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29.桃の花雨


 普段は当たり前すぎて、その存在を忘れてしまう「気」。白く煙る視界に目を凝らせば、ゆっくりと立ち上ってゆく芥子粒ほどになる泡の流れを見ることが出来る。

「泡雨」

 この地ではそう呼ばれている現象であった。植物が呼吸をする際に吐き出すものが細かい泡になりぽつりぽつりと湧き上がっていく。春先からの芽吹きの時となればそれが勢いを増し、山里などは歩みゆく自分の足下が見えぬほどになると聞いている。この都にあっても竜王様の御館にはそれは見事な庭園がしつらえられていて、昼間の温かさで気がぬるんだときなどは、相当なものになるのだ。

 目の前の「白」が次第に濃くなり、自分がさらに奥まった場所に進んでいることを知らされる。すでに辺りが寝静まる刻限、両親に気付かれぬように寝所から密かに抜け出してきたが、もしも娘の不在を知れば居室は大変な騒動になることであろう。とても十を迎えたばかりの娘が歩き回れる時間ではないのだから。出来ればそのような事態は避けたい、だからなるべく早く目的を果たさなくてはならないのだ。

 手にしているのは、頼りない燭台。一歩足を進めるごとに、その炎が左右に大きくたなびく。自分の部屋にはこれと同じかたちのものしか置かれていなかったから、致し方ない。暗がりが恐ろしいと臆するのなら、今すぐにでも引き返せばいいだけのことだ。

 ―― いいえ、そのようなこと。私は他の女子さまのように弱虫じゃないわ。 

 野歩きようにとどうにかひとりでまとめた髪が、ゆらゆらと気の流れにたなびいていく。先刻に乳母に着替えさせてもらった寝着に薄手の重ねを羽織ってみたが、かなりの不格好な有様だと言うことは分かっていた。しかし、未だに独り歩きはおろか毎朝の衣を選ぶことまで大人の手を借りねばならない身の上なのである。多少のことには目をつぶらねばならないだろう。

 本当に、こちらの方角で良いのだろうか。時折そのような不安が胸に湧き上がり、指先が冷たくなってゆく。闇に消えた背中を辿ってここまで来てしまった。もう戻ろうか、何もこんな風に自らの目で全てを見定める必要もないのだから―― そう思い掛けて、また大きく頭を振る。

 問いかけることなら、そう難しくもなかった。彼は自分が訊ねれば、どんなことでも真っ直ぐな言葉で答えてくれる。でも、もしも、だ。七つ八つと年の離れた子供だからと言って、丸め込まれることがあっては良くない。彼にだって、隠し通したい「秘密」はあるのだろう。だからこそ、人目を忍んでこのような夜更けに出て行くのだ。

 ―― ああ、だから。だから、もっと早く大人になりたかったのに。

 淡い光に浮かび上がる自分の影はあまりに小さい。それが口惜しくてならなかった。
  父は次期竜王様の側近であり、祖父母は現竜王様や正妃様のお膝元に仕える御方。この世に生まれ落ちたそのときから、何もかもに恵まれた立場にある。幼き頃より周囲の者たちから一目置かれ、その状況も当然のように受け入れてきた。

  だが、願っても決して手に入れられぬものがこの世にはあるのだということを知る。

「……鷹見さま」

 幼き頃から、心の中にはその人しか住んでいなかった。もちろん両親や祖父母を始め、親しくしてくれる身近な人々は自分にとってかけがえのない存在である。だが、そのような中でも彼は「別格」であった。
  普段は西南の祖父の館にいるその人は、自分には従兄にあたる。父のすぐ下の妹になる人の長子で、里は南峰のはずれの荒れ地と聞いた。そのような地では満足な教養も身に付かぬと言うことで、月の半分以上を祖父の館で過ごしていると言う。だから恋しくて両親に里帰りをねだっても、お目にかかれぬままで終わることも少なくなかった。その里帰りすら、年に何度も許されるものではない。

 ただ、ひとめそのお姿を見ることが叶えば、それだけで良かった。優しい言葉をいただいて、柔らかく微笑んだその眼差しを受け止めることが出来ただけで胸がいっぱいになる。華やかで雅やかなことこの上ない都に住まっていても、彼に代わる存在には出会うことが出来なかった。凛とした立ち姿、涼しげな横顔。きらびやかな衣装など纏わなくても、そのお美しさは疑いようがない。

 そんな彼が都に上がり竜王様の御館に出仕することになった、本当に夢のような出来事である。お出でになることが決まってからの半月は、何も手に付かぬ状態で過ごしていた。

 

「困ったことだ、どうも東所の侍従にひとり欠員が出たらしい。すぐに他の者をあててもいいのだが、元々は西南の枠と言うことで率先力になる者を至急探しているそうだ。余市から相談を受けたが、そうは言われてもだなあ……もしも私が推した相手がしくじれば大変なことになる。お仕えする華楠さまにまでご迷惑を掛けることになっては申し訳ない」

 夕餉の席で父がそのように切り出したのは、今年の正月明けのこと。年頭の行事で忙しい父を置いて、母と弟妹たちとで西南の祖父の館に新年のご挨拶に伺ったすぐあとであった。その帰郷でもとうとう鷹見さまには会えずじまい。せっかく新調した晴れ着を脱ぎ捨ててしまいたいくらい落ち込んでいた。だからなのだと思う、何の迷いもなく唇が勝手に動いていた。

「あの、そういうお話でしたら。西南の御館にいらっしゃる鷹見さまは如何ですか? 雪叔母さまも前々から、一度はしっかりした場所で修行させたいと仰っていますし。身内びいきと言われるかも知れませんが、かなりの適役だと思われます」

 盃を手にした父の動きが一瞬止まる。こちらに向き直ったその眼差しは、少し酒を過ごしたものとは思えぬほどに澄み切っていた。

「ああ、……そうか。言われてみれば、あの者ほどに適任はおるまい。萌(もゆ)は誠に賢い、女子にしておくのが誠に惜しいほどだ」

 身内とはいえ、叔母はその昔に一族を出奔した人間。交流は復活したとは言え、彼は祖父の館で他の使用人と変わらない暮らしぶりである。後ろ盾に関係なく優れた人材を募りたいという竜王様の意向にも沿うものになるだろうと父は言った。
  呆気ないほどに話がまとまり、父はそれまでの沈んだ様子が嘘のように晴れやかに振る舞っている。母に酒のお代わりを催促してたしなめられているその姿はすでに都でも高い地位にのぼられた御方とは思えぬくだけようであったが、萌としてはもうそのことにすら構っていられる状況ではなかった。

 ―― 鷹見さまが、都に上がられる。これからは毎日のようにお顔を拝見することが出来るのだ。

 これを夢と言わずに何と言おう。地方から出仕する者の任期は二年か三年と言われていて、彼もお務めを果たしたあとは里に戻ることになるということは承知している。だが、ずっと離れて暮らしていた年月を思えば、にわかには信じられないほどの幸せであった。
  さらに幸福は続く、寮の手配が間に合わずに彼が自分たち家族の居室に身を寄せることになった。祖父の住まいの方が東所には近いのだが、あちらは手狭である。当座のことであるが、寝食まで共に出来ることになるとは。

 果たして、その日が訪れて。彼は簡素な装い、しかも小さな包みひとつでやって来た。竜王様の御館に出仕する際の衣はおのおのが準備するまでもなく、すでに整えられたものが支給されることになっている。今の竜王様の世になって改められたその規定により、広く海底国の隅々から優れた人材を都に呼び込むことに成功した。
  その昔、着の身着のままで都に上がった祖父たちは、毎日の装いにとても難儀したと聞いている。広く下々の者にまで心を砕く竜王様や正妃様は、歴代の王の中でも特に皆から慕われていた。

「しばらくの間、ご厄介になります。何も分からない田舎者ですが、どうぞよろしくお願い致します」

 久方ぶりに会うその人は、さらに麗しく逞しくなっていた。戸口の外まで出迎えた萌に、幼い頃から少しも変わらない仕草で頭を撫でてくれる。すらりとした細身の身体に似合わずに骨張って大きな手。ふんわりと優しく触れられるだけで嬉しかった。
  口数はあまり多くない、始終控えめでいつも人々の輪の一番後ろの方に控えている。西南の領主様の血筋を引く身でありながら、その奥ゆかしさはもどかしいほどであった。

「萌ちゃん、すっかり綺麗になったね。驚いたな、見違えるようだよ」

すっきりとした目尻、そこに艶やかな色を感じる。いただいたお言葉は、そのままそっくりお返ししたい。ああ、何て凛々しくなられたのだろう。にわかには次の言葉が出て来ないほどに胸がいっぱいになってしまう。

「遠路はるばるお疲れ様でした、さあどうぞお上がりくださいまし。手狭ではありますが、我が家だと思っておくつろぎくださいね。すでに御館よりご出仕用の衣装なども届いております、一服したらそちらもご試着してみては如何です?」

 その場にただ立ちつくすだけの萌に代わり、母があれこれと世話を焼いている。そのうちに小さな弟妹たちやその友人たちが騒ぎを聞きつけて次々にやって来て、お客人の周りには小さな人垣が出来てしまった。

「やあこちらも賑やかなことだね、何だか生まれ里に戻ったような気がする。とはいえ、この頃では兄弟たちも大きくなってしまって、昔のように野遊びに駆り出されることもなくなったけれど……」

 優しい眼差しの青年に子供たちはあっという間にうち解けて、自分たちの遊びに加わるようにと促す。彼はそれを厭うこともなく、従っていた。しかし後に残された萌は面白くない、せっかくお出でくださったのにこれではなかなか自分の相手をして頂けないではないか。皆と一緒に石蹴りでもかくれんぼでもすればよいのだろうが、十を過ぎて自分では十分に大人びたと思っている娘にはそれが出来なかった。

 ――違うもの、あのように遊んでいただいても私は少しも嬉しくないわ。

 数年前から伸ばし始めた髪は、すでに腰の辺りまで届いていた。この分ならば数年後の裳着を迎えるまでには、身丈に余るほどに輝かしくなることだろう。だが、どうしてもその日が待ちきれない。このままではいつまで経っても彼に追いつけないではないか。

 翌日から、早速彼は萌の父に付き添われて竜王様の御館に出仕することになる。しばらくの見習い期間を終えて配属されたのは奥の書庫。初めは表の侍従にと言う話であったが、その才の深さを見込まれての大抜擢である。

「いえ、俺は何も。すべてはこちらの伯父上と表の侍従長様のお陰です」

 萌の父がその偉業を褒め称えても、本人は相変わらずの謙遜ぶりだ。しかしその仕事は早く正確であるらしく、東所での評判も上々であると言う。そのことをとても誇らしく思う反面、毎日のお帰りが次第に遅くなることに例えようのない寂しさを感じていた。

 ご一緒に新しい絵巻物を楽しもうと思ったのに、皆の夕餉の膳が片付けられてからのお戻りではそのような暇はなくなってしまう。そうでなくても、父は彼のことを自分の息子のように可愛がり晩酌の相手を延々とさせているのだ。すぐ側で愛娘が仏頂面をしていることにも構わずに。

「書庫の館長様から急に呼び出されてね、今日も出掛けなくてはならないんだ。すまないね、前々からの約束だったのに」

 ようやくのお休みの日に、春の御庭を散策しようと提案してもぎりぎりになってそう断られた。お務めならば仕方ない、そう思わなければならないのに胸は悲しみでいっぱいになってしまう。その日はお出掛けに「いってらっしゃいませ」とお見送りをすることもやめてしまった。

 このままでは鷹見さまはお務めが面白くなりすぎて自分のことなどお忘れになってしまうのではあるまいか。お出でになるのを楽しみにしていたのに、あれこれと計画を立てて色々な場所に出掛けようと思っていたのに。こんな風では、ふたりの距離は永遠に縮まらない。

 しかし、心配事はそれだけでは留まらなかった。ある夕べに帰宅した父の言葉から、新たなる疑惑が持ち上がっていく。

「おや、鷹見はまだ戻っていないのかい? 今日は早めに上がったから一緒に戻ろうと書庫を回ったのだが、もうとっくに引き上げたと告げられたのだがな……」

 久しぶりに碁の相手でもさせようと思っていたのか、父はがっかりした口振りでそう言ったがそれ以上追求することはなかった。鷹見はすでに立派な大人、十七と言えばいつお嫁さまを迎えてもおかしくない年頃である。彼が毎日のお務めを終えたあとにどのような余暇を過ごそうと、他人が口出しをする筋合いはないのだ。

 ―― 何てこと、そんなことがあっていいはずもないわ……!

 口にこそは出さなかったが、萌は天が落ちてくるほどの衝撃を覚えた。その上父は「こちらにいる間に良き伴侶を見つけることが出来れば、彼にとっても幸いであろう」とまで言うではないか。嫌だ、そんなことは許さない。鷹見さまが他の女子をお嫁さまを迎えるなんて、そんなこと私は絶対に許さない……!

 彼がこの地を訪れたのはまだ春も浅い頃、それから二月ほどが過ぎ辺りはすっかりと花色に染め上げられていた。冬場の冷え込みが身にしみる土地であるから、柔らかな季節の訪れは何にも増して待ち遠しいものである。
  だが、今年は違った。あれから注意深く見守っていれば、鷹見は帰宅が遅くなるばかりではなく寝の刻になる頃にひとりでこっそりと居室を抜け出していくこともあった。疑惑は膨らむばかり、あれこれと気を揉んでいては周囲の華やぎにも心を奪われることはない。その上彼は、日に日に顔色が悪く食欲もなくなっていくのだ。お務めこそは完璧にこなしている様子であるが、これではさすがに心配になる。
  両親に相談してみても、何かあれば彼の方から話があるだろうと言うばかり。こちらの話など全く取り合ってくれない。それどころか他人のことを心配する前に自分のことはどうしたのだ、この頃では手習いもさぼってばかりではないかとたしなめられてしまう。これではやぶへびと言うものである。

 南所の華楠さまの元にはたくさんの若君や姫君がいらっしゃる。父はそこに自分を出仕させようとしているのだ。妻である萌の母にはあまたの誘いも断って家から出すことがなかったのだが、愛娘については存分に自慢したいという気持ちがあるのだろう。そのためには今までにも増して手習いに励まなければならない。ある程度の教養が身に付いていなければ、あっという間に蹴落とされてしまう実力社会であるのだから。

 ―― つまらないわ、御館務めなんて。どうして皆、あんな堅苦しい場所に憧れるのかしら……?

 本人にやる気がないのだから、身に付くことなど何もない。だが父は一向に諦める気配がないのだから、始末に負えないのだ。

 

「……鷹見さま?」

 果たして、目的の場所に彼の姿を見つける。ホッと胸をなで下ろした刹那、自分でも気付かぬうちにその名を呼んでいた。見慣れた藍の重ねがふわりと揺れる。天の光に柔らかく照らし出される天寿花の林、その一番奥まった場所に彼はいた。辺り一面むせるような花の香、桜に似た姿でありながらその香しさは誰もを惑わすほどの魅力がある。

  林はゆらゆらと立ち上る泡雨で包まれ、外界とは遮断された別空間のように感じられた。辺りが闇に包まれた刻限に、この場所を訪れることは初めてのことである。

「え……萌ちゃん?」

 思いもよらない珍客に彼の方も驚いたのだろう、振り向いたその瞳は驚きに満ちてにわかにはこの状況を信じられない様子である。

 ―― もしかしたら、他の女子さまをお待ちだったのかしら? それなのに私などが来たから、がっかりされたのかも知れないわ。

 どうして声など掛けてしまったのだろう、このまま気付かれぬように様子をうかがっていることも出来たのに。だが、分かってしまったものは仕方ない。今更取り繕うことなど出来るはずもないのだ。

「駄目だよ、こんな夜更けに独り歩きをしては。どなたかご一緒なの、そうじゃないみたいだね……」

 彼は辺りを確かめてから、ゆっくりと立ち上がる。その頬にきらりと光るものがあることに萌は気付いた。

「た、……鷹見さまがひとりで出掛けられるのを見たから。一体何処にお出でになるのかと、……だってこの頃お元気がないし、何だかとっても心配だったのだもの」

 他の女子さまとの逢い引きを確認しに来たのだとはさすがに言えなかった。そんなことが知れたら、自分の浅ましさがばれてしまう。
  どうにか取り繕った言葉で告げると、鷹見はかすかに微笑んだ。薄桃の花びらに溶けてしまいそうな、消えそうな淡い笑顔。

「……萌ちゃんには、かなわないな」

 大きな手のひらが、すっかりと冷え切った頭上にふわりと降りてきた。

 

「俺の生まれ里にはね、桃源郷と呼ばれるそれはそれは見事な山桃の森があるんだ。……そうだね、ちょうど今頃。里にまでその香りが漂ってくるほどになる。今年はあの花が見られないのだと思うと、とても辛くてね。……子供でもないのに、すっかり里心がついてしまったようだよ」

 寂しかったんだ、と彼は言った。今は戻ることの出来ない遙かなる故郷に思いをはせて、花の林でひとり心を癒していたと。望郷の心というものを、萌は知らない。この地に生まれこの地に育った自分にとって、山桃の森の話の方がとても遠いものに感じられる。

「……ごめんなさい」

 手を引かれて、家路を急ぐ。皆に見つからないうちにひっそりと戻ろうと提案され、それに従った。手のひらから伝わってくる淡いぬくもりに泣きそうになる。

「どうして、萌ちゃんが謝るの? 何も悪いことはしてないのに。こんなに心配を掛けてお詫びを言わなくてはならないのは俺の方だよ」

 優しくそう返されても、萌の涙は止まらなかった。口惜しかった、自分はただただ嬉しかったのにこの人は全く違う想いを抱いていたことが。お目に掛かりたくて、声を聞きたくて、都に呼び寄せてしまったのは自分だ。そして今、この人はこんなにも苦しんでいる。それなのに、何もして差し上げられないなんて。他の女子さまとねんごろになっているのではと疑ってすらいたなんて。

「違う、悪いのは私。……ね、鷹見さま。夜が明けたら、私父上に頼んでみる。鷹見さまがすぐにでも里に戻れるようにって。だからもう、悲しまないで。私まで、悲しくなっちゃう……!」

 あとからあとから、溢れてくる後悔の気持ち。自分のことしか考えてなかった、彼の気持ちなんて少しも分かってあげられなかった。お優しい方だから周りの誰にも愚痴をこぼせず、ひとりで心の痛みを抱えるような真似をさせて。
  やっぱり、駄目なんだ。私じゃ駄目なんだ。いくらお慕いしても背伸びしても、鷹見さまはどんどん遠ざかるばかり。追いかけても追いかけても、永遠に届かない。

 せめて、あと一年二年早く生まれていたら。そうすれば夢は叶ったかも知れないのに。

「……萌ちゃん」

 もうすぐ居室に辿り着くと言うところまで来て、彼は急に足を止める。驚いて見上げる萌に、彼は膝をかがめて視線を合わせてくれた。

「俺は戻れないよ、大事なお役目を与えられているのだから。確かに寂しい気持ちはあるけれど、今ここでしか出来ないことを頑張らなくてはばちが当たると思う。もうこの先は萌ちゃんに心配掛けないようにしなくてはね、明日から心を入れ替えて頑張るよ」

 大好きな笑顔、真っ直ぐな眼差し。でも今夜はそれが胸に鋭く突き刺さる。悲しければ胸の内をさらけ出してお泣きになればいいのに、自分が相手ではそれは出来ないと仰るのか。憧れだけでは恋は出来ない、まだまだ足りないものが多すぎる。

 

 与えられるのは、いつも「兄上様」の優しさ。それをもどかしく想う気持ちは、あの閉ざされた花の森の芳しさに似て。

了(061116) 

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お題提供◇月見草様
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>桃が咲いて、雨が降る。するとあたりが桃の雨色に代わるのです。
桜の雨とは違った雰囲気ですよ。

こんなお言葉が添えられていて、うっとりとしてしまいました。
素敵ですねー、桃の花は香りも甘くて迷い込むと例えようのないほどの幻想的な雰囲気だとか。いつか花の季節に訪れてみたいものだと思います。天寿花は「桜のようだけど、香りが強い」という設定なので代替え品?として使わせて頂きました。
今回は「一体何の話なんだ??」と思われた方も多いのでは。語り手「萌」の父親「春霖」は「綴れ夢巡り」に出てきた「彼」です。自分を妹としてしか見てくれない憧れの君への想いを辿ってみました。うーん、難しいっ。
雰囲気だけ、さらっと味わって頂けたらと思います。