翌日の目覚めは、いつもよりも少しだけ気分がいいように思われた。ベッドの上で起き上がるのもそれほど辛くない。奈緒は自分でも驚くほどの手際よさで、身支度を終えていた。
「あら、驚いた。今朝は早いのね」
台所では母親がふたり分の朝食を整えていた。父は今単身赴任で、週末にしか戻ってこない。奈緒は自分の席に座ると、何も言わなくても出てくるマグカップを受け取った。
「お母さん、おはよう」
母親がぎょっとした顔で振り向く。そしてすぐに、そんな態度を取ってしまった自分を取り繕うように作り笑顔になった。
「……おはよう、奈緒」
一体何が起こったの、と言わんばかりの口調に、奈緒は喉の奥でこっそり笑ってしまった。
「今日はとてもいい天気だね」
そこまで驚くこと、ないじゃない。普通に挨拶しているだけなのに。そう思いつつ、トーストをかじる。今朝はいつもよりも食事が美味しい気がした。
「じゃ、じゃあ、私は急いで支度をしてくるわ」
そそくさと朝食を終えた奈緒の母親はそれだけ言うと、もう一度不思議そうな目で自分の娘を見た。どこがどう変わったと言うこともないと思うのだけど……という気持ちが半開きの口元に表れている。
「大丈夫だよ、まだ時間はたっぷりあるし」
そう言ってにっこり微笑む自分が、食器棚のガラス戸に映っていた。
「おはよう」
昇降口でも、朝の挨拶の威力は絶大だった。――そう感じていたのは、奈緒の方だけだったかも知れないが。でも「え?」という顔で振り向くクラスメイトに普通に笑顔が返せたことが嬉しかった。
「お、おはよう」
そんなに人の顔を覗き込まなくてもいいじゃない、普段通りでどこも変わったところなんてないって。奈緒は何だかとても楽しくなって、あとからやってきた他のクラスメイトにも元気に声を掛けていた。
――夢の住人の言葉も、たまには素直に聞いてみるものね。
たったひとこと、出会った人に声を掛けること。それだけのことなのに、昨日と少しも変わらないはずの朝の風景が、とても清々しくキラキラしたものに変わっていく気がした。
その晩。
眠りについたその先で、奈緒は待ちきれない気持ちでポケットを探っていた。
「……やっぱり」
取り出した光の珠は昨夜よりも輝きを増している。よく目をこらしてみなければわからないほどのかすかな違いだが、奈緒にはそれが誇らしくてたまらなかった。
「やあ、奈緒。今夜は早いな」
いきなり後ろから声を掛けられて、もう少しで大切な珠を落とすところだった。慌てて振り向くと、そこにいたのはやっぱり尚矢。三日続けて見ているこの夢には、余計な登場人物はひとりも登場しない。
「う、うん! そう、それより、見て! 見てよ、これ!」
両手で包んだ珠を自慢げに尚矢の目の前に突き出した。それを見た彼は、一瞬だけ目の色を少し変えた気がしたが、すぐに普通の表情に戻ってしまう。
「何よ」
奈緒は面白くなかった。もっと驚いてくれると思ったのに、そんなの当然とでも言わんばかりの態度が気に入らない。
「あ、……いや。ごめん」
自分を睨み付ける眼差しに気づいた尚矢は、取って付けたようにそう言う。それから一呼吸置いて、彼も自分の珠を取り出した。
「え……嘘」
今度は奈緒の方が言葉をなくす番。何故なら、尚矢の差しだした光の珠は、奈緒のものとちょうど同じくらいの輝きを放っていたからだ。
「今日は、新しい取引先を開拓したんだ」
こちらが何も訊ねないうちに、彼の方が勝手に話を始めた。
「そこの工場長は堅物で有名な人で、今まで何年もの間に会社の先輩たちが何度も何度も足を運んで、それでも全然相手にされなかったっていう伝説まであった。だから、俺の場合も『肝試し』みたいなもんだったんだと思う。先輩たちにしてみれば、自分たちが味わった苦労を後輩のお前も経験しろっていうことだったんだろうね」
高校生の奈緒には、尚矢のしている営業という仕事の実態がよくわからない。でも何となく、保険の外交とかそういうのに似ているのかなと考えた。見知らぬ会社のドアを叩き、初対面の相手に賞品を売り込む。考えただけで冷や汗が出てきそうである。
「それが……結果、どうだったと思う?」
そこでいきなり質問を投げかけられてしまい、奈緒は当惑する。こっちは聞き役に徹していたのに、急に矛先をこちらに向けないで欲しい。
「え、……ええと。やっぱり門前払いだったの?」
その返事に、尚矢は嬉しそうに顔をほころばせた。
「ふふ、実はそうじゃなかった。工場長はこっちが気抜けするくらい愛想が良くて、いきなり応接室に案内されてしまったんだ。そこで、彼の身の上話を何時間も聞かされたってわけ」
結局、すぐに注文が取れたわけではないが、次のアポを取ることにも成功してめでたく第一関門突破。会社に戻ってそれを上司に報告すると、部署内は一時騒然としたという。
「自分でもとても驚いたし、こんなラッキーなことはそうそうないと思う。でもお陰で明日も、とても前向きな気持ちで外回りができそうな気がする」
ウキウキと話し続ける彼が、すごく羨ましかった。羨ましくて……そして、それと同じくらい妬ましくなる。いくら自分が努力しても、相手がもっと努力したら何にもならない。尚矢は大人だ、どんなことでも自分よりもできて当たり前。それなのに対等に勝負しろなんて、絶対に間違っている。
「で、奈緒の方は? 一体、どんないいことがあったの?」
尚矢は一通りの話を終えると、今度は奈緒の一日のことを聞きたがった。でも、今は何となく話したくないなと思う。
「うーん、内緒。秘密の秘密よ」
ただひとことの挨拶が上手に言えただけで、嬉しくて仕方なかった自分が恥ずかしくなる。だけど、このまま引き下がるなんて嫌。明日はもっと頑張ろう、そうして尚矢よりもずっと珠を輝かせるんだ。そして、絶対に彼よりも早く王様の部屋のドアを開けてみせる。
「何だ、奈緒はケチだな」
少しぐらい失敗しても上手くいかないことがあってもいいかなと思う。だって、ここに来れば愚痴を言ったり悩みを相談し合ったりする相手がいる。ひとりじゃないから、どうにかこの先も頑張れそうな気がしてきた。
毎晩、ガラスのドアの前で尚矢と待ち合わせをする。そんな日々がいつの間にか当たり前になっていた。
彼はいつも同じ藍色スーツ、そして奈緒は高校の制服。ベッドにはいるときにはきちんとパジャマに着替えるのに、どうしていつもこの姿になってしまうんだろう。
「今日は一日、どうだった?」
別にたいした話をするわけじゃない、ただ一日のあれこれを報告し合うだけ。それだけのことなのに、一緒に過ごす時間が楽しくて楽しくて仕方ない。そのうちに、奈緒も尚矢もお互いのことがいろいろわかってきた。
尚矢は中学高校とバスケ部に所属、言われてみればそんな感じの体型。クラスの男子と比べても身長が高いし、それなりの活躍をしていたんだと思う。「一応レギュラーだったけど、間違っても花形とかそういう感じじゃなかったな」なんて謙遜するけど、きっと仲間内の間でも信頼されていたに決まってる。
「そうか、部活かーっ。やっぱ、入ってないと辛いよね」
それでも一年生のうちは何とかなっていたと思う。クラスには気の合う仲間もいたいし、中学時代の友人たちとの交流も続いていた。だけど、二年生に進級したとたん、何か違和感を覚えるようになった。
「別に部活だけがすべてじゃないと思うよ? 委員会活動だっていいし、文化祭とか体育祭とかそう言うのを運営する側になるのも面白いんじゃないかな。そうじゃなかったら、学外のボランティアとか? 俺の頃にも、そういうのをやってた奴がいたし」
そう言ってくれても、やっぱりすっきりしない。中学の頃のことを思い出してみても、部活の仲間は特別だった。土日や長期休業中も毎日のように顔を合わせていた彼女たちとは、見えない絆でしっかり繋がっていた気がする。
「うーん、でも急に何かをやり出そうとしても、すぐには考えがまとまらないな」
夢の中の住人だから、絶対に自分を傷つけたりしない。いつも心地よい言葉で励ましてくれて、明るい方向へ歩いていけるように導いてくれる。
尚矢は安全な人間だった、だからすべての気持ちを預けることができた。目覚めたあとの現実の世界で無謀な挑戦ができるようになったのも、みんなみんな彼のお陰だった。
「あ、奈緒。おはよう!」
毎朝のように昇降口で出会うクラスメイトに、今朝も元気に声を掛けられた。今では奈緒も、当たり前みたいに挨拶を返すことができる。
「良かった、実は奈緒に頼みたいことがあったの」
気がついたら、クラスの中にも気軽に話ができる相手がたくさんできていた。自分ひとりだけが孤立していると信じていた頃にはあんなに息苦しかった教室が、今では活気に溢れた温かい場所に思えてくるのが不思議で仕方ない。仲違いをしたとばかり思っていた男子も、実は奈緒のことを少しも悪く思っていなかった。
「ねえ、奈緒は今部活やってないんだよね? 実はね、私って野球部のマネージャーしてるんだけど、一緒にやってる子が塾が忙しくなって当分出てこられないって言うんだよね。それで、良かったら代わりに手伝ってもらえないかと思って」
思いがけない申し出に、すぐには何と返事をして良いものかわからなかった。話の内容はともかく、こんな風に誘ってもらえたことが嬉しい。
「え、ええと……マネージャーなんて今までやったことないから、できるかわからないけど」
心臓がドキドキして止まらなかったけど、どうにかしどろもどろになりながら言葉を返した。
「うんっ、もちろん! じゃあ、今日の放課後に早速付き合って。力仕事も多いけど、すごく楽しいんだよ!」
それでもやる気はあるってことは相手にきちんと伝わった様子でホッとする。何気ないやりとりを繰り返していくうちに、奈緒はだんだん自分の思っていることを素直に相手に伝えられるようになってきていた。「わかった、じゃあ放課後に」
授業中に自分から手を挙げて発言をしたり、困っている友達に手をさしのべたり。たったひと月前の自分には絶対無理だと思われたことも、どんどんクリアできていく。多少意見が食い違っても、きちんと時間を掛けて話し合うことでお互いをよりよい方向に導いていけると言うこともわかった。
―― そして。
毎晩のように夢の中で尚矢と見比べるお互いの光の珠が直視できないほどのまばゆさになった頃、背後のガラスのドアが、前触れもなくひとりでに開いていた。
「……うわっ、嘘……!」
ずっと願い続けていたことが叶ったはずなのに、その場所に足を踏み入れることに何故か躊躇してしまう。それでもガラスで包まれた空間は、ふたりを中へ入るようにと促すのだ。奈緒は尚矢と顔を見合わせる。彼もやはり、当惑した顔をしていた。
『ミゴトダッタゾ、フタリトモ。ココカラスベテヲ、シカトミセテモラッタ』
心の中に直接入り込んでくる「声」もあのときと同じ。とても懐かしくて……それなのに何故かとても悲しく感じた。
『サア、コレカラサイシュウシンサダ。フタリノドチラガ、コノバショニフサワシイカ、ヒカリノタマニキメテモラオウ』
その言葉を感じ取ったとき、心の中で「嫌だ」と叫んでいた。
どうしてなのかはわからない、でも確かにそのときの奈緒は、このままあの高い場所に進むことはできないと考えていた。
「……私、明日も学校に行きたい。明後日もその次も、やりたいことがたくさんある」
奈緒が大きく首を横に振ると、尚矢もそれに続いた。
「俺もだ、明日も仕事に行かなくては。やりかけている取り引きがいくつもある、今すぐにでも会社に戻ってあれこれ検討したいくらいなのに」
でも、次の瞬間にふたりは悟った。
自分たちの足は、ガラスの床に吸い付いたまままったく動かなくなっている。今この場所から立ち去ること、永遠にガラスの王様の呪縛から逃げること、それはふたりにとって不可能なことになっていた。
「嘘だよ、これってすべてが私の夢の中の出来事のはずなのに」
奈緒が大きく首を横に振るたびに、彼女の髪がその周りにふわりと広がる。
少し日に焼けたなと尚矢に指摘された腕や脚。マネージャーの仕事に夢中になっているうちに、中学時代と同じような肌色が戻ってきていた。
「違う、これは俺の夢の中だ。毎晩見る、同じ夢なんだ」
いつもは柔らかな尚矢の表情が、別人のように歪む。彼は何か重大なことを思いついたのだと言わんばかりに、腕を大きく振り上げた。
「夢なら! 夢なら、覚めろ! いい加減、解放しろ……!」
一体、この人は何をしているんだろう。奈緒は信じられない気持ちで、尚矢を見つめていた。
「ええと、……それって。違うよね、尚矢は私の夢の中に出てきただけの人でしょう、私が勝手に考えて、こういう人がいたらいいだろうなって思ったそのまま姿で現れてきただけの存在のはずだよ……!」
でも尚矢は、なおも首を横に振る。そしてこの世界は自分の造り上げた夢だと言い張る。
「夢の中だから、ありもしないことが起こる。夢の世界だから、何でも思い通りになる。そうだろ、そうなんだよな、あの椅子だって俺が望むのをやめればその瞬間に跡形もなく消え失せるはずだ!」
その言葉に、奈緒もはたと気づいた。
そうだ、やっぱりおかしい。毎晩、続きを見ることのできる夢というのも奇妙すぎる。そして、その夢の中にある椅子に座り続けるということは、現実世界の自分がどうなることなんだろう……?
『チガウ』
ごちゃごちゃに絡んだ感情の糸を一気に断ち切るように、壇上の「王様」が静かに言った。
『コレハ、ボクノユメ。ボクガ、オマエタチヲ、ヨビヨセタ。フタリノドチラカガ、ココニスワルマデ、コノユメハオワラナイ。エイエンニ、ツヅク』
「なっ、何だって……!?」
奈緒はいつの間にか、尚矢の片腕を強く掴んでいた。ひとりきりの力では恐ろしくて立ち続けることもできない。このまま王様の夢の中に生き続けるなんて、絶対に嫌。それに、ひとりに戻ってしまったら、もう二度と尚矢にも会えない。そんな、そんなことって……絶対に駄目だ。
「どっ、どうして! ねえっ、どうしたらいいの、どうしたらこの夢から覚めるのっ!? 教えて、教えてよっ、尚矢……!」
ふたりの願いはいつも同じだった、ふたりのたどり着きたい場所はいつも一緒だった。だから、ずっとふたりでいた。毎晩出会うのがとても楽しかった。
「……奈緒」
すると。それまで、感情を露わにして荒れ狂っていた尚矢がいきなり元通りの優しい顔になった。そしてずっと見守ってくれていた優しい笑顔で奈緒の方を向き直る。
「俺、本当は偉そうなこと言えるような人間じゃなかったんだ。今まで奈緒に話してきたことは、みんな理想。現実の俺は臆病者で、今の仕事も嫌で嫌でどうにかしてサボることばかりを考えていたような気がする。せっかく入社したのに、すぐにやめるなんて親にも友達にも言えない。だけど、このままじゃ辛すぎる。ずっと……そう思って苦しんできた」
嘘、という言葉はかすかな唇の震えにしかならなかった。
「だけど、毎晩夢の中で奈緒に会えるようになって、そして奈緒も必死で頑張っているってわかって、だから、少しずつだけど俺も前向きに仕事ができるようになってきた。今は毎日が楽しくて仕方がない、人間、ちょっと考え方を変えるだけでこんなに違った生き方ができるってわかったよ」
初めて出会ったときから、すごく自然だった。この人といるのがとても楽しかった。支えてくれるから、もうちょっとだけ頑張ってみようと思えた。
「私たち……ふたりとも、同じだったのかな……?」
お互いが手の中にしっかりと抱えている光の珠はどちらも同じくらい目映く輝いている。心の色も輝きも同じ、こんな偶然って本当にあるのだろうか。
「うん、そうかも知れない」
ぽつりとそう言った尚矢が、急に奈緒に顔を近づける。そして、あっと叫ぶ暇もなく、一瞬だけ互いの唇が触れ合った。
「これ、もらう。だから、もう奈緒は自由だ。俺がここに残る、そしてあの椅子に座る」
彼は奈緒の手から光の珠を奪い取ると、そのまま一気に王様の元へと駆け寄った。奈緒も慌ててそのあとを追う。二本の足は元通りに自由に動くようになっていた。
「待って! そんなこと、させないっ。尚矢だって、尚矢だって、まだやりたいことがたくさんあるんでしょう? だったら、王様の椅子に座っちゃ駄目! そんなのっ、駄目だって……!」
その声に、尚矢が振り向いた。その表情は悲しい笑顔に溢れている。
「ううん、いいんだ。だって、元の世界に戻っても、もう奈緒はいない。この先、二度と奈緒に会えなくなるくらいなら、あの場所から奈緒の幸せをずっと見守っていたい」
何で、そんなこと言うの。そんなの、絶対に駄目、許せない……!
「尚矢っ、待って! 私、私だって、尚矢と一緒にいたかった。これからもずっと、一緒にたくさんの話がしたかった。だからっ、……だから、私も尚矢と同じ。同じ気持ちなんだから……!」
やっとその背中に追いついて、背広の裾を強く引く。突然のことにバランスを失った彼が大きく身体を傾けると、ふたつの光の珠がその腕から飛び出した。
「――あっ……!」
刹那、目のくらむような輝きに再び包まれていた。尚矢が見えない、王様も見えない、ガラスの部屋もそれをとりまく世界すべてが強い光の中に飲み込まれていこうとしている。
「待ってっ、待って……尚矢っ……!」
奈緒、と呼ばれたその方向に必死に腕を伸ばす。だけど、指の先が何かに届く前に、すべてが消えてなくなった。
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