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第七話


「生意気な口を利くな! お前みたいに人の痛みを見ようともしない人間が、息子を、私を不幸に突き落としたんだ!!」
 暴れる先生を、刑事さんが必死に押さえつける。けれど先生は、なおも憎悪に満ちた瞳で貴彦を射た。
 言葉を止めようとしない貴彦に、私は不安の目を向ける。けれど彼はきちんとそれに気付いて、ほんの少しだけ笑みを浮かべてくれた。そして、真剣さを取り戻した顔で先生を見た。
「あんた、あの爆弾を誰のために仕掛けたんだよ? 息子さんのためか? 違うね、自分のためだ。息子さんの復讐だって自分に言い訳したんだ」
「なっ…! なんだと…」
「本当に息子さんのことを思ってたら、このビルを爆破するなんてこと、できるはずないんだからな!」
「何を訳の分からないことを…。息子を苦しめたのは、このビルだ。絶望させたのも、殺したのも、すべてはここにつながっているんだ!」
「じゃあ、あんたの息子さんの希望は! 情熱は、夢は、未来はどうなんだよ! それがつながってたのも、全部このツイン・ビルじゃなかったのか!」
 先生が鋭く息を呑んだ。目を見開いて、言葉を失っている。
「たしかにこの建物は、見た目どおりにお綺麗なものじゃないさ。けどだからって、あんたの息子さんのすべてを否定することができるのかよ? ここには、その人の頑張りの汗や、喜びだって染みついているかもしれないんだぞ!」
 先生がわなわなと震えたかと思うと、がくりと頭を落としてうつむいた。
「それをあんたの手で壊すなんてこと、しないでくれよ。…先生」
 やがて、先生の足元に滴がぽたりと落ちた。それはふたつみっつと増えて、そこに小さな水溜りを作った。でも先生は、決して声を漏らすことはなかった。
 貴彦の腕がこちらに回されて、私を深く抱き寄せた。
「だから、少しでも…ここを壊させたくなかったんだ。そうなったら取り返しがつかなくなると思ったから…」
 弱々しい声が、こちらの耳だけに届く。私は大きい体が何かをこらえているのを、ぎゅっと抱きしめた。
「うん、貴彦がたくさんの人を助けてくれたんだよ。先生も私も、助けられたって分かってない人もたくさん…。ありがとう、貴彦。感謝してるよ。ありがとう…」
「真帆…。俺を動かしたのは真帆だから…。お前が無事だったらいいんだ、礼なんて…」
「ううん、言わせて。貴彦がいなかったら、どうなっていたか分からない。たぶん、絶望してたんじゃないかな…。だから何度でも、ありがとうって伝えたいの」
「…そうか」
「うん」
 その時、こほん、と咳払いがした。そちらを見ると、先生を立たせた刑事さんが、やや申し訳なさそうに私たちから視線を逸らす。抱き合っているのが人前だったことに気付いて、私はあわてて貴彦から離れる。すると貴彦はちょっとだけ不満そうな表情を浮かべていた。
「君たち二人にも話を聞かなければならないんだが、今日のところはそれぞれの家に帰ってもらって結構だよ。幸いまだマスコミは到着していないみたいだから、人込みに紛れて早くここを離れた方がいい」
 貴彦がうなずいた。
「協力するのは構わないんですけど、さっきも言った通り、連絡は携帯にもらえますか? 親とか、警察から呼び出しがかかったなんて知ったら、目を回すかもしれないし。すいません、こっちの都合を押し付けて」
「いや、気にすることはない。ただし、相当絞られるのは覚悟して来るんだよ。公務執行妨害を適用されても文句の言えないことをしたんだからね」
 言葉では脅しをかけながらも、刑事さんはそれほど怒っているわけではないようだった。貴彦は肩をすくめる。
「説教されなくても、二度とあんな真似しませんよ。まぁでも、大人しく叱られに行きます」
「そうしてくれ」
 刑事さんは苦笑し、先にビルから出て行くよう目で促した。私と貴彦は、刑事さんとうつむいたままの先生にぺこりと頭を下げて、非常口へと向かった。
 ツイン・ビルの外に出ると、式典に集まっていた人たちはほとんど避難した後だった。残っているのは警察官か、役所のお偉方さんであろう人が数名。事態の説明を求めているみたいだけど、同じようにまだ状況の把握をしていない警察相手では、話になっていないようだった。
 警官の一人が、私たちをそちらとは別の方向へと誘導した。その人は何も言わなかったけれど、中であったことを多少聞いているふしがあった。
 ビルから遠ざかり、道路の端にとめていた自転車まで戻った。そこで改めて、私たちはお互いの姿を眺め、すっかり汚れてしまった制服に少し笑ってしまった。
「ちゃんと二人で戻って来られたね」
「格好はぼろぼろだけどな。でも無事で良かった」
「うん。ふふっ、貴彦ってばほっぺた汚れてる」
「え? どこ? ここらへん?」
「違うよ。ほら、こっち見て」
 私はそう言うと、彼の右頬をごしごしこすった。黒い汚れはすぐに落ちた。
「取れたよ。でも…汚れてても格好いいよ、貴彦。今までで一番、素敵だって思った」
 すると彼は、さすがに目を見開いて、それから照れ臭そうに頭をかいた。
「そりゃ頑張ったかいがあった。でもさ…」
「でも?」
「過去形で言うなって。これから先、何回でもそう思わせる予定なんだからさ」
 私は思わず吹き出してしまった。貴彦の指が、こちらのおでこを軽くはじいた。
「そこは笑うところじゃないだろうが…。ったく、お前は〜」
「ごめ〜ん。でもさ、貴彦ってばキザなんだもん。そんなことも言うんだ?」
「あ〜あ〜、お子様には早かったな。真帆が大人になってくれるのは、いつのことやら…」
「失礼なやつぅ〜」
「はいはい、大人しく待ちますよ、俺は」
「もう〜…」
 ふくれてみせてた私だったけど、笑っている貴彦を見て、いつしか同じように笑っていた。
「帰ろうか、真帆」
「うん」
「送ってくよ」
「え、でも…うちまで来て、また駅に戻ってくるの? かなり遠回りになっちゃうよ」
「まあな。でも今日は…そうしたいんだよ。大人しく送られなって」
「うん、じゃあ…。私も送ってほしいかも」
「だろ? ここに来る時みたいな無謀運転はしないからさ。あっと…ここで乗ると、どうせ注意されるに決まってるから、警官が見えなくなってからな」
 私たちはまた笑い合った。


 ツイン・ビル爆破の事件は、その日の夜のニュースで取り上げられた。流れたのはローカルな局だけだったらしいけれど。
 犯人である大野先生がその場で逮捕されたこと、先生の息子さんがビルの建設に携わっていたことなどが短く説明される。ほんの二、三分でキャスターは次の話題に移る。あっけなくその事件は、雑多なニュースに埋もれてしまった。
 ちょうどその時、居間には私と両親がいた。母はニュースに対して、あまり驚いていないようだった。でも、先に休ませてもらうわね、と早々と寝室に引っ込んでしまった。
 父が、ここのところ疲れていたみたいだしな、とつぶやいた。私はそのことには気付いてなかった。
 後片付けをしながら思った。たぶん父は、母とさっきの事件に少し関わりがあることを知らないんだろう、と。
 父も早めに寝室へと戻っていった。父が不調の原因を尋ねることも、母が過去について説明することもない気がした。なんとなくだけど、その必要はないように思えた。それでも二人は変わらず夫婦でもあり家族でもあるんじゃないかな。そんな関係がちょっとだけ羨ましかった。
 本当は母に聞いてみたいこともあったのだけれど、私はこの話題に関して自分から口にするのはやめておこう、と思った。


 事件から一週間後の日曜。私と貴彦は、刑事さんを通じて大野先生から鍵を受け取り、桜の木の下からひとつの箱を掘り起こした。ビニール袋と布袋で丹念に包まれたそれは、すっかり古びて茶黒く変色していた。元は何色だったのか、もう窺えない。
 けれど鍵はきちんと働いて、その箱は二十年の時を経て中身を空気にさらした。そこに入っていたのは、二通の手紙だった。
 まず、母から恋人である大野紀之さんに宛てた手紙。これを開ける頃には互いの人生は別のものになっているだろう、ということだった。一枚の便箋の中、三分の一程度の短い告白からも、その悲しむ気持ちはよく伝わってきた。そして最後に一言、『ごめんなさい』と書かれていた。
 次に、少し迷ったけれど紀之さんの手紙も開けた。そこに綴られていたのもまた、謝罪の言葉だった。

 夢に向かう気持ち、互いに注ぐ想いでごまかしてきたけれど、君の不安には薄々気付いていた。それを消してやることが僕にはできなかった。十年後の約束が果たされると信じきれないのは、僕も同じだ、と。
 それでもこうして、たったひとつのつながりを残したのは、可能性をゼロにはしたくなかったから。今は考えたくないけれど、各々の道を歩き始めた君と僕が、最後に一度だけ出会うというのも悪くないじゃないか。
 未来では一緒にいられないかもしれないけれど、たった今もっともそばにいて、誰よりも愛しいと思うのは、間違いなく君。君もそう思ってくれていると信じる。だから出会いを悔やむなんてことはしない。未来でどんな辛い思いをするとしても、二人でいた記憶は一生変わりはしないのだから…。
 祈っているよ、君の十年後に幸あらんことを。

 二枚の便箋にびっしりと書かれた文字に、私は気付くと涙していた。そんな私を、貴彦がそっと両腕に包んでくれた。それはとっても嬉しかったのだけれど、同時に悲しくもあった。自分もいずれはこの温もりを失ってしまうのだろうか?
 十年後の相手に宛てて、こんなにも気持ちのあふれる手紙を書くような二人でさえ、別れは来てしまった。離れたとはいえ、会うことも声を聞くこともできる私たち。でも不安に押し潰されそうでぐらぐらしている。
 相手を信じられない。自分を信じられない。そんな程度の気持ちで、どんな未来を作っていけるというのだろう。
 それに、どうしてこの手紙の主は死ななければならなかったのだろう。あの時、私がうっかり帽子を飛ばしたりしなければ、母と紀之さんは悲しい気持ちを抱えながらも、過去を過去のものにして、改めてそれぞれの日常に戻っていけたのかもしれないのに。その機会を奪ったのは、幼い私なんだ。
 考えまいとしていたことが、頭をぐるぐる回る。苦しくて助けてほしくて、貴彦の服に必死でしがみついた。私は…私は、いったい何をすれば罪を償えるというのだろう?
 不意に、私から手紙を受け取っていた貴彦が、「これ…?」とがさがさ音をさせる。私は泣き顔のまま、彼の手元に視線を向けた。すると二枚目の便箋の下に、三枚目がくっついていた。
「これ…糊がついて三枚入ってしまっただけか? 特に何も書いて…」
 貴彦がそれをはがそうとした、その時だった。
 急に辺りを強い風が吹いて、三枚目の紙を彼の手から奪い去った。そして、歩道を飛んでいってしまう。私はあわてて、それを追った。
 数十メートルほどで便箋に追いつき、拾い上げる。それを広げてみた私の目に、文字が飛び込んできた。貴彦が隣に来て、同じように紙の上へ視線を落とした。
 そこに書かれていたのは、こういう内容だった。

 誤解しないで下さい。
 僕はあの日、たったひとつの心残りだった彼女に会いたくて、約束の場所に行きました。十年越しの想いを成就させるとか、そんなことはもうどうでも良くなっていたのです。
 なぜなら、僕はその次の日にこの命を絶つつもりだったから。未練を消すため彼女に会いに行ったのです。
 だから彼女がとても綺麗になっていて、可愛らしい娘さんを連れていたことに、とてもほっとしたのです。
 もしも彼女が十年前と変わらず僕を待っていたなら、歪んでしまった僕の人生が、彼女をも苦しめると分かっていたから。別れた時に祈った気持ちのままに、彼女が幸せになってくれていたのを、本当に心から喜んでいたのです。
 彼女は笑ってくれていました。でも同時に泣いてもいた。そうさせたのは他の誰でもない、僕です。それだけが哀しかった。果たせなかった約束が、自分の存在が彼女に涙を落とさせたのだと思うと…。
 僕の人生はいったい何のためにあったのだろう? そんな考えをよぎらせずにはいられませんでした。
 その瞬間、君のあの白い帽子が飛んだ。振り返った君がびっくりして、泣きそうな目をした。だから僕は何も考えずそれを追いかけてた。
 君を悲しませたくなかったから。君を愛している彼女を悲しませたくなかったから。僕は無心に白い帽子を追いかけた。君たちには笑っていてほしくて。ささやかでもその力になりたくて。
 でも僕は結果的に、君たち二人の心に傷を残す結果になってしまいました。
 けれどそのことを恨む気持ちはありません。むしろ僕は、それによって救われたのだと。
 この街を呪って、ツイン・ビルを憎んで、何もかもを罵りながら命を絶つよりも。誰かのためにと思って行動して命を奪われる方が、どれだけ幸せなことか。君たちを悲しませてしまったけれど、僕は今、深くそう思っています。
 だからどうか、もうこれ以上は僕のために悲しまないで。
 ありがとう、感謝しています。心優しい君にも、ずっと僕を忘れないでくれた彼女にも、手段を間違ってしまうほどに僕を愛してくれた父にも、そして…破滅を回避させてくれた君の頼もしい騎士くんにも。
 僕たちは道を違えてしまった。でも君たちなら、きっと正しく歩いていける。未来はひとつの通過点でしかありません。それを恐れないで。今できることを精一杯頑張って下さい。その積み重ねの先に、明日はあります。
 願わくば、君たちの夢見る未来が、君たちを温かく迎えてくれますように。
                                         大野紀之

 最後のサインを信じられない気持ちでじっと見つめているうちに、綴られた文字がすうっと消えていった。残ったのは、縦罫の入った真っ白な便箋一枚だけ。今度こそ何もしていないのに、文字は完全に消えてしまった。
「消えた…。何で? ねえ貴彦、今度はどんな仕掛けで消えたの?」
 裏返したり透かしてみたりしても、私には何も見つけられなかった。
 貴彦が私をじっと眺めて、それから言った。
「何て書いてあった?」
「貴彦、最後まで読めなかった?」
 私は内容をかいつまんで教えた。すると彼はうなずいて、それから何かを考え込む。私はじりじりして、そちらを覗き込んだ。
「でも仕掛けはともかくとしても、内容…今の私たち宛てだったよね? 手紙を書いたのは二十年も前なのに。先のことが分かってた?」
 そう言いつつも私はすぐにその可能性を否定した。分かっていたなら、回避できることはたくさんあったはずだ。
 すると貴彦が、私の頭の上にぽんと手を置いた。
「仕掛けなんてないよ、たぶん。紀之さんが真帆にどうしても伝えたかったんだろ。どこかで見てて、一番心配だったんじゃないか? でも…もしかすると、もういないかもしれないけどな」
 私は彼をじっと見上げた。
「ひょっとして…貴彦には見えなかった? ここに書いてあった文字…」
 すると貴彦は一瞬迷ったようだったけれど、やがてひとつうなずいた。
「見えなかったのに、書いてたって信じてくれるの?」
「真帆はそう信じてるんだろ? それを疑う理由はこれっぽちもないよ」
 私はちょっとだけうつむいて、自分から貴彦の胸に寄り添った。
「紀之さん、言ってくれてた。『君たちならきっと』って。私も…信じられるよ、今なら」
 彼の腕がこちらの背中をふんわりと包む。
「俺も…信じられる。自分のことを、そして真帆のことも」
「どんな未来が待ってるかな?」
「さあな。きっと幸せで楽しくて、でもたまにちょっとだけ辛いこともある、そんな普通の未来さ。でも真帆と一緒なら特別な未来だよ」
「うん、私も…。貴彦、ずっと一緒にいてね」
「ああ。十年後の真帆も二十年後の真帆も、その先もずっと予約済みだからな」
「うん。貴彦…大好きだよ」
「俺も真帆のこと…愛してるよ」
 ぎゅうっと抱きしめ合う。ゆっくりとキスをひとつする。それだけで、こんなにも幸せになれるなんて知らなかった。ずっとずっとこうしていたいと思った。おぼろげだった未来が、少しだけ形を作ったような気がした。
 しばらくしてから、貴彦がわずかに体を離して、こちらを見下ろした。その顔は晴れ晴れしていて、私もつられて微笑んでいた。
「じゃ、そろそろ行くとするか」
「行くのはいいんだけど…どこに?」
 すると、彼はいたずらっぽくニッと笑った。
「終わったらするって言ってたじゃん」
「なっ…!」
 私は絶句して、それからあわてて言葉をつないだ。
「するとは言ってない! 考えといて、だったでしょ? まだ答え出してないんだからね!」
 貴彦はやれやれ、と肩をすくめた。
「いい加減、観念した方がいいと思うだけどな〜。俺に襲われちゃう前に」
「も〜、貴彦そればっかり! 信じらんない、信じらんない!」
 私は怒りに任せて、公園から出ていく道をずんずんと先に歩いていく。その後を貴彦がついてきているようだった。
「な〜にを迷う必要あるのかな? 考えたところで、今日になるか明日になるかの違いしかないのにさ」
「女の子にとってはその違いも大きいの! 覚えといて!」
「はいはい。やっぱり真帆は真帆だよな」
 肩に腕が回されて、隣を見ると貴彦の顔が近くにあった。なんだか面白がっているようなその表情を、私は思いきり睨みつけてやった。
「それ、褒めてないでしょ」
「いいや。最大級の褒め言葉」
「何かむかつくんだけど」
 すると彼は何がおかしいのか、目を細めてにっこりと笑った。
「真帆、可愛い」
 そしてびっくりしている私に素早くキスをする。私はしばらく放心してしまった。
「仕方ないから、また今度な」
「な、な…」
「楽しみにしてるよ」
「…勝手に決めないで!」
「一週間の辛抱か、これまでに比べたら軽いもんだ」
「聞きなさいってば!」
「真帆、そそるような下着、つけてこいよ」
「誰が! もう、いい加減にして! このばか貴彦〜!」
 なんとか反撃しようとした私の手をすり抜けて、貴彦はちょっと離れた場所へと逃げてしまった。もう、ろくでもないことだけは行動が素早いんだから!
 彼はそこで顔いっぱいに笑みを広げて、両腕を頭の後ろに回した。
「真帆! 愛してるからなっ」
 私は口を開きかけたまま、今度こそ言葉が出てこなかった。そんなふうにあっけらかんと告白されるだけでも、どきどきしちゃうのに。よりにもよってここは往来のど真ん中。思いっきり注目を浴びてしまってる。何てこと言ってくれちゃうの、この人は?
「…ばか」
 真っ赤になってつぶやくしかできなかった。
「何? 今、何て言ったんだ?」
 足を止めた私の前に、貴彦が立った。いかにも楽しそうな顔。これはその余裕を崩すべきでしょう。開き直ってやる。
 私は彼に向かって、にっこりと精一杯の可愛い笑顔を向けた。
「私も愛してるよ、貴彦」
 とたんに貴彦の顔が赤くなった。急に照れて頭をかいたりしてる。ふっふっ、いい気味。そういつも、してやられるばっかりの真帆さんじゃないんだからね。
「嬉しい?」
 尋ねてやると、彼はちょっと視線を逸らして、こちらの頭の上に手を置いた。
「決まってんだろ」
「照れてる貴彦、可愛い」
「男に可愛いはやめろっ」
「だって可愛いものは可愛いんだもん」
「あ〜あ〜、分かりました。真帆には敵いませんってば」
「よろしい」
 私が澄まして言うと、貴彦がやれやれと笑った。私もふふっと笑う。
 貴彦のそんな笑顔が大好き。一緒に笑っていられる時間が大好き。だからずっとこうしていよう?
 私も貴彦のそばにいられるよう頑張るよ。だから貴彦も、そんな私を好きでいてね。
 まるで気持ちが伝わったみたいに、貴彦がまたにっこりと笑みを見せてくれた。よく日に焼けた肌に、真っ白な歯。薄青のシャツが映えている。
 差し出された大きな手をぎゅっと握り返した。
 どこまでも広がっていく青い空に、泡みたいな雲が散らばっている。強い日差しを受けた街は、眩しいくらいに光を跳ね返していた。
 夏の初めの道がまっすぐ伸びている。私と貴彦は手をつなぎ、弾みそうな足取りで歩き出していった。
                                           了

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