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07.字幕


「何だか、浮かない顔をしていますね」

 三日ぶりに会ったアキラさんは、私の顔を見るなりそう言った。でも別に、それが理由で彼が不機嫌になるとかそう言うことはない。いつもと同じ笑顔、柔らかくふわりと包み込むみたな温かさ。

「うーん、……まあ色々と」

 全然答えになってないけど、もごもごと中途半端に口を動かしてみる。どんよりとうなだれたら、スーパーの袋が膝の辺りでがさがさ。アキラさんは余計なことは何も言わないで、私の頭にぽんと手を置いた。

「今夜もご馳走してくれるんですね、いいんですか? オレはのぞみちゃんの美味しい手料理が食べられるから大満足だけど、そんなに気を遣ってくれなくてもいいのに」

 仕事帰りの人々が行き交う金曜日の駅前広場。弥生の風に吹かれた軽やかな装い、季節は知らないうちに移り変わっていく。

 スーツ姿で改札を抜けてきたアキラさんは、快速で三つ目の駅にある大学から戻ったところ。大学院に進んで修士課程を終え、今は講師の仕事をしながらさらに研究を続けている。ある時は学生で、ある時は助手で、ある時は先生―― 器用に色んな立場を渡り歩いている不思議な人だ。
  でもそれらの仕事は今月末付けで休職届を出している。他にスクールカウンセラーの仕事もしていたんだけど、そっちも年度末でいったん任期を終えることになった。今は引き継ぎやら身辺整理やらで目が回るくらい忙しいんだって。そう言いながらにこにこ笑ってるんだもの、全然説得力ないけどね。

 一方の私は、ちょっと近所にお買い物ファッション。電車に乗ってどこかに行くほど気合いは入ってない。先月末で勤めていた会社を退職してしまい、今は無職の身の上。こちらもやることは山積みなんだけど、何かエンジンが掛からなくて毎日ぼんやりしてる。

 久しぶりにのんびりとした待ち合わせだった。

 今日は「○時までにどこどこまで行かなくてはならない」という時間の制約がないのが嬉しい。とはいえ来月の今頃はもうデンマークの空の下にいるはずで、それを考えたらのんきに構えてはいられないんだけどね。でもでも、こういうのって貴重だし。私たち、きちんと恋人になったのもつい最近だもの。何もかもが早送り過ぎてついて行けないのよ。

 ふたりが向かうのは駅から歩いて10分のアキラさんのアパート。学生時代からずっとこの街に住んでいたんだよって言われたときは驚いたわ。同じ本屋さんやCDショップやコンビニで買い物して、同じ駅を使って通勤通学して。それなのに長い時間お互いに全く気付くことなく過ごしていたんだね。

 出会えたこと自体が奇跡、そのあとの展開もとても不思議。今こうして隣を歩いている背の高い男の人が、半月後にはダンナ様になるなんて信じられない。一度きりの人生をこんなに簡単に決めてしまっていいのだろうか、私。

 

「そうだ、こんなものを用意していたんですよ。もしも機会があったら、一緒に観ようかなって」

 今夜のメニューはポトフと豆のサラダ、それからここに来る途中で買った焼きたてのフランスパンだ。

 具だくさんのスープはそれだけでメインになるから好き。かたまり肉と皮をむいただけの小タマネギや小さめのジャガイモ、ぶつ切りのニンジン。キャベツは4等分してぎゅうぎゅう押し込んじゃう。そのときによってカブを入れたり粗挽きウインナを入れたり。
  お鍋に溢れるくらいに作っても、数日後にはきちんと食べきってくれてるみたい。薄味で素材の持ち味を生かした料理が好きってところも似ていて助かった。私、コロッケとかにも何もかけないで食べちゃうんだよね、衣のさくさくとかおいものホクホクとかそういうのを楽しみたくて。

 メニューがメニューだけに、15分足らずでとりあえずの作業は終わってしまう。味のしみた方が美味しいサラダは昨日から作ってタッパーに入れてきたしね。

 ふうって一息ついてエプロンを外したら、それを待っていたかのようにアキラさんが話しかけてくる。私がキッチンで格闘していた間に彼の着替えが終わってた。トレーナーと綿パンツというお決まりの部屋着。ううん、このままちょっとそこまで買い物に出たりもするけどね。プライベートになっても、やっぱり全体的に淡い色調だ。
  私の部屋と同様に、段ボール箱で溢れた2DK。この部屋の契約も今月末で、出発までの数日間は私の家に「マスオさん」してくれることになってる。いつの間にか溢れた蔵書は、半分は実家に送って半分は研究室で保管してもらうんだって。その一角からごそごそと音がする。

「ほら、これです。デンマークの映画なんですよ、こういう風に視覚と聴覚と両方からいっぺんに入るのもいいかなと思ってね。のぞみちゃん、色々頑張っているみたいですけど、あまり根を詰めるのもどうかと思いますよ? 習うより慣れろって言うじゃないですか」

 向こうで住む部屋には一通りの家具や電化製品が揃っていると聞いていた。必要になったものは後から送ってもらえばいいし、今は通販とかでいくらでも手に入る。だから持参する荷物は本当に身の回りのものだけ。ただ、あっちの人たちはかなりの大柄だって聞いてるから、身につけるものだけは一通り必要ね。私、日本にいてもかなりのミニマムサイズだし。
  アキラさんが今操作しているDVDもTVも他の電化製品や家具も、全部引取先が決まってるんだって。引っ越し間近の日曜日に各自が引き取りに来てくれるそうで、何とも段取りがいいなって感じ。

「そ、そんな。別にたいしたこと、してないもの」

 さらさらとよどみなく話されて、逆に驚いてしまう。

 何よ、どこから仕入れたの、その情報。そりゃ、デンマーク語を教えてくれる語学教室を探して通ったりしたのは事実。だって、パスポート取ったりビザを申請したりすれば、嫌でも「いよいよだ」って実感するじゃない。日々の買い物とかで使う言葉や挨拶くらいはどうにかしたいなって思ったりした。
  最初は軽い気持ちだったの、だけど回数を重ねていくとどんどん焦りが出てくる。せめて英語だったら、とりあえず中学高校で授業受けてたしそれなりに聞き取れたりもするよね。だけど、デンマーク語って全く違うんだもん。印象としてはドイツ語とかに近いかな? ぶつ、ぶつって言葉が切れてる感じで。どんな単語を言われてるのか、何度繰り返されても全然聞き取れないの。

「一緒にデンマークに来てください」―― 突然言われたときは驚いたなんてもんじゃなかった。そのときまで友達以上恋人未満だった私たち、彼の言葉の意味をきちんと理解するだけでも大変だったよ。お世話になってる教授があっちの大学で研究をしていて、そのお手伝いをする人を探しているんだって。
  まあ、……そう言われたらついていくしかないし。というか、ついていきたいし。 そんなわけで、この数ヶ月は何もかもが早送りで過ぎていって忙しかった。

「前にも言ったでしょう、そもそもデンマークって国には共通語はなくてね、その地方によってかなり異なるものなんだそうですよ。ひとつに統一しようとかそう言う考え方のない、おおらかなお国柄なんでしょうね。戸惑うのは最初はみんな同じだから、そう心配しなくて大丈夫。アパートには同じ大学に勤務する人たちの家族がたくさんいらっしゃると聞いているし、どうにかなりますよ」

 いつもながら、分かったような分からないような言葉に何となく言いくるめられてしまう。アキラさんの語りは対する人の心の中から不安や恐れを取り去って穏やかなものに変えてしまうんだ。そういう仕事を続けてきたんだから、当然と言えば当然だけど。やっぱり、こんな風に落ち着き払われていると逆に大丈夫なのかなって心配になることもある。
 全然違う環境で、知らない人たちに囲まれて新しい仕事をしていかなくてはならないアキラさん。私はいざとなったら一日中部屋の中でアキラさんの帰りを待っていてもいいんだけど、彼はそうはいかないもの。本当に不安とか全然ないのかな、何もかもが大丈夫って思っているのかな。弱いところとか全く見せてくれなくていつも淡々としてるから、どうなのかなって思っちゃう。

「あのね、デンマークには『Hygge(ヒュッゲ)』って言葉があるそうなんです。心地よい、快適な、暖かい、寛いだ、のんびりしているがどこか真面目で……そんな感覚をすべてひっくるめたような心豊かでゆったりとしたひとときを指すようですよ。ひと言では説明が難しい感じですけど。きっと肩の力を抜いたくらいでちょうどいいと思います、のぞみちゃんは色々考えすぎですよ」

 どうぞ、って促されるふかふかのソファー。ひとり暮らしの部屋にどうしてこんな大きな家具があるのかと最初はとても不思議だった。聞いてみたら、地方に戻ることになった先輩から譲り受けたんだって言う。見た目は普通なんだけど、すっごく座り心地がいいんだよ。身体を沈めると、自然に眠くなっちゃうの。
  アキラさんの部屋は初めて入ったときから、まるで10年くらい暮らしているみたいにしっくりと馴染んだ。それなりに不安なこともあったんだけど、たとえば私の前に何人の彼女がいたのかなとか。だけど、そう言うことを考えるのも次第に面倒くさくなってきたのね。

 この部屋に出入りした3ヶ月と少し。初めてキスしたのも、えっちなことしちゃったのもここだった。もうちょっとで違う人の部屋になっちゃうなんて、何だか信じられない。少しずつ変わっていくものがあって、その一方でいつまでも変わらないものもある。私たちはこの先そのどちらになるんだろう。

「アキラさんは、考えなさすぎだと思うわ。何をするにも事後報告だし、それで当然って感じだし」

 ……いや、その状況を受け入れているのは私なんだから。別にいいやって思うんだけどね。でも、ちょっとだけ拗ねてみたくなることだってある。

  この頃は、家にいても何となく落ち着かなくて。何しろ、一人娘を嫁に出す立場のパパは始終ぴりぴりして、私の些細なひと言にも突っかかってくる。そんな状況で泣き言なんて言えるわけないでしょ、すぐに「そんな結婚やめろ」とか言われちゃいそう。
  マリッジブルーって言うのかな、目に映るものが全てぼんやりと涙色に見えてくる。楽しいことや面白いことが、全て私を取り巻くガラスの向こう側の出来事みたいよ。

「えー、そうですか? のぞみちゃんにそんな言い方されると悲しいなあ……」

 くすくすって、喉の奥で笑って。それからアキラさんは、伸び上がってキッチンの方を確認した。お鍋が吹いていないかとかチェックしたのかも。

「……あ、最初に断っておかなくては」

 ふわりふわり。大きな手のひらが、肩に回って。息が掛かるくらい近くで、アキラさんの声がする。

「この映画ね、字幕は英語なんですよ。だから、いっぺんに二カ国語の勉強が出来るかも知れませんよ?」

 そんなこと言われたって、視界を遮られたら何も見えないんですけど。気が付いたら、目の前が全部アキラさんだよ。ついでに服も脱げ掛かってたりしない……?

 メロウなサウンドに乗って聞こえてくるのはもそもそと聞き取るのも難しい言葉たち。何を言ってるのか、さっぱり分からない。けど……私の悪口じゃないなと、それだけは信じられる。相手を柔らかく受け止めてくれる魔法の呪文みたいに。

「実はね。オレは、どこへ行っても平気なんですよ」

 遠い異国の言葉に、大好きなアキラさんの声が重なる。この声がずっと聞いていたいと思った。この人と、ずっと一緒にいたいと思った。もしかしたらもう会えなくなるのかもって、そう思った一瞬だけで悲しくて仕方なくて。何の約束もない頃から、すでにアキラさんは私の心の住人になってた。

「のぞみちゃんが一緒にいてくれれば、頑張れそうな気がします。のぞみちゃんがいなくなることが、オレにとっての唯一の恐怖でしょうね」

 優しいキス、額にこめかみに。内に秘めた熱を少しずつ伝えるような愛し方。首に腕を回して、ゆっくりと体重を預けていく。

「そんなこと」

 TV画面は大きな河に掛かった橋の映像。それがすぐに途切れて、次の瞬間に新しい場所に熱が落ちる。

「冗談でも、考えないで。……本当に、自分が消えちゃうみたいだから」

 余計な音までが耳に飛び込んでくる場所を離れて、何もかも最初から始めよう。長く暗い冬の間は、扉をぴっちり閉ざした家の中で一日のほとんどを過ごすというその国で、一番近くにいる大切な人のことを想いながら静かに暮らしていきたい。

 心地よい「呪文」たちが、いつか字幕がなくても全て聞き取れるようになりますように。いつも変わらず温かい心で包んでくれるアキラさんの心を、言葉なしでも感じ取れるようになりますように。

「そうですね、気をつけましょう……」

 

 くすぐったい吐息。私の心はお鍋の中で踊る小タマネギよりも早く、とろとろにとろけていきそうだ。

おしまい♪ (060531)

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お題提供◇おや様
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らぶらぶです、ええ多分。
とりあえずは『おひさま☆かるた』の連作シリーズ「くまちゃんが好きっ!」の番外(説明が長い)である「のぞみ&アキラさん」のカップルに登場して頂きました。宜しかったら、ふたりの出逢いもそちらでお楽しみくださいませ。3年前の企画で、ネタがかなり古くなってます。犬の名前とか、そうだったわ本当にアイドル張りに大人気だったなあとか遠い目になってしまいました。アキラさんが井ノ原くん似だったことを綺麗さっぱり忘れていましたが(おぃ)。デンマークは憧れの国、いつか行ってみたいです。そのときは私もらぶらぶがいいなあ(笑)。