがこの無礼な客人に対ししっとりと微笑むことが出来た。

 

 本館の空いていた対のひとつを居住まいとした来訪者たちは、自分たちの部屋があらかた片づくとあろう事かこの館の姫君を自分たちの元に呼びつけるという暴挙に出た。
  そのあまりの仕打ちには祖母も一度はその申し出に難色を示したらしいが、瑞菜の方はさして断る理由もない。早々に支度をして数名の侍女だけを伴い向こう対へと渡った。

「先ほど、このたびのお支度をちらと拝見させて頂きましたわ。何ともまあ……軽々しいお品ばかりで、どれもこれも我が主の館にはふさわしくはございませんね。あのようなものを持ち込まれては、館の風格にも関わるというものです。こちらにはたいした趣味人もお出でにならないご様子、その辺りもしかとお伝えしていかなければならないのですね」

 自分の背後で侍女たちが互いに顔を見合わせているのが感じ取れたが、瑞菜は顔色ひとつ変えなかった。確かに西南と南峰では好まれる様式も異なるであろう。人々の見目形も風土も何もかもが違うのだ、全てを同じにしようとする方が無理な相談である。

「ところで……姫君は数々の手習いに秀でているとうかがいましたが、御針仕事などは如何でしょうか? 多少の心得は当然ごさいますでしょうね」

 この言葉には瑞菜本人ではなく、後に控えた侍女のひとりが返答をした。

「お、恐れながら……乳母様。この西南の地では、針仕事は下々の者の仕事とされております。姫様のような高貴な御方がたしなまれるものではございません」

 その声は普段とは別人のように震えていたが、どうにかして我が主人を守ろうとするその心が真っ直ぐに伝わって来る。しかし、その言葉を受け取った女人は、さらにきつい表情となって反論した。

「何を仰いますか、愚かなこと。手前共は何も姫君に我が主殿の繕い物をせよと申し上げたのではございません。ただ将来館の女主人となられる立場であれば、知識として備わっていなくては上手くいかないことも多々ございましょう、それくらいのこともご承知くださらないとは情けない限りです。
  そう、……こちらには今ひとり姫君がおられるとか。むしろそちらの方が、我が主にはふさわしい御方なのではございませんか?」

 一事が万事、その調子であった。
  突きつけられる要求はその全てが今まで瑞菜が長い年月を掛けて習得したものとは全く別の事柄ばかり。少しでも上手くいかないところがあれば、たちどころに口汚く罵倒される。これには当の姫君本人よりもお付きの侍女たちの方が先に参ってしまった。音を上げてしまった者に代わる者を新たに加えるが、その者も程なくして自分には荷が重すぎると言い出す。

 しかしそのような中でもただひとり、瑞菜だけは黙々と先方の欲求に従っていた。何を言われても口答えをすることもなく、求められるもの以上の成果を見せるために日夜努力を惜しまない。ただその内容が意図しないものばかりであったために、習得までには困難を極めた。
  一日のほとんどを向こう対で過ごした後、自室に戻りまた夜遅くまで手習いを続ける。そのような日々が続いたためか、弱っていた身体にさらに無理がかかり日に日に顔色も優れなくなった。だが、そうなっても容赦してくれるような相手ではない。

「こちらは、我が集落に伝わる気付け薬です。とても良く効きますから、どうぞお試しください。この程度のことでお身体のさわりがあっては、お輿入れされたあとが思いやられるばかりです。どうぞしっかりなさいませ」

 渡された薬は確かに即効性の効き目があるものであった。だが、疲れた身体に無理に鞭を打たれたような状態でしばらく経つと胸に強い痛みを感じる。しかしそれを訴えることなど出来ず、その場はどうにかしのぎ通した。

 見るに見かねた周囲の者があれこれと声をかけてくれるが、そのひとつひとつを静かな笑顔でかわしていく。一体あの細いお身体のどこにあれほどの強さを秘めているのかと皆が訝しんでも、姫君の内側から放たれる輝きは決して消えることがなかった。

 

◆◆◆


 半月ほどが過ぎ、いよいよ約束の日を翌週に控えた頃。

 最終の打ち合わせをするためにと南峰の女人たちが一時帰館することとなった。それに合わせて、瑞菜の祖母も実家に宿下がりをすると言う。
  表向きは平穏を保っていたこの館の女主人も、このたびのことでは過去に経験のないほどの衝撃を覚えていたらしい。日に日におやつれになるそのお姿は拝見するのも痛々しく、どうにかもちこたえてくださるようにと瑞菜は切に祈っていた。一体この上に何を相談に行かれるのか、それを知る者も表だって訊ねるものもいない。
  それどころか館に仕える使用人たちもこれ幸いにと先を競って宿下がりの許しを請う。あっという間に館内は閑散としたものになり、残された者たちはいくつもの仕事を抱えて奔走する羽目になった。そうなれば、瑞菜の住まう対も昼間はほとんど人気がなくなってしまう。まるで裳着の前の気楽な娘時代のような自由さが戻ってきた。

 

 しかし一度しっかりと型にはまってしまった身体と心がすぐに元の通りに戻ることはない。
  朝は決められた時間より遙かに早く目覚め、何かに追い立てられるような心地ばかりに悩まされ続けた。今はどうしても身体を休め、来る晴れの日には万全の姿で臨まなくてはならない。それは重々に承知しているのだが、気持ちはすぐには切り替わらない。

 ――もしも今、母上にお目に掛かることが出来たなら。

 折に触れ願ってきたことを、今も胸の内にくすぶらせたままでいた。祖母の不在の今、自分が母の元を訊ねることを誰に気兼ねすることもないはずである。しかし、なかなかそうはいかない理由があった。

 自分が産み落とした子供の中に娘が少なかった祖母は、自分が世話をする孫娘が実の母に思いを寄せることを病的なほどに嫌悪し続けている。心を込めて尽くせばいつかその因縁も和らぐ日が来るのではないかと期待してきた。しかし、今となってはそれも夢と終わりそうな気がする。
  母の元にはどの者がそれかは分からないが祖母の送り込んだ見張り役が随時控えていて、もしも瑞菜が文のひとつも届けようものならすぐに祖母に知れてしまうのだ。
  例え祖母に何が伝わったところで、自分に後ろ暗いところがない以上は気にする必要もないと言えばそこまで。だが、瑞菜としてはこのたびの婚礼のことで今までになく心を痛めている祖母のことをないがしろにすることは出来なかった。

 ――母上に今の気持ちを洗いざらい打ち明けることが出来たとしたら、一体どんな風に応えてくださるのだろう。

 いくら想像したところで、母の想いに届くことはなかった。父も今は西南の大臣家への出仕の期間であり、館を不在にしている。瑞菜のすぐ上の兄も弟もそれに同行しており、今館に残る兄妹は末の妹ただひとりであった。
  このたびの婚礼の祝いにと、優しい妹は早くから品の良い普段着をいくつも届けてくれていた。その礼を直に伝えたい気持ちもある。しかし極端に人前に出ることを嫌い、先のような宴の際にも家人と共に出席することもないような彼女をこちらまで呼び寄せるのは気が引けた。かといって、自分が出向くにはまた色々と面倒なことが起こりそうで躊躇してしまう。

 何としたことであろうか。ひとつの希望を心に浮かべるごとに、もうひとりの自分がそれを打ち砕いていく。何かが起こる前から、あれやこれやと悪い方にばかり考えてしまう癖は一体いつからついてしまったのだろう。周囲の希望にばかり合わせて行くことを続けた結果、自分すらもどこかになくしてしまっていた。

 

「……姫、こちらにお出でになりましたか」

 呼ばれた方へと振り向けば、そこには懐かしい姿があった。その顔を見なくなってから未だ半月ほどしか経っていないというのに、すでに長い年月を過ごしたような気がする。彼がいつでも庭の表に控えていることは知っていた。しかし、ここしばらくのように日夜を問わずあまたの侍女に貼り付かれているような有様では、その姿を探すことも気楽に言葉を交わすことも出来ない。

 始終館の奥に留まっていれば、季節の輝きを感じることも叶わない。渡りを通るのも早朝か夜半に限られてしまえば、柔らかな花びらも固く閉じられ芳しい香りすら己が奥に押しとどめてしまう。
  供も連れず、久方ぶりの気楽な庭歩きについつい足を伸ばしすぎてしまったらしい。ほんの少しだけ縁の表を眺めようと思っただけであったので、たいした支度も施していなかった。流れる気に長く伸ばした髪が素直に揺れる。その導きに心まで預けてしまいたくなる刹那。

「この風景も、見納めになってしまうのね」

 本館は周囲をぐるりと遣り水で囲われ、そこにはいくつもの橋が架かっている。どれも数歩で渡り終えることが出来るようなかたちばかりのもので、実際小さな子供などは涼やかな小川の上を飛び越えることを夏の遊びとしていた。裏手に回り簡素な木戸を越えれば、そこはもう敷地の外れ。素朴な野の花が咲き乱れる丘は、瑞菜にとっては決して足を踏み入れることの出来ない遠い場所であった。
  他の子供たちが当たり前のように行き来する扉をどうして自分だけが開くことが叶わないのか。納得のいかない気持ちは確かにあったが、とはいえ祖母の制止を振り切るほどの強さもなかった。

 今日も木戸に一度手を掛けて、しかしすぐにくるりときびすを返す。その一歩が踏み出せないままの日々は願いのひとつも果たされないままに静かに終焉を迎えることになりそうだ。

「昔……、よくあなたや爺にここから出してとむずかったものね。竜王様の都に上がっていた頃はもっと自由に野山を行き交っていたのに、こちらではとても窮屈なばかり。口をつけば都に戻りたいと、そればかりを願っていたような気がするわ」

 野草は勢いがあり精魂込めて育てた草木に害が出ると、庭師たちは目残しをすることもなくすべてを取り払ってしまう。それが悲しくて泣きじゃくると、爺が肩車をして塀の向こうの風景を見せてくれた。

「姫さま、ご覧ください。こちらにも都と同じように花が咲き乱れております。何をお嘆きになる必要がございましょう、どちらにいらっしゃっても姫さまが姫さまであられる限りそこに必ず新たなる幸せが舞い降りて来ましょうぞ。後ろを振り向いてばかりいては、あさましい貧乏神に頭から喰われてしまいます」

 ――わたくしが、……わたくしである限り。

 普段は忙しさの中に忘れてしまっている記憶。だがふと心が素に戻ったその刹那に蘇るのは、今や都での華やかな思い出ではなかった。幼い身の上で必死に祖母の期待に応えようと過ごす日々、身動きの取れない束縛の中で唯一心を許すことが出来た存在。

 

「爺に……もう一度会うことは出来ないかしら」

 覚えず、そのような言葉が心から転がり落ちてきた。

 文のやりとりは今も続けている。南峰からの客に翻弄され多忙を極めた先頃にも、それこそ毎日のように短い文が届いていた。とてもそれに返事をするゆとりはなかったが、こちらを気に掛けてくれるその気持ちだけで嬉しい。しかし今後婚家へ輿入れしてしまえば、もう二度と巡り会うことも叶わなくなるのだ。

「それは、父とて同じ想いでおりましょう。だがしかし、幾山を越えてこちらまで上がることは今の父には負担が大きすぎます。どうかご容赦くださいませ」

 初めから分かっていた返答であった、だからもう瑞菜から新たに言葉を繋ぐことはない。
  爺もいない李津もいない、誰ひとりとして自分を護ってくれる人など望めない場所に今から旅立って行かなくてはならないのだ。その覚悟は出来ている、最初から承知の上であったこと。だが、……その強い決心すら揺るぎそうになってくる。

「爺の身体のことは分かっています、あちらからの道中は牛車も通らないほどの山道だということも。でも……」

 それ以上のことは望んではならない、分かっていたからそこで口をつぐんでいた。

 もう甘えてはならない、この先の苦難に耐えていけるようにさらに強靭な心を手に入れなければならない。それが、それこそが自分の生きる証であるのなら。

  しかし堪えてもなお溢れてくる想いは、水蜜桃のようになめらかな頬にいくつもの筋を作った。留まることのない雫を袂で静かに覆いながら、李津にそっと背を向ける。こうしているうちにも、どこから誰が見ているかも知れない。そんなときにお咎めを受けるのは、いつでも身分の低い彼の方なのだ。

 

「――如何でしょうか」

 その声は、まるで別人のように低いものであった。
  ここには李津の他には今は誰もいないと分かっているのに、それが耳に馴染んだ彼の響きだと我が耳が判別できない。驚いて顔を上げたその先にあったのは、かつて見たこともないほどの厳しい表情であった。

「姫さまに相応のご覚悟がおありになるならば……ひとつの道もないという訳ではございませんが」

 夕暮れを告げる涼やかな気が、静かにふたりの間を流れていった。

 

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