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「玻璃の花籠・新章〜瑞菜」

 

 ほんの思いつきのように父の口からこぼれた話は、ただの戯れ言として瞬く間に忘れ去られるものだとばかり思っていた。もしもあのまま本館に話を持ち込んだとしても、生真面目な祖母に即座に却下されてしまうに違いない。

「腕比べは、半月後の吉日を選んで執り行うこととなった。開催は本館の中庭が良いだろうということで、今支度をさせている。集落の内外を問わず腕自慢たちを募ることにした、どのような技を使う剣の達人が集まるか誠に楽しみであるな」

 数日後の夕餉の席でそのような話を聞かされたときにも、たいした感慨はなかった。父はふさぎがちな自分を励まそうと、わざと話を大きくしているに違いない。三佐の話によれば、このたびの話はすでに集落の隅々まで届いているらしい。流行病で輿入れの約束が白紙に戻された姫君など、誰が情を寄せると言うのだろうか。

 両親の住まう奥の居室は館の敷地の一番奥まった場所に位置し、始終ひっそりと静まりかえっている。入れ替わり立ち替わりお客人が訪れ騒々しかった本館とは、比べものにならない穏やかさだ。日の中にぽつんとひとりで部屋に佇んでいれば、自分だけが取り残されていく心地になる。

 ――もう、お祖母さまもわたくしのことなど見捨ててしまわれたのかも知れない……。

 かたちばかりの見舞いの品が届いた他は、祖母からは文のひとつも届いていなかった。瑞菜がしたためたお礼状への返信すらない。今までの執拗な干渉を思えば、信じられないばかりである。
  このたびの自分の失態は、かの人を深く傷つけたのではなかろうか。南峰の大臣家への輿入れを誰よりも楽しみにしていた祖母であった。気苦労から体調を崩して、また寝込まれたりしていないだろうか。

 

 しばらくは床についたままの日々を過ごしていたが、七日を数える頃には居室の表を散策して歩けるまでに回復していた。
  本館の美しくしつらえられた庭とは異なり、ここでは素朴な野の花がのびのびと咲き誇っている。そのしなやかな刃先に、ひらひらと蝶や羽虫が舞い降りては飛び立っていく。差し迫った用事もなくぼんやりと過ごす一日は、瑞菜をさらに孤独な場所へといざなった。

「まあ、姫。いけませんね、いつまでもそのように塞いでいては。早くお元気になられないと、皆が心配しますよ」

 母も手が空くごとに瑞菜の部屋を訪れて、あれこれと世話を焼いてくれた。南峰のお客人にしばらく針を習った話をすると、それではお忘れにならないうちにおさらいしましょうとすぐに道具を運び込ませる。
  元は大臣家の血筋とはいえ妾腹の親を持つ母は幼き頃には庶民と変わらぬ生活を送っていたと聞く。当たり前の幸せを掴み取るはずだった娘が、思いがけず都へ上がることになった末の気苦労は想像にあまりある。だが、母が当時のことを多く語ることはなかった。ただその口元に静かに笑みを浮かべたまま、通り過ぎた季節へと穏やかな眼差しを向けている。
  皆の期待に応えていけば、いつかは母のようになれると信じていた。だが、実際はどうであろう。母の歩いた茨道の半分も進まぬうちにこの始末だ。

 開けはなった障子戸の向こう、天高く鳥が羽ばたいていく。すべてのしがらみから逃れ、今度こそ自分は自由の身へと戻れるのだろうか。だが、待ち望んだはずの幸せがどうしてこんなにも心細いのか。誰からも顧みられることもなくうち捨てられてしまった身の上で、これからどうやって生きていけば良いのだろう。

 もう、相手が誰であろうと同じこと。もしもこの身を必要としてくれる御方が現れたのであれば、今度こそ迷うまい。幾度となく肝に銘じては、次の瞬間にたとえようのない虚しさに襲われる。

 今となれば、己の心の中にあった本当の気持ちが分かる。数多くの女子との間で寵を争うこととなったとしても、最後に勝ち取る愛があると信じ切れれば頑張ることが出来た。南峰の跡目殿が自分を是非欲しいと仰るのなら、その真の心を見せて欲しかったのに。それを問いただすこともなく、うやむやに過ごしてしまった。自分かわいさから出た愚かな心が、恨めしいばかりである。
  祖母の周囲の者の期待にひとつ応えれば、またもっと大きな期待が生じてくる。遠くに微かに見えるかがり火を追いかけて走り続け、それが手に入れば新たな目的地を探す。その繰り返してここまで来た。だが、この先は何処へ辿り着けばよいのだろう。もう誰も、この身の次の終着点を教えてくれない。

 

 ――そう、ただひとり。一番側にいて欲しい人が、消えてしまった今は。

 

 自由に大海原に漕ぎ出せばいいと言われても、その方法が分からなければ途方に暮れるばかりだ。進むべき行く手へといざなってくれる温かい手が、何故いつもこんなにも遠いのだろう。

 吐息が胸を転げ落ちることは、あの日を境になくなった。しかしそれと引き替えに、途方もない物思いに包まれることになる。何かを憂えてひとり嘆いているのは気楽だった。もう、取り返しが付かない。今は自分の浅はかさが口惜しいばかりだ。

 最初から手にはいることのない幸せを、いたずらに願っていた日々が恨めしい。

 久方ぶりに両親の愛に包まれ、心は幼子に戻ってしまった。
  だが、大人となってしまった身では大声で泣くことも出来ず、ここでもまた一番大切な心を飲み込むことしかできない。目の前に立ちはだかるものは、己の中から生まれた不安に他ならない。「孤独」と言う名の自分自身と向き合い、名残の春は静かに暮れていった。

 

◆◆◆


 昨日までの荒れが嘘のように天はどこまでも澄み渡り、初夏を思わせる陽気の庭に早朝より我先にと馳せ参じる腕自慢たちの長蛇の列が出来ている。これには支度を終えて裏口から御簾の内に上がった瑞菜も驚きを隠せなかった。

「都の兄上からも文が届いた、このたびのことが華楠様を介して竜王様のお耳にまで入ったらしい。このような雅な催しも近頃では久しかったからな、暇な時期であったならお忍びで訊ねたいとまで仰ったそうだ。
  もちろん多忙な身の上ではそのようなことが叶うこともないが、本日は都よりの剣者も相当な数に上るのではないかな? 特に腕の立つ者には格別のご配慮があるかも知れぬ、そう思ったらいてもたってもいられないであろう」

 背後から父のはしゃいだ声がする。近頃では行き先も告げずにふらりと外出することが多く、皆に訝しがられていた。領主としての実権の全てを握ったことで気が大きくなりどこぞに新しい女子でも囲っているのではないかなどと、使用人に囁かれる始末。両親の仲の良さを知っている瑞菜とってそれは根も葉もない噂話としか思えなかったが、それにしても不思議であった。

「まあ、……それは」

 何と言うことであろう、自分の知らぬところで思いがけなく話が大きくなっていたらしい。こうして試合の開始を待つまでにもあとからあとから人が押し寄せてくる。その様子を見ているだけで人酔いがしてきそうな有様であった。

「もちろん、この中で一番になった男と姫が何が何でも縁付かなくてはならないという決まりはない。あくまでも瑞姫のお心を第一と考え、無理強いはしないようにとの仰せだ。……さあ、全快のご報告をしてお出で。御祖母様は次の間でお待ちだ」

 父に促されて、奥の間に進む。しかし、瑞菜の心はそのときもまだ揺れ続けていた。このたびのことを仕方ないとご承知頂けたとはいえ、自分が祖母の期待を裏切ってしまったことには違いない。一体何と言ってお詫びしたら良いものなのか。ここに来るまでにもずっと考え続けていたが、未だに決心が付かないままだった。

「……久しくありましたね。たいそう面やつれなさっているかと心配しましたが、思いのほかご回復なさっている様子。私もこれで安堵致しました」

 伏せたままの顔を上げることも出来ずに控える孫娘に、祖母はまるで人が変わったような穏やかなお声をかけてくださった。思いがけないことに、恐る恐る面を上げてそちらを見る。鬼のような恐ろしいお顔でお怒りのものとばかり思っていたから、このように優しい微笑みを向けられることがどうしても信じられなかった。

「こ……このたびは、誠に申し訳ございませんでした。わたくしの至らなさから、大切なお話を……」

 何と言って切り出したらよいものか、それも分からぬままに必死で言葉を紡ぎ始める。それまでは肘置きに身体を預けたままでゆらゆらと扇を仰いでいた祖母であったが、話が核心に迫るとともにぴしゃりとそれを閉じで背筋を伸ばした。

「そのことはもう過ぎたことと致しましょう。今更蒸し返すのも、自分の恥を晒すようで面白くありません。本当に……南峰の大臣家というご立派な身の上にありながら、何と無様なことでしょう。使用人に骨抜きにされた跡目殿など、目も当てられない有様ではありませんか。ああ、情けないこと。何も存じなかったとはいえ、あのようなところに大切な姫を差し出そうとしていたなんて」

 祖母は口惜しそうに深い溜息をつくと、額に手を添えた。その姿を、ますます信じられない面持ちで瑞菜は見つめる。
  どういうことであろうか、自分の知っている限りでは祖母の耳には何ひとつ南峰の大臣家の醜聞は入っていなかったはず。たった半月の間に何が起こったというのだろう。本館のことをうかがうには、両親の居室は遠すぎる。ひどく罵られることも覚悟していたのに、このようにかえって同情されることとなるとは何とも居心地が悪かった。

「あの、お祖母さま。あちら様に一体何が……」

 言われてみればなるほど、契りを交わす約束をした身の上でお見舞いの文のひとつも届かないのはおかしい。今まで自分のことに手一杯でそれに気付くこともなかったが、改めて考えてみればつじつまの合わないことであった。それまでは三日と置かずに文が届いていたのである、もちろん本人の直筆かどうかは確かめる術もないが。
  何気なく訊ねてしまったが、それに対する祖母の受け答えはいつになく鈍かった。多分、こちらが全てを承知していると信じて話し出したのだろう。どうにかして白を切りたいと考えた様子であるが、やがて観念したのか元の通りに肘置きに身体を預けた。

「すでに産み月の近い側女(そばめ)に、このたびの縁談の話が知れてしまった様子ですね。あちら様も話がまとまるまではどうにかして隠し通そうと思っていたのでしょう、館の中を二つに分ける程の騒動になり未だに決着が付いていないとか。身の程をわきまえずに騒ぎ立てる側女も側女ですが、それをきちんと諫めることの出来ない跡目殿も頼りない。
  大体、本妻を娶る前に側女を孕ませるとは、お家の大事でしょう。そのことをひと言もこちらに告げぬ不義理さには、全く情けない限りです。手前どもも軽く扱われたものですね、……ああ口惜しい」

「……はあ。左様にございますか」

 何としたことであろう、自分が何ひとつ動かないうちに周囲から膿がどんどんと吹きだしていく。どうしてこのようにこちらに都合良く事が運ぶのだろうか。全く信じられないばかりだ。
  祖母も真実を耳に入れた当初はかなりの打撃であったと言うが、はらわたの煮えくりかえるままにしばらくをすごすうちに次第に平静を取り戻してきた様子である。まるで憑き物が落ちたかのように安らかなお顔になって、薄気味悪いほどだと思ってはあまりに失礼か。

「まあ、そうではあってもこのままでは格好が付かないと、本日も館きっての腕自慢をよこしている様子ですよ。もちろんこのたびも『跡目殿の名代』という肩書き付きで。まったく恥知らずなことですね、開いた口がふさがらないとはこのことです」

 そう吐き捨てたのち、祖母は静かに立ち上がると瑞菜にいとまを告げた。

「せっかくそなたの父上が張り切っていらっしゃいますが、私にはこのような戦の真似事は騒々しくて敵いません。一通りの挨拶も済みましたし、早々に失礼して奥で休ませてもらいます。瑞姫も病み上がりなのですからくれぐれもご無理をなさらぬよう……」

 それは、今までの祖母であれば有り得ない言葉であった。内々にせよ、本日の腕比べは自分の夫君候補を決める大切な席である。そのような場に、祖母がいないことは有り得ない。やはりすでに祖母にとって、自分は無用の存在と成り果ててしまったのだろうか。たとえようのない不安が、胸に押し寄せてくる。

「……そのように寂しそうなお顔をなさっていては、本日の主役にふさわしくございませんよ。そなたの父上に言われて私も目が覚めました、あなたを遠く手放してしまってはこの心の隙間を埋める術もないでしょう。そう思えば、諦めもつくと言うものです」

 祖母の心の中には、未だに断ちきれぬ未練もあるのだろう。長い間おそばで過ごした瑞菜には、その複雑な物思いまでが手に取るように分かった。だが、今は何も告げまい。祖母は自分で己の中の感情を静かに解き放とうとしているのだから。
  どのようなかたちであれ、自分は深く愛されていたのだ。今までも、そしてこれからも。一度疑いかければ、その真実を遠く見失ってしまうのが他人の心。まずはこちらから、全てを包み込むほどの心で接して行かなくてはならない。

「承知致しました、それでは本日の催しの終了後に改めてお見舞いにうかがいましょう」

 渡りの中程まで見送ってそう告げると、祖母は一度振り返って淡く微笑んだ。

 

◆◆◆


「やはり何処の馬の骨とも分からぬ者には大切な姫君をやれぬとの御祖母様直々の仰せでね、仕方なく侍従職以上の者を集めることと相成った。しかし……さすがにこれほどまでとは。私も出世したものだな」

 中庭に面して掛けられた御簾の一番端近に出て、父は子供のような姿で外を覗いている。さもあろう、一介の豪族の呼びかけにここまでの者たちが集まったのだ。普段のお務めは冷静にやり過ごす父も、いささか浮き足立っている様子。母も慌てておそばに寄り、あれこれと言葉を掛けてたしなめている。

 ――そう、侍従職以上の家柄の者を……。

 父の言葉を胸に留めて、瑞菜は静かに瞼を閉じた。一体、李津は何処へ行ってしまったのだろう。館をあげての催しがあると聞き及んだならば、どんな用事も脇に置いて舞い戻ってきても良いのに。
  朽ち果てた庵で、最後にみた後ろ姿。あのとき投げかけてしまった言葉たちは、彼の心にどんな風に届いたのだろうか。いつでもこちらのことを第一に考え、己の力の及ぶ限りの手段を用いて護ってくれた。その心を労ることもなく過ごしてきた自分である。このように終いには愛想を尽かされてしまうことも、当然の報いだろう。

 いつだって、自分が一番頑張っているつもりでいた。だから大切なことを見失ってしまった。これから自分は彼の眼差しのない世界で、歩き続けていかなければならない。どうにかして「幸せ」というものを掴み取ることだけが、果たすべき約束であった。

 これだけの大人数になると、くじ引きなどで対戦相手を決めたのでは不公平が生じてしまう。従って我こそはと思う者から名乗り出て、勝ち抜き戦で進めることになった。そのことが告げられると、集まった一同はざわつき、互いに顔を見合わせている。
  どこで名乗りを上げるか、それが勝負の分かれ目になると言う難しいやり方だ。早くから顔を出せば、それだけ多くの対戦をこなさなければならなくなる。だがいつまでも尻込みしていれば、自分の器量がうかがい知れるというものだ。剣の腕だけではなく、思慮の浅さ深さも試される。

 もちろん剣術の試合と言っても、真剣が使われるわけではない。いくら勝負とはいえ、めでたい席で死人を出すようではまずいのだ。本物の剣を模した木刀をおのおのが用意し、勝敗は相手の額に刃の部分が当たったところで決まる。その太さも長さも各自の自由とされていた。

 ――本当に……この中にわたくしの夫となる方がいらっしゃるのかしら?

 華やかな宴席とあって、皆それぞれに色鮮やかな衣装をまとっている。その顔を見ても、どこの誰の子息なのか全く見当が付かなかった。女子とは不自由なものであると、今更ながら思い知らされる。長い生涯を連れ添う大切な相手の人となりを、全く知ることもなく言われるままに嫁ぎ先を決められることがほとんどなのだから。

 

「如何致しましょうか、御館様。このままでは皆が譲り合うばかりで、無駄な時間が過ぎるばかりです」

 しばらくののち、場を取り仕切っていた本館の侍従長が御簾の表から声をかけてくる。話を受けて瑞菜の父は一歩前に出ると、一呼吸置いた後にあっさりと告げた。

「――では。本日の者たちの中には、我が館に仕える者も多くいると聞いている。まずはその者たちを競わせてみるのはどうかな? それを見てあまりに自分の腕が及ばないと思えば、去る者も出て来よう。これだけ集めても、ものになる人材はざっと見てひと桁しかいないな。実際のところ、そう長くは掛からないだろうが」

 父は相変わらずのやんちゃぶりである。見ているこちらがハラハラしてしまうほどであるが、当人はこの上なく楽しそうだ。

「そうですね、それではまず手前の息子を引っ張り出しましょう。何、前座としては申し分ないほどには鍛えてあります。御館様のお顔に泥を塗ることにはなりませんから、ご安心を。そして、相手は……」

 まずは本館の侍従長の息子が呼ばれる。堂々とした立派な体格は父親譲りか、その姿を見るだけで館に忍び込もうとした盗賊も裸足で逃げ出しそうな強面であった。

 その姿を頼もしそうに見上げていた父は、美しい手つきで扇を掲げながら言う。

「ああ、表の侍従長の息子はどうだ。あれなら、不足はないだろう。今や館きっての腕自慢と言ってもいい」

 

 やがて、名前を呼ばれたその者が人垣を分けて現れる。その姿を一目見たときに、瑞菜は声にならない叫びをあげていた。

 

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