…6…

「玻璃の花籠・新章〜瑞菜」

 

 西方の山並みから天上へと広がる場所は、すでに赤く焼き付いている。

 どこまでも高く澄み渡る不思議な色を、瑞菜は震える心で見上げていた。こうしている間も様々な想いが胸を行き交い、ともすれば強い痛みを伴う。しかしその上を行く高揚感を押し留めることはどうしても出来なかった。

 遠目に見れば砂嵐のように見えるそれは、数えきれぬほどの羽虫の群れ。爪の先ほどの羽を動かして水面すれすれに行き交うその姿は、短い命を必死に燃やし続けるひたむきさを伝えてくれた。鳥も花も館の庭で眺めるものとはかなり趣が異なっている。

「姫さま、あまり奥に進みすぎると水に足を取られますよ? 足下を良くお確かめくださいませ」

 身につけていることも忘れてしまうほどに軽く柔らかな衣。初めて袖を通した庶民の装いは見た目よりもかなりしっかりしていて、まるで自分のために特別にあつらえられたように無理なく身体を包んでくれた。くるぶしまでの丈であれば、急に身を翻しても裾を踏むこともない。身のこなしまでが村娘のそれになってしまったようだと、今日は幾度たしなめられたことであろう。

 どこかで遠く、時を告げる鐘の音が響いている。それが霞みかけた山裾に沈んでいくと、また小川のせせらぎの音だけに包まれた静かな夕暮れが戻ってきた。

「爺は……無事に戻ることが出来たかしら? あのように無理をして、あとあとまで響くことがないと良いのだけれど」

 元はと言えば、自分が言い出した我が儘であった。だが、あまりにもすんなりと事が運んでしまえば、かえってそれが不安になってくる。想像していたよりも元気な姿で現れた懐かしい人は、こちらが留まることの出来るぎりぎりの刻限まで昔話に花を咲かせてくれた。
  以前と少しも変わることのない深い愛情と優しさに直に触れることが出来て、どんなにか心が楽になったことであろう。胸奥によどんだままでいた重いわだかまりですら、今は嘘のように消え失せている。

「そのようなご心配はご無用です。俺も折を見て里には月に幾度となく顔を出していますが、あのように晴れやかな顔をした父を見るのは久方ぶりのことでした。顔の皺がのびきるほどに生き生きとして、この数刻の間にかなり寿命が延びたのではございませんか」

 李津はこちらを気遣っているのだろう、ひとつひとつ言葉を選んで返答してくる。ここまでの段取りを半日足らずの短い時間でしっかりと組み立てたのは他でもない彼であったが、それについてもたいした仕事ではないように振る舞っている。だがしかし、穏やかに見えるその内心はどうであろうか。それを思うと、自分の胃までがキリキリと痛んでくるような気がした。

 瑞菜自身も、未だに信じることが出来ない。どうして自分は今、このような夕暮れの湿原に佇んでいるのであろう。目に映るもの、その何もかもが新鮮で胸をときめかせるものばかり。恥ずかしそうに頭を下げる道ばたの小さな花でさえも愛おしくて仕方なかった。

 館内に留まることが常で、ほんの少しひさしから足を伸ばした程度の外歩きですら口うるさい部屋付きの侍女たちの許可を得なくてはならない。もしも願いが叶ったとすれば、次は大袈裟とも言える支度が必要になる。そのたびに幾人もの使用人の手を煩わせることになるのだ。
  祖母が「自慢の中の姫」を不用意に人目に晒すことをひどく嫌っていたこともあり、牛車を使っての外出も長い年月のうちで片手に余るほどである。しかもそのような場合でも、途中で車を降り自由に歩き回ることなど許されるはずもなかった。

 

「姫さま、早朝より失礼致します。取り急ぎお支度くださいませ、すぐに叔父が参ります」

 しとねに身を横たえても、なかなか眠りにつくことの出来ない夜が続いていた。ようやくうとうととまどろんだかと思うともう夜明け、白い靄が部屋奥まで忍び込んで来る。

「……え? それは、どういうことなの」

 昨夜まで寝所に休むまで、取り立てて変わったことはなかった。このように朝早くからの用事があるとも聞いていない。そう思いながらもゆっくりと上体を起こせば、すぐに三佐が手桶を持って入ってきた。

「このように早い刻限から申し訳ございません。しかし、今ならばまだ人も少なく靄に紛れることも出来ましょう。とにかくはお急ぎくださいませ、こちらに全て準備して参りましたゆえ……」

 差し出された衣を見て驚いた。それはかつて自分が身につけたことのない、どこから見ても当たり前の庶民のもの。さすがに裾はたっぷりとしていたが、ごわごわとした麻で作られた控えめな色目のそれはとても良家の姫君が袖を通す様な品ではない。

「三佐、これは一体……」

 そう訊ねかけると、自分の後ろに回って髪を結い上げていた侍女が一瞬手を止める。しかしその指先の震えまでは止めることが出来ない様子であった。

「姫さま」

 三佐はこくりと息を呑む。

「本日は、私が姫さまの身代わりとなります。あとは叔父に全てをお任せくださいませ、こちらのことはご心配には及びませんわ。必ずや上手に切り抜けて見せます」

 瑞菜は支度の最中であると言うことも忘れ、思わず後ろを振り向いていた。自分と歳の変わらない侍女は静かな表情を保っている。

「昨夜のうちに、里の祖父にも早文を届けたそうです。あとの手はずも全て叔父が」

 そこまで言われてやっと、昨日の夕方の李津とのやりとりを思い出す。瑞菜としては、あの話はもうとっくに終わったものなのだとばかり考えていた。まさか、爺がこの館の近くまで訊ねてきてくれるとでも言うのだろうか。いや、そのようなことはどう考えたところで無理であろう。

 訊ねたいことはいくらでもあったが、三佐の手は一時も止まることがない。姿見の向こうの自分は瞬く間に村娘の装いに変わっていた。普段は使用人が使う裏口から導かれて外に出れば、辺りはまだ白い靄に包まれたままである。

「何を驚かれているのです。あちらを動かすことが出来ぬのなら、こちらから出向くしかございませんでしょう。このように館内が静まりかえっている今を逃す手はございません。さあこちらへ、夜の明けきる前に向こう村の外れを越えなければ間に合いませんから」

 毛並みの良い馬の手綱を引いた李津は、きっぱりとした口調でそう言うと縁の端に立ちつくす瑞菜に手をさしのべた。

 

「さあ、先を急ぎませんと。……そろそろ宜しいでしょうか?」

 日の出から日没まで。ぼんやりとまどろんでいれば気付かぬうちに過ぎ去る時間が、今日は何年分もの長さに感じられた。
  爺の隠居している村を訊ねる折りに李津が館の馬を借りていくと言うことは聞いていたが、それはもちろんただひとりの道中である。馬の背に乗ることも初めての自分を連れて行くのは、どんなにか物理的にも危険を伴うものであるか。しばし考えれば分かりそうなものであるが、彼はそれを難なく実行した。
  手綱を握らせれば館内でも右に出る者がないとさえ言われている。だがしかし、前に人を乗せ後ろから遠くなった手綱を取ることは並大抵のことではなかったはずだ。馬の乗り方など知るはずもない瑞菜にでも、その緊張は伝わってくる。

「李津は、もう平気なの?」

 こちらの問いかけに、彼は曖昧な笑みで応えた。

「その言葉は、そのまま姫さまにお返し致しましょう。あのように始終身体を強ばらせていらっしゃっては、さすがの名馬も重い岩を乗せているようでやりにくいですよ。間違っても振り落としたりはしませんから、これからの道行きはもう少し楽にしてくださいませ」

 ひとりきりであれば、夜明けに館を出ても日没までには軽く村までの往復が出来るという。

 ――今しばらく留まりたいと申し出ても、父に早く戻れと追い出されてしまうんですよ……。
  そのように告げていた彼の表情にも、今日は少しばかりの疲れが見受けられる。そこに何かの色が浮かび、思い出したように口を開いた。

「姫さま、父とはどのような話をなさったのですか? 人払いなどして、意地の悪い方々ですね」

 ゆるやかな気が静かに瑞菜の側を流れていく。どんなに手を伸ばしても決して届かないものがある、そのことにもすでに気付いていた。

「あら、あなたが気にしていたなんて思わなかったわ」

 少し席を外してくれと切り出すと、躊躇いもなく応じてくれた。そのときは口惜しい素振りも見せなかったのに。

「でも、……本当に今日のことは感謝しているわ。爺に会えて、良かった。このように安らかな気持ちになれたのは久しぶりよ」

 夕暮れの朱がますます鮮やかに辺りを染めてゆく。この風景を自分の両親は眺めることがあるのだろうか……、そんな想いがにわかに胸奥から湧き上がってくる。

「そのようなお言葉、もったいないばかりです。俺たちは姫さまのために身を粉にして働くことが何よりの幸せ、そのためには多少の苦労など厭いません。姫さまのお望みとあらば、どのようなことでも叶えて差し上げたくなるのですよ」

 ああ、この言葉はかつてどこかで聞いたことがある。

 遠い日の子守歌の一節を辿るように、瑞菜はぼんやりと想いを遡っていった。どこまで戻れば、この心は自由に戻ることが出来るのだろうか。がんじがらめに閉じこめられた願いの全てまで、もう一度羽ばたかせることが出来るのだろうか。

 ――否。

 誰に訊ねるまでもなく、もうひとりの自分自身がささやかな物思いを打ち消していく。夕日の当たった李津の頬が柿の実のように赤く見えた。

「姫さまはいつでも願いの全てをご自分の中に飲み込んでしまわれますから、それではおそばにいる我々も動きようがございません。情けない話ですが、このような若輩の身では父のように姫さまの心内まで深く入り込むことは無理ですから」

「……そうね」

 静かに言葉を重ねる。以前から、幾度となく爺に言われていたことだ。だが、空回りしていく心は己の意思とは裏腹に次第に遠いところに行き着こうとしている。何が正しくて、何が間違っているのかすら判断つかない。期待されればそれに応えようと頑張るしか道はなかった。もしも己の存在を切り捨てられてしまったら、今度こそ行き場はなくなってしまう。

 爺に会えば道は拓けるのではないかとも期待した。だが、そもそもそのように他人の手を借りるばかりで真の幸福が手にはいることはないだろう。

「ねえ、李津」

 湿地の入り口。細木に繋いであった手綱をほどいていた人に、ゆっくりと問いかける。

「じゃあ、……もしもわたくしが今、このまま二度と館に戻りたくないと言ったら。その願いもあなた方は聞き届けてくれるというの? あなたたち皆で力を合わせて、わたくしをどこかに逃すことが出来るかしら」

 凛と澄んだ響きは、まるで自分のものではないような気がした。早朝にしっかりと結い上げられた髪も、長い道中にすっかりほどけてしまっている。朱の輝きの中に踊る毛先、その先端はまばゆいほどの光を宿らせていた。

 振り向いたその人は、やはりこちらが予想した通りの面持ちであった。

「それは……、もしもそこまでの大事をお望みならば、本日このようにお連れすることもございませんでした。俺たちのような身分の者が足掻くにはここまでが限界であることを、すでに姫さまもご承知でしょう。それに……全く見通しの立たないことをしでかすほど父も俺も愚かではございません」

 まさか、ここまでのことを切り出すとは想像もしていなかったのであろう。戸惑いの心が応える声の震えにそのまま鮮やかに表れている。

「そう……ね、李津の言う通りだわ」

 初めから、分かり切っていたこと。瑞菜自身も、こんな馬鹿げた願いが本当にまかり通るとは思っていなかった。それなのに、かろうじて飲み込む心が痛い。

「我が儘ばかりを押しつけて、申し訳なかったわ。さあ、早く戻りましょう。わたくしの不在が館の誰かに知れたら大事です。こうしている今も、三佐はひとりでどんなにか心細く過ごしていることでしょう」

 

 ――姉姫は、意に沿わない婚礼を押しつけられそうになって夜半に館から逃げ出した。

 およそ良家の姫君とは思えない失態に、祖父の館は過去に例を見ないほどに混乱したと聞いている。だが、そのような時にも姉はひとりきりではなかった。今は夫となった人が、絶えず寄り添い安全な場所へと導いてくれたのだから。

 まるでお伽噺のような展開だと、失笑する者は使用人の中にも多い。だが、瑞菜はそうは思えなかった。大勢の人々から称えられようとかしずかれようと、そのようなことが自分の何になると言うのか。ただ一度、ただひとりの人が側にいてくれればそれでいい。

 

 だがそれは、姉姫だからこそ叶ったこと。同じことが我が身にも起こるなどと考える方が間違っている。

 

「そのように仰って頂けて、あの娘もたいそう喜びましょう。このたびお許しこそは出ませんでしたが、南峰へのお輿入れに是非同行させてくれと何度も掛け合ったそうですよ。親の許しも得ずにと、兄が苦笑いをしておりました」

 その刹那。瑞菜の表情から緊張が解け、普段通りの柔らかい笑みがそこに浮かぶ。

 分かっている、皆が懸命に自分の限界のところで足掻いているのだ。だからもう、ここまでにしなくてはならない。これ以上を望んでは駄目だ。

 終焉を告げる鐘の音が、静かに瑞菜の胸の中へ落ちていった。

 

◆◆◆


 渡りの向こうで続く宴の賑わいを、瑞菜はひとり部屋の奥で聞いていた。

 足を踏み入れても初めての場所としか思えないほどにそこここが飾り立てられ、恥ずかしいほどに大袈裟な灯り取りが隅に置かれている。わずかばかりの間に障子戸から道具から全てが真新しく取り替えられ、見覚えのない薄布が今もぼんやりと目の前にあった。

「誰か……、そこにいないの?」

 主の元に恋人が忍んでくる夜にあって、使用人たちは皆他人顔のままでそこここに潜んでいるに違いない。そのようなものであると前もって教えられてはいたが、しんと静まりかえった対が気味の悪いほどである。もしも、このようなときに話し相手のひとりもいれば気が紛れるというのに。念入りな支度を終えてしまったあとは、皆静かに立ち去ってしまった。

 今宵はかりそめの一夜である。あまりにかしこまった支度をしてはかえってはしたないと言うことで、純白の寝着(やぎ)の上には薄紅の重ねを羽織っていた。
  しかしながら、色々と断りを付けたところで今から自分の身に起こることはひとつしかない。今はあの明るい宴の席で存分に振る舞われている御方、昼下がりに目立たない牛車で館にお入りになったのは瑞菜の将来の夫となるその人であった。

 鮮やかな朱の色が空を染め上げるのを見上げたあの夕べから、幾日も過ぎていない気がする。結い上げた髪にいくつも挿されたかんざしが重い。だがそれを払う自由すら、もう自分には与えられていなかった。

「――李津、なの……?」

 まさかそのようなことがあるとは思わなかった。だがしかし、障子戸の向こう、ゆらりと映った影を見誤ることはない。すぐさま端近まで寄り震える手でそこを開けようとしたが、いくら指先に力を込めてもびくともしなかった。

「お静かに、……早く奥にお戻りくださいませ。表には変わりはございません、お客人がこちらに上がられるまではこちらに控えさせて頂きます。どうぞ、ご安心ください」

 どこに潜んでいるか分からない侍女たちに悟られぬよう、低くかすれる声。耳を澄ましてやっと聞き取れる言葉たちに、瑞菜の心は次第に冷たく凍えていった。

 

 ――どうして、このような夜に。

 お庭番の下男とはいえ、毎晩のお務めがあるわけではない。瑞菜の対の表を守る者は幾人もおり、その者たちが何日かおきに交代して任についていると聞いていた。務めを外してもらおうと思えば、容易に出来ることなのである。……なのに。

 つう、と心に冷たいものが落ちていく。しかし瑞菜はその行方を確かめることもせずに、ゆっくりと立ち上がった。

 

「分かりました、お役目ご苦労様」

 それきり、対の中には静寂が戻った。

 

 本館の宴はまだまだ続いているようである。今宵はかなり豪勢なもてなしとなっているに違いない。かの人も当初の目的を忘れてしまっているのではあるまいか。とうとうしびれを切らした侍女のひとりが、身を乗り出して渡りの向こうを確認した。だがやはり、人影は見えない。

「……姫さま」

 あかあかと灯りのともる寝所のうちに、またひとりが声をかける。だが、戻ってくる返答はなかった。

「瑞姫さま、あのぅ……お加減は如何でしょうか……?」

 普段であれば、すぐに言葉が返ってくるはずである。不思議に思った者たちは、恐る恐るその場所に足を踏み入れた。ここしばらくの忙しさに、ふさぎがちであった御方である。急に体調が悪くなると言うこともあり得るだろう。それをうっかりと見過ごしてしまったとあっては、あとでどんなお咎めを受けるか分からない。

「……姫さま……!?」

 部屋頭の侍女が一番先に几帳の内に入る。その場所にすでに人気はなく、冷たく人肌も感じ取れないしとねの上にはつい先刻まで姫君の髪に挿されていたはずの玻璃のかんざしだけがぽつんと残されていた。

 

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