◆ 30.明暗
夏の庭から春の庭へゆっくりと回っていけば、出迎える侍女たちの型どおりの挨拶もお馴染みのもの。与えられたお役目を厳粛にこなしていく彼女たちに軽口を叩く気分にすらなれず、こちらもまた決まり切った言葉を返す。扉の側の花器に活けられた瑞々しいひと枝を、ちらりと横目で見送った。 「お役目ご苦労。さて、それでは昨日の続きから始めるとしよう」 畏れ多くも舅殿と申し上げるお立場になられた竜王様も、何ひとつお変わりになったところもない。艶やかな漆黒の流れは今朝も床へと美しく流れ、肩から掛けられた上掛けも落ち着いた色目でありながらその優美さは今更確認するまでもない素晴らしい品である。「老い」という言葉はこの御方にとっては永遠に無縁のものであるのだろうか、愛姫を嫁がせた年齢とはとても思えないほどに若々しい。 「あれも変わりなく過ごしておるだろうな、たまにはこちらにも顔を見せるようにと伝えておくれ」 そんな言葉を掛けられれば、さらに震え上がってしまう。もしや誰か意地の悪い者が根も葉もないような噂話をこの御方に申し上げたのではないだろうか。一度そんな不安が胸を過ぎれば、もう穏やかな心地には戻れなくなる。ここまで小心であったとは、我ながら情けない。 「は、はい。もったいないほどのお言葉、戻りましたらすぐに伝えます。このように目と鼻の先にありながらとんだ不義理を致しまして、誠に申し訳ございません」 詫びの言葉を伝えながら、背中には冷たい汗が流れていく。つい数日前も同じ言葉を掛けられすぐに妻に伝えたのだが、彼女の方はのんびりとしたもの。有り難いお言葉もほんの挨拶代わりのようにしか捉えていない様子である。少しは間に立たされたこちらの身にもなって欲しいものだと思うが、強く伝えられない自分の方にもいくらかの責任があるのだろう。 「でも、改まってお伺いするのはあれこれと面倒なのだもの……」 その言葉だけを聞けば、ただの面倒くさがり屋のような気がしてしまう。だが、その裏にはいくつもの想いが隠されているのだ。 「いや、そのようにお前が頭を下げることはないだろう。あれも新しい居住まいにすっかり馴染んで楽しく過ごしていると言うことだ、気に病むこともない。近いうちに小さな宴でも開いてその席にでも招くとするか、そのときは是非夫婦揃って仲睦まじい姿を見せておくれ」 やはりお寂しい気持ちはおありなのだろうが、そのことを強く訴えたりはなさらない。正妃様が身罷られてから久しいが後添えを迎える気配もなく、それどころかただひとりの側女(そばめ)すら置こうとはなさらないのだ。うち解けて話が出来る身内のない寂しさは想像にあまりある。
昼食を挟んで夕刻までのお務めを終えれば、ようやく帰路につくことになる。昼休憩は一刻ほどあるので一度部屋に戻ることも可能だが、あまりに頻繁に出歩けばまた厄介ごとを抱え込むことになるのだ。数年来の心の垣根も外れもう何も煩うことなどなくなったはずなのに、どうしてこうも思い悩むことばかりが増えるのだろう。 長い渡りを行くよりは、庭づたいに外を回った方が遙かに時間を短縮できる。供も連れずに庭歩きなど使用人のようだと乳母に再三にわたりたしなめられたものだが、改まることはなく今に至っていた。 ―― ここは、少しだけ騙し討ちをしてみようか。 普段とは違う細道を使い、こっそりと館に戻る方法を選んだ。出迎えなければいけない主人がいつの間にか部屋でくつろいでいれば、さすがの侍女たちも肝を冷やすであろう。驚いた顔を見るのもまた一興だ。情けない話ではあるが、それくらいのことしか楽しみようがないのである。 「……まあまあ、どこの野犬が迷い込んだかと思いましたら……!」 茂みを抜けたところで、目の前に竹箒が振りかざされた。それが下ろされたかと思うと、今度は眉をつり上げた侍女の顔がそこにある。 「このところたちの悪い野良犬が多いと聞きまして張っておりましたら、とんだ赤犬を見つけてしまいましたわ。そのようにお召し物を汚して髪もくしゃくしゃ、とても高貴なご身分の御方とも思えませんね。そんなお姿で御館に上がられるのはお止めくださいまし、すぐに着替えを取りに行かせますからそのままお待ちください」 きびきびと素早い身のこなしで彼女が有能な侍女であることは疑いようもないが、その辺りに響き渡るような大声で叫ぶのはどうにかならないか。すぐに数人の侍女たちが飛び出してきて、周囲を取り囲まれてしまった。これでは身動きが取れないではないか、早く部屋に戻ってゆっくりくつろぎたいと思っていたのにどうすることも出来ない。 しばし待たされたあとにようやく着替えが一揃え届いたが、そうなるとまた一悶着が起こる。 「何ということでしょう、その軽々しい色目は。いくら正式の御衣装ではないとは言え、王族となられた御方のまとうものとしてはあまりに不似合いでしょう。しかもこの仕立ての雑なこと、これはどこの子供の手習いですか?」 北の出身の侍女がそう告げれば、西南の侍女も黙ってはいない。夕刻の忙しい時間帯で気の利いた年配の侍女が席を外していたこともあり、騒ぎはそうそうには収まらない。
やっと身支度を整え終えたのは、南所の表に辿り着いてから半刻もあと。辺りはすっかり夕暮れになっていた。 「お帰りなさいまし、……ずいぶんと表の方が賑やかなご様子でしたが」 部屋の入り口で跪いて出迎える妻は、普段通りのゆったりとした身のこなし。外の騒ぎのことなど全く気にする素振りもなく、自分を待つ間には静かに針仕事をしていたらしい。 ―― 生まれながらの姫君。 ある者は親しみを込めて、またある者は少なからずの嫌みを込めてこの人を呼ぶ。今は夫となった自分も、物心も付かぬ幼き頃よりこの地で育ち王族と変わらない生活を送ってきた。だがやはり、生粋の血を引く者とはどこかが違っているのだ。昔はそれほど感じることもなかったが、こうして再会を果たしてみると一瞬ごとに身にしみて実感するばかりである。 「そうだね、でももう収まった様子だから。ああ、少しゆっくりとしたいな。夕餉の前にまずは茶をもらいたいんだけど」 本当ならば酒を一杯あおりたい気分ではあるが、そんなことをすればまた北出身の侍女たちに何を言われるのやら。こちらが顔に出やすいたちであるのが一因だろうが、そう酔ってもいないのにとんでもない酒豪のように思われて面倒である。 「まあ、そうなの。それでは唐菓子なども運ばせましょうね。ひどくお疲れのご様子ですもの、少し横になった方が宜しいのでは?」 そう言ってすぐ表に声をかけようとする人を、彼はそっと制した。やっとふたりきりに戻れたのに、また人を部屋に呼んで騒々しくするのはしばらく勘弁して欲しい。 「ねえ、沙羅も座って。たまにはゆっくりと話をしようよ、何だかいつも周りが騒がしくて息をつく暇もない感じだ」 ひんやりとなめらかな手のひら、そっと指を絡めれば彼女は静かに微笑んだ。 何を思っているのだろう、淡い色の瞳からは何も読み取ることが出来ない。あの頃は、ふたりでずっと一緒にいられると思っていたのに。離れていた時間の分、心はたどたどしくさらに臆病になっていく。 「おかしな人ね、『たまには』なんて。毎日こうして顔を合わせているのに、そんな言い方は変よ」 どうして不安が伝わらないのだろう、それがもどかしくてならない。西南の大臣家の欲望のままに翻弄される悲劇の姫君―― そんな言葉で海底の隅々までその存在を語られている彼女である。その生い立ちから奇異の目で見られ、何ひとつ自由な選択を与えられないままにここまで生きてきた。 だけど、分からない。彼女が真に望んでいるものが何であるのか。分からないから、さらに不安になる。それなのにどうして、彼女はあんなにも柔らかく微笑むのだろう。
ようやく辺りが闇に包まれたかと思うと、すでに寝の刻を迎えている。短い夏の夜がねっとりと素肌にまとわりつき、なかなか眠りが訪れない。 「もう寝てしまうの? もう少し、話をしようよ」 傍らのぬくもりを無理矢理に揺り起こす。自分勝手な我が儘だとは思う、でもひとりで置いてきぼりにされる寂しさに、妻を誘う夢の世界まで疎ましく思えてしまう。 「……ん……」 けだるく身じろぎをして瞼を開く。でもとろんとした眼差しは半分心を向こうに置いてきたような感じであった。それが腹立たしくて仕方ない、自分がこんなにも恋しく思っているのにこの人はそれほどの気持ちを持ち合わせていないのだろうか。側にいるだけで満足できるなんて嘘だ、言葉で態度でもっと強く示してくれなければ分からない。 「でも、もうすごく眠いのですもの。……お願い、休ませて」 熱い腕で乱暴にかき抱いても、妻はぼんやりとそう告げるだけ。それでも鼻先が触れ合うほどに顔を寄せれば、彼女の方から淡く口づけてくれた。 「亜樹がね、隣りにいてくれるとよく眠れるの。私、こんなに夜が待ち遠しいのは久しぶりよ。本当に感謝してるわ……」 もう何も怖くないの、と呟いた言葉が寝息に変わる。静寂の中にひとり取り残された彼は、薄茶の髪をその指で弄びながら、柔らかな一房にそうっと口づけた。 了(061128)
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お題提供◇英香様 ちなみに私は恐ろしく寝付きが悪いので、いつも亜樹の立場になりますー。 |