がたがたと木戸の揺れる音。夜半の野を流れゆく荒い気が、小高い丘に当たって引き返していく。そんな表の有様が薄暗い小屋の中からでもはっきりとうかがえた。 「……ん……」 いつの間にうたた寝などしていたらしい。下に敷くものもなく直に板間に横たわっていた身をゆっくりと起こしていく。その頃には外はまた静かになり、冴え冴えとした天の輝きが立て付けの悪い木戸の隙間から漏れてきていた。 ―― 今頃、館はどうなっていることだろう。 自分でも愚かなことをしでかしたと分かっている。こんな風に逃げ出してみたところで、歩き慣れない足では遠くまで進むことは出来ない。結局は祖父の館とは目と鼻の先にあるあばら屋に身を隠すことしか叶わなかった。この場所ならば、見つかるのも時間の問題である。そう……ひとりの力では、どうすることも出来なかったのだ。 「……でも、やっぱり嫌……っ!」 誰にも告げることの叶わなかった想いを、すすけた板肌が吸い取っていく。ぎりぎりまで、そうぎりぎりまで自分は堪えた。どうにかなるのではないかと、期待した瞬間もあった。だが、最後の最後でそれも虚しく崩れ去る。必死で築いてきた心の砦も、今や見る影もなくなっていた。 あの刹那、心が砕け散った。そして自分でも気付かぬうちにひとり対を抜け出して、暗い夜道をひた走っていたのである。 このことが明るみに出れば、どんなにか罵られることであろう。ことによっては、南峰との全ての関係が悪くなることも考えられる。 これから、自分はどうなってしまうのだろうか。それを考えると気が遠くなりそうだ。首に縄を付けてでも、南峰大臣家の跡目殿の前に差し出されるのだろうか。それくらいのことは、朝飯前のような感じである。先だって館を訪れた乳母殿は、名実共にかの館一の権力者とうたわれているらしい。彼女の意に逆らえる者など存在しないのだ。 乾いた板間に、ぽつぽつと丸いシミが出来ていく。両手で顔を覆ってみても、流れるものは留めることが出来ない。 ごつりと、胸元に固いものを感じた。ハッとしてその部分を改める。そうだ忘れていた、これがあったではないか。今宵の儀式のために潜ませていたそれを、瑞菜はゆっくりと取り出していた。 鞘を外せば、艶やかな刃先が目の前に現れる。わずかばかりの光を集めたその部分が、キラキラと夢のように輝いていた。 瑞菜はゆるゆるとそこから視線をそらして、今更のことながら我が身を改めていた。長い髪はすっかりとほつれて、櫛を通すのも大変な程に乱れている。夕べに念入りに洗って香油を塗りつけてはいたが、そのときに鏡に映った姿は見る影もない。指先を入れてどうにか整えれば、わずかに残った香りが悲しく胸を突いた。 姿勢を正して、大きく深呼吸をする。幾度か繰り返しているうちに次第に心が鎮まり、安らかな心地が訪れてきた。 ――そう、もう何も恐れるものはないのだわ。 大きく胸をえぐっていった突然の痛みは、確かに瑞菜の心を別の色へと変えていた。あの瞬間まで、疑いもなく信じていた自分の方が愚かなのだろう。すべての望みが絶ちきられてしまえば、あとは自分自身で道を切り拓いていくしかない。そう、その方が最初からこの身にはふさわしい。頼れるものがついになくなった今なら、何もかもから自由になることが出来る。 「……っ……!」 握りしめたその一房に輝く刃を当てた刹那、ちりっとまた胸が震えた。もしやと思い戸口の方をうかがっても、そこには静寂が漂うのみ。
「――姫っ! 姫さま、やはりこちらでしたか……!」 思いがけない出来事に、懐刀が手から滑り落ちてしまう。その行方を捜す間もなく、がたがたと木戸が荒々しく揺れ始めた。 「――嫌っ、開けないで……!」 するりと片腕が入る程に開いたところで、ようやくそれを留めることが出来た。こちらが内にいることに安堵したのだろう、表の者も無理にそれ以上の行為を続けようとはしない。 しばらくは荒い呼吸を整えているのか、次の声が聞こえなかった。瑞菜は木戸をしっかりと押さえたまま、小さく吐息を落とす。その心は再び、冷たく凍えていった。 「やはり、……あなたが来たのね。そうね、そんなことだろうと思っていたわ。一刻も早く見つけ出して連れ帰らなければ、お咎めを受けるのですものね」 自分でもぞっとするほどに冷たい声がこぼれ落ちた。身を切り裂く程の真冬の夜であっても、これほどに辛くはないであろうと思われる。 「……姫……」 それに応えるのは、絞り出したようにかすれた声。その表情を思い浮かべれば胸が痛むが、もう自分の意を覆すつもりはなかった。 「でも、わたくしはもうお祖父さまの御館には戻らないわ。ひとりで帰って皆様にお伝えして、わたくしは……この先は西山の巫女になります。髪は自分で整えますから、そのように手配してくださいと。そうすれば、あちらの大臣家の方々にもご納得頂けるでしょう……?」 突然のひらめきであったが、我が身にとってこれ以上の道はないと確信していた。 「ひ、姫さま! 何を仰るのですか、お待ちくださいませ。そのようなこと、御館の皆様がお許しになるはずがございません。どうか、落ち着いてお考え直しください。早まってはなりません……!」 慌てて戸を開けようとするが、なかなか思うようにはいかない様子である。 「早まってなどいないわ、どちらにせよ同じことよ。ふたつのどちらを進んでも茨の道が待っているのなら、わたくしは誰とも争わないで済む方を選ぶわ」 床の上を探し回り、ようやく懐刀を見つけた。それを拾い上げ、ゆっくりと振り向く。 「あなたも、知っていたのね。それなのに……、もう何も信じられない」
南峰の大臣家。乳母として仕える一族は、その権力の全てを手中に収めていた。 「乳母」としての立場は表向きのもの、その実は代々の館主の愛妾である。主君の身も心も吸い尽くし、さながら操り人形のように支配してきた。瑞菜の夫となる跡目殿の元にはすでに幾人かの側女が上がっていたが、その中で一身に寵愛を受けているのがやはり乳母一族から出た女子である。 あまりぐずぐずしているわけにはいかない、すでに愛妾の腹には子がいる。かくなる上は早急に正妻を仕立て上げ、世継ぎとなる子を産ませなければならない。もしものときにはその者が妾腹の子を我が子として育てることにもなるだろう。
「結局は、李津も爺も……館の皆にとってはわたくしは大切な置物のような存在でしかなかったのだわ。どこか高貴な御館にもらわれていくまで大切に扱う宝、ただそれだけだったのよ。わたくしが自分で自分の想いを伝える? どうしてそのようなことが出来るの。この手をいくらさしのべても誰も応えてくれないなら、自分を抑えるしかなかったわ」 爺に訊ねたいことは、そのひとつだけであった。事実を承知しているのであれば、どうしてこのまま内密に過ごそうとしているのか。しかし彼はいくら問うても首を横に振るばかり、今となっては自分に出来ることは何もないと告げる。その上で「ご自分の進むべき道をしっかりとお決めくださいませ」と促されたところで、どうなることもない。 「皆の望みがどこにあるのか、そればかりを考えて過ごしてきたわ。館の皆の幸せのためにわたくしに出来ることがあるのなら、出来る限りの努力をしていこうと。でも、……そうしたところで、わたくしに残るものは何もないの。もう、これ以上の争いごとには耐えられない」 行き場のない想いばかりが、口をついて溢れてくる。それと共に溢れ来る雫。ぽろぽろと輝く珠が頬をこぼれ落ちていく。 ――待っていたのだ、そのギリギリの瞬間まで。悪しき渦の中から救い出してくれる誰かを。 幼い頃に胸をときめかせて読んだ絵巻物、草子のようにこの身を盗み出して光の元へと導いてくれる者が必ず現れると信じ切っていた。 耐えていれば、いつかは幸せになれる。母上も運命に流され続ける身の上にありながら、最後に父上の愛に辿り着くことが出来たのだから。きっと必ず、だから大丈夫。 「――お待ちください、姫さま」 それは、かつて李津の口からは聞いたことのない厳かな声であった。まるで天からのお告げのように、瑞菜の胸に鋭く突き刺さってくる。 「西山に行かれては、もう二度とご家族の皆様にはお目にかかれなくなりますよ。御両親や御祖父母、兄弟の皆様にお会いできなくなっても宜しいのですか。あちらの規律は大変厳しいものと伝え聞いております、思いつきのようにお決めになってはなりません」 今までのぎこちなさが嘘のように。目の前の戸がするすると開いていく。そこに現れた人は、揺るぎない眼差しで真っ直ぐにこちらを見つめていた。 「それほどの覚悟がおありなら、もっと別の道がございましょう。姫さまが未だに胸に秘められている一番の願いを、館の皆様にきちんとお伝えになったら如何ですか? それから、ゆっくりと新たなる道をお決めになっても決して遅くはないと思いますよ」 ――そのようなこと、願うわけにもいかないのに。 瑞菜もまた、李津の目をしっかりと見つめていた。雫の跡がはっきり残る頬を隠すこともせず、その手にはしっかりと懐刀が握りしめられたままである。 しばらくはふたりとも何も語ることなく、静かな時間を過ごしていた。先に沈黙を破ったのは李津の方である。彼は音もなくひらりと身を翻すと、瑞菜に背を向けて戸口の向こうの縁に腰掛けた。 「暗がりの今、外を歩かれては危険です。夜明けまでしばらく待ちましょう。館の方はご心配なく、姫さまは急な病にお倒れになったとあちら様にはお伝えしてあります。部屋付きの侍女も薬師もことを内密に過ごすために皆必死に真実を隠しておりますゆえ、姫さまがお戻りになれば全てが元通りですよ」 それきり、こちらを振り向こうともしない。心を中途半端に引かれたままで、瑞菜は途方に暮れた。 「あの」 肩先が、一瞬だけぴくりと動く。でもそれ以上の反応はなかった。 「わたくしから、懐刀を取り上げなくてもいいの? 何をしでかすか、分からないわよ」 李津は後ろ向きのまま、低く喉の奥で笑った。 「それは……、姫さまがお決めになることですから。俺が無理にお止めすることなど出来ません」 彼のすっかり乱れた髪を、涼やかな気が揺らしていく。静かな時の流れを、瑞菜は自分の心に映し出していた。
にわかに気付いてしまった恋心、しかしそれはあまりにも遠い。 もしもこの場で「巫女になる」と再び懐刀を振り回したところで、得られるものは何もないだろう。この男に対して何を告げたとしても、それは「命令」でしかない。そこに彼の心がないのなら、ただ虚しいだけである。 望めばたちどころに手に入る、だがそれが分かっているからこそ瑞菜の口から真実を告げることなど出来るはずもなかった。
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