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31.暗号


「僕と付き合ってみない?」

 昼下がりのオープン・テラス。いきなり切り出されて、すぐには反応できなかった。

 ホント、何の前置きもなく突然なんだもの。それっぽい素振りとか思わせぶりな言葉とか、「もしかして?」って思う要素も今の今まで全然なかったし。

「え、ええと……」

 白いカップに入ったコーヒー、こぼさずにすんで良かった。震える指先でどうにかソーサーに戻すと同時に肘にかさりと無機質な感触。それは先ほどの取引先で渡された資料、出先でちょうどお昼時になったから勧められるままに一緒に食事をしただけだ。

「それって、一体どういう意味でしょうか?」

 ようやく体勢を立て直して、テーブル越しに目の前の「彼」を見る。柔らかい笑顔に昼下がりの木漏れ日が落ちて、いつもよりもさらに甘い表情に感じられた。
  ビジネスにおいてはどんな状況にも素早く的確に対処する「デキル」人なのに、部下へのフォローも忘れずに時には軽い冗句で和ませてくれる頼もしさもしっかり持ち合わせてる。春の異動で彼が本社にやって来てから早3ヶ月。社内での評価も日を追うごとにうなぎ登り。何処へ行っても、その噂を聞かない日はない。

「嫌だなあ、そんな風に無粋に聞き返さないで欲しいな。答えはイエスかノーか、即答で大丈夫だよね? ううん、このまま否定の言葉が出ないなら、同意と受け取ってしまおうか」

 すごい、こんな風にストレートに言われるのはさすがに初めて。やっぱり「選ばれた」人って、どこか突き抜けてるのね。もうまともに顔なんて見ていられない、斜めストライプのネクタイばかりに視線を合わせてしまう。

  そりゃあね、ちっちゃな子供からお年寄りまで誰もが大手企業と認める滝川商事本社のこれまた「花の秘書課」に配属されたんだもの。いつかはこんな日が来るんじゃないかと夢見てた。でも同期のみんなにどんどん春が来るのに、気付けば私だけがひとり取り残されて。この頃ではすっかりいじけて諦めの境地に入ろうとしてたのよね。
  何よー、お見合いで釣書に職歴を書けばそれだけで引く手あまたとか聞いてたんだけど。大手テレビ局の女子アナにはさすがに負けるけど、それなりの倍率を勝ち進んで手にした内定だよ? 見た目は普通に見える同僚もおのおのが「何とか師範」の看板を持ってる子ばかりだ。いや、そう言われると私は全くの常人だけど。どうして自分なんかがコネもなしに受かったのか、今でもとっても謎なのよね。

「うわー、早まったかなあ……」 

 目の前の「彼」、下津祐一朗氏が初めて私たちのフロアにやって来た日。隣のデスクに座っている同期の亜弓がぽつっとこぼしてた。
  そんな彼女は先日人事課の沢野主任と正式に結納を終えたばかり。学生時代はラグビー部の主将だった彼はスポーツ万能で、本社でも一位二位を争うスピード出世を果たしている。もちろんルックスだって、ばっちりクリアだ。そんなすごい人と天秤に掛けても傾いちゃうくらい、「特別」なものを感じたってことなのかな。

「ただ、ひとつだけ『条件』があるんだけどね」

 私の返事も聞かないで、彼はさっさと席を立つ。ふたり分の伝票をさりげなく手にして、ぱぱっと会計を終えてしまった。スマートにカード払いとか領収証を切ってもらうとかそう言うのも一切なし。端数の小銭を数えつつ支払っている庶民的な姿が意外だった。自分の分をお返ししようと財布を開けた私を制して、彼は話を続ける。

「ふたりのことはあくまでも内密にしたいんだ、社外の友達とかにも絶対に話しちゃ駄目だよ。だから携帯とかメールとか分かりやすい連絡手段も一切使いたくない。そう言うことで、OK?」

 黄金色に染まった銀杏並木。ひらひらと黄色い葉が舞い落ちる遊歩道。財布の口を閉じるのも忘れて、私はぼんやりとその場に立ちつくしていた。

 

「おはよーございますっ!」

 朝の8時をちょっと回ったところ。始業は9時だし、全社でフレックス制も導入されてるからこの時間に出社する社員はほとんどいない。普段は人の出入りも激しくて、何となく落ち着かない雰囲気のある本社ビル。この時間帯はまだ建物も目覚めたばかりという感じだ。

「おはようございます、お嬢ちゃん。今日も早いねー」

 そう言いながら、ぱちぱちとハサミを使っているのは、顔なじみの清掃員さん。ううん、この人の本当の仕事がなんなのかは知らないんだけど。とりあえず、この時間は雨の降らない限りここで植え込みを刈っている。白髪で笑顔の素敵なお爺ちゃんだ。毎朝声を掛け合ううちに何となく意気投合して、今ではとっても仲良しなの。バレンタインにはチョコレートもプレゼントしたんだ。

「『お嬢ちゃん』じゃないの、崎川理恵。もう、何度言っても覚えてくれないんだから」

 年相応に物忘れはひどいようだけど、それはとにかく「植木職人」としての腕は確かだ。本社ビルは正面階段を上がった二階がエントランス。一階と地下は駐車場と倉庫になってる。白い煉瓦造りの真っ白な外階段の両脇にはもこもこの植え込みがあって、途中の踊り場には大きな花壇もあるの。季節ごとに花の苗を植え替えるのも、お爺ちゃんの役目だ。

「はい、いつものコーヒー。お砂糖とミルクもふたつずつもらってきましたよ」

 すまないねえと首のタオルで手を拭ってから、手渡される150円。駅の構内にあるコーヒースタンドのブレンドがお爺ちゃんのお気に入りだ。一度差し入れしたら、次からは毎朝お使いを頼まれるようになったのね。

「では一服するとするかな」

 お爺ちゃんは花壇の縁に腰掛けて、美味しそうにコーヒーをすする。幸せそうなその笑顔を見届けてから、私はまた階段を上り始めた。

 ―― と。

 視線の端、キラッと何かが光る。三階の一番突き当たりの窓、そこから定期的に何かが反射してるみたいだ。立ち止まって、その動きを目で追う。三回、一度休んで今度は二回。少し間を開けてから、もう一度同じコトが繰り返された。光っているのは手鏡だろうか、カーテンの向こうの人影がちらちら動く。でもその後、窓の向こうは静かになった。

快速で三駅、各駅に乗り換えて二駅かな……?

 記憶の糸をいくつもたぐり寄せながら、答えを探る。今日はお気に入りのブラウスを着てきて良かった。そう思いながら回転ドアをくぐり抜ける。最初はなかなかタイミングが掴めなくて大変だったここも、慣れれば何てことない。うん全てが一緒ね、慣れれば簡単。切り替えの早い自分を信じていないと、やり過ごせないこともある。

 

 新装開店したばかりのイベントホール。ショッピングモールから劇場・映画館まで、一カ所で色んな楽しみ方が味わえるようになっている。会社と提携している施設もいくつかあるから、割引チケットが使えたりするのもおいしい。今度友達とスパ施設に来ようって話してたんだ。

「良かった、間違えずに来られたね。しかも時間丁度、さすがだな」

 全面が鏡張りの壁の前に辿り着くと、すぐにそう声がした。振り向くまでもない、彼の姿は鏡にちゃんと映し出されてる。

「当然です、時間厳守はビジネスの基本でしょう? あまり早く着きすぎても、他に用事のない暇人だと思われて逆効果ですから」

 彼と付き合い始めてから、美容院に通う頻度が上がった。頭のてっぺんからつま先まで、いつも隙がないようにと気遣ってしまう。誘いも突然だし、同じフロアにいたらいつどこから見られているか分からない。その緊張感から、ほんのひと月で体重が3キロも減った。ウエストもワンサイズダウンして、これまた嬉しい誤算。

「……またまた、そんな言葉は理恵に似合わないよ。一生懸命背伸びしている姿も可愛いけどね、僕の前ではもっと素直になって欲しいな」

 そう言う彼の方は、もうすっかりシフトチェンジ。職場では絶対に見ることの出来ない笑顔で私の心を鷲づかみにしてしまう。本当にずるい人だ、きっちりとふんわりを上手に使い分けてる。

「今日はとびきりのディナーを用意したんだ、きっと気に入ってもらえると思うよ。さあこちらへどうぞ、お姫様」

 ノンストップのエレベーターで案内されたのは、最上階にある展望レストラン。いくつか用意されている個室のひとつに、すでにふたり分のグラスや食器が綺麗に並んでいた。

「ここのオーナーシェフがね、クリスマス用の特別メニューの試作中なんだって。いくつかの候補があって、絞り込みたいから是非女性側の意見が聞きたいそうだよ。やはりこういうイベントの主役は女の子だからね、僕としては理恵が一番適役だと思ったから誘ってみたんだ」

 グラスに満たされる、スパークリングのロゼワイン。どこまでも甘く、それでいて後味がすっきり。料理の味を邪魔しない心遣いも感じられる。

「そうですか、だったら頑張らなくちゃ。せっかく白羽の矢を立てて頂いたのだから、お役目をきちんとこなさないと申し訳ないわ」

 ホワイトソースがたっぷりのフレンチ、私が大好物だってちゃんと分かってくれてる。これがイタリアンだったら中華だったら、きっと誘ってもらえなかった。それくらい最初から了解済み、そうじゃなかったらこんな関係を続けられるわけもない。

「とっても美味しいです、目と舌で一緒にクリスマスを味わえるなんて最高ですね。ほら見て、ここからだと港の夜景がとっても近く感じられる。手を伸ばすと届きそうですよ」

 本当は彼が一緒にいれば、何でも美味しいし何でも綺麗だと思える。そしてまた、その逆もあり得るんだ。私だって表向きは全くのフリーだもの、他にも色々とお誘いは受けるんだよ? 出来だけやんごとない理由を付けて辞退するようにしているけど、取引先の方だったり上司の強い勧めがあったりだと無下に断るわけにもいかない。あまり頑なになって、彼との関係を疑われてもいけないしね。
  もちろん、そのことは彼にも筒抜け。分かっていて、それでも知らんぷりを決め込んでいるんだと思う。そうだよね、別に私が他の誰とどうしようと彼には関係ないんだもの。もしも私を自分ひとりのものにしたいと願うなら、こんな不確かなままで続けられるわけもない。

 彼じゃない笑顔、彼じゃない声、彼じゃない人との時間。比べるから、なお恋しくなる。ひとつ回り道をするたびに、やっぱりこの人だと確信する。

「すぐ下に部屋を取ってあるんだ。ここよりももっと港が綺麗に見えるそうだから、デザートはそっちで頂こうか?」

 私は絶対に断らない、そのことを彼は知っている。だから、いつも強気に全てを推し進めようとする。私の了解を得ることすら、すでに忘れてるみたいに。

 促されて席を立つ、操り人形みたいな自分の姿を磨かれた窓越しに見つめてた。

 

「ねえねえ、聞いた? ニュースよ、大ニュース!!」

 ここは女子校の教室ではない、だから耳元に囁かれた声も私にしか聞こえない小さなものだった。左手薬指にキラキラのエンゲージリングを着けた亜弓は、年末の寿退社に向けてカウントダウンになっている。挙式は来年の3月と言うけれど、それまではみっちり花嫁修業に励むんだって。

「営業部主任の三村さん、下津主任に猛アタックしてるみたいよ? 4階では有名な話みたい、何というか高嶺の花もとうとう堕ちたかって感じね〜!」

 イロコイの話も、亜弓にとってはすでに他人事。だから週刊誌の見出しをチェックするように、気軽に扱える話題なんだろう。そんな話題を続けつつも、手元は休みなくキーボードを叩いてる。ミスタイプが少なくて決められた枠に見栄え良くきっちり収めるのが彼女の得意技なのだ。

「……ふうん、そうなんだ」

 対する私は、分厚くまとめられた伝票をめくりながらテンキーを叩いていた。今日中に回されてきた全てを入力して、経理に回さなくちゃならない。月末は何処の部署もきりきり舞いだ。

「まあ、確かに絵になるわよねあのふたり。かの三村さんの長身でも、下津主任と並べばばっちりだもの。と言うか、あれくらいしっくりと来る相手を探す方が難しかったでしょうね。オヤジ・キラーもいよいよ年貢の納め時ってことかなあ……年齢は彼女の方がちょっと上だけど、イマドキ年下の男はトレンドだものねー」

 一度手元を止めて、ぎゅーっと胸を反らす。同じ体勢を続けていると、肩こりがひどくなるのね。職業病だと思うけど、あまりに耐えられなくなると湿布を貼ったりしなくちゃならないから大変。いくら無臭のものを選んでも、跡が付いたりするんだもの。どんなにお洒落に決めても脱いだら情けないものがある。

 ちらっと過ぎる視線の端、一番窓際の席の「話題の人」は縁なしの眼鏡で何かの書類をめくってる。私に会うときは外してるんだけど、何故か職場では眼鏡を手放さないのね。インテリ風に見えるのがいいのかなあ、よく分からないけど。
「秘書課」って言っても、別に女の園じゃない。まあ6割4割で少し女性が優勢なフロアだけど。バリバリの先輩なんて下津さんより年上の人も多くて、色々やりにくいんじゃないかなと心配になることもある。でも前の支社でも人事を担当していたって言うし、さらりと器用にこなしているのがさすがだ。

「……あ、噂をすれば。ほらほら来た、ヒロインの登場よ!」

 亜弓に肘でつつかれて、ハッとしてそちらの方を見る。長い髪をきりっと後ろでまとめて、背筋をぴっと伸ばした美女がつかつかと下津さんの方へと進んでいく。特にアポを取っていたとかそんなじゃないらしい、彼の方は意外そうな顔をしてる。

「どうもね、三村さんが今関わっているプロジェクトで下津主任の先輩に当たる方とやり合ってるらしいのね。それで上手いあしらい方とか聞きに来るらしいよ、そんなのただの口実だと思うけど」

 表向きは仕事の話題、だからきっぱりと断ることが出来ない。そう、そうであって欲しい。言葉に出すことも出来ず、私は必死で心の中で念じた。でも二言三言言葉を交わした彼らは連れだって席を外す。私の方を一度も振り向かないまま、彼はホールへと消えていった。

 

 彼からの連絡方法はその時々で変わっていた。

 「プロ野球のサインだって、いつも同じだったら相手のチームに悟られるでしょう?」と言うのが彼の言い分、何だか分かったような分からないような。だけど強く反論できるはずもなく、大人しく従っていた。

 渡された書類に添えられたメモに走り書きされた一見無意味な数字の羅列。出張のお土産にひとつずつ配られたおまんじゅうの包みの裏。眼鏡を押さえるその回数だったり、いつの間にか鉛筆立ての脇に付箋がくっついてたり。一度はアパートのポストにメモが入っていたこともあって驚いた。
「刻んで捨てといて」とすれ違いざまに渡されたダイレクトメールに添えられたときは、間違えて一度シュレッダーに掛けちゃったっけ。あのときは丁度「現場」を見ていた彼が別の手段を考えてくれた。

 いつ「合図」があるのか。そう思うと、ついつい彼に視線が向いてしまう。これではかえって怪しまれそうな気がするけど、彼の方からアイコンタクトがあることはないから誰も気付かないみたい。

 ―― どうして、ここまで「秘密」にしなくちゃならないんだろう。

 その答えはすでに分かってる、彼にとって本当に大切な人に事実を悟られたくないのだ。そのためには「二番目」である私なんて、どんなに傷ついたって構わない。彼がどこまでも残酷な人間であることは承知してる。それでも、差し出される手を振り払うことが出来ない。馬鹿だなと思う、愚かだなと思う。

 だからこそ、本気で愛されることもなかったんだなと思い知らされる。

 

「どうしました、元気がありませんね」

 今朝もチャキチャキとリズミカルなハサミの音が響いている。でも、それすらも私の感覚は捉えていなかった。部屋のドアを出て、ポストの中を一度確認して、そのままぼんやりと歩き出す。彼からの連絡がもう3週間もない、その間に三度の出張が入ったのだから仕方ないと言えばそこまでだけど、それ以外にも不安を覚える要素があった。

「まだ内密の話らしいけど、下津主任は次の人事でまた異動になるらしいよ?」

 私の手には、これまた無意識なままに購入していたいつものコーヒーがあった。砂糖もミルクもちゃんとふたつずつもらってある。習慣もここまで来るとあっぱれとしか言いようがない。

「あ、ごめんなさい。考えごとをしてました」

 亜弓に耳打ちされた言葉は、その後ずっと頭の内側で響き渡って今では私の心の全てを支配しようとしていた。必死で振り切ろうと首を大きく横に振ると、どうしたことか急に涙がこぼれそうになる。歯を食いしばってぐっと堪えてる間、植木職人のお爺ちゃんはちゃんと待っていてくれた。

「お嬢ちゃんが笑顔で挨拶してくれないと、こっちまで沈んでしまいますよ。そんな顔をしていたら、幸せが逃げてしまいます、あなたの大切な人もきっと悲しみますよ」

 ハッとして、お爺ちゃんの方を見た。「コセキ」さんという名前だと言うことは、胸のネームプレートで確認してる。ずっと前から。でも、私にとって彼は「お爺ちゃん」。彼にとって私が「お嬢ちゃん」であるように。

「私を……大切に想ってくれる人なんて、いませんから」

 ぬくもりの移ったコインを握りしめて、私は呪文のように唱える。認めてはいけない、求めてはいけない、そうすれば駄目になることくらい分かってる。だけど、割り切れない。彼が示す大人の関係が辛くて仕方ない。どうすればいい、本当にどうすればいいの?

 

「もしかして誘って迷惑だった?」

 初めて、携帯に連絡が来た。とっくに登録してあった名前は彼とは確認できないように偽名。それでも液晶画面に表示されたときは信じられなくて、何度も何度も操作をし直してしまった。

『土曜日、午前十時に迎えに行きます』

 タイトルのないメールの本文はそれだけ。週末に予定は入れてなかったから別に構わないんだけど、どうして今更って気がしていた。それに「迎え」ってどこまで? とりあえず早めの支度を終えてから、もう一度メール画面を開く。いつもの「暗号」ならばそこにいくつものヒントが隠されている。でも、当たり前の言葉にはそれがない。

『歩きやすい服装でお願いします』

 ぼんやりと時計を眺めていると、またメールが届く。何となくカーテンを開けて外を見ると、階下の路上に見覚えのある車が止まっていた。

「いいえ、大丈夫です。でもドライブなんて、ちょっと驚いてしまって」

 今までは退社後にご飯を食べて、っていうデートばかりだった。そんな自分たちの関係に改めて驚いてしまう。「付き合わない?」と切り出されてから2ヶ月ちょっと、何て心許ないふたりだったんだろう。

「たまには気分を変えようと思ってね。少し遠いけど、途中で疲れたら眠っちゃっていいから楽にしてて」

 そんな風に言われても、どうしてくつろぐことなど出来るだろう。当たり前に言葉を交わすことすら久しぶりで、なかなか感覚が戻らない。この車の助手席に座るのは今日で二度目。前に一回だけ、電車では行きにくい場所に誘われたときに車を出してもらった。初めて特別の関係になったのもそのときだ。誘われるまま、何処にでも付き合う。私はいつも暇つぶしにもってこいの人間だ。

「大丈夫ですか、いろいろとお忙しかったご様子なのに。別に私のこと何て……」

 放っておいてくれて良かったのに。そう続けたかった言葉がそこで途切れた。山に向かう高速道路、ちらちらと粉雪が舞って前を行く車に赤いテールランプが見える。彼の左手が私の右手を包む、温かくて胸が痛い。

 インターを降りて少し走ると、広々とした高原に出た。針葉樹の林を抜けると、小さな建物が点在している場所に辿り着く。少し向こうにはさる皇族の御用邸もあるのだと教えてくれた。夏の間は避暑地として賑わうその場所が、今はひっそりと静けさに包まれている。

「こっちが遊歩道になってるんだ、少し歩こうよ」

 遅めの昼食を終えると、彼は慣れた足取りで手招きした。カジュアルな服装が眩しくて、真っ直ぐに見つめることが出来ない。いつもいつも彼に似合う存在になりたくて必死に背伸びをしてた。今日だけはふたりの距離が少しだけ近づいたような気がする。
  人目を避けるような秘密の逢瀬、食事はいつもレストランの個室。待ち合わせの場所も、普段だったらうっかり見落としてしまうほどにわかりにくいところばかりを指定された。こんな風に明るい日差しの中で肩を並べて歩くことが出来るなんて、それだけで天にも昇るほどの幸せ。

「すごいー、こんなにススキがたくさん……!」

 彼の肩先に届きそうな綿毛、必死にあとを追う。足下の枯れ草が歩きづらくて、なかなか前に進まない。

「もう少し暖かい時期ならば、赤とんぼが群れて綺麗なんだけどな」

 真っ青な空を仰いで、彼が呟く。そしてもう少し奥まで進もうと私の手を引いた。

「髪、切っちゃったんだね」

 毛先が頬につんつんと当たるなと思っていたときに、彼の方からそう告げられた。気分転換をしたくて、美容院で伸びかけた髪をばっさりと落とした。だけど何も変わらなかった、ただ虚しい気持ちが残っただけ。

「その髪型も似合ってるから、そんな顔しないで」

 不安げに見上げた私に彼は何もかもを承知しているように微笑む。先ほどのランチメニュー、彼はワインを一本空にした。私もグラスに半分くらいはいただいたけど、残りの全ては彼の胃の中に収まったことになる。

「ほら、もう少しこっちに……ととと」

 後ろ向きに下がっていた彼が、急に体勢を崩す。そのまま折り重なるように草の上に倒れて、私は彼の上に全身を預けていた。

「ねえ、……欲しいな」

 抱きしめられて、長い長いキス。甘いワインの香りにこちらまでほんのりとしてきた頃、彼が甘える声でそう告げた。

 

 初めからそうするつもりだったのだろう、昼食をとったレストランの敷地内にあるコテージは予約済み。キーを受け取る慣れた手つきが、彼をもっと遠い人に思わせる。もちろん、そんなこと口には出さなかったけどね。
  綺麗に整えられたベッドの上で普段とは比べものにならないほどの激しさで求められた。繰り返し繰り返し押し寄せる波に、もうこのまま溺れてしまうのではないかと何度も覚悟する。普段は壊れ物を扱うかのように優しく接してくれるのに、一体どうしてしまったのだろう。
  それでも彼に導かれるままに、私は幾度となく波間を漂った。恐ろしかった、このまま殺されるのかと思った、でもその上を行くほどに嬉しかった。彼の彼の全てを受け止めることの出来る自分がとても幸せだと思った。

「……このまま寝ると風邪をひいてしまうよ」

 辺りがすっかりと暮れる頃、私たちはようやく人らしい会話を復活させた。身体の節々が痛い、もう動けない。それでも彼にそう言われれば、身体を動かすしかなかった。ようやくベッドの縁に腰掛けると、背中から再び抱き寄せられる。熱っぽい余韻を孕んだ吐息が、首筋をかすめていく。

「ここのバスルームはとても広いんだ、だからふたりで一緒に入れるよ? 背中、流そうか」

 その誘いに乗ることは出来なかった。私はこみ上げてくるものをどうにか押さえながら、彼の腕を振りほどいてひとりで部屋を出る。そしてバスルームに内側から鍵を閉めると、シャワーのコックをいっぱいに開いた。

 ―― どうして、そんなことを言うの。何で、こんなときに現実に引き戻そうとするの。

 頬を熱い滴が伝っていく。口惜しかった、情けなかった、何故ここまでひどい扱いを受けなければならないのだ。誰にも悟られたくない秘密の関係の相手になら、どんな傷を負わせても平気だと思っているのだろうか。

 そして。そんな扱いを受けようとも彼を見限れない自分は、何て愚かなんだろう。このままでは駄目になってしまう、いつか心がぼろぼろに朽ち果ててしまう。

 

 別に、言われるまでもなく「秘密」は守るつもりだった。

 社内恋愛の面倒なことは、具体的な事例を含めて色々聞き及んでいる。上手く言っているうちはいい、でもひとたびその関係が崩れたときに事態は一変する。そのときの煩わしさを思えば、少しばかりの面倒ごとは何とかしてやり過ごさなくてはならないのだ。

ふたりでいる時の彼は最高の恋人だった。今までにこんな素晴らしさを与えてくれる人などいなかったし、多分これから先も彼ほどのものを自分に与えてくれる存在には出会えないだろう。だけどそれすらも、私ひとりの勝手な思いこみ。彼にとっては度の過ぎる執着は疎ましいだけだ。
「愛してる」のひと言を与えてはもらえなかった、「大好き」のひと言を伝えることが出来なかった。いつもどんなときも、全身で彼の存在を確認しつつ、それでも確かな言葉はひとつも残すことは叶わないまま。

「―― 理恵っ!」

 フロアにいた全ての人間の視線が私たちに向けられる。当たり前の勤務時間内、私も他の社員と同じように与えられた仕事をひとつひとつこなしていた。
  もう、彼の方を気にするのはやめるつもりだった。最初から存在しない人だと思いこむことにした。それなのに、彼の方が突然私の傍らに立つ、初めの日に「ちょっといいかな?」と声をかけられたのと同じ場所に立っていた。でも、その形相には雲泥の差があったけど。

「この営業所、地図を見てもよく分からないんだ。上には許可を取ったから、同行してもらえないかな?」

 始まりはそんな風だった。別に他の誰だって良かったけど、ただ通路のすぐ脇に座っていた私に声をかけやすかったから。爽やかな柑橘系の香り、それが彼の車の芳香剤のそれが移ったものだと言うことはあとから知った。

 何気なく始まった関係ならば、何気なく終わらせればいい。これ以上深みにはまっては駄目、どうにかここで踏みとどまらなくちゃ。

「何だ、これはっ! 僕は知らないぞ、何故だ、どういうことなんだ!」

 さすがに皆の目が気になったのだろう、ホールまで私を引っ張り出したあとに彼は私の左腕を握りしめたままで叫んだ。薬指、小さなたて爪の指輪。

「別に下津主任には関係ありませんから。そのご質問にもお答えする義務はないと思います」

 よどみなく最後まで告げることの出来た自分を偉いと思った。まさか彼がこんな行動に出るとは思わなかったけど、だからとても驚いたけど、それでもやっぱりちょっと嬉しかった。「もったいない」とか「口惜しい」とか、ほんの少しでもいいから感じて欲しかったから。だから、もうこれで十分。

「すみません、もう仕事に戻っても宜しいでしょうか?」

 するりとほどける彼の手、これでお終いなのだと思った。彼の思い通りになる都合のいい女であることをやめれば、ふたりの関係は壊れてしまう。でもそれでいい、もうこれ以上傷つきたくない。どんなに好きになったとしても決して結ばれることのない相手にかかわり続けたら、本当に抜け殻しか残らなくなってしまう。

「……どうしたの?」

 聞いちゃまずいけど、かと言って聞かないのはもっとまずいと思ったんだろう。席に戻った私に、亜弓がおずおずと尋ねてくる。でも、私はもう平気。たくさんの視線を感じながらも、笑顔で応えることが出来た。

「うーん、あまりに安っぽい指輪だって怒られちゃった。秘書課の人間として、最低限のTPOをわきまえろって」

 亜弓は全然分からないという顔をしたけど、もうそれ以上は追求しようとしなかった。

 

「……ごめん、いいかな?」

 その日の夕方。定時上がりで席を立った私を、待ちかまえていたかのように彼が呼び止めた。

「良くありません、もう主任にお話しすることは何もありませんから」

 そのまま立ち止まることもなく、歩き出す。一方の彼は最初にいたその場所に立ちつくしたまま、だけど残されたもうひと言を私の背中に投げかけてきた。

「昼間の騒ぎで、全てばれてしまったんだ。悪いけど、ちょっと上まで付き合って欲しい」

 

 本社ビルの最上階、その場所に入るのは今日で二度目。新人研修を終えて本社配属になって、辞令を受け取るときに初めて雲の上とも言えるフロアにやって来た。

「その……、何でこんなところに来なくちゃならないんですか?」

 社内にあっては、彼は私の上司。その命令に従うのは当然だ。だけど、これって変。まさか、突然の異動とか、そんなわけないでしょう。そう言うことだって、打診もなくいきなりって有り得ない。

 突き当たりの「社長室」のドア。彼がノックすると、すぐに内側から開いた。私もよく知っている切れ者の「社長秘書」である彼女、ひとつにきりっとまとめた髪がすっきりと知的。

「お待ちしておりました、祐一朗様。どうぞ、すでに中でお待ちですよ」

 さらに訳が分からなくて、呆然と立ちすくむ私。途方に暮れた表情のままで振り向いた彼が、お出でお出でと手招きした。仕方なくそのまま前に歩み出る、彼の肩越しにドアの内側をのぞき込んで私は思わず叫びそうになる。かろうじて出かかった言葉をごくんと飲み込んで、改めてもう一度確認する。作業着姿で大きな椅子にゆったりと座る人が、にこにこと私に微笑みかけた。

「やあ、お嬢ちゃん。ようやくここまで来てくれたね……!」

 

 顔なじみだと思っていた「お爺ちゃん」が実はウチの会社の「会長」というとてつもなく偉い人で、私はそんなすごい人と毎朝当たり前におしゃべりしていた不届き者だったのだ。え、だって、普通に思わないよ。その作業着、どこから見ても職人さんだって。

「うむうむ、良かったなあ……さすが祐一朗は目が高い。私のマドンナをあっという間に射止めてしまうんだからな、いやあこれはめでたいめでたい……!」

 やれ祝杯だ、挙式の日時はいつにしようか大安吉日はいつなのかとこの上なく上機嫌。騒ぎを聞きつけてやって来た社長が必死に取りなしても一向に収まらない。こちらが口を挟む間もなくとんとん拍子に話が進み、気付けば呼び寄せられた彼のご両親と顔合わせまでさせられてしまった。取り次がれた電話口では、田舎の両親が泡を吹いている。

「……だから、内密にと言ったんだよ」

 未だに呆然としたままの私に彼もまた精も根も尽き果てたような声で告げた。

「理恵は会長のお気に入りなんだから、こんな風に騒がれるのが怖くて誰も手が出せなかったんだよ。僕も最初にこの事実を聞いたときはさすがにやめようかと思ったしね。でも、やっぱり口惜しくてさ。本当のことを知ったらすぐに逃げられそうで、どうしても切り出せなかったんだ」

 彼のお母さんが、今の社長の妹。だから会長は彼にとっては正真正銘の「お祖父さん」なのだ。もちろん、家族経営とかそういう閉鎖的な会社ではないけど、もしも有能な人材ならば、ゆくゆくは会社の中枢に位置する人間となるのだと言われているという。
  あの三村さんも、彼の従姉だったりして。彼女もまた面白半分に彼をつついていただけなのだとか。他にも名前を知っている社員さんが何人も彼の身内で、……もう訳が分からない!

 ちなみに「お爺ちゃん」の「コセキ」というネームタグは当然ダミーだ。一般人を装って社員をひとりひとり観察してたなんて、本当に怖い人だと思う。

「会長に知れたら、すぐにとんでもない方まで話が進むって分かってたしなあ。どうする? 理恵のご両親も明日には上京すると仰ってたけど……今すぐに断らないと、君はあっという間に滝川の一員になってしまうよ?」

 そのことがとてつもなく恐ろしいことであるように彼は言う。まあ、事実はそうなのだろう。大企業の御曹司なんて聞こえはいいけど、その内幕は色々と煩わしいことも多そうだし。何かと気苦労も多そうで、一般庶民としては敷居が高すぎる。

 だけど、……そうじゃなくて。一番大切なこと、それを忘れちゃ駄目だと思う。

 

「……どうしていつまで黙ってるの?」

 ようやく解放されて、社長室をあとにする。ふかふかの絨毯を元のように踏みしめながらずっと無言でいたら、しびれを切らした彼がせっついてきた。返事をする前に、彼の腕にしがみついて。他の言葉が出せないようにしてから、訊ねる。

「下津さんは、私のこと好き?」

 抱き寄せられて、顔をのぞき込まれる。どうしてそんなことを今更聞くのかと、彼の顔に書いてあるみたい。

「もちろんだよ、そうじゃなかったらあんな化け物みたいなライバルと戦う気になるかい? 理恵には何の肩書きもないありのままの僕を好きになって欲しかったんだ。でも、……もう駄目かな? 君の気持ちがどんどん離れていくことには気付いていた。必死に合図を送っても、まったくこちらを見てくれないんだから」

 小さく落とす、溜息ひとつ。それから、探るように再びこちらに向き直って。

「理恵が僕以外の男の方が好きというなら、無理強いをするわけにはいかないと思うんだ」

 不謹慎だなと思うけど、こみ上げてくる笑いを留めることが出来なかった。複雑そうに見守る彼に説明する。その合間にもまだ笑いが続いてしまうけど。

 彼が「暗号」を忘れたわけではなかった、私が気付かなかっただけ。ドライブに誘ってくれたメールも、何度も合図をスルーされてほとほとしびれを切らした末に送信されたものだった。しっかり気持ちを掴んだら何もかも告白するつもりだったのに、その前に全てが水の泡になってしまう。彼としてもかなり焦っていたらしい。そんな素振り、少しもなかったのに。

「これね、『お爺ちゃん』にもらったの。バレンタインのチョコのお返しだって。だから、とっても大切。もっと気に入ったものをプレゼントされるまでは絶対に外せないわ」

 ようやく見ることが出来た大好きな笑顔。コイツめ、って頭をぐりぐりされて。それからもう一度、ぎゅーっと抱きしめられた。

 

 窓の外に広がるのは大都会の夜景。どんな星空よりも美しいキラキラの輝きが、私たちの未来を祝福しているみたい。

おわり (061129) 

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TopNovelしりとりくえすと>単発小話 ・23


お題提供◇いちた様
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>二人にだけわかる、内緒のサイン、なんていうのは萌えなんですがv
ええ、分かります! まわりにコソコソってときめきますよね(笑)
今回はありがち設定&展開で「どうしよー」とも思いましたが、書いていてとても楽しかったです。
ひとつ前のお題「明暗」と漢字しりとりまでが成立してます、カッコイイですね!