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◆ 37.インコ
「飼ってもいいかな?」 僕たちの暮らすおんぼろアパートには「ペット禁止」などというご大層な決まりはない。実際、薄い壁を一枚隔てた隣の部屋からは、時折子犬の鳴き声が聞こえてくる。 「うーん……」 だから、こんなに躊躇している理由は別にある。そのことに彼女もすぐに気付いたのだろう、難しい顔を続ける僕を下からのぞき込みながら言った。 「大丈夫だよ。私の家ね、昔飼ってたことがあるんだ。だからきっと、免疫は付いてる」 その言葉が本当であることを証明するように、その日から彼女はかいがいしく小鳥の世話を始めた。 ケージ(四角い鳥かごのことをそう呼ぶのだと彼女が教えてくれた)の掃除に餌や水の取り替え、こまめに温度調節をしたり窓辺に移動して日光浴をさせたり。端から見ていると面倒で変わりばえがなくて面白くもない感じだが、当の本人はとても楽しそうだ。 鳥に与える青菜が余ったからと、食卓におひたしが並んでいる。これではどちらが主人か分からないような感じだが、まあ栄養面から言っても好ましい食品であるから良しとしよう。 「そんなに世話好きだったとは、意外だな」 一緒に暮らすようになってからも、僕たちはひとりひとりの時間を大切にしていた。とにかくマイペースな僕と、それにすんなりと合わせてくれる彼女。仕事に集中して話しかけられたくない気分の時にも彼女の方から察してくれたし、一段落付いたらこちらから誘って散歩に出掛けたりもした。 道ばたの花の名前をひとつひとつ言い当てたり、でこぼこ道の水たまりをふたりで飛び越えたり。当てずっぽうな道のりがどこまでも僕たちっぽい。そんな日のランチは公園の出店でサンドイッチとポップコーン。スタンドの薄いコーヒーも半分ずつ分け合えばそれなりに美味しい。 いわゆる恋人同士といった甘い雰囲気は僕たちにはない。でも、こんな共同生活が丁度いいと思っていた。僕がそうなのだから彼女も同じに違いない、そう信じて疑わなかったんだ。 「えー、そうかな?」 いつも通りにおっとりと応える彼女。色素の薄いぽやぽやのロングヘアも長めに伸ばした前髪から覗くくりくりのドングリ目も出会った頃と変わらない。 「コウのことも、もっとお世話した方がいいのかな。ご飯、あーんってして欲しい?」 冗談じゃないと思い切り首を横に振って拒否すると、彼女は声を立てて笑った。それに反応するようにケージの中で鳥がバタバタと羽根を動かしてる。 冬の日溜まりが溢れる部屋でゆっくりと流れていく一日。こんな空間を手に入れることが出来るなんて、僕はずっと信じていなかった。
彼女には昔の記憶が少ししか残っていない。 本人はそのことにあまり気付いていない様子で、だから僕も長いこと気にも留めていなかった。 初めて訪れた彼女の生まれ故郷。小さな霊園に眠る彼女の両親とお兄さんに会いに行った。そのときに寄った売店のおばさんがハッとした表情になる。でも彼女の方といえば、全くの初対面のような受け答えだ。 「仕方ないんだよ、とても仲の良い親子だったからね」 水桶を手に彼女が店を離れたときに、おばさんは僕だけに聞こえる声で寂しそうに呟く。以前、彼女の暮らしていた家のすぐ近所に住んでいたというその人は、当時のことを今もはっきりと覚えていた。 全てを思い出すことが彼女にとって本当に幸せなことであるかどうかは分からない。大切な家族との記憶、それは何者にも代え難いものではあるが、その一方で例えようのない悲しみまでを一緒に運んでくる。
傍らで眠る彼女が、ひどくうなされる夜がある。尋常ではない苦しみように初めは驚いたが、この頃では無理にでも揺り動かして目覚めさせるようにしていた。 「……あ」 青ざめた頬が微かに動いて、彼女が瞼を開ける。弱々しい眼差しでようやく僕を見つけると、そのままぎゅっとしがみついてきた。 「怖い、このまま眠るとひとりぼっちになってしまう」 普段はどこまでも穏やかで、普通の人だったら怒ったり悲しんだりするような場面でも当然のように通り過ぎてしまうような彼女。だからこんな激しさが内側に宿っているなんて、最初は信じられなかった。 「駄目、どこにも行かないで。私を置いていかないで、お願いだから」 ―― 私よりも先に死んじゃ駄目。 こればっかりは僕がどんなに頑張ったところで守れる約束かどうかは分からない。だけど、とにかく必死で僕はその言葉に頷いていた。でも、この頃ではそれが少し変わりつつある。 「何言ってるの、ユウはもうひとりには戻れないんだよ?」 やさしく髪を撫でてやると、彼女は恥ずかしそうに首をすくめた。それから「そうだね」と僕の胸に額を押しつけてくる。細い背中を壊さないようにそっとそっと抱きしめた。 彼女のおなかに小さな命が宿っていると知ったとき、僕は新しい決意をした。 最初から百パーセント安全な生き方なんて有り得ない。あちこちがぬかるんでいたり崩れかけていたり、そんな道を注意深く歩いていくからこそ大切なものに出会うことが出来るのだろう。僕は彼女と一緒に、それを見つけてみたいと思う。そのためには何でもしようと決めた。 ここしばらくは彼女の精神状態も安定している様子で、悪夢に出会うことも少なくなっていた。それなのにどうしてだろう。新しい同居人も増えて楽しそうにしているはずなのに、また小さな不安が芽生え始めている。どうしたら彼女の中の闇を拭えるのだろうか、その答えを探りながら僕は部屋の片隅を見た。 「鳥、もう一羽飼おうか?」 僕自身も驚くような発言、口にしてからとても不思議な気分になった。 「え……どうして?」 案の定、彼女はよく分からないような表情になって僕の言葉の真意を確かめようとする。だけど、もう迷いなどなかった。 「ユウは敏感だから、みんな気付いちゃうんだよ。ひとりぼっちの辛さは、味わったことのない人には分からないものだからね」 彼女に出会う前の僕だったら、ケージの中にひとりぼっちの鳥を見ても何とも思わなかっただろう。一緒に暮らして何気ない日常を愛おしむことが出来るようになった今だからこそ、気付く「孤独」がある。 あの頃の自分は、一体どんな風にして生きていたのだろう。今となっては記憶の隅っこで思い描くことすらも難しい。 「……そうかあ」 彼女はいくつか瞬きをして、それからふんわりと微笑んだ。僕の首に腕を回して、耳元で囁く。 「じゃあ、次はコウが名付け親になってね。予行練習だと思って、たくさん考えていいから」 たったひとつのとびきりを見つけるために、部屋のくずかごには丸められた紙くずがどんどん増えていく。眉間にしわを寄せていると早く老けるよ、なんて笑いながら、彼女はとても幸せそうだ。 「うん、そうだね」 思い出はひとつひとつ、新たに育んで行けばいい。過去に戻って必死に拾い集めるよりも、その方がずっと簡単だ。それに、……心がゆったりと満たされていけば、ある日突然戻ってくるものもあるかも知れない。
―― 受け入れるだけの強さを、彼女がもう一度手に入れることが出来るなら。
月が静かに角度を変えていく夜更け、ようやく静かになった寝息を包み込んで僕も再びまどろんだ。 おわり (070307)
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お題提供◇柴崎まつり様(サイトは閉鎖されました) ----------------- 小さな生き物の命が教えてくれることはたくさんあります。 どこかの街の片隅で、ひっそりと育まれる物語。 これくらいの「温度」が心地よいです。 |