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02.くちびる


 急ぎすぎた薄桃の花びらが夕暮れの寒風に凍えている。桜祭りの提灯がともり始めた河川敷に花見の客は少なく、皆薄い上着をきっちりと着込んで家路を急いでいた。

 今日の装いは頭上の花たちよりは幾分色味の強い友禅の訪問着。美しく繊細な草花が縦に配された様子は、柔らかな雰囲気の中にもすっきりとした印象を与えてくれると馴染みの呉服屋の主人が太鼓判を押した。その上に光沢のある帯をきりりと締め、帯留めにも華やかなものを用いている。
  特に見晴らしの良い今日の招待席には馴染みの顔も多く見えたが、その誰もが「可愛らしい」と手放しで誉めてくれた。もちろんこちらを気遣ってのお世辞もいくらか入っているとは思う。だがやはり心地よい言葉は素直に嬉しかった。
  しかし、実際のところ着物のことは未だによく分からない。身につけるものは帯や小物に至るまで全て母方の祖母の言いなりで、言うなれば自分は着せ替え人形のようなものだ。孫に女の子が少ないことを誰よりも嘆いている彼女は、隣町に住む私を何かにかこつけては家に呼び寄せる。

「やはり、評判通りの素晴らしい舞台でしたね。何より主役が良かった。あのようなしなやかな動きが難なく出来てしまうとは……このように並木の桜は見頃を外してしまいましたが、今日は春爛漫を存分に堪能させて頂きましたよ」

 先を行く人は、すっきりとしたスーツ姿。こういう席だから和装で決めるのかなと思ったが、忙しい身の上で今日も出先から急ぎ戻ったというのだから無理もないだろう。

 まだ高校生という身分の私には、大人の社会というものがうっすらとしか想像できない。クラスメイトの中では「大人びてる」とか「落ち着いてるね」とか言われるけど、そんなの上っ面だけの安っぽいメッキみたいなものだなと思う。
  確かに私は末っ子で大人ばかりの家で育ったから、何となく友達とは感覚がずれてるなと小さな頃から感じていた。みんなが夢中になっているアニメとかゲームとかの内容がいくら聞いてもしっくりこなかったもの。
  だいたい余計なことに心を奪われている暇なんてなかったし。昔気質の祖母は私に自分が子供の頃に嗜んだ手習いごとを一通り習わせた。日替わりでお稽古が入っていたら、友達と約束することも出来ない。

 まあ……そんな生活に少しも不満を感じてなかったんだから、それも良かったのかなと思うけど。

「……どうしました、穂積(ほづみ)さん」

 夕日の名残の紅に照らされて輝く水面をぼんやり見ていたら、また傍らから柔らかい声がした。私はゆっくりとその方向を振り向く。視線の先にあるのは、いつもと変わらない笑顔。
  ベージュのスーツって何となく現役をリタイヤしたお爺さんが普段着に着るイメージがあるんだけど、この人がまとうととても上品にしっくりと決まる。さりげないようでいてちゃんと自分に似合うものを心得ている辺り、さすがだなと思う。

「何か考え事ですか、珍しくふさぎ込んでいるご様子ですね」

 その質問には少なからず驚かされた。自分ではいつもと少しも変わらないつもりでいるのに、どうしてそんな風に思えるのだろう。

「いえ、何でもありません。少し……人に酔ったのかも知れませんね」

 休みの日は和装で一日中過ごすことも少なくないから、帯のきつさにも慣れている。長めの髪は全てをアップにはしないで、上の方だけ結んで小さなかんざしを付けた。その方が娘らしくて似合ってると祖母は言うが、何となく落ち着かない心地がする。
  祖母が譲ってくれた、記念講演のチケット。能楽なんてとても学校の友達を誘うわけにはいかなくて、結局この人を頼るしかなくなった。毎度のことながら、申し訳ない限り。年度の切り替えで忙しい時期なのは分かっていたし、断られたら仕方ないと思いつつお願いすると快い返事がもらえて助かった。

「それはいけません。どうします、途中どこかで少し休んでいきましょうか。確かこの先に茶屋が……」

 有り難い申し出に、静かに首を横に振る。今日は昼過ぎから夕方まで自分のために時間を割いてもらった、この上に我が儘を言うわけにはいかない。

「いいえ、祖母が待っておりますし。このまま戻りましょう」

 静かにそう告げれば、彼もゆっくりと頷いてくれた。

 

 色入り(若い女性役が身につける装束)の あでやかな色目が、今でも瞼の裏に焼き付いている。叶わぬ恋を嘆いてついには花鬼と成り果てた悲劇は、観る者に食らいつくほどの迫力があった。狂い踊る桜吹雪、そこには完成されたひとつの世界。私の心はまだ、あの場所に囚われているのだと思う。

 そして、また。

 それは隣を歩く人も同じだと思う。何度か観たことのある演目だと言っていたが、舞台を見つめるその眼差しには今までに感じ取ったことがないほどの強いものであった。演者の舞足の素晴らしさがそうさせたのか、さもなくば魂までが物語の中に吸い込まれたのか。そう思って再び見つめる舞姿は、それまでとは違ったものに思えた。

 ――ああそうか、この人もまた強い情念というものを胸奥に秘めていたのか。

 それは当然のことだと思う。彼もまた成人したひとりの人間なのだ。自分と接している一面だけを見て彼の全てが分かったように考えるのは大変失礼なこと。だけど……出会った頃から少しも変わることのないこの人を、どうして今更別物とできるのだろう。
  もうとっくに分かっている、この人にとって自分はただの妹弟子でしかないことを。そしてそれを知っていながら、その立場に甘えている自分も。

 周囲の人々は皆「お似合いなふたり」と言ってくれる。でも……その言葉に胸を躍らせているのは多分自分だけ。彼にとっては、ただ迷惑なのだと思う。

 

「……どうしましたか?」

 今度はこちらが訊ねる番だ。彼は不意に立ち止まり、ショーウインドの向こうをじっと見つめている。銀行のビルに飾られた見事な花。生け花を嗜む彼だからこそ、その美しさの神髄が分かるのだろう。
  花などどう活けても同じだという人もあるが、すでに命の根をつみ取られてしまった彼らを生かすも殺すも腕次第。その人の心映えが余すことなく全て表れてしまう。

「いえ、……すみません。先を急ぎましょう」

 やはり、どこか変だと思う。それは今日、待ち合わせの場所で出会ったときからずっと感じていた。彼は意識的に自分を避けている。何気ない素振りではあるが、長い間一緒に過ごした身としては些細な変化も容易に感じ取ってしまうのだ。そんな自分が今は恨めしい。気付かずに済むことならば、その方がどんなに幸せなことだろう。

 ――もう、こんな風にするのはやめようって。そう……仰りたいのではないかしら?

 自分たちの関係がとても曖昧なものであることに、少しずつ違和感を覚え始めていた。今まではそのことからずっと意識的に目を背け続けていたのかも知れない。長すぎる春を過ごしたというふたりが特別の関係に変化していく過程を目の当たりにした早春、幸せそうなその笑顔を見るたびに胸が痛んだ。

 普段は稽古の席で顔を合わせるだけ。それも数年前に彼が就職してからは、ひどく回数が減った。そのことにたまらなく寂しさを感じて、このように何か用事を思いついては声を掛けてしまう。でも……それはいつもこちらから。彼から何か働きかけがあることはない。

 だから嫌だったのだ、こんな明るい色目の着物。もっと落ち着いた、大人の女性の装いで隣の彼に恥ずかしくないようになりたかった。その方が……彼も喜んでくれたかも知れないのに。
  いくら夢中で駆け上がったところで、年齢の差は埋められない。どんなに考えて彼に見合うような贈り物をしても、それはただの自己満足というもの。今はもう、何もかもが気に入らない。

「あの……北村さん?」

 半分投げやりな気持ちになって、思わず問いかけていた。不思議そうにこちらを振り向いた彼の眼差しをとても正視することが出来ない。呼び止めておきながらこんな風に目をそらしたら、何とも行儀が悪いではないか。

「あのように……自分を忘れてしまうほど人を愛すると言うことがあるのでしょうか。何だか、恐ろしくて……とても信じられませんわ」

 自分でも一体何が言いたいのかよく分からなくなっていた。それでも震える唇で、どうにか言葉を紡ぎ出す。今の自分は彼の目にどんなにか滑稽に映っていることだろう。こんなことを突然訊ねるなんて、どうかしてる。

「――そうですか」

 彼はまた、何事もなかったかのようにゆっくりと歩き出す。私が立ち止まったままでいることも気にせずに。

「僕には……とても共感できましたよ、今日の演目。そう、まるで自分のことをそのまま語られているようで」

 そこまでで言葉を切ると、彼は立ち止まってこちらを振り返る。やはりいつもと変わることのない穏やすぎる瞳。

「穂積さんは……本当に何もご存じないのですね?」

 驚いて見上げた私に、彼は小さく溜息を落とす。ひんやりと冷たい風が心まで吹き込んでくる気がして、私はショールをしっかりと巻き直していた。

「今の僕にそんな質問をするなんて……どういうおつもりなのでしょう。今宵は花鬼の魔力に取り憑かれてしまっていますから、何をしでかすか分かりませんよ?」

 

 一瞬だけ。本当に一瞬だけ、彼の瞳の奥が色を変える。

 でも、次の瞬間にはもう、いつもの穏やかな笑顔が戻っていた。さあ行きましょうと、差し出された手のひら。私はゆっくりと彼のところまで進んでいく。まるで……見えない糸に引っ張られるように。

 

「ほらここに、この世で一番美しい花が咲いている」

 私の手を待っていてくれるのかと思った彼の指先が、すっと伸びて来る。一瞬だけ触れた口元。彼を感じて、ぴくりと熱く反応した。

「あまり綺麗にされると、こちらは目のやり場に困ります。あなたには……もう少しゆっくりと大人になって欲しいものですね」

 そう言って目の前にかざされた彼の指。そこがほんのりと紅の色に染まっていた。

おしまい (060513)

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お題提供◇真菜様
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「金平糖*days」に出てきた「友人・その2」の彼女です。
作中にちょこっとだけ「彼がいる」との説明が出てきて、 そのときからこのシーンをぼんやりと想像してました。今回ようやくかたちに出来てホッとしてます。