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「玻璃の花籠・新章〜瑞菜」

 

 ぼんやりと開く瞼の向こう、そこは柔らかな光に溢れている。

 ―― 一体、ここは何処?

 普段とは全く違う目覚めに不思議な違和感を覚え、無意識に身を起こそうとした。しかし、その刹那に身を切り裂くような痛みが背筋を走り抜ける。

「お目覚めですか、姫」

 しとねの傍らで静かな衣擦れの音がした。淡く薫る花の香、明るさに目が慣れないままに必死でそのお姿を確かめた。

「は……母上さま?」

 信じられない出来事に、思わず口元からこぼれた叫び。驚きのまなこに見つめられても、目の前の御方は普段と変わりなく柔らかい笑みを浮かべている。
  そのときになって、瑞菜はようやく自分が昨晩とは違う場所にいることを知った。ここは両親の住まう「奥の居室」に違いない。この部屋は幾度か訪ねた折に通された客間であろう。大きく造られた窓には障子戸が取り付けられ、そこから注ぎ込む輝きで部屋の中は満たされていた。
  床の間の隣りに造られたささやかな飾り棚には季節の花や小物がさりげなく置かれ、隅々まで手入れの行き届いた空間はそこに住まう人の穏やかな心映えを届けてくれる。

「無理はせずとも宜しいのですよ、しばらくは静かに傷の癒えるのを待ちましょうね」

 母の手にした器から、ふわりと立ち上る湯気。つんとした独特の匂いにそれが気付けの薬湯だと分かった。

「さあ、辛いかも知れませんが頑張って飲み干しましょう。だいぶお疲れのご様子ですから、まずは心身共にゆっくり休まれるのが一番ですよ」

 優しく添えられた手、そこから伝わるぬくもりに知らず熱いものが溢れてきた。もちろん自分では留めるつもりであったが、どうしてもそれが出来ない。目の前はぼんやりと霞み、必死に抑えようとする嗚咽が食いしばった歯の間から漏れ出でた。

「どうしましたか、裳着を終えられて大人になった方がまるで幼子のように。これではとてもお輿入れを控えていた姫君とは思えませんね」

 遠い記憶の中のように背をさすってもらい、さらに髪を優しく撫でてくれる。何て温かなのだろう、安らかなのだろう。久方ぶりに母の胸に抱かれて、今まで堪えてきたものが一気に溢れてしまいそうになる。

 天の光もない闇夜。あの古びた小屋から自分を運び出し、この場所まで連れてきたのは誰であるのか。それはもう訊ねるまでもなく明らかである。だが部屋にも表にも、その者の影すらうかがうことは出来なかった。

「父上も……このたびのことではたいそう驚かれ、お心を痛めておられるご様子。ただいまは本館の方にお客さまをお見送りに行かれてますが、すぐにお戻りになるでしょう。目に入れても痛くない程に可愛がっていらした姫の大事ですもの、何をなさっていても心ここにあらずという有様でしょうね」

 ようやく手を借りて薬湯を全て飲み干すと、母はまた瑞菜にしとねに休むようにと告げた。だが盆を持って立ち上がったその人のひとことには、薬に促されて眠りに落ちていきそうになる頭を容易に呼び覚ます。みるみるうちに強ばっていく頬、しかし振り向いた母の眼差しはどこまでも穏やかである。

「何も案ずることなどありませんよ、あなたはただいま流行病で床についているのですから。今までの忙しさが堪えたのでしょうね、あちらの館では人の出入りが多く落ち着かないでしょうからこちらで休んだ方がいいと薬師の助言もありました。ご隠居様方にもすでにお許しをいただいております、南峰のお客人も致し方ないことといったん戻られることになったご様子ですよ」

 驚きの表情で見つめる瑞菜に、母は笑顔でことの次第を説明してくれる。

「噂には聞いておりましたが、たいそう賢い男ですね。短い時間にここまでの話を思いついてしっかりと根回しをしてしまうのですから相当なものです、父上も驚かれていましたよ。でも臣下に置くにはいささか頭が切れすぎて扱いにくいだろうともこぼしていらっしゃいましたけど」

 ―― やはり、そうであったのか。

 瑞菜は自分の確信が静かに胸奥に落ちていくのを感じ取っていた。このようなことを考えつくのは彼以外には有り得ない。自分の失態に、一夜明けた祖父の館は大変なことになっているとばかり思っていた。しかし当のお客方すら納得ずくで戻られると言うのだから、とても信じられないことである。多分、側に寄る者に伝染する病にかかったとでも公に告げられたのだろう。

「あの……母上さま。李津は、今どこに……」

 昨夜はあまりに気が高ぶって、随分ひどいことを言ってしまった気がする。やはりひとこと詫びなければ気が済まない。彼は彼なりに精一杯自分に尽くしてくれていたのだ、それを忘れて感情に走るなど上に立つ者としてあるべき姿ではない。

 しかし、母は瑞菜の言葉に静かにかぶりを振った。

「何やら大事な用があると言って、いとまをもらっていましたよ。しばらくは本館にも戻れぬとのことです。代わりに……あちらの対が片づき次第、三佐がこちらに来てくれるそうですよ。あなたも馴染みの侍女を近くに置いた方が、何かと心強いでしょう」

 母がいったん部屋を退いたあと。床の間の花が、ゆらりとこちらに微笑みかけたように見えた。

 

◆◆◆


「さあ、……私も叔父からは何ひとつ言付かっておりません。もともと何でもひとりで進めてしまう人ですから、私共は毎度振り回されるばかりですわ。末子でありながら誰よりも祖父の血を濃く受け継いでいると、我が父もいつもこぼしております」

 母の言葉通り、昼を過ぎた頃に三佐が奥の居室へとやって来た。あちらの対から持ち込んだ道具などを並べながら、昨夜からの本館の様子を話してくれる。こちらが気に病む程の惨事にはなっておらず、全てが穏便のうちに片づいていたことに改めて驚かされた。

「もぬけの殻の寝所を見たときの皆様の慌てようと言ったら相当のものでした。すぐさま本館の女人さまにお伝えしようとする者たちを叔父は引き留めて、このことが知れれば対を預かっていた自分たちがどんなにお咎めを受けるか知れないと告げました。もう普段とはお人が変わったように恐ろしいお顔で、年配の方々も黙って頷くしかないご様子。あとは皆、叔父の言葉通りに立ち働くだけでした」

 李津が薬師とふたりで口裏を合わせた病名は、西南の人間にはあまり馴染みのないものであった。しかしそれを聞いた南峰からのお客人は皆顔色を変える。何でもあちらでは「死の病」と恐れられている難病で、少しでも手当を誤ればたちどころに命を落とすとすら言われているらしい。

「すぐさま、昨晩のお渡りは中止になりました。姫さまのご容態次第ではお輿入れの話すら白紙に戻すとのお言葉でしたわ。女人さまはたいそう落胆なさってお出ででしたけど、事情が事情だけにごり押しも出来ません。前触れもなく突然かかる病とのことで、誰も疑う者などおりませんでした」

 もちろん的確な手当を施せば、半月ほどで回復することも多いと聞く。風邪などと症状が似ているため診断を誤ることが多いとのことであった。何にせよ、大事にならぬ前に分かって良かったと一同は胸をなで下ろしたという。

「本館の薬師様が祖父の時代からの顔なじみだったことも幸いしました。姫さまにおかれましては、ごゆっくり養生なさって心身共に回復されるのが一番です。こちらに移られたことも、女人さまはご納得なさってますからご心配には及びませんわ」

 心優しい侍女はそう言って慰めてくれたが、瑞菜にはまだことの成り行きが信じられないばかりであった。
  昨夜、お庭番として控えていた李津はそのような素振りを全く見せなかったのに。最初からこのような手はずになっていたのか、それとも咄嗟の思いつきであったのか。全く分からないばかりだ。

 

 夕刻になる頃には、しとねの上に上体を起こして粥をすすえるほどに回復した。

 やはり身体の節々の痛みが取れるまでには相当掛かりそうであったが、それさえ我慢が出来れば普段通りの生活にもほどなく戻れそうである。ただ足の裏には深い傷がいくつもあり、それをしっかりと手当てしなければあとあと大事になると言われていた。

「全く……このたびのことには肝を冷やしたよ。初めに李津から内々に呼び出されたときには、何が起こったのかと思った。姫がここまで跳ねっ返りであったとは、さすがに想像でなかったな」

 父が本館での全ての雑務を終えて戻ったのもその頃であった。昼前にお客人を送り出してすぐに戻るつもりが、そうもいかなくなったという。今までは領主とは名ばかりに瑞菜の祖父であるご隠居様の顔を立てていたが、これを機に全ての決定権を自分に譲るようにと申し上げたらしい。もちろん一悶着は起こったが、どうにかその場を収めてきたとの話である。

「そのように仰っては、姫が可哀想ですわ。今まで何から何まであちらの皆様に任せきり、そのようにしてきた私共にも責任はあると思います。もう少し姫の心内を気遣って差し上げる必要がございました、姫は何者にも代え難い私共の大切な娘なのですから」

 父よりも少し後ろに控えた母は、静かな口調でそうたしなめた。

「瑞姫、あなたもご自分の希望をもっと口にしなくてはなりませんね。黙っていても周りの皆が分かってくれるだろうと言うのは傲り以外の何者でもありません。何を考えているのか分からない主人ではお仕えする者も戸惑うばかりですよ。皆、あなたに気持ちよく過ごして貰えるようにと心を砕いているのです、その気持ちに報いなければなりません」

 母の言葉にどう返答していいものか分からなかった。でも仰ることはもっともである。幼き頃、都にあっては竜王様の二の姫・三の姫さま方とご一緒していた。あの方々はご自分の思うことをはっきりと口になさる、しかしきちんと相手のことを考慮した物言いであるならば少しも煩わしくはない。だからこちらとしても王族の皆様が喜ばれることを、容易に知ることが出来た。
  あの頃は今とは比べものにならぬほど気楽な立場にあった気がする。華楠さまは次期竜王の椅子に一番近い立場にあられる御子様であり、その乳母の子であった自分たち兄妹は周囲の者から一目置かれた存在ではあった。だが、それでも使用人の子であることには変わりない。出来ることならあの頃に戻りたい、でもそれは許されることではないと思い続けた数年であった。

「そうだな、秋の言う通りだ。私たちは未だ、姫の本当の願いを聞いたことがない。このたびの輿入れのことについても、あのお祖母様が乗り気であったから断り切れなかったというところもあるのだろう。この先も姫があちらに上がりたいという希望があれば話を進めよう、でも何も無理をすることはないのだよ」

 続けて告げられた父の言葉に、瑞菜は驚いて顔を上げていた。それまでは自分の行いが申し訳なくて、どうしても両親の顔を真っ直ぐに見ることが出来ず俯いたままであったのである。

「いえ……そのような。そのようなことが許されるとは思いません、だって……」

 一度は承諾した話を身分が下の立場から断ることは出来ない。それくらいは父としても承知しているだろう。何から何まで地位と名誉が左右する世の中、ひとり異を唱えたところでどうすることも出来ないのだ。

「何を言うのだ、初めからそんな風に逃げ腰では上手くいかぬだろう。昨夜は私も本館で南峰の跡目殿と同席した、親子の契りとして酒を酌み交わしたがあまり好感の持てる御方でもなかったな。正直、姫をやるのは惜しいとすら思ってしまった。このような事態になって、安堵しているくらいなのだ」

 親子水入らずの席にあると言っても、あまりに隠し立てのない言葉である。瑞菜と共に母も父の言葉に眉をひそめた。

「まあ……殿、そのようなことはお心内に留めてくださいませ。どこから誰がうかがっているとも知れません、軽はずみな言動はお慎みください」

 父は「参ったな」と頭をかいている。その姿がおかしくて、一同は声を上げて笑った。

 本当にどこにでもありそうな家族の姿である。だが瑞菜にとっては久方ぶりの安らかさであった。始終、周囲の目を恐れ、お祖母さまの意に叶うようにとそればかりを考えていた。だがしかし、お祖母さまの真の願いとは何であるのだろう。自分が今まで胸内で思い描いたのは、ただの想像でしかなかったのではないか。

 さりげないやりとり、両親の姿は幼い頃から自分の憧れであった。見た目のそのお美しさはもちろんのこと、お互いを思う心が温かく見る者を和ませる。母は出来た女子であると思うが、やはりそれは父の存在があってのことなのだ。
  若い頃は奔放で女遊びの過ぎるほどであったと言う父が、母との出逢いで何を見いだしたのかは知らない。だが父の素晴らしさを誰よりも知る母がいて、父は立ち直ることが出来たのではなかろうか。そして母もまた、父がいたからこそ穏やかな微笑みを手に入れることが出来た。

「あの……わたくしは南峰の跡目殿ともお目に掛かってはおりません。ですから聞き及んだ話だけで色々と判断するのは難しいと思います、あちら様にも大変失礼なことと存じます」

 一体どのような殿方なのだろう、そんな期待が胸の隅にあったことは事実である。どんなに悪名高き者であっても、それを我が手で変えることも出来るかも知れない。ただ、それだけのものが自分の中にあるかどうかは分からなかった。

 ―― まずは自分が、自分自身が幸せになること。

 己の心次第でどうにでもなるのだから、簡単だと言えばそこまでだ。でも今となっては、心を解き放つ手だてが分からない。がんじがらめに縛り付けてしまった想いは何をしても自由に戻れない、そんな絶望的な気持ちもあった。

「李津がここにいてくれたらいいのに」―― 本心ではそう思う。

 だが彼は、また自分の前から姿を消した。誰にも行き先を告げぬまま、何処へ行ってしまったのだろう。いつもそうだ、どうにか歩きやすい通り道を作り上げてくれたあとに突き放される。最後は自分自身で考えろと言われても、それが一番難しいのに。

 偽りの心はいらない、本当の永遠に消えない想いが欲しい。この先、どんなに高い波が現れても、それを共にくぐり抜けて行けるだけの強い絆が。

 両親の目が温かく自分を見守っている。何を告げても許されるのだ、誰にもたしなめられることはない。でも怖かった、唇は何度も空を切り震え続けている。幾度も大きく息を吐いて、瑞菜は自分の中に問いかけていた。

 そうして、……ようやくひとつの真実に辿り着く。そのとき、心の中に確かに光の珠が宿った。

「わたくしは……地位も名誉もそれほど必要ではございません。ただわたくしを心から必要としてくれ、誰よりも力強く護ってくださる、そのような方の元に嫁ぎたいと思います」

 そう、父のように。都に上がる母のために、家も名誉も捨ててしまった父のように。そんな御方となら、一生暮らして行けそうな気がする。だが、このような考えはあまりに傲慢ではないか。それに、どうしたらそんな相手を見つけられるのかその方法も分からない。

 どこまでも的を射てない言葉と思ったが、父はことのほか嬉しそうに膝を打った。

「そうか、なかなかの難問であるな。だが、この父もたいそうな腕自慢であるよ。そうだな、まずは私よりも腕が立つ男でなくてはならぬだろう。広く集落の内外にまで呼びかけて、集まった者たちを互いに競い合わせるというのはどうかな?」

 こうなってはじっとしておれぬとばかりに、そそくさと立ち上がる。今一度本館に出掛けて来るというその背中を見送って振り向いた母は、やはり静かに微笑んでいた。

 

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