TopNovelヴィーナス・扉>シンデレラの赤い靴・番外3

それぞれのヴィーナス◇初代の未来(の、番外編)
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「やあ、貴昭(たかあき)。待っていたよ、さあ座りなさい」

 奥の椅子にどっしりと構えた「社長」は、その日も部屋に入ってきた僕を満面の笑みで迎えた。第一印象から相手を虜にするのが彼の得意技。思惑や駆け引きの垣根を全て取り払った親近感で、あっという間に相手の懐に飛び込んでしまう。ほとんどの人間はこの「戦略」に気づかない。正直、僕自身も何の前情報もなくいたら簡単に騙されてしまうだろう。

「―― 社長。社内ではその呼び方は止めてくださいと申し上げているでしょう」

 そう釘を刺しながらも、僕の表情は柔らかい。蛙の子は蛙、とはよく言ったもの。伯父と甥という関係でも受け継がれるDNAが確かに存在するらしい。

「ああ、そうだったな。でもそれくらいのこと、お前ほどの実績を持つ者なら気にすることもないと思うが。まあ、いい。今日はそんな話をするために呼んだわけではないからな」

 彼の傍らにはすらりと長身の美人が控えている。静かに笑みを浮かべた表情は先程から微動だにしない。全く出来た女性だと思う。仕事柄、「秘書」という肩書きを持つ人間には多く遭遇するが、彼女ほどの人材には未だお目に掛かったことがない。
  以前の職場でも伯父の下で働いていたという彼女は、新会社の立ち上げに際し運命を共にした影の実力者だ。安定した生活を捨てて先の見えない世界に飛び込むとはなかなかのチャレンジャーな一面も持ち合わせているらしい。まさか伯父とただならぬ関係では? とも勘ぐったりしたが、伯父曰く「彼女を思うままにするだけの力は私にはないよ」だそうだ。
  現社長の親戚であり、縁故入社。そんな肩書きは僕にとってあまり好ましいものではなかった。恵まれた立場を上手く利用して行くのもひとつの選択だが、どうもそこまでは大人になれないようである。ふたりの関係は社内でもトップシークレットのひとつ、上層部のごくごく限られたメンバーとここにいる「社長秘書」の彼女以外には明かされていない。

「そうそう、この間の話はどうなったかな? タケイ・ブックセンターの社長はなかなか話の分かる人間だっただろう」

 社長が故意に話題をそらしていることはすぐに分かった。いきなり本題にはいることを避けているらしい。何とも七面倒くさいやり方ではあるが、まあいい。少しは付き合ってやろう。
  それにこの人にはたいそう世話になっている。大きな成果に繋がりそうな取引先を優先的に紹介してくれるから、僕は今の地位を築けたと言ってもいい。もちろん、彼が紹介してくれるのは落とすまでが大変な難癖のある相手ばかり。並大抵の人間では太刀打ちできないだろう。

「ええ、その節は本当に助かりました。お陰様で大口の取引先を新たに確保することが出来て、結果としてかなりの数字が見込めそうです。さすがは社長、やはり先見の明がありますね」

 そう応えながらも、目の前の男の表情や態度から「真意」を探ろうと試みた。これは何もわざわざ考えて行っていることではなく、いわゆる職業病というものだろう。日頃から訓練を続けることによって、かなりの確率で的中するようになっている。それにより、取引を優位なかたちで行うことが可能になっていた。
  しかし、今の相手は「社長」である。一筋縄でいく訳もない。その柔和な表情からは何も感じ取ることは出来なかった。ううむ、敵も然る者。まだまだ一層の精進が必要らしい。

「ははは、そんな怖い顔で睨みつけなくてもいいだろう。何も取って食おうというわけではないんだから」

 お前の心内などお見通しだぞ、という切り返しにハッとさせられる。やあ、この人の前ではどうにも分が悪い。彼の傍らに立つ女性も笑いを堪えていた。

「まあいい、何かと忙しいお前に長すぎる前置きは不要だろう。では単刀直入に行こうか。今日こうして呼び立てたのは他でもない、次の人事での身の振り方を考えてもらいたいからだ。もういい加減、潮時ではないかい。あまり長くひとつの場所に留まりすぎるは有益な手段ではないぞ」

 テーブルの上に肘を置き両手を組んだ姿勢は、最終宣告を告げるお決まりのポーズ。以前の職場から僕を引き抜いたときも、彼はこんな風にして話を切り出した。

「いえ、……ですからそのお話は今しばらく猶予をくださいと申し上げたはずです」

 確かに少し前までの僕は、出世欲ギラギラの猪突猛進な男だった。何しろ、将来を約束された大手企業を後にして飛び込んだ業界である。どんどん実績を積んでのし上がり、確固たる地位を手に入れようと思っていた。別に肩書きで勝った負けたを決めても仕方ない。だが、旧友と顔を合わせる機会が多くあれば、どうしても気になってしまうのだ。
  学生時代、どう考えても僕より成績が振るわなかった奴がとんとん拍子に出世してオイシイ思いをしている。そんな話を聞けば、やはり悔しい。負けてなるものかと思ってしまう。大会社であれば安定して勤めることが出来ても、年功序列の出世形態ではどうしても進みがのろくなる。転職を試みたのにはそういうもくろみも確かにあったのだ。

 だが、今は違う。

 販売部署での仕事ももちろん面白いし、何よりあの場所には未来がいる。いくら同じ会社に勤めているといっても、部署が変わり仕事内容が変われば顔を合わせることも難しくなるだろう。そうなってしまう前に、彼女をしっかりと自分のモノにしてしまいたい。だから、もうしばらく時間が欲しいのだ。

 それに。こうして社長室近辺訪れる機会の多い僕はすでに気づいていた。何やら、上層部で不穏な空気を感じる。その正体は謎であるが、そう遠くない時期に社内を引っかき回すような大事件が起こるらしい。そして、僕の第六感が忠告するのだ。今は決して未来のそばを離れては駄目だと。

「何を言う、いつからお前はそんなに欲のない人間になってしまったんだ。いくら仕事が出来ても、下働きばかりじゃ駄目だぞ。ここ一番の大事に使えない男だとレッテルを貼られてしまってからでは取り返しが付かない」

 いつになくしつこく食い下がる社長に、それでものらりくらりと言い逃れをして過ごした。分かっている、いつまでもいたずらに時を過ごしている訳にはいかない。未来のそばにはいたいが、そのために将来を棒に振ってしまっては結果として彼女を魅了する男には成りえないのだから。

 だったら、どうする。どうしたらいい?

 

 その後、春の人事異動の発表があったとき、未来の僕を気遣う眼差しが胸を締め付けた。

 何かひとこと声を掛けたいのに、どうしてもそれが出来ずに自分の気持ちを持て余している。だけどそれは「憐れんでいる」という表現とは少し違う。心の底からの労りを感じるとても柔らかく温かいものだった。
  そうだ、やはり彼女は僕に対して並々ならぬ想いを抱いてくれている―― 改めてそう確信する。いくら誕生日に特別のプレゼントがもらえなくても、バレンタインに本命チョコを手渡されなくても、彼女が僕に好意を持っていることは分かっているのだ。だったらこのまま突っ走ればいい。昔から「先手必勝」を信条にしていた僕じゃないか。何を迷うことがある。

 頭の中では次々と新たなる「設定」を思い浮かべて、それを実行に移すべく画策する。それなのに、いよいよそのときとなると勇気が出ない。

「僕は未来のことが好きだ。これからも、ずっと側にいて欲しい」

 人気の少ない場所で、彼女の目をしっかりと見つめてそう告げる。そこまでの段取りは完璧だ。でも、次に続く彼女の台詞まではどうしてもプロデュースすることが出来ない。

「すみません、私、先輩のことをそんな風には考えられないんです!」

 もしも、そう言って走り去られたらどうしよう。いきなり話を切り出してびっくりさせることは、彼女の性格から言っても有効な手段ではない。だったら、どうやって。ああ、それが分からない。

 


 その日。遠方への出張から戻った僕は、丸一日ぶりに出社して驚いた。何だ、この浮ついた空気は。社内全体がふわふわとおぼつかない足取りになっていて、しかも未来の周りがやけに騒がしい。普段ならば僕が彼女の側に近寄れば、他の輩は蜘蛛の子を散らしたように退散する。しかし、この日に限っては勝手が違った。

「すみません、鈴木さんをちょっとお借りしますよ? 先輩」

 何だ、その上から見下ろすような物言いは。一体誰に断ってそんなことをしている。お前らはまとめて仕事の邪魔だ、とっとどこか遠くへ失せろ。

「いや、こちらも彼女に急ぎの用事があるんだ。そちらの話は後にしてもらえないかな?」

 生々しい怒りにはオブラートを十枚くらい包んで伝えた。出来る男は常にクールであらねばならない。いかなる状況でも感情を露わにして我を忘れてはならないのだ。

 やはり、何かがおかしい。明らかに昨日までとは全てが違っている。

 未来の態度もいつになくよそよそしい気がする。いつもならばこちらが声を掛ければすぐさま嬉しそうな笑顔で応えてくれるのに、今日は何となく「近くに来て欲しくない」オーラが出ている気がしてならない。何故だ、未来。僕は何も悪いことはしていない。たった一日留守にしただけで、何が君を変えてしまったんだ。
  正面切って訊ねてみたいのに、それが出来ない。彼女が僕の下で働き始めてから早一年近く、着々と築いてきたはずの信頼関係が急におぼつかないものに思えてきた。

「……どうしたの、未来?」

 午後からは短い打ち合わせが入っていた。目と鼻の先の取引先だから、途中で休憩するのは無理。それでも出来るだけ時間を引き延ばし、彼女の表情から緊張感を拭い去ることを試みた。でも会社が入っている雑居ビルが近づいてくると、ほころびかけたその顔も再び険しいものになる。ここまで来ると、明らかに異常だ。そう思って訊ねてみたのに、彼女はあっさりと切り返す。

「いいえ、大丈夫ですっ! 何でもありません」

 きっぱりと言い切られてしまっては、これ以上どうにも出来ない。僕は引き下がるしかなかった。そして―― その後、彼女と別れて総務に用事を済ませに行く途中、全てを知ることになる。

 

「……ヴィーナス? 何ですか、それは」

 まるで僕がそこを通ることを前もって分かっていたかのように、社長室のドアの前で待機していた「彼」に笑顔で中に招き入れられる。そして伝えられた信じられない事実。あまりの馬鹿馬鹿しさに話を受け入れることの出来ないでいる僕に対し、社長はこの上なく嬉しそうな表情になる。

「いやはや、このような偶然もあるものなんだね。お前が手塩に掛けて育ててきた愛弟子も、とうとう蝶になり飛び立つときが来たようだ。そんなわけで、今度こそ腹を決めてもらわないとならんだろう」

 そんな馬鹿な話があるか、人をこき下ろすのにも程がある。未来は会社を活性化させるための道具じゃない、僕のために天空からやって来た天使なのだ。彼女にとっても、自分の身に降りかかっている災難は至極迷惑なはず。だったら、上層部を相手にふたりでとことん抵抗してやればいい。
  今の今までは何が起こったのかも分からないまま、戸惑うばかりだった。でもこれからは違う。僕は全力で彼女を守る、そしてそんな僕の捨て身な行動に彼女は惚れ直すのだ。いいじゃないか、シナリオはバッチリだ。他の奴らが馬鹿な騒動に浮かれ上がっても、未来と僕だけは平常心を忘れない。それが運命共同体って奴だ。

 ―― しかし。

 勇んで四階フロアに戻った僕は、そこで信じられない光景を目の当たりにしてしまう。未来が、僕が心より信頼していた彼女が、同じ部署の男と親しげに話をしている。すぐにはその場に出て行けなくて影で伺っていると、彼らの話題の渦中にいるのは僕のようだった。未来はこちらに対して背を向けているからどんな表情をしているかは分からない。しかし、一方の男の方は勝ち誇ったような嫌らしい顔をしている。
  途切れ途切れに聞こえてくるやりとり、彼女の「迷惑なんです」という言葉が聞こえた気がしたときに全てが消し飛んでいた。何故だ、未来。そんなはずはないだろう、今まで僕らはいつも一緒だった。僕は君が嫌がるようなことはしたことがないぞ。そうだ、したくても出来ないからこそ、こんなにも苦しんできたのに。

「別に僕は、嫌がらせをしているつもりもないのだけれど」

 偶然居合わせたようにふたりの前に出て、静かな声で言い放つ。予想通り、彼らは血の気の引いた顔になっていた。ふふ、ザマを見ろ。僕を馬鹿にするからこういう目に遭うんだ。

「未来も僕に遠慮することなんてないのだからね。せっかくの誘いを断ることもないだろう、どうぞ存分に楽しんでお出で。時間までにやりきれなかった分は、こちらで処理しておくよ」

 表向きは話の分かる上司を装ったつもりだ。目の前のふたりにもそう映ったに違いない。だけど内面でははらわたが煮えくりかえる想いだった。本当に信じられない。どうして未来が、僕の最愛の彼女が、こんな風になってしまうんだ。それもこれも、全ては上層部が企画した馬鹿げたイベントのせい。お陰で清純だった未来が汚れてしまったじゃないか。
  いいよ、分かったよ。それが君の出した答えならば、僕も黙って従おう。それでいいじゃないか、未来は自分の力で幸せになればいいんだ。僕じゃなくても、彼女を守れる男はいくらでもいる。そんな奴らが束になって名乗りを上げて、その中から一番優れた相手を選べるなんて最高じゃないか。

 

 でも、いくらそんな風に自分に言い聞かせたところで、納得できるはずもない。それでも僕はかろうじて耐えていた。そうするためには彼女を悪者にするしかない。どうにかして、彼女の至らないところを見つけ出そうと努力した。些細なミスでも呼び立てて注意して反省を求める。しかしやり直しを申し出る彼女の言葉はばっさりと切り捨てた。

「いいよ、未来は忙しいんだから。仕事は全て僕が引き受けるよ」

 そう告げると、たちどころに泣き出しそうな顔になる。しかし、そんな態度にほだされては駄目だ。あんなに可愛らしい顔をして、影では「仲間」となった男たちと一緒に僕の悪口を言いまくっているに違いない。だったら、いいだろう。もっともっと、新しい情報を提供してやる。僕を馬鹿にした報いだ、せいぜい苦しめばいい。

 何がどこで間違ってしまったのか、全くの悪循環だった。こうなってくると彼女の一挙一動が気に障る。冷静になって考えてみれば何てこともないのに、その瞬間にはわざとこちらを苛立たせているのだと思ってしまうのだ。
  仕事の効率も目に見えて落ちた。いくつものミスが重なり取引先からお叱りの連絡が入る。そしてその電話を受け取るのは事実上僕の下で働いている彼女。僕に聞こえないように小声で詫びている健気さが、嘘くさく感じてしまう。何て最低なんだ、僕は。

 日に日にしおれていく哀れな彼女。一体どこからボタンを掛け違ってしまったのか、それが分からない。しかし、もう取り返しなど付かないんだ。おしまいだ、何もかも。

 


 その夜も、ひとりの部屋に戻る気にもなれずにPCの前で時間を潰していた。

 誰もいなくなった部屋で、寂しさだけが募っていく。彼女が、彼女だけが欲しかったのに、どうしてもっと早く想いを告げることが出来なかったのだろう。いくら平社員限定の企画とはいえ、僕があの馬鹿な奴らに混じって参戦することなど絶対に無理。出世のために急に色めきだったのかと、周囲から冷たい視線を送られるなんてまっぴらだ。僕の彼女に対する想いは、そんな軽々しいものではない。

 彼女は二度と、僕の元には戻ってこないだろう。

 好きな相手に逆に意地悪をしてしまうと言ういじめっ子の心理が初めて体感できた。あんなに徹底的に虐めまくっては、天使の心も荒んでしまうだろう。それでも、途中からはもう自分にストップをかけることも出来なくなっていた。最低だ、―― 本当に僕は最低な男だ。

 でたらめにキーを叩きまくり、画面には意味不明の文字が次々に並んでいく。自分がこのまま内側から壊れてしまいそうだ。でもそれでもいい、彼女がいなければ全てがどうでもいい。

 

 ―― しかし。

 神はやはり僕を最後まで見捨てなかった。何故なら天使は傷ついた羽根を抱えて、それでも僕の元に再び舞い降りてくれたのだから。


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2009年8月21日更新

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