どこまでも続く、一本道を歩き続けていた。
いつからこうしているのか、そしていつまでこうしているのか、それもわからないまま。ただひたすらに前だけを見て、一歩ずつ進んでいく。
何だかおかしいなと気づいたのは、またしばらくが経ってからだった。
辺り一面が白い靄に包まれた世界、しかも踏みしめている「道」は透明で遙か下方までが見渡すことができる。でも足を滑らせる心配がないのはわかっていた。左右にも透明な壁のようなものがあって、それがガードしてくれているから。
不思議なことは他にもあった。
どうして制服なんて着ているんだろう。今日は一日、ベッドの中でごろごろするつもりだった、だからパジャマから着替えた覚えもないのに。
――そうか。
ここまできて、ようやく合点がいった。これは「夢」なのだ、だから色々とおかしなことが起こる。だけど平気、「夢」ならば何をしても大丈夫。たとえ怖いお化けに追いかけられても、目が覚めればすべてがおしまいになるんだから。
ホッとしたら、また足取りが軽くなった。これでまた、当分は歩いて行けそう。
それにしても、この道はどこまで続いているのだろう。歩いても歩いても、同じような風景が続くばかり。足の下に広がる白い靄は、その揺らめきで森のようにも波のようにも見えてくる。
ナニモナイ、ダレモイナイ。
自分が創り出した世界に包まれて、とても安全だと思った。そうだ、こんな場所にずっと行き着きたかった。ようやくその願いが叶ったんだな。
夢はその先もずっと続いていた。ひたすらに歩く、歩く、歩く。それでもまたその先に透明な道が現れる。どこからか白い風が吹いてきて、肩の下で切りそろえたまっすぐな髪と膝上五センチの制服のスカートを揺らした。
ふわふわと柔らかい手触りの髪が明るい茶色なのは、中学の三年間をソフトテニス部で過ごしたからだ。あの頃は顔も腕も足も服から出ている部分はすべて真っ黒だった。でも、元々が色白だったこともあり今ではその面影もない。ラケットの握り方すら、もう忘れてしまった。
ありきたりな紺色で統一されたセーラー服。近頃では珍しいレトロなデザインが、最初はとても新鮮だったのを覚えている。中学ではブレザーだったから、高校に進学したら是非と思っていた。あのときの誇らしくウキウキした気分は、今どこに行ってしまったのだろう。
ほかにも、色々な感情を道の途中に置き忘れてきた気がする。だけどそのことを、寂しいとか悲しいとか思うことはなかった。むしろ煩わしいものから解き放たれて、清々しくさえ思える。
ナニモナイ、ダレモイナイ。
また、心の中で呪文のように繰り返す。なんて心地いいのだろう、ずっとこの世界が続いていればいいのに。これが「夢」であることが残念でならない。
そして、どれくらい歩き続けたのだろう。ふと見ると、今までまったく変化のなかったはずの風景に「異変」が起こっていた。
「……」
彼女は思わず息をのむ。それでも歩みを止めることはなく、あっという間にその場所までたどり着いていた。
「やあ」
そこにはもうひとりの人間がいた。彼女よりも頭ひとつ分背が高くて、多分年齢も上。どうしてそれがわかるのかというと、彼が毎朝登校途中に見かけるたくさんのサラリーマンと同じような背広の上下に身を包んでいたからだ。
「こんにちは」
先に声を掛けられてしまったから、仕方なくこちらも挨拶を返す。でもそれだけですぐに終わりになると信じていた。だからそのまま、彼の脇を通り過ぎる。
「どうしたの、一緒に行こうよ?」
しかし、彼があとからついてくる。透明な道はすべての音を吸収してしまうから、足音は聞こえない。だけど背後にぴったり寄り添う感じで、同じ歩幅で進んでいるのがわかる。
「なんで? 私はひとりの方がいい」
軽く振りきるつもりだった、感情を込めずにきっぱりと言い切れば相手は折れてくれる。今までの経験では間違いなくそうなっていた。
「だって、君ひとりじゃこの先の道すじがわからないでしょう?」
何も知らないくせに、どうしてそう言いきることができるのだろう。
言われた瞬間はそんな風に腹が立ったものの、すぐに彼の言い分が正論だと言うことに気づいた。気づいた、というか「そうに違いない」と何故か確信することができたのだ。
「じゃあ、あなたにはそれがわかっているというの?」
とはいえ、すぐに認めるのは嫌だった。だから冷たい口調で突き放したのに、彼はどういうわけかとても嬉しそうに微笑む。
「うん、わかるよ。だって、俺は三日前からここにいるんだから」
彼女は大きく目を見開いた。その表情を見て、彼はさらに得意げに答える。
「同じ道を何度も何度も辿った。そしてまた、今夜もここに戻ってきたんだ。昨日まではひとりだったけど、今日は君が向こうから歩いてきた。だから……それでわかったんだよ」
ゆらり、と周りの靄が揺れる。透明な壁越しに流れていく白が、冷たく心をさするような気がした。
「俺はずっと、君を待っていたんだって」
彼女はその言葉に突き放すような眼差しで応えたあと、また前だけを向いて歩き出した。
――馬鹿らしい、何なのよこの人は。今までせっかくひとりきりの時間を楽しんでいたのに、とんでもない邪魔者が現れてしまったわ。
「おいおい、待てよ」
それでも、彼はまだしつこく食い下がってくる。
「旅は道連れ世は情け、って言うだろ? そんな風に突っぱねること、ないじゃないか」
どうにかして振り切りたいところではあるが、残念ながらここは一本道。ほかに逃げ場など見あたらないし、たとえ足早に逃げ出したところで相手に追いかける意思があればすぐに追いつかれてしまうだろう。
「……わかったわ」
仮にも年上、と思われる相手にかなり失礼な態度を取ってしまっていると思う。でもそれでも構わないのだ、ここは自分の夢の中。勝手気ままに思い通りにして何が悪いというのだ。
「ねえ、君は高校生でしょう? その制服、緑丘第一のだよね」
こちらが折れたことに気をよくしたのだろう、彼のしゃべりがさらに滑らかになる。
「知ってるの?」
「知ってるも何も。俺はそこの卒業生だからね、ということは君の先輩になるのか」
そんなことで自慢げに胸を張れるなんて、ずいぶんおめでたいと思う。さらに胸のクラス章までチェックされてしまう。
「ふうん、二年生か。今が一番いい時期だな、俺よりも四年後輩ってわけか」
まだ言ってる、こんなところでまで先輩風を吹かせてどうするのだ。あまりにも馬鹿らしくて、真面目に受け答えをするのも嫌になる。
「名前、何て言うの?」
こちらが必死に「構うなオーラ」を出し続けているというのに、まったく懲りない男だ。まだまだ道は先に続くと思われるのに、これでは疲れが溜まるばかりではないか。
「……奈緒(なお)」
適当にはぐらかしたところで、上手くいかないだろうと諦めた。ぽつっとひとことだけで終わらせようとすると、彼はとたんに興味深そうな顔になる。
「へえ、俺は尚矢(なおや)っていうんだ」
それが一体、何だというの? そうやって睨み付けたら、尚矢は誇らしげに笑う。
「これは奇遇だな、でも俺の方が一文字分勝ってるな」
さすがにムッとした、だからつい言い返してしまう。
「でも画数は私の方が多いわ。尚矢、なんてスカスカじゃない」
そんなことで張り合ってどうするのだと、自分で自分に突っ込みたくなってくる。
どうでもいいけど、この尚矢という男はかなり変だ。自分より四歳も年上ってことは、もう二十? 今年の誕生日が来てたら、二十一? いい大人が、こんなことで張り合うなんてどうかしてる。つられてこっちまでおかしくなってきて、いい迷惑だ。
「あはは、これは一本取られたな」
そのあと、仕方なく同じ道を進みながら、ぽつぽつと話をした。
尚矢は今年の春に二年制の専門学校を出て、社会人になったばかり。大手電機メーカーの営業部門に配属されたという。
「この不況下で、かなりラッキーだった。今は四大卒の奴らだって、なかなか思うような職に就けないからな。ま、畑違いなのは仕方ないと思わないと」
専門学校ではコンピュータのプログラミングを勉強していたんだという。毎日、パソコンの画面と睨めっこしていた生活から一変して営業職へ。未だに戸惑うことも多いという。
「ふうん、でも尚矢なら上手くやってそう」
柔らかな人当たり、穏やかな口調。この人は人間関係で悩んだことがないんだと思う。だからこそ、自分にだってこんな風に躊躇なく話しかけてくる。普通、これくらい態度で示せば放っておいてもらえるはずなのに。ああ、面白くない。
「奈緒だって友達多そうじゃん、ハッピーな高校生活送ってんだろ?」
もういい加減に解放してくれ、と真面目に腹が立った。どうして、この苛立ちが伝わらないんだろう。嫌なことは嫌、夢の世界だからってことで、かなりはっきりと伝えているはずなのに。
「そんなこと、どうでもいいでしょ」
吐き捨てるようにそう言い返したそのとき、奈緒はハッとして足を止めた。隣を歩いている尚矢もやはり同じく。
「――扉だ」
あまりの驚きに、胸の中に涌き上がっていた禍々しい気持ちもすべてどこかに吹き飛んでいた。
ふたりの目の前に、忽然と現れた透明な扉。そこを開けたら自分たちが今まで歩き続けてきたその理由がわかる、何故かそう信じられた。
透明な扉には同じく透明なドアノブが付いている。鍵穴とかそういうものは見あたらない。先に手を伸ばした尚矢がノブを握ると、かちゃりと軽い音がして内側に開いた。
「……うわっ……」
どちらからともなく、そんなうめき声が漏れた。
なんて眩しいんだろう、あまりの輝きに目を開けていられない。キラキラの光の粒が無数に漂って、その先を確認することもすぐには不可能だった。
そして、どれくらいの時間が経過しただろう。ようやく明るさに目が慣れて辺りを見渡すと、輝きのその正体は部屋の一番奥にしつらえられた台座のような部分にあることがわかった。
「何、あれ」
見たこともない光景であるから、説明をすることも難しい。たとえるならそれは、子供の頃に読んだ絵本の中で偉い王様が座っていた椅子。すべての人間を見下ろせるように座席は階段を何十段も上ったその先にある。そしてその巨大な椅子、あるいは台座の全体からこのたとえようのない目映い光が発せられているのだ。
「見て、人が座っている」
必死に目をこらして見上げたその先、高い高いその場所に確かに人影が見えた。眠っているのか、いないのか、微動だにしない。こちらを見ているのかどうかもわからない。
「……子供……?」
奈緒の言葉に応えるかのように、尚矢もぼんやりと口を開いた。あまりにも高い場所に座っているから、確かなところはわからない。でもあそこにいる人間は自分たちよりも幼いような気がする。カラフルなポロシャツにハーフパンツ。サッカーボールを抱えてその辺を歩いている小学生のような服装だ。
『――ヨク、キタナ』
ふたりは顔を見合わせた。その表情には同じ困惑の色が表れている。かすかに震えているように感じられる輪郭を見守っていると、尚矢の唇がかすかに動いた。
「……ガラスの、王様?」
聞き慣れない不思議な言葉に、それでも奈緒は頷いていた。
――何なんだろう、この不思議な感覚。言葉が、と言うよりも感情そのものが心の中にゆっくりと流れ込んでくる気がする。
「……ガラスの王様……」
ふたりはそのまま導かれるように、台座の一番上の部分を見上げていた。そうだ、彼が話しかけてきている。迷いもなくそう信じられた。
『オマエタチハ、エラバレタ。フタリノ、ドチラカニ、コノイスヲ、ユズロウ』
奈緒も尚矢も、しばらくは身体が硬直したかのように動かなくなっていた。次々と心に流れてくる言葉、そのひとことも取りこぼしてはならない気がして。
「王様の椅子を譲るって……一体、どういうこと?」
これは自分の夢の中なのだ、摩訶不思議なことが起ころうと常識で理解できない展開になろうと、悩むこともない。目覚めれば、そこですべてが終わる。
しかし、それを何度胸に言い聞かせようとも、じんわりと手のひらが汗をかく。そうだ、夢の世界なら、どうして冷たさや痛みを覚えるのだろう。
「うん、多分――あの椅子に座ったとき、すべてのことから解き放たれるんだと思う。あの場所から、下界の人間たちが泣いたりわめいたりするのを静かに見守っていくんだ。気の済むまで、そう言う時間が過ごせる」
どうにもとらえようのない、不思議な気持ちになった。本当にそのようなことができるのだろうか、まさかそんなこと、でもしかし。
「ねえ、奈緒は……死にたいとか、思ったことある?」
まるで遠い世界の話をするように、尚矢は言った。もちろん驚いて彼の方を振り向いたが、その表情からは何も読み取ることができない。
「死ぬのは怖い、やっぱりそんなのは無理だ。でもあの椅子に座ることができたら、しばらくの間は心を休めることができるのかも知れない」
元の世界に戻りたくなったときには、こうして椅子を譲る相手を見つければいいのだから。まるで自分自身に言い聞かせるように、尚矢は続けた。
『オマエタチノ、ドチラカダ。ソレヲキメルノハ、コノ、ヒカリノタマ』
その声がじわっと心に広がった刹那、ふたりの手のひらの上にはそれぞれ透明な珠が現れた。ちょうどハンドボールほどの大きさのそれは、触れてもほとんど重みを感じない。
『カガヤキノ、ミナモトハ、オマエタチノユウキ。オソレルナ、マズハフミダシテミロ』
言葉が途切れると、続いてふわっと足下が浮き上がる。ぐらりと輝く空間全体が揺らめいたと思ったそのとき、何もかもが目の前から消えた。
>>
Top>Novel>ガラスの王様・1