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34.冷却期間


「おめでとう」

 そのひと言を口するのが、こんなにも大変だったなんて。

「ありがとう」

 幸せそうに微笑みながらそう応えるふたりを眺めながら、無理に作ろうとした笑顔で頬がぴくぴくと痙攣を起こした。

 ―― 何故、……どうして?

 皮膚一枚めくった内側では、ぐるぐるとどす黒い気持ちが渦を巻いている。こうして久しぶりに会った仲間たちと気の置けない時間を過ごしていても、全然楽しくなんかない。……ううん、今夜ここに来るまではとっても楽しみだったんだよ。久しぶりに直接彼に会えると思ってたから。でも予約されたテーブルに着いた途端、その隣をぴったりと陣取る「彼女」の姿に驚いた。

「秋にはゴールインなんだって。もう、私も今聞いたばっかりで本当にびっくりよ。つい最近まで、そんな様子もなかったのにねー」

 隣の子が気を利かせたつもりなのだろう、こっそり耳打ちしてくれる。でも、それも私にとってはただの有り難迷惑でしかなかった。まあ、仕方ないよね。だって、私の気持ちなんて彼や彼女はもちろん、この会場にいる十数人の仲間で知ってる人間はいないもの。

 けど……そんな素振り、全然なかったじゃない。最後に連絡を取り合ったのは今日のことを確認したほんの三日前。そのときだって、普通の受け答えだったはず。

「意外な組み合わせだけど、こうやって見るとしっくりくるかなーっ。カンナって意外としっかりしてるみたいだよ、アツシもすっかり頼り切ってる感じ」

 こみ上げてくる吐き気を必死で堪える。幸せに包まれたさざめき、でもその中に身を置くことは今の私にとっては拷問の他の何者でもなかった。

 

 手にしたグラスが、思いの外軽い。気が付くと、またチューハイを空けていた。丁度脇を通りかかった店員にお代わりを告げる。メニューを開いてレモンハイを選ぶとふっと溜息が漏れた。

「もう5杯目だろ? そろそろ止めといた方がいいんじゃないか」

 今の今までその存在すら忘れていた人が、目の前で笑ってる。

 ふわっと一瞬飛びそうになった意識、でもどうにか持ちこたえた。まあ……これじゃあ言われることももっともだな。これでお終いにしようかな?運ばれてきたグラスを見たときにはそう思う。でもグラスになみなみと注がれているそれも、氷の分を除けばいくらも量がないんだな。

「そういうあんただって、そうとう過ごしてると思うわ。そういう安酒が一番回るんだからね、自分こそ気をつけなよ?」

 ふうん、大人しそうな顔をして結構言うのね。

 ひんやりとした一口を口に含むときが一番楽しい。何というか、この頃では何をしても面白くなくて。全て全てが自分にとってマイナスの力に働いているような気がしてくるのよね。仕事も対人関係もとにかく上手くいかなくて、こうしてアルコールの力で憂さ晴らしでもしなくっちゃとてもやってられない感じ。

「そうだな、……気をつけるよ」

 そして、反応は「のれんに腕押し」。のらりくらりとして、つかみ所がない。きっとそう言うところが好かなかったんだろうな。同じゼミの仲間たちの中でも一番遠い存在だった。そんな奴と今、ふたりきりで飲んでるなんて不思議だよね。

 ずっと密かに憧れていたアツシ。でも想いを打ち明ける前に卒業になってしまって、そのあとはこちらから頻繁に連絡を取るようにして途切れないように頑張ってきた。
  同じ東京に住んでるんだもの、会う気になればいつでも会えると思っていたのにそうでもないのね。何となく探るんだけど「今は忙しくて」とかかわされてしまう。でも、そんなことにめげる私じゃなかった。

  ゼミ仲間でフリーなのは大体半数。仲間同士でくっつく連中もいたし、バイト先や高校時代から続いているとかいうパターンもあった。私自身も別に何が何でも仲間内でとかいう気持ちはなかったのね。ただ彼のことは何かと気になっていて、話してると面白いしお互い気が合うなと思ってたんだ。

 それが、……よりによって相手がカンナとはなー……。

 私、あの子は女子の中でもあんまり好きじゃなかった。何というか、そりが合わないって言うか……どこがどう気に入らないってのはなかったんだけど。やることなすこと鼻につくから、出来るだけ距離を置くようにしてた。人数が多めだとそう言うのが出来て気が楽。向こうも私の気持ちには気付いていなかったと思う。

 あの日の宴会。クサクサして一次会だけで抜け出したら、あとからコイツがくっついてきた。鬱陶しいなと思ってたら「どこかで飲み直そうよ?」とか誘って来るじゃない。どういうことかと思ったら、席に着くなり言われたわ。おしぼりも開く前にね。

「智さんって、アツシのことが好きだったんでしょ? 今夜はすごい顔してたもんね」

 あっぱれという他がないほどに単刀直入。開いた口がふさがらないままの私に、彼はさらに「まあ、気持ちは分かるよ」って付け足した。

「昌樹なんかに何が分かるのよ?」

 とにかくやさぐれてたこともあり、どうでもいい相手に対して思いっきり毒まいてみた。それなのに、奴と来たら静かに笑うだけ。やがて運ばれてきたビールのジョッキをこちらに軽くかざすと、そのまま半分くらい一気に飲み干す。

「分かるよ、そりゃあ――」

 言葉の続きは言わずに、またふふっと笑う。嫌だな、コイツ。どうしてはっきりものを言わないの。それがカッコイイとか思ってるのかも知れないけど、うざいったらありゃしないわ。

 怒りにまかせて私も彼と同じ大きさのジョッキをぐーっとあおる。別に競争しているわけではなかったけど、どうにか同じくらいの量を胃に流し込むことに成功した。

「……もしかして?」

 蜂蜜色の液体越しに見た眼差しに、ハッとする。この瞳ってどこかで見たことがあるよ? うん、……そう。さっき洗面所の鏡で見た自分の目と同じ。

「まあ、そういうこと」

 その瞬間、どうして奴が私を誘ったのかが分かった。

「……ふうん」

 やっぱり、コイツってよく分からないなと思った。だって、私が何となく好かない相手だと思ってたカンナのことを好きだったなんて、理解できるわけがない。ま、それは個人の好みの問題だしね、私がとやかくいうこともないか。

「じゃあ、乾杯しなくちゃね。同類として」

 ―― 私たちの、失恋に乾杯。

 キンとぶつかり合ったのは、中途半端に飲み干された無様なジョッキだった。

 

 それから、私の日常が少しだけ様変わりした。と言っても、他人目には分からないような些細なこと。今までアツシに送っていた定期的なメールや電話を、そのまんま昌樹に回すことになっただけだから。

『その後、どう?』

 気のない相手への連絡だから、言葉遣いもつっけんどん。一行にも満たないショートメールに、意外なほど早く返信が戻ってきた。

『まあ、ぼちぼち』

 あんまりにも短い言葉に、思わず苦笑い。そんな風に一日に数回繰り返しているうちに、何となく彼の方から話が出た。

『また、飲もうよ?』

 だけど、直接顔を合わせたからって、特に何か話がある訳じゃない。ひとりでもふたりでも構わないような感じで黙々とグラスを空けて料理をつつく。ただ、目の前に相手がいると言うだけでひとりきりのときよりもお酒が美味しく感じる。この頃では簡単に酔いが回るようにと強めのものばかりを手にしていたから、この方が健康的でいいかなと思った。
  十日に一度くらい、どちらからともなく誘いあってゴミゴミした居酒屋に向かう。そんなパターンが定番だった。

 学生時代のこと、今の仕事のこと。それから、たまにふたりが出会う前の過去のこと。

 ぽろんぽろんと、こぼれる言葉たち。それが何の意味もなくても、それはそれで構わなかった。早く心の傷を癒したい。互いに壊れた恋から立ち直って、前を向いて歩き出すために。

 

 三月ほどして、結婚式の案内状が届いた。

「その他大勢」の私たちは、二次会に招かれている。以前の私だったらそんな場所に出たくもなかったし、実際何かと理由を付けて断っていたと思う。

 でも、……とても不思議なんだけど。恥ずかしいくらいピンク色に染め上げられたハガキを手にしたときに、私の口からは自然と「おめでとう」って言葉がこぼれた。それがとても嬉しかった。

 どんな服を着ていこうかな、そんなことを考え始めたときにメールが届く。

『今夜、空いてる?』

 すぐに「もちろんいいよ」って返信した。

 

「ハガキ、届いた?」

 昌樹にもでしょ? って聞いたら、うんって頷く。

「今日は一日中ウキウキしてた。何着ていこうかなとか、そんなことばっか考えてたよ。昌樹は? どうせなら、ふたりで思い切り決めてみない? 主役を食っちゃうのも面白そう」

 自分では名案だと思ったのに、なかなか返事がない。ちょっと悪ふざけが過ぎたかな……と振り向くと、彼は普段通りに微笑んでた。
  最初のうちこそはこの心の見えない表情が苦手だったけど、今は平気。おっとりと全てを柔らかく受け止めてくれる彼のことを、私は信頼しきってた。もうちょっと、早く気付けば良かったのにね。なんか口惜しいな。

「……良かった、間に合って」

 だけど。彼の口から次にこぼれたひと言は、私の想像もしなかったものだった。

「間に合って、って? どういうこと、結婚式に間に合ったってこと?」

 彼はううん、と静かに首を振る。

「俺、出られないんだ。当日はもう、こっちにいないから」

 驚く私に彼はゆっくりと話を続ける。抑揚のない声で、淡々と。

「智さんが吹っ切れたなら、それで良かった。当日、智さんの晴れ姿が見られないのは残念だけど、俺の分まで頑張って」

 ……え、嘘。

昌樹は研究室勤めで、しょっちゅうあちこち地方に飛ばされるって聞いてた。長期の出張も少なくないってことだったから、今回もそういうのかなって。そしたら「違うよ」って言われてしまう。

「最後に智さんの幸せそうな顔が見られたから、もう十分なんだ。落ち込んでいるのを見ているのは辛かったから。本当に安心したよ、良かった」

 喉まで出かかった言葉が、そこで止まる。まさか、……でも。

「ねえ、昌樹」

 かすれる声、どんな風に切り出したらいいのかが分からない。

「昌樹って、……カンナのことが好きだったんだよね?」

 彼は、私の質問に最後まで答えてくれなかった。

 

日本語と英語、そして時に聞き取れない別の言語。柔らかい声のアナウンスが頭上を通り過ぎていく。

 慣れない空港ですっかり道に迷ってしまった私がようやくその場所にたどり着いたとき、すでに搭乗の手続きが始まっていた。職場関係の人たちなのだろうか、数名の人に見送られながら彼が列に並ぼうとしている。もう駄目かと思ったそのとき、空間を泳いだ彼の視線が私に届いた。

「……智さん……!?」

 キャリーケースを残して、こちらに駆け寄ってくる彼にどうにか伝えたくて。私は必死に呼吸を整えようとした。でも、すっかり慌ててしまった頭ではうまく言葉がまとまらない。開きかける口元も不格好なかたちで固まるばかりだ。

「どうしたの、驚いた。まさか、来てくれるなんて思わなかったのに」

 心を隠した表情、気持ちの揺れが見えない瞳。だから何を考えているのかが分からなくて、何となく遠い人のような気がしていた。

 でも、違うよね。本当はそれだけじゃないよね。

 私の気持ちが穏やかな凪に戻るまで、ずっとそばにいてくれた。誰よりも私の気持ちに寄り添って、そのときを待っていてくれたんだね。そうだよ、そんな昌樹に支えられて私は立ち直ることが出来たんだ。

「今度は後悔をしたくなかったの」

 言葉を伝えるのはまだ怖い。でも、言わなくちゃ伝わらない。何も始まらない。

「夏休みには会いに行ってもいいよね? 駄目って言われても、きっと無理だよ」

 

 彼は静かに頷くと、私をぎゅっと抱きしめてくれた。大きな硝子窓の向こう、次々に白い翼が飛び立っていく。風を切り裂く響きが、いつの間にか彼の鼓動と重なる。

 その瞬間、私の心も大空へと羽ばたいていた。

おしまい (070205) 

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お題提供◇ありあ様
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むー。楽勝かに見えて、かなり難航してしまいました。
書きかけのボツ原稿のフォルダを作ったのは、今回の企画で初めての経験です。
ふたつ「駄目だ」と諦めて、三度目の正直でこんなネタを出してきました。

傷ついてしまった心を癒せるのは「時間」と「自分」しかないと思います。
でもちょっとだけ後押しをしてくれる存在があると有り難いですね。ちょっとだけ、でいいから。