◆ 38.恋せよ乙女
当たり前のように上がり込んだ奴の部屋。缶ビールを何本も空けながら、コンビニ総菜をふたりで突っついて。何となくそんなことにも飽きたから、いつの間にかネイルケアなんて始めていた。 「とってもいい子なんだよ、今度は絶対に上手くいきそうな気がするんだ」 何と言っても、日頃のお手入れがいざというときの切り札となる。 「ふーん、そうなんだ」 ポリッシュオフ(マニキュア落とし)から始めて、指先を丁寧に温めながらの念入りにかたちを整えて削っていく。そのあと表面をしっかりと磨き込んで、甘皮の処理を終える頃にはまた小腹が空いてきた。気付けばやり始めてから二時間以上が経過してる。あんまりにも熱中していて、目の前に奴がいることすら忘れていた。 「良かったじゃない、たぶんそんな報告かと思ってたんだ。……で?」 キューティクルオイルを爪の根元につけてやさしくもみこむ。そのあと手全体をマッサージ。ああ、本当に生き返った気分。やっぱりたまにはこうじゃなくちゃ、念入りなお手入れって心まで穏やかになるわ。 テーブルの上の皿は中途半端に空になったまま。こんな状態で今までずっとぼんやりしていたのかな? まあ放っておいた私も悪いが、話があるならもっと早く切り出してくれれば良かったのに。相変わらず鈍くさい奴、呆れてものも言えない。 「ありがとう、なっちゃんにそう言ってもらえると本当に嬉しいな」 ようやく顔を上げたら、そこにあったのは普段通りののんびりした笑顔。日本人の平均値よりも若干白目の肌色だから、余計にぼやけて見えるのかも知れない。中肉中背、可もなく不可もなくの容姿。職場では一応営業担当だって言うけど、一体どんな顔して顧客に接しているのか想像も付かない。 ―― ま〜、おめでたい顔しちゃって。 個人的好みとしてはもうちょっとくっきりした目鼻立ちが好みだったりするんだけど、この際それは脇に置いておいて。古なじみの幸せそうな姿を目にすれば、自然とこっちの顔もほころんでくる。ほら、同級生の結婚披露宴に呼ばれてさ、ひな壇を見て訳もなく涙腺が緩んじゃうのと同じ現象よ。何というか「立派になったもんだねえ」とか妙に近所のおばちゃんチックになってしまうのね。 「どういたしまして」 うう、マジでうるうるしちゃうじゃないの。思わず熱くなった目頭を必死で押さえてたら、いきなり思いも寄らぬ爆弾が投下された。 「俺、今回はひとりで頑張れそうな気がする。だから、なっちゃんの応援はいらないからね」
「あれ〜? お姉ちゃん、いたんだ」 先ほどまでぶんぶん響いていたドライヤーの音がいつの間にか止んでいる。一体どういう建て付けになっているのやら、とにかく音の通りの良い家だ。さらに私の部屋の真下が洗面所という配置も気に入らない。夜更けにベッドに寝っ転がっていると、たまに父親の鼻歌が聞こえてくるのは勘弁して欲しいと思う。 「……う〜〜〜っ……」 いちゃ悪いか、私はあんたの姉でこの家の住人だぞ。しかも夜勤明けでぼろぼろ、今週は無茶なシフトが多かったためかすでに廃人状態だ。今日一日の貴重な休みにしっかり養生して、明日からはまたフル回転でいかなくては。 「じゃあ、私はそろそろ出掛けるよ。今夜は夕ご飯食べてくるから。お父さんたちも戻るの遅くなるんでしょ? お姉ちゃんも外で済ませちゃえばいいのに」 クリームイエローの上着に、同系色のフレアースカート。膝小僧ギリギリの丈が、標準に満たない身長をカバーしているつもりか。耳たぶにキラキラとぶら下げて、気合いが入ってるのは一目瞭然。それもそのはず、今夜はフィアンセでもある会社の同僚との待ち合わせなんだから。 三歳も年下の妹に先を越されることになって、内心は穏やかではない。しかしここは年上の貫禄で笑って送り出さなければ。子供の頃から頭のネジが何本か落ちているんではないかと思うほどに抜けている奴だったから、これからはダンナに全てを託せると思えばこちらの気苦労もなくなるというものだ。 「別にーっ、……そんなに食欲もないし」 このままサンダルをつっかけて出掛けることが出来るなら、そうしたいのは山々だ。でも、仮にもレディーともあろうもの、あまりに情けない格好で醜態をさらすことがあってはならない。身支度には最低でも1時間は見込まなければ。今朝はクレンジングだけしてベッドに倒れ込んだから、シャワーを浴びることから始めなくてはならないし。 「……ふうん、そうなの」 相変わらず、間の抜けた声。これで半月後には人妻になれるのか、この上なく心配ではある。まあ、相手は「あの」男であるから、割れ鍋に綴じ蓋のお似合いのカップルではあるのだろう。 「じゃあ、本当に行ってきますーっ!」 ひらひらと手を振る、その姿の緊張感のないこと。社内でも一番人気のサラブレッドを射止めたために未だに色々と嫌がらせは受けているらしいが、そんなことは浮かれた態度からは全く感じ取れない。 思えば。 私の人生の大半は、他人への気苦労で費やされていた。正確には約二名の人間によって、しなくていい心配ばかりを続けてきたようなものである。ひとりは今出掛けていったちゃらちゃらの妹、そしてもうひとりとは……もうひと月以上連絡を取っていない。 「なっちゃんの応援はいらないからね」 そう言われてしまっては、もうこちらとしてはどうすることも出来ない。 今まではひとたび奴に好きな人が出来ればすぐさま出向いて品定めをし、ターゲットである相手に合わせた手段をあれこれとアドバイスしたものだ。ま、それまでの経験から言って、相手をチェックした時点で「こりゃ無理だろう」と頭を抱えたけどね。何しろ、高嶺の花も高嶺の花。そんじょそこらの男じゃ太刀打ちできないような相手ばかりだったし。 「……だからって、報告くらいしろよな」 そんな義理もないと言いたいのか、それならそれでいいけど。こっちだって他人の尻ぬぐいをしなくていいなら幸いだ。ようやく自分自身に目を向けることが出来るのだから。 今までは男を見れば「妹にふさわしいか」ばかりを考え、新人の女の子が入ってくれば「奴にはお似合いだろうか」とついついチェックが厳しくなってしまった。付き合った男もいるにはいるが、あまり長続きがした記憶がない。当たり前の男とのあれこれはとにかく退屈で、すぐに飽きてしまうのだ。元々短気な性格が災いしているのだろう。 「薄情な奴――」 最後に見た照れ笑いが、今も心に焼き付いてる。正直、ここまでダメージを受けるとは考えていなかった。奴に好きな相手が出来るのはそう珍しいことじゃないし、本当に幸せになってくれるのであれば祝儀袋を片手に駆けつけてやってもいいと思っていた。……なのに。 この頃では何もかもが億劫になって仕方ない。あの日に念入りに整えたはずの爪も、その後手入れを怠ったために今ではネイルがうまく乗らなくなっている。奴から連絡をしてこないなら、こっちからもしてやるもんかと思ってた。どうしてそんな風に意地を張ってしまうかも分からない。 奴とはいわゆる「幼なじみ」という間柄だった。 でも、中学までは一度もクラスが一緒になったことはなくて、名前や顔は知っているもののそう親しいと言う訳でもなかった気がする。 そうしている間にますます仲良くなって、一時は本当に男と女として付き合っていたこともある。お互いの初体験の相手であったりもするんだな。あの頃はとにかく好奇心の方が大きくて、相手は誰でもいいからとりあえず経験してみたいって気持ちの方が強かった。終わってから「なーんだ」って思って、それきりだったけどね。 ―― でもなあ、……こんな風にあっという間に駄目になっちゃうなんて。 男女の友情は成り立たないとか言うけれど、奴と私だけは大丈夫かと思っていた。互いに好きな人が出来ても結婚しても、たまに会って馬鹿話が出来るんじゃないかなとか。そんな風に都合のいいことを考えていた気がする。 「ま、仕方ないかな」 ひとりの部屋で、自分に言い聞かせる。奴には奴の人生があるのだ。こうして離れてしまっても最悪二度と会うことがなくなっても、それならそれでいい。どこかで楽しくやってるならいいじゃないか。もしも上手くいかなくなったら、必ず泣きついてくるんだから。私はそのときを待っていればいい。 そう……改めて考えてみれば、顔を合わせないでいる期間が長ければ長いほどお互いが順調に過ごしているということになる。そうか、今の状態は奴にとっての「快適」なんだ。 ……だったら、私もこの現状を受け入れなくてはならない。他でもない、奴のために。 ずーっとずーっと永遠に続いていけばいい、もう奴の存在なんて記憶の片隅にすら残らないくらい遠くに遠くに消え失せてしまえばいい。そんなの簡単だよ、私にだったら朝飯前だ。 うん、……きっと多分。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」 どれくらい経ってからだろう。 コンコンコン、とノックの音。続いて、とっくに出掛けたはずの妹の声がする。枕に押しつけていた顔をようやく持ち上げると、寝ぼけた視界に満面の笑みが飛び込んできた。 「あのね、落とし物を拾っちゃったの。私、とっても急いでるから預かってくれないかな?」 ……は? いきなり何を言い出すんだ。だからコイツは訳が分からないんだ、もっと順序立てて説明してくれなければ分からないぞ。 「拾ったものならさっさと交番に届ければいいじゃない? それくらい自分でやってよ」 こっちはおよそ人前に出られない有様なんだ、勘弁して欲しい。不快な気持ちをしっかりと示したはずなのに、妹はまだヘラヘラ笑ってる。 「うーん、でもね。玄関の前で立ちんぼのまんま漬け物石みたいなんだもの、これ以上動かすのは無理だよ。一応、中に引っ張り込んでおいたから、あとはよろしくね。ごめん、今日はショップで引き出物を選ぶからもう時間ギリギリなの!」 時計を確かめて、ひゃあっとマンガみたいに飛び上がって。そのあとドタドタ階段を下りていく。その落ち着きのないこと、本当にあの子は幼稚園児の頃から全然成長していない。結婚して母親にでもなった日には、すぐに我が子に精神年齢を抜かされてしまいそうだ。 ―― 何なんだ、もう。せっかくうとうとと眠りかけたのに、迷惑かけるんじゃないわよ。 そう思いつつも仕方なく起きあがる。だって、あの言い方。どう考えても生き物を拾った感じだもの。捨て犬を玄関に放置されて家に上がり込まれたら、大変なことになってしまう。ああ、面倒。まあ、犬猫相手なら寝起き姿でも支障はないだろうし。 「……あ」 のろのろと階段を下りていくと、玄関の辺りにアイボリーの固まりが見えた。最初は雪だるまが置かれているのかと思ったが、よくよく見ればそれはフード付きの上着。こっちに背中を向けたままうずくまっている。 「―― 勝平……?」 そんなはずはない、そう思いたかったのに気付けば名前を呼んでいた。だって知ってるもの、この上着。右の肘と袖口に青い塗料が付いてる。あれは高校の予餞会、看板を作っているときにドジってしまったものだ。そんな情けない服なんてさっさと捨ててしまえばいいのに、未だに毎年真冬になると取り出してくる。 「なーにやってんだよ、いい大人がいい加減にしろよな?」 ―― また、駄目だったのか。 すぐにそう気付いたけど、そのまんまを口にするのは止めようと思った。こんなに落ち込んでいる様子なのに、傷口にさらに練り辛子を塗り込むような真似はしたくない。 「ま、上がりなよ? 何か温かいものでもいれるからさ。今、みんな出払ってるし遠慮することないよ」 うんうん、まずまずの対応。やっぱ私は大人だなと思う。なんだかんだとごちゃごちゃ考えてたけどさ、こうやって本人を目の前にすればちゃあんと出来るじゃないか。 だけど。 こっちが最大限に優しい言葉を掛けてやったっていうのに、奴と来たらうんともすんとも言わない。それどころかぴくりとも反応せずにそのままの姿勢を保ってる。もしかして、寝てるとか? いや、他人の家に来て玄関先で寝込む馬鹿もいないだろう。 「その、……いいから」 ようやくそんな声が聞こえてきたのは、しびれを切らした私が台所の方へと歩き始めたとき。 「用事なんてないから、すぐに帰るから心配しないで」 振り向くと、自分の声に従うように奴はゆっくりと立ち上がる。ふらふらっと数歩前に進んで、閉じたドアにボンとぶつかった。 「ば、馬鹿っ! 何やってんだよ、お前は……!」 慌てて駆け寄ると、もふもふ上着の背中をドアから引き離そうと試みた。何、額をドアにくっつけてるんだよ。この瞬間に外から開けられたりしたら、コンクリートに顔から突っ込んじゃうぞ。 「いい、……いいから」 一体どういうつもりなんだろ? この期に及んで、奴は私の手を振りほどこうとする。言葉だけじゃなくて身体全体で拒否反応を示して、もうこれ以上近づくなって無言で訴えてるみたいに思えた。 「今、なっちゃんの顔を見たくない。だから帰る、ごめん」 奴は自らの手でドアノブを回すと、そのまま出て行く。追いかけようとした私の鼻先で、ばたんとドアが閉じた。
何だよ、もう。訳分からないったら……! 血管プチプチの怒りモード。とは言え、追いかけていって反撃するには無理のある寝起きスタイル。奴がそこまで計算して逃げたのかどうかは定かじゃないが、何というかとにかくこのままじゃ収まりがつかない。 仕方ないから早送りの15分でどうやら身支度を整え、爆発したままの頭はニット帽で誤魔化してみた。家着である「綿入れはんてん」ではあんまりだから去年のダウンを引っ張り出してくる。 「よーし、待ってろよ! 勝平の奴っ……!」 勢いよく玄関ドアを開いたら、すぐそこで「ゴン」と大きな音がした。 「いたたたた……」 跳ね返ってきた扉にこっちも額をしこたま打ってクラクラ。それでもすぐに気を取り戻してドアの向こうを覗くと、そこにはやはり「雪だるま」がうずくまっていた。そう、右腕に塗料のあとがくっついてる上着で。 一体どういうつもりなんだ、人の顔を見たくないって出て行ったのに再び「漬け物石」状態。建て売り住宅の猫の額ほどのエントランスに丸まってたら、脇を通り抜けることも難しい。妹がたまりかねて玄関に押し込んだのも頷ける。 「ばっかだねえ、何をそんなにヘタってんだよ? 駄目なら駄目で、すぐに次に行けばいいって言ってるだろ。こんなん、いつものことじゃないかっ!」 落ち込んだ人間を前にして、ここまで乱暴な口が叩ける自分がすごいと思う。だってさ、しょぼくれるのは勝手だけどさ。こうやって目の前でやられるのは勘弁して欲しいのね。こっちだってそれほど元気な訳じゃないんだよ、見てるだけで疲れ倍増するような姿で出て来ないでよ。 ……とか言いつつ。 何だか不思議、いつの間にか全身にパワーがみなぎってる。おなかの底から大声で叫んだら、それだけですっきりしたみたい。ああ、そうだ。こんな風に勝平にゲキってる自分がすごく嬉しい。 「ほら立ちな。今日は気前よく飯でも奢ってやるから、気の変わらないうちについておいで」 こっちは運動神経もピカイチなんだからね、威勢良く「漬け物石」を飛び越える。幅跳びと高跳びを足して二で割ったような感じで。芸術点10点満点の着地を決めたら、つんと上着がつれた。振り向くと奴が後ろから掴んでる。 「……ちがうん、だって」 いや、違わないだろう。いつも以上に落ち込んで、今回はかなりひどいやられ方をしたんじゃないか? いいよ、この期に及んで。相手の女を持ち上げなくたって。 もう一声掛けてやろう。そう思って息を吸い込んでたら、またぶつぶつとしゃべりだす。 「自分で考えてた以上に、どんどん話が上手くいくんだ。あの子、俺のことをすごく気に入ってくれて……だから、それでもう最高な気分のはずなんだけど……何でか、とても怖くなって」 よく分からないが、それで自分から終わりにしてきたのだという。彼女は最後までとても優しくて、それなのにもう限界だったと。 「だってさ、彼女と上手くいっちゃうと……なっちゃんに会えなくなるんだ。自分ひとりで頑張ろうと思ったのに、いい報告をして喜ばせようって思ってたのに、それなのに……もうこれ以上は我慢できなかったんだ」 ぐしぐしっと鼻水をすすり上げて、本当に情けないったら。これで顔を上げたりしたら、もっとひどいものなんだろう。 「……馬鹿」 もう他に何も言葉が浮かばない。嫌になるよな、実際。だって、こんなのって有り得ないよ。だけど嬉しい、滅茶苦茶口惜しいけど嬉しい。そんな自分が信じられなくて、こっちまで涙が出てきそうになる。 「動かないなら、先に行くからね。久しぶりに顔見たら腹が減ってきたよ、これ以上はどうにも待てないから」 戻ってきて嬉しい―― なんて、絶対に言ってやらない。喉の途中まで出掛かった言葉も今は飲み込んでおく。 わざと大股で早足に進めば、慌てて追いかけてくる足音。 新しい物語が始まりそうな秋の終わり。まだ「予感」でしかないはずの気持ちを、すでにじわじわと確信していた。 おしまい♪ (070319)
|
|
|
|
お題提供◇久慈とーや様(サイト・Premium Box) ----------------- 「Simple Line」にちょっとだけ出てきた真雪の姉・真夏のお話。「まなつ」だけど「なっちゃん」です(笑)。 しっかりしているようでどこか抜けている憎めないキャラ、今回もとても楽しんで書けました。 |