◆ 32.薄化粧
「ちゆ、これ使って」 男にしておくのはもったいないほど、すらりとかたち良くて長い指。彼は自分のマフラーを外すと、すぐ前を歩いていた友人に差し出した。 「えー、いいよーっ。そんなことしたら、タクミくんの方が寒くなっちゃうでしょ。私は頑丈に出来てるから、これくらい何でもないよ?」 長めのマフラーは彼女の肩からこぼれ落ちそうなボリューム。恥ずかしそうに頬を赤らめながら、一度は掛けられたそれを外して突き返す。そう言えば彼女、真冬用のコートをクリーニングに出してしまったと言ってたっけ。さすがに薄手の装いでは今日の寒さは堪えそうだ。 「何言ってるんだよ、人の好意を無にするんじゃない。それに、その髪は何だよ? また、シャンプーのあとにきちんと乾かさなかったんだろ。ちゆはプロでも扱いにくいほどの猫っ毛なんだから、人一倍気を遣わなくちゃ駄目なのに、いくら言ってもこれじゃあなあ……」 10人ほどの仲間で、初めての住宅地を歩いていた。毎日のように見ている顔もあれば、久しぶりの顔もある。みんな中学の頃のクラスメイト、そのときにお世話になった担任の先生がこのお正月に出産された。そこで皆で誘い合わせてお祝いに行こうと話がまとまったのである。 「そんなこと、言ったって。まとまらないものはまとまらないの。シャンプーだって、色々変えてみたんだよ? だけど、やっぱりTVのコマーシャルみたいにサラサラ〜ってならないもの」 皆の中でもひときわ小柄で、集団で歩くとそこだけ穴ぼこが開いているみたいに見えてしまう彼女。やっぱり返すよとマフラーを彼の首に巻く。背伸びして、本当にギリギリの感じで。 「うーん、それは確かに一理あるな。本当にちゆの髪はくせ者だからなー、だろ? 瑞穂もそう思うよな?」 今までずっと、彼は私に背中を向けていた。ううん、正確には彼女ひとりだけを見ていた。その姿を、少し下がった場所からずっと見つめてた私。急に話を振られて、心臓が跳ね上がる。 「そ、……そうだよね。うーん、巧が綺麗に整えてあげたあとは本当に素敵なのにね」 「もう、瑞穂ちゃんまでそんなこと言って」と彼女はむくれてるけど、彼の方は満面の微笑み。そうよ、その笑顔を見るためにわざわざ言葉を選んだの。 「ちゆの髪を自在に扱えるようになったら、巷で噂のカリスマになれるかな? そしたら都会の一等地にバーンと店を構えることが出来るだろうな」 その言葉には首をすくめるジェスチャーだけで答えた。何というか、いつもそうなんだな。こんな風に夢見がちに将来を語る彼が眩しくて危なっかしくて仕方ない。 仲間たちのさざめきに紛れてふっとこぼした溜息、きっと彼には届かない。それでいい、そのまま何も気付かないでいてくれれば。
くせ毛で、しっかりした髪質。適当にカットしてもそれっぽい仕上がりになる私は、彼にとって最高の「実験台」だった。 「ほら、頼まれてた本も持ってきた。これで良かったかな?」 サンキューと嬉しそうに受け取るのは、先月発売のファッション誌。私の姉やその友達が購入していらなくなったものをそのまま横流し、別に私の懐も痛まない。ちょっと重くてかさばるくらいかな? 「やっぱ、この業界流行には敏感じゃなくちゃな。だけど野郎の部屋にこんなのあったら、親が卒倒するだろうしなあ……何かこの頃ヤケにうっさくてさ、何かと干渉してくるから面倒だよ」 そう言いながら、手慣れた手つきでハサミを使う。ドライヤーもシャンプー台もなくて、本当にカットするだけ。それなのに彼にお願いしたときは、地元の美容院よりずっとずっと格好良く決まるんだ。いつの間にそんな才能に気付いたのかは知らない。ただ、私が一番最初のカット・モデルだったことだけは確か。それから何度世話になってるか、今ではもう数えるのも億劫になってる。 「干渉って……そりゃ、当然でしょ? そろそろ進路のことだって決定しなくちゃならないんだから。あんたのところは普通の家じゃないんだし、親を説得するなら遊び半分じゃ無理だと思うよ?」 巧の家は、街でも一位二位を争う名家。地元でその名を知らない者はないと言われている。政界にも広く顔を利かせているから、田舎ではことあるごとに「あそこの息子さんか」と囁かれる始末。ちょっとした有名人で、その分とてもやりにくいとか言ってた。お祖父さんは県議をすでに何期も務めている。 「えー、でも何を言われてもやりたくないことは無理だから。だって瑞穂だって思うだろ、俺が政治家の顔してると思うか? じいさんも親父も分かってないよな。大勢の人間を動かす立場にあるんなら、もうちょっと人を見ろって言うんだよ」 口ではそんなことを言ってるけど、今だってこの辺で一番の進学校に通ってる。成績もなかなかみたい。そうだよね、私なんて必死の思いで受かったのに彼の方はいつ勉強してたのか分からないくらいだったもの。中学の仲間でそこに進学したのは三人だけ。もうひとりは言わずと知れた彼女だ。 「ほら、終了。上手いもんだろ? ……とは言っても、瑞穂じゃ失敗のしようがないけどな。毎度こんなに簡単に金が取れたら楽だろうけど、中には手強いのもいるからな」 ―― それって、ちゆのことでしょ? 彼がその言葉を待ってることを知りながら、あえて知らんぷりをした。デリカシーがないにもほどがある、どうしていつまでもこんな風なんだろ。知ってるよ、巧が中学の頃に彼女に告白して振られたこと。はっきり断られたのに未だにあんな風なんだから嫌になる。諦めの悪い男って、本当に最低。その馬鹿っぷりが情けない限りだわ。 「……とと、ヤバイ。そろそろ、バイトの時間だ。んじゃ、またな。ありがとよ、瑞穂」 私が差し出した二千円をもぎ取って、彼はぺこりと頭を下げる。ハサミやらカバーやら入った荷物を重そうに抱えて去っていく背中、向こうの角を曲がって見えなくなるまで見送っていた。
女々しい男だとばっさり切り捨てることが出来れば良かったのに。 ただ馴れ合いで隣にいるだけの関係に満足して、どうしても踏ん切りが付かなかった。探すのはいつでも彼の背中だけ、その視線は必ず彼女を追っている。決して私に向けられることはない甘い眼差し、分かっているのに吹っ切れない。 「……さ、出来たわよ? うんうん、とっても似合ってる。振り返って自分でも見てご覧?」 ぎゅっときつく帯を締められて、それだけで窒息しそう。こんなで何時間も保つのかしらと不安になりながら振り向くと、姿見の向こうには姉の浴衣を着た私が呆然と立っていた。 「じゃ、今度はその顔をどうにかしましょ。大人っぽい柄なんだから、少しは華やかにしないと負けちゃうわ。何言ってるの、イマドキの高校生は私服になれば皆ばっちりメイクしてるでしょ?」 一度はいいよと断ったけど、結局は姉の強引さに負けてしまった。お店の仕事を途中で抜けてきてくれた彼女は、さっぱりとした紫の着物姿。私の家は駅前で和菓子屋を営んでる。ふたり姉妹で姉はすでにあとを継ぐことに決まっていた。もうじき、若手では一番の職人さんとの結納が控えている。 「いいなー、夏祭り。そう言えば、もう何年も行ってないわ。瑞穂も来年は受験でしょ? 今年が遊び納めかも知れないから楽しんでいらっしゃい」 ぱたぱたとファンデーションをはたきながら、姉の口調はどこまでも明るい。でも私は知っていた、彼女の胸には未だに残る傷があることを。家業を継ぐことを決めて、姉は何年も付き合った恋人と別れた。それが当然であることかのように。 冬は真っ白な雪に閉ざされる片田舎の小さな街、白い息が凍える如く皆が伝えられない心を抱いている。巧の夢が壊れてしまう最後のときまで、彼の背中をしっかりと見守っていよう。振り向いてもらえなくても構わない、最後のその瞬間まで見届けることが出来たならそれでいい。 待ち合わせはいつものメンバー。そこにいるはずのふたりの顔が見当たらなかった。こちらが訊ねる前に、友達のひとりが教えてくれる。 「ちゆは急に用事が入ったって言ってた、親戚の手伝いを頼まれたんだって。相変わらず律儀だよねーそんなの上手い理由を付けて断っちゃえばいいのにさ」 思わずホッと胸をなで下ろしていた自分が恨めしい。こんな風に引け目を感じることもないのに、どうしても彼女の前では卑屈になってしまう。 「今回は親父さんが同席してるらしいよ、今頃必死に説得されてるんじゃないかなあ……」 仲間内の誰もが、巧と彼の家の内情を知っていた。時期が来れば巧自身も自分の夢を諦めるのだろうと誰もが推測している。分かっていても、余計な口を利くことはなかった。夢を捨てるのは彼自身、こちらが口出しをすることじゃない。 「今の成績なら、地元の国立に余裕で行けると言われてるんですよ」 いつだったか店を訪れた巧のお母さんが、うちの母親にそう告げたという。彼がひとりで足掻いたところで、その行く末は最初から決まっている。ひどく反発してやり合ったところで、どうなることもないだろう。 「いっそのこと、巧は弁護士にでもなればいいんじゃないか? ああいうお偉いさんはやたらときな臭いしな、鬼に金棒とはこのことだ」 仲間のひとりがそう言えば、他の誰かが笑い声で同意する。雪深い里では仕事と言えば家業を継ぐか、さもなくば公務員くらいしか口がない。あぶれた人間は、都会に出て行くしかないのだ。最初から進路が決まってると言うことは、煩わしくもあるが幸せなことでもあると思う。少なくても相応の「安定」は手にはいるのだから。 「……お、未来の弁護士先生のご到着だ」 誰かの気付いた声に振り向くと、向こうからラフな装いの巧がぷらぷら歩いてくるところだった。さすがに制服のままでは格好が付かないと思ったのだろう。とりあえず着替えてきた感じだ。 ぞろぞろと歩き始めた一団に、少し遅れて彼が追いつく。皆に軽く声をかけて詫びながらも、その表情は明るかった。話し合いは上手くいったのだろうか、気には掛かるがどうしても訊ねることが出来ない。はき慣れない草履に足を取られて、何度も転びそうになった。 「ちゆは、来られなくなったんだって」 しばらくはそのまま流れに乗って歩いていたけど、とうとう堪えきれなくなって口を開いていた。後ろから見ていれば全てが分かる。きょろきょろと辺りを見渡すその仕草、紛れもなく巧の眼差しはただひとりの姿を探してる。 「……え?」 しまった、と思ったときはもう遅かった。振り向いた彼の瞳が色を変える。ああ嫌だ、すぐにでもこの場から逃げ出してしまいたい。でも仲間たちの手前、そんな風にするのも不自然だと思う。 そのまま何事もなかったかのように再び背中を向けられて、一気に脱力する。初めての口紅の香りが鼻を突き、たまらなく違和感を覚えた。こんな風に着飾って、一体私はどうするつもりだったのだろう。少しばかり浮かれていた自分が急に恥ずかしくなって、それきり顔を上げることも出来なくなってしまった。 やがて境内の入り口まで来て、しばらく女子と男子を別々に行動しようということになる。女子グループの方へ行こうと脇を通り過ぎたとき、その日最初で最後の私に向けられた彼の声を聞いた。 「ただ塗りたくりゃいいってもんじゃないだろ? ……全然似合ってねーよ」 振り向くことは出来なかった、ただ唇を強く噛みしめて気持ちが崩れるのを必死で堪えていた。
ちゆになりたい、いつもそう思っていた。 白いモチモチの肌、柔らかい茶色の髪。扱いにくくたって構わない、愛おしげに巧が見つめる全てを自分のものにしたかった。だけど、何をしても駄目。その辺にある石ころみたいに頑丈で見栄えのしない私、彼が振り向いてくれないのは当然だった。 いっそのこと、諦めてしまえればいいのに。 幾度となく思い切ろうとして、だけどどうしても叶わないまま過ごしてしまった。でも、もういいよね。これ以上、自分が惨めになることはないと思う。巧にだけ縛られていた心を解放しよう、ちゆにだって他の女子にだって夢中になってくれて構わない。 仲間よりも少し早めに切り上げて、真っ直ぐに家に戻った。店はのれんを下ろしたあとも、深夜まで明日の仕込みで忙しい。両親も姉もいない無人の母屋に上がり、乱暴に浴衣を脱ぎ捨てた。普段着に着替えたあとに、今度は洗面所で念入りに顔を洗う。姉がいつも使っているクレンジング・クリーム、油性のねっとりした匂いが胸に詰まった。 ―― もう嫌だ、こんな自分は大嫌いだ。 巧への特別な気持ちは誰にも気付かれないようにしていた。でも、彼がちゆに交際を断られたと聞いたときに「もしかしたら」と不安が頭を過ぎったのも事実。彼女は私の想いを知っていて、それで身を引いたのではないだろうか。ちゆはとても優しい性格だ、友達の意中の相手を横取りするようなずる賢さは持ち合わせていない。もしも自分自身に淡い恋心があったとしても簡単にそれを飲み込んでしまうだろう。 いつになったら、巧の気持ちは彼女からシフトするのか。そのときをただひたすらに待ち続けるのは辛かった。いつまでも頑張ったところで、自分に幸運が訪れる保証はどこにもない。 部屋に戻って、ベッドに顔を押しつけて泣いた。誰もいない家なのだから、大声を出してしまえばいいのに。それすらも出来ない私はどこまで馬鹿らしいプライドのかたまりなのか。人並みにメイクして背伸びしてみたところで、巧に気に入られないのなら仕方ない。もう二度と、こんな風に情けない想いをするのは嫌だ。彼が私の視界から永遠に消えてしまえばいいのに。 どれくらいそうしていたのだろう。気が付けば、網戸にしたままの窓から夜風が流れ込んできていた。とっぷり暮れた風景、今も遠く近く祭り囃子が続いている。 ……こつん。 アルミサッシに何かが当たった気がした。気のせいかなと一度は思ったけど、ぱらりぱらりと音が続いていく。こんなに月の綺麗な夜に、雨が落ちてくるわけもないのに。不思議に思いながらも身を起こすと、ベランダに小さくてキラキラしたものがいくつも転がっているのを見つけた。 「……?」 がらりと網戸を開けて、それを確かめる。それはひとつひとつビニールに包まれた飴玉だった。 「瑞穂」 赤い一粒をつまみ上げたときに、名前を呼ばれた。手すりに乗り出して下を見る。薄闇に包まれた道ばたに、巧がひとりで立っていた。
「悪いな、いきなり」 昼間会ったときと同じ格好、泥だらけのスニーカーを脱いで彼は足の裏を確かめた。突然「上がらせてくれ」と言われたときは驚いたけど、幸い家には誰もいないし。とりあえずと客間に招き入れて麦茶を用意した。 「今、……メイク道具ってすぐ出るのか?」 目の前に置かれた麦茶に口を付ける暇もなく、彼はさらに信じられない言葉を発する。その意図を探ることすら忘れて小さく頷くと、そこでようやくホッと表情を崩した。座敷の鏡台には、姉が普段使っているメイクのあれこれが入っている。それをひとつひとつテーブルに並べていくのを、巧はいちいち感心しながら見入っていた。 「そんなに本格的なものはないと思うよ、お姉ちゃんはいつも控えめだし。和菓子屋の店員がそんなに派手にしてたら変だって言ってるもん」 どうして急にこんなの見たいと思ったんだろ。昼間のことを引きずって、聞きたくても切り出せない。私だってこっち方面にあんまり詳しい訳じゃないし、どうやって使うのか正直よく分からないのもある。それでも色とりどりのメイク道具には憧れにも似た想いを抱いてしまう。少しでも綺麗になりたいっていう女の子の夢がいっぱいに詰まってる気がしてくるんだ。 「ちょっと、試してみていいかな?」 最初は巧が自分自身の顔にメイクしたいのかなと思ってしまった。それくらい突拍子のない言葉だったから。少ししてからようやく気付く。そうか、いつもと同じで私に「実験台」になれと言ってるのか。でも……それって、あまりにデリカシーなさ過ぎじゃない? あんなにはっきり「似合ってない」とか言ってたのに、どういうことなの。 それなのに、やっぱり断り切れない私。ヘアバンドで髪を上げるともう一度洗面所で顔を洗って、化粧水やら乳液やら一通りの基礎化粧を終えた。その間、巧は道具を前に何かブツブツ言ってる。端から見てかなり不思議な光景だった。 「痛かったりしたら、言ってくれ。こんなの初めてだし、正直よく分からないから」 彼の顔がすぐ近くまで来て、もうこれ以上は目を開けていられなかった。息づかいとか、そういうのまでがダイレクトに伝わってくる。ふうっと吐息が頬に鼻先に掛かって、びくびくっとするのを押さえるのに必死だった。一体今、自分の顔がどんな風になっているのか全く分からない。沈黙の時間は、すごくすごく長いようにもほんの一瞬のようにも思えた。 ―― 諦めるって、決めたのに。 優しく頬をかすめる指先、遠く近く感じる体温。そしてほのかな彼の香り。変わらずに全部が好きだ。私だけの髪をいじってくれとは言わない、私だけのものになってくれとは言わない。だけど、……こんな風にいつもそばにいられたら。それだけで、そのことだけで、私はとても幸せなんだ。 「さ、これでいいかな?」 魔法が解けるように、目を開けていた。彼は少し離れた場所から、私のことをじっと見守ってる。ひとつの仕事を立派にやり終えたときの誇らしげな表情。「鏡を見てみろ」って、顎で私を促す。 「……あ」 何かを言おうとして開きかけた口元が、半開きのままで硬直する。そこには見たこともない綺麗な人が映っている、最初は本気でそう思った。何度か瞬きをして鏡の中にいる人がぴったり同じ仕草をするのを確かめていくうちに、ようやくそれが自分自身の顔であると言うことを半信半疑のままで受け止める。昼間の姉の手によるごくごく普通のメイク顔とは全く違う、内面から輝くような美しさがそこにあった。 「言っただろ、ただ塗りたくるばかりじゃ駄目だって。そもそも人間の顔ってのは平面じゃなくて立体なんだからな、それを頭に入れて掛からなくちゃ。『いかにも塗り込みました』って感じじゃ芸がないよ、素材を上手に生かさないよね」 未だに自分の変身を信じ切れない私に、巧は自慢げに説明してくれる。ホント、どこをどういじったのかもよく分からない感じ。もともとの素顔のまんまだと言ったら、信じてしまう人もいそうよ。こんな風に……どこまでも自然に、だけどここまで変えることが出来るんだ。今日は髪がぼさぼさだけど、そこまで完璧にセットすれば、私は全くの別人に生まれ変われてしまうかも。 「んじゃ、そろそろ行くわ」 あと片付けもそこそこに、彼は席を立つ。氷の溶けてしまった麦茶をもう一度いれなおそうかという私の提案に首を横に振って、あっという間に玄関に降り立った。 「俺、かなり自信がついた。これでやって行けそうな気がする。……ありがとな」 普段通りの別れ言葉。また明日、当たり前に出会えるのだと疑いもしなかった。だけど、彼はそれきり私の前からも仲間たちの前からも姿を消してしまう。夏休みを終えて新学期が訪れても、巧は高校に戻ってこなかった。
ほんのりとミルク色に染まる視界。けだるさに覆われたままの瞼は重く、なかなかしっかりと開くことが出来ない。ことことと、遠く近く続いていた物音が不意に途切れる。それを確認したのもやはり聴覚だけだった。 「……瑞穂?」 静かに耳元で囁かれる。甘い吐息が耳たぶに掛かるそのくすぐったさに、ようやく身体が目覚め始めた。ぼんやりと目を開けると、そこには見慣れた笑顔。 「そろそろ時間だから行くよ? ああ、こんな早朝も久しぶりだな。まさかこんな風に駆り出されるとは思ってなかったから、参るよ。昨日の晩だって、あれこれ考えがまとまらなくて結局夜更かししてしまったし……」 そこまでしゃべったところで、大あくび。そのあと眠気を振り払うように、大きくかぶりを振った。 「さー、ちゆの我が儘おーじ様にご対面と行こうか。全くなー、金持ちはこれだから困るよ。人をなんだと思っているのやら」 よいしょとかけ声と共に立ち上がったその肩には大きなメイク・ボックス。それだけでは入りきらない荷物が両手の紙袋に詰まっている。 「お祝いパーティーは11時開始だって、遅れないで来いよ?」 広い背中、あの頃は側にあってもそれは遠い存在だった。私は両脇の子供たちを起こさないように気をつけながらベッドを抜け出す。そして玄関先で靴を引っかけてる彼に後ろからそっと抱きついた。 「……うわっ!」 かなりの不意打ちだったのだろう、肩が大きく揺れてボックスの紐が滑り落ちそうになる。かろうじてそれを留めたため、彼は中途半端な姿勢で足を踏ん張る羽目になった。 「な、何するんだよ! 危ないってば……」 言葉では面倒くさそうにしながらも、振り払われる気配はない。それが嬉しくてならない、今でも自分の置かれたこのポジションがたまに信じられなくなる。 私の願った未来、そして彼の願った未来。そのふたつは取り出して比べることも出来ないけれど、やっぱり別々だと思う。それなのに、こうしてふたりが一緒にいるなんて。何だか不思議すぎる。 「だって、いかにも働く男って感じで格好いいんだもん。今朝の巧には、改めて惚れ直したって感じかな?」 そりゃそうだよね、と思う。今日はちゆの結婚式。彼はそのメイク全てを担当するために夜明け前の早朝から呼び出されているんだ。相手が相手だけに意気込みが違うのも当然、やる気満々な気持ちが全身にみなぎってる。 「……馬鹿言え」 ふふ、照れてる。いつも強気発言ばっかりでこっちがハラハラするくらいなのに、時折見せるこんなシャイな表情がいいなと思う。彼はゆっくりと私の腕をほどくとこちらに向き直り、寝起きのままの私の額を指で軽く弾いた。見上げると、そこにあるのは大好きな満面の微笑み。 「愛する家族を守るために戦いに出る男の背中だぞ、格好良くなくてどうするんだ?」 仲間の誰にも行き先を告げず、旅立ってしまった巧。八方手を尽くしてようやく探し当てたそこは、今にも崩れそうに老朽化した下町の下宿屋だった。 「……何で……」 天井に頭が届きそうな狭い部屋で、私を出迎えたときの驚いた顔は今でも忘れられない。追い返されても当然だと覚悟していたのに、信じられないことに彼は私を受け入れてくれた。 あのときからずっと、私たちは共に歩き続けている。彼の一番大切な人にはなれなくていい、ただ一番近くにいられる自分でありたい。そう思うことが出来るようになった時から、私の中に迷いがなくなった。誰かと自分を比べたりそれによって悲しんだり苦しんだりすることはもう必要ない。 世界にふたつとない魔法の手、一流マジシャンの術に一番先に囚われてしまった私。だからきっと一生この夢から覚めないままで暮らすことが許される。 ―― そう。 おわり (061230)
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お題提供◇恵奈様(サイト・PRECIOUS TIME) ----------------- お知らせメールをいただいた際に、強引にお願いして頂いたお題です(笑) ほんのり大人の香りのする素敵な言葉にドキドキしつつ、今回は並木続編「11番目の夢」から脇役のふたりを呼んできました。千雪のヘアメイクをしてくれた彼とその彼女です。現在のふたりのことは本編の中に少し書きましたので今回は割愛。過去の切ない部分をクローズアップしてみました。如何でしたでしょうか? 宜しかったら、本編とご一緒にお楽しみくださいませ。 |