TopNovelヴィーナス・扉>シンデレラの赤い靴・番外1

それぞれのヴィーナス◇初代の未来(の、番外編)
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  曇天の空、心まで荒むようなモノクロームの街角。

 まさに今の自分の心を内側から写し取ったと言える風景をただぼんやりと眺めていた。
  世の中は、とにかく面倒ごとだらけ。本当に大切なことや必要なものなんて、ほんの一握りしか存在しない。あとはただのゴミ、でも「しがらみ」と言う名のそれを簡単にうち捨てることが出来ないのがいわゆる「大人」というものだ。

 ―― と。

 またもや携帯が震えだした。とりあえず相手の名前を確認して、そのままポケットに戻す。本当にいい加減うんざりだ、何だってこんな風に昼夜を問わず連絡してくるんだろう。こっちの都合ってものを全く考えていないとは情けない。あの女には基本的なコミュニケーション能力がものの見事に欠落している。最初からそんな気がしていたが、やはり僕の見立ては間違っていなかった。
  人間、第一印象が全てを決める。どんなに上手く猫を被ったところで、いただけない性格は綺麗に着飾った全身のあちらこちらからはみ出してくるのだ。無能な人間には見抜けないかも知れないが、自分はそんなミスはしない。
  しかし、どうしたものか。当初の予想よりも遙かに速いピッチで話が進行してしまっている。今更後戻りが出来るか、出来たとしてもどれだけ煩わしい想いをさせられるか、それが問題だ。

 取引先との約束の時間まで、あと少し。信号をいくつか見送りつつ、そんなことを考えていた。

「す、すみませんっ! お願いします、それっ、……その紙を受け止めてください!」

 突然、辺りの静寂を切り裂く叫び声。さらに、リズミカルになりきれていないヒールの靴音がそこに重なる。何事かと振り向いた刹那、僕の身体に衝撃が走った。 

 ―― 何故なら、視界の向こうに忽然と天使が舞い降りたのだから。

 何を年甲斐もなくファンタジーしているんだと、思うなかれ。もしもあの光景を見たならば、百人中百人が同じことを考えただろう。グレイに沈む街角の、その場所だけがきらめいている。ふわふわと羽根のように舞い上がる髪は光の輪が見えるほどに真っ直ぐで、小さめの輪郭に縁取られた色白の面立ちにバラ色の頬がよく似合う。白い息を吐き出す口元も、控えめな色合いで愛らしい。

 ここで、惚けてしまったらただの凡人。しかし「出来る男」の肩書きがふさわしい僕は常に一歩先を行く人間だ。生々しく身体に残る痺れはスーツの下に隠し、咄嗟に現状を正しく把握することが可能である。
  ああそうか、前触れもなく吹き抜けたビル風に書類を飛ばされたんだな。それにしても不用心な、大切なものならばファイルにしっかり収めるなりなんなりすれば良かったのに。まあいい、丁度いい頃合いにこちらの頭上に落ちてくるのだから。

「ナイス・キャッチ」

 白い紙切れを手中に収めたその時に、背後の足音も止まった。再び、ゆっくりと振り向く。先程は遠目に確認するだけだった天使は、すぐ目の前まで来ていた。真っ直ぐに僕を見上げる瞳は黒目がちで、何やら言いたげな、でも言いたいことがすぐにはまとまらないようなそんな表情でいる。
  その眼差しの可愛らしいこと、しばらくはこのまま眺めていたいほどだ。でも、どうも彼女の方はそう言った余裕もない様子。ここは、こちらから助け船でも出してやるべきか。

「どうしたの、とても慌てているみたいだけど」

 そう訊ねてみたが、彼女はまだ満足に呼吸も整わないままだ。かなりの距離を全力で走ってきたのか、時折胸を押さえる仕草も痛々しい。だがそれでも、こちらの質問にどうにかして応えようとしている姿勢は好感持てる。きっとどこまでも素直な性格なんだろう、この見た目の瑞々しさそのままに。

「……あれ」

 また、次の瞬間。僕は自分の強運に驚いていた。なんと言うことだろう。彼女に返そうとしていたその紙片こそが、ふたりのこれからを暗示するのに十分すぎる小道具であったのだ。
  どうしよう、嬉しすぎるぞ。今まさに、天が僕に味方している。必死に堪えても、緩んでしまう口元。冷静さを保つのは至難の業だった。

「そんなに急がなくても大丈夫、面接は十時からだったでしょう? それにここからなら近道が使えるし、ゆっくり歩いても余裕で到着できるよ」

 その時の、彼女の驚いた顔といったら。何度思い出しても、新鮮な嬉しさがこみ上げてくる。こんなチャンスは二度とない。ここはひとつ、印象深く自己アピールをしておくか。次に出逢うのは早くても数ヶ月後、それまでの間に僕のことを忘れられては絶対に困るのだ。

「まさか、ウチの会社を受ける子とこんなところで遭遇するとは思わなかった。本当に、世の中には不思議なこともあるものだね。でも大丈夫だよ、君は絶対に採用になるから。春になったらまた、再会することになるだろうね。そのときはよろしく」

 咄嗟に思いついた台詞にしては、余裕の合格点をもらえると思う。出来る限り簡潔に分かりやすく、自分と彼女の位置関係を説明したつもりだ。こちらの言いたいことはすぐに伝わったらしく、彼女のそれまでの緊張した面持ちもほころんで特上の笑顔を見せてくれる。それだけのことなのに、僕の心は焼きたてのトーストに乗せられたバターのようにとろけてしまうのだ。

 ―― よし、決めたぞ。何が何でも、この子をモノにしてみせる。

 先に入社試験をクリアしていた僕には分かっていた。社長があの課題を出すときは、ほぼ採用を決めたと言い切ってしまっていい。とんでもない大どんでん返しがない限り、彼女は必ず我が社に入社する。だからその時までにしっかりとした基盤を築いておかなくては。

 何度もこちらを振り返りながら遠ざかっていく、僕の天使。その柔らかな姿と仕草の全てを、しっかりと胸に焼き付けた。

 


 思い立ったら、即行動。あれこれ考えている暇はない。あれほど面倒だと思っていた女との後始末も、目標が定まれば一切の迷いはなかった。すぐに待ち合わせをして開口一番に別れを切り出す。もちろん、向こうが気を悪くするような理由は一切告げなかった。

「何を考えているんだ、せっかく私がお膳立てをしてやったのに」

 社長兼伯父であるその人も、さすがにかなり慌てた様子であった。元はと言えば、特定の相手も作らずに適当に遊びまくっている僕を心配した両親に泣きつかれて、彼がお膳立てをしてくれた相手。しかもほとんどまとまりかけていた話だったのに、突然白紙に戻されては合点がいかないということなんだろう。

「そのように仰っても、こればかりは一生の問題ですからね。性格の不一致はどのようにしても埋めようがありません。あとから困ったことになるよりは良いと思いますよ」

 もちろん、実家がかなりの資産家であるその女には将来の伴侶としてそれなりのメリットがあった。「家事手伝い」という肩書きを持ち、料理や着付けの教室に適当に通いつつ有り余る小遣いを自分のために使うことが生き甲斐。何かにつけ「パパが何とかしてくれるわ」が口癖で、旅行の費用から新居の購入までこちらの懐が一切痛まない計算だった。
  これならば、将来何か不都合が生じて離婚という事態になっても慰謝料を請求される危険性もない。ならば、こっそりと蓄えたポケットマネーはこのまま女には内密なまま有利に運用していけばいいだろう。好き勝手させて適当に持ち上げておけば機嫌がいいから、他に別の女を囲っても悟られることもなさそうだ。見栄えと外面は申し分なかったし、連れて歩くには丁度いい。親のコネを使えば、仕事も有利に運ぶだろう。

 我ながら、愚かだった。どうしてあんなつまらない女に、大切な一生を捧げるつもりになっていたのだろうか。気づくのがもう少し遅かったら、取り返しの付かないことになっていたはずだ。ああ、それを考えるとあまりに恐ろしい。天使は僕が地獄に堕ちる前に、立ち直るきっかけを与えてくれたのだ。

 片手ほどいた遊び相手とも、後腐れなく綺麗さっぱり縁を切った。元々職場には面倒ごとを持ち込みたくなかったから、噂になるような失態とは縁がない。もちろん特別な相手になりたいと言い寄ってくる女は何人もいたが、きっぱりと断り続けていた。
  それでも「あわよくば」と近づいてくる者があとを絶たなかったので、だんだん煩わしくなって来てついには同じ部署をほとんど同性でまとめてもらうことにする。こういうときも、上に顔が利く身だと何かと都合がいい。「仕事を進める上で差し障りがあるので」と言えば、ほとんどの我が儘は通してもらえた。
  そしてさらに、教育中だった後輩の指導を急ピッチで進める。彼女が研修を終えて配属先が決まるときまでに、全てをクリアしなければならない。普段から僕を認めている周囲をさらに驚かせるスピードで、次々と仕事を片付けていった。

 ―― そう、全ては天使を僕の手中に収めるために。

 そして、待ちに待った再会の日が訪れる。彼女は自分の教育係となった僕を見上げると、しばらくは声も出ない様子だった。僕は内心ニンマリ、この表情に出逢うために今日までひたすら頑張ってきたのだから。でもそんな態度はおくびにも出さず、先輩らしいクールな態度で接する。

「やあ、また会えたね。今日から君は僕の下で働いてもらうことになるよ、どうぞよろしく」

 そうだよ、全ての準備は整ったのだから。あとは、ふたりだけの世界がどこまでも広がっている。愛らしい顔が驚きと喜びに染まるのを眺めながら、僕はこの上なく満足であった。

 


  あの強引かつマイペースな社長にも、それなりの長所はある。彼は当社にとって必要な人材を見極める能力に長けていた。だからこそ、有志数人でこの会社を立ち上げる際にも、トップの椅子を与えられたのである。
  彼女―― 鈴木未来(すずき・みく)という名の新人は、出版会社販売部の社員としては全くの素人であった。しかしあどけなく頼りなげな外見には似合わず、なかなかのバイタリティーの持ち主で、飲み込みも早い。一度教えたことはしっかりと自分のものにするし、状況に合わせて的確に応用する才能にも恵まれていた。
  これは、僕にとって嬉しすぎる誤算であった。彼女のことを知れば知るほど、新たなる感動があり愛おしさが増してくる。それに彼女にとっての僕は間違いなく「憧れの先輩」、他のどんな奴よりも尊敬されているに違いない。持ち合わせた能力を考えれば、当然と言えば当然のことではある。でも、周囲よりも一歩踏み込んだ関係にあると言うことは、密かなる喜びでもあった。

「木暮先輩」

 彼女はいつでも、僕のことを誰よりも何よりも一番に頼ってくれる。どんな些細なことでも相談してくれるし、こんなこといちいち指示を仰がなくてもいいよと言いたいことまで念入りに確認してくるのだ。他の奴にそういう風にされたら「面倒だな」と思ってしまったかも知れない。でも、彼女は常に別格だ。ふたりの会話が増えるのなら、それで結果オーライなのだから。

「未来、って下の名前で呼んでもいいかな?」

 最初にそう切り出したときには、さすがに慌てた様子であった。それでもこちらがもっともらしい理由をいくつか並べると、申し訳なさそうに頷いてくれる。さらさらの髪が掛かる頬が、ほんのりと色づいていることを僕は決して見逃さなかった。

 ―― コイツは、絶対に脈ありだ。

 呼び捨てにするなんて、自分の所有物であることを公言しているようなものである。もちろん、仕事でよそに出向くときには「鈴木くん」なんてよそよそしくなったりもするが、そんなときにも心の中では常に彼女を特別の存在として扱っていた。
  何しろ、普通にしていても可憐で愛らしい彼女なのである。こちらがうっかりしているうちに、別の男がちょっかい出して来ないとも限らない。いや、その危険性は非常に高い。僕は絶えず、大切な彼女をしっかりガードし続ける必要があった。

 計画はどこまでも完璧、程なく「目標達成」となるだろう。しかし、ここは念には念を入れでいかなくては。わずかな手抜かりで、今までの努力の全てが無駄になったら大変だ。

 そう、僕は全てが順調に進んでいると信じて疑わなかった。それこそが最大の誤算であったのに。


 

2009年7月31日更新

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