TopNovelさかなシリーズ扉>ふわふわ・りん/前編
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…前編…

 

 

 今より少しだけ、昔のお話です。

 トウキョウの西のはじっこに、ひとりの女の子がおりました。
「女の子」と言っても、今年で19歳。地元の高校を出て、洋裁の専門学校に通っています。

 名前は「みらの」さん。ちょっと変わってます。
 どうもイタリアの都市の名前らしいのですが、そんなことは、みらのさんにとってはあまり重要なことではありません。両親が悩んで悩んで決めてくれたこの名前をとても気に入っていました。
 
 その頃は、トウキョウものんびりしたものでした。
 細い道の両側は、見渡す限りのキャベツ畑が広がっていました。春の終わり、モンシロチョウがふわふわと飛んでいる畑は、もこもことしたキャベツたちがちょっとくたびれたようにひなたぼっこしてます。

 その道を今日もみらのさんは通ります。

 学校からの帰り道。宿題の入ったカバンを持って、ふわふわと。「歩く」と言うより「ふわふわと」と言った方がいいのは、彼女が軽やかにスキップしているからでしょう。
 
 みらのさんはいつもふわふわのドレスを着ていました。襟ぐりにも袖口にもフリルとケミカルレースがこれでもかと言うほど付けられて、袖は大きなちょうちん型。ウエストは後ろできゅっと大きなリボンを結んで、スカートは何段にもなったふわふわの長いもの。
 
 子供の頃、お金持ちのお友達の家で見た、ピアノの上の人形のようです。それは、かぱかぱした円筒形のケースに入れられて、こちらを見下ろしていました。

 ついでに今日はドレスと同じ布の大きなリボンも髪に結んでいます。手にはこれまたひらひらのレース飾りの付いた日傘を持っています。日傘は昔「モガ」と言われたおばあさんが使っていたものでした。

 こんな格好でキャベツの中を行けば、嫌でも目立ちます。奇異に映るかも知れません。でもみらのさんの場合はひょろりと高い身体に、ふわふわのウェーブした髪の毛。まつげの長く色素の薄い彫りの深い顔立ちで、その「ふわふわ」がとても似合ってました。

 何より、背筋をピンと伸ばして、軽やかにスキップを踏む姿はとてもしあわせそうです。

 彼女はいつでもそんな風です。特別に嬉しいことがあったみたいにうきうきしていました。

 

 

 そんなみらのさんを今日も物陰から見つめている男の人がいました。
 名前は「善五郎」さんといいます。小さな田舎の村の生まれで、10人兄弟の9番目でした。
 
 お家は貧しい農家で、お母さんは夜が明ける前から陽のとっぷり暮れるまで畑で黙々と働き、夜は繕い物の内職をしました。
 もちろんお父さんもいましたが、この人は家で採れた野菜を市場に売りに行くと、そのお金で賭け事をしてしまうような人です。いつもすっからかんで帰ってきて、お母さんにお金をせびりました。体格も良く、なかなか男前ですが、人間的にはちょっと困った人でした。

 子供心に善五郎さんはお母さんを可哀想だと思っていました。働いても働いても生活は楽になりません。そのころ善五郎さんのお友達は野球に夢中でしたが、彼はグローブを買うことも出来ません。親戚からお下がりに貰ったぼろぼろのグローブは善五郎さんのちっちゃい手が中で泳いでしまって、使えなかったのです。お母さんの畑仕事を手伝うと言って、いつも友達の誘いを断りました。
 お母さんは控えめで優しい人でした。お父さんのことも悪く言いません。善五郎さんや他の兄弟が父親のあまりの横暴さを訴えると、彼女はいつも笑って言いました。

「いいじゃないか。お父ちゃんは、賭け事ばかりしてるが、女遊びはしない。ご主人が女を買ったり、囲ったりして泣いている人はたくさんいる。お父ちゃんはよく働くし、優しいし、お母ちゃんにこんなにたくさんの子供を産ませてくれた」

 そう言うと、お母さんは歳よりもずっと老けて見える小さな曲がった背中で、にっこりと笑いました。そう言われてしまうと、善五郎さんも他の兄弟も胸がいっぱいになってしまって、何も言うことが出来ませんでした。

 子供は親のどちらかに似るものです。善五郎さんはお母さんにそっくりでした。がっちりして上背のあるお父さんに似れば、それなりに男前だったでしょう。2番目と4番目のお兄さんはそう言うタイプで学校でも良くモテました。
 でも善五郎さんは体つきも頭もみんなお母さん似です。小山のようにちんまりした身体に短い手足が付いています。手のひらも肉厚で小さめです。ひとつ違ったのは、暗がりで勉強ばかりしていた善五郎さんが黒縁の眼鏡をかけていることぐらいでした。

 お母さんも実はとても頭のいい人でした。でも昔のことで「女に学問はいらない」と言われ、女学校にも行かずに畑で働きました。

 善五郎さんは昼も夜も勉強しました。お風呂をもしたり、薪を運んだりしながら、片時も本を離しません。学校の図書室の本は全部読んでしまいました。難しい参考書は学校の先生が自分のお古をくれました。

 とにかく勉強して、偉くなろうと思いました。大学に行って、偉い役人さんになって、お母さんを喜ばせようと思ったのです。今は「奨学金」制度があるので、善五郎さんでも上の学校に行くことが出来ます。高校も奨学金を貰って行きました。とても成績が良かったので、先生が地元ではなくトウキョウの国立大学に行くようにと言いました。幸い、校長先生の知り合いがトウキョウのはずれで下宿屋をしてました。

 こっちに出てきて、丸3年がたちました。この4月から4年生です。これから各種の公務員試験があります。田舎に戻って、学校の先生になる方法もありましたが、人前で話すなんてとんでもない、恥ずかしがり屋さんの善五郎さんです。書類に向かって黙々と仕事するような職場がいいなあと思っていました。大学は法学部ですから、司法試験も受けられます。先輩たちには政府の役人になっている人もたくさんいますから、その仕事を手伝う求人も多く来ていました。

 

 

 善五郎さんが初めてみらのさんを見たのは、今年の初めでした。
 お正月明けに田舎から戻ってきた彼はバス代を浮かせるために、このキャベツ畑の道をとぼとぼ歩いていました。

 その時です。

 真冬だというのに白いふわふわのドレスを着込んで、ふわふわと歩くみらのさんが善五郎さんの視界に入りました。今までもすれ違ったことがあったのかも知れません。でも善五郎さんはいつも歩きながら難しい本を読んでいましたから、見過ごしていたのかも知れません。

 モンシロチョウがふわふわと飛んでいるような。いえ、それより風に吹かれたシャボン玉が空へ浮遊しているような不思議な足取り。善五郎さんの目は釘付けになりました。

 そのままみらのさんは善五郎さんには気付かずに、ふわふわと通り過ぎます。すれ違った瞬間に、何とも言えない花のようないい匂いがして、善五郎さんの胸はどくんと高鳴りました。

 まるで、映りの悪い映画館でざりざりした画面の中に初めてオードリー・ヘップバーンを見たような。

 トウキョウ暮らしに慣れたはずの善五郎さんでしたが、その時初めて、女の人にときめきました。

 それから注意してみると、みらのさんは毎日大体同じ時間にこの道を帰ることが分かりました。

 3月までは高校生でしたから、ウィークデーはセーラー服です。でも見慣れているはずのセーラーがみらのさんに袖を通されると、とたんにふわふわする気がします。えんじ色のスカーフもみらのさんの味方です。彼女の足取りに合わせて、ふわふわしました。
 大学が春休みになった善五郎さんは、毎日、その通りでみらのさんを待ちました。


 でも彼女は善五郎さんには少しも気付きません。

 それでもいいと思いました。


 背筋を伸ばして斜め上の辺りを見ているみらのさんは、斜め下の辺りを、俯いて歩く彼を視界に入れることが出来なかったのです。善五郎さんもとても声を掛けることが出来ませんでした。ただ、毎日のすれ違いの一瞬のときめきが、善五郎さんをとてもしあわせにしました。この時間が明日もあさっても永遠に続けばいいと思いました。

 春になると、みらのさんはいつもふわふわドレスで通るようになりました。その服は実は彼女の手作りで、親戚の生地やさんが譲ってくれた安い布で作られていることを善五郎さんは知りません。柔らかくウェーブした髪の毛も実は天然のものですし、いい匂いは香水ではなくシャンプーの香り。物持ちのいいみらのさんがおばあさんやお母さんの靴やバッグを大切に使っていることも分かるはずもありませんでした。


 子供時代のみらのさんはそんなドレスを着ることはありませんでした。

 街のクリーニング工場に勤めるお父さんと、近所のやおやさんで店番をしているお母さん。2人が働いたお金は、みらのさんと弟と4人がやっと暮らしていける金額。それは分かってます。
 当時はお母さんの手作りの服を着ている子がほとんどでしたから、みらのさんもお母さんが夜なべして作ってくれるブラウスとつりスカートを着ていました。布がわずかですむように、ギャザーを寄せないシンプルな服です。みらのさんは身長は高い方でしたが、細っこくて肉のない体格をしています。ですから、ぴっちりした服は余計貧相に見えました。
 それでも文句なんて言えません。お母さんは時間をかけて、ブラウスの襟にブランケットステッチで作る、まあるいお花をたくさん刺繍してくれました。眠い目をこすりながら頑張ってくれるお母さんを知ってたので、みらのさんはしあわせです。そのブラウスに袖を通すと、嬉しそうににっこりしました。 

 みらのさんは欲しいものは出来る範囲で何でも作ってしまう女の子でした。

 ですから中学生の時、家庭科の時間にパジャマの制作があって、型紙も自分で工夫して、好きな形に作りましょうと言う先生の言葉に、みらのさんの胸は高鳴りました。
 早速、お父さんの職場で捨てられそうになっていた洗い晒しのシーツをたくさん貰ってきました。それでふわふわのギャザーのたくさん寄ったネグリジェを作ったのです。でもごわごわの生地では肩が凝りそうな重くてだっぷりしたモノになってしまいました。ふわふわのギャザーをたくさん寄せるには気の遠くなるくらいの布が必要です。ただですら重くて硬いシーツでは上手に作れるはずもありません。
 みらのさんの挑戦は続きました。安くて軽い布を見つけては、ドレスを作ります。高校を出る頃にはとても気に入った服が作れるようになりました。材料費も驚くほど安く、普通の毛のスカート1枚分です。

 そして、もっともっと素敵な服が作りたいと、洋裁の学校に行くことにしたのです。

 

 

 春の終わりのその日は、時折突風が吹き荒れました。遮るものの何もないキャベツ畑を風が渡ってきます。

 ふわんふわんと歩いていたみらのさんが、一瞬足を取られました。あまり高いところを飛び跳ねていたので、風に引っかかったのでしょうか。足がもつれて、善五郎さんの目の前で転びました。

 心臓が止まりそうになったのは、善五郎さんです。

 斜め上の辺りを浮遊しているはずのみらのさんが、足元にいます。地面に付いた可愛らしい膝小僧から血が滲んでいました。

 慌てて、ポケットを探ると白いハンカチが出てきました。
 それは田舎を出るときにお母さんが2枚用意してくれたものです。どんなときでもきれいに洗った真っ白なハンカチで、すっきりといるようにと言われて、毎日洗って2枚を交互に使っていました。
 ですから今日のハンカチもとても綺麗です。

「大丈夫ですか?」
 善五郎さんは心なしか汗ばんだ手でハンカチを差し出しつつ、言いました。

 みらのさんはきょとんとした顔で、善五郎さんを見上げます。善五郎さんの方はもう何ヶ月もみらのさんを見ていましたが、みらのさんが善五郎さんをちゃんと見たのはこれが初めてだったのです。

「ええ、大したことありませんので、お気になさらないで」
 その声が鈴を転がすように軽やかで優しい音色をしているのに、善五郎さんはもうどうしていいのか分かりません。

 すぐに跪くと、みらのさんの膝小僧をハンカチで拭いました。真っ白なハンカチは見る見る土と血で汚れていきます。側によると、ますますいい匂いがしました。

「申し訳、ありません」

 そんな申し訳なさそうな声も緊張した善五郎さんの耳には届きません。
 暫くして、顔を上げると、至近距離にみらのさんの笑顔がありました。

「ば、ばい菌が入るといけませんから、早く手当てしてくださいね…」
 もう、善五郎さんの顔は真っ赤です。どうしていいのか分かりません。ガクガクと身体を震わせながら、立ち上がり、背中を向けようとすると、みらのさんの手が素早くそのハンカチを奪い取りました。

「…すっかり汚れてしまって。ちゃんと洗って返しますので…また、ここへ来ていただけますか?」
 優しいけど、きっぱりと言いました。

 体中から蒸気が出るほど真っ赤になった善五郎さんは、俯いたまま小さく頷くしかありませんでした。

 

 

 次の日。

 善五郎さんがその場所に行くと、みらのさんはもう待っていました。
 ひらひらと手を振られて、善五郎さんはびっくりです。

「こんにちは、これ、ありがとうございました」
 綺麗に糊付けしてアイロンがけしたハンカチが手渡されます。

 震える手で受け取ると、みらのさんは更に言いました。

「ところで、お昼ご飯は召し上がりましたか?」

 今はお昼の3時です。そんな時間にお昼ご飯の話をするのはちょっと変わってますが、そこはみらのさんです。

「あ、いいえ…」
 実は善五郎さんは、お昼はおろか、昨日の夜から何も食べたくありませんでした。食べ物を前にしても胸がいっぱいになってしまって、食欲が湧きません。みらのさんの視線が自分に向けられたこと、そして言葉を交わしたことで、善五郎さんはどうしようもなくなっていたのです。

「ああ、それは良かったです」
 みらのさんはにっこりと笑うと草むらにちょこんと座りました。まっしろなドレスが汚れないかと善五郎さんは気が気じゃないですが、このドレスは水洗いが出来るのです。みらのさんはちゃんとそう言う布地を選んでいました。

「実は、今日、学校を早く退けようと思って…お昼ご飯を食べないで提出物を作っていたんです。サンドイッチなんですが、沢山ありますので一緒に食べましょう」


 そう言って、籐で編んだランチボックスを開きます。色とりどりのジャムが塗られたパンがたくさん入っていました。

 それを見たとき、善五郎さんのおなかが急にすいてきました。みらのさんの差しだしてくれたお手拭きで手を拭くと、夢中になって甘いサンドイッチをごちそうになったのです。

 

 

 ふわふわのみらのさんと善五郎さんは、それからも毎日そこですれ違いました。

 ひとつ変わったのは、立ち止まって少し話をするようになったことです。
 善五郎さんは会話をするのがあまり得意ではありませんでしたが、どんなつまらない話でもみらのさんはころころと笑いながらとても楽しそうに聞いてくれます。それが嬉しくて、善五郎さんは話すことが少し好きになりました。

 そしてドキドキしながらも、ちゃんとみらのさんの目を見て、話せるようになりました。お母さんと兄弟たち以外にこんな風に話が出来るのは初めてのことです。

 それでも善五郎さんには不安があります。毎日のこの逢瀬が楽しければ楽しいほど、いつまでこのしあわせが続くのかと思ってしまうのです。季節は夏が終わって秋が深まっていました。公務員の試験は受けましたが、きちんと進路は決まりません。田舎には年老いた両親がいますが、ちゃんと跡を取った長兄が面倒を見ています。善五郎さんは自分の力で生きて行かなくてはなりませんでした。

 仕事を始めたら、みらのさんには逢えなくなってしまいます。こうして毎日、ついでのようにすれ違うならともかく、時間を決めて逢い引きをするなんてとても出来ることではありませんでした。善五郎さんの方から誘うことなど出来ませんし、みらのさんもあの通りの性格ですので、難しいことは一切考えていないようです。
 それを思うと、胸が締め付けられました。

 いつまでも、いつまでも一緒にいるためにはどうしたらいいのでしょう。善五郎さんには分かりません。

 ある時、思い切って、みらのさんに訊ねました。新聞の片隅に載っていた読み物を参考にして。

「あの、みらのさんは…一般論として…顔のいい男の人と、背の高い男の人と、仕事の出来る男の人と…どういう人がいいと思いますか?」

 これはいわゆる「三高」と呼ばれるものですが、当時はまだそんな言葉はありませんでした。でも一般的には良く言われていることです。「男は見かけじゃなくて心だ」という言葉もあります。

 善五郎さんの質問に、みらのさんはきょとんとしました。今までそんなことは考えたこともなかったからです。みらのさんの頭の中にはふわふわしたしあわせがいっぱい詰まっていましたが、まだ具体的にどんな男の人がいいかなんて考えたこともありませんでした。

「そうですねえ…」
 でも、正直に答えなくては、と思いました。善五郎さんの顔がとても真剣だったからです。一生懸命質問する人には、一生懸命答えなくてはならないとみらのさんは知っていました。

「善さんの…おっしゃることは、よく分からないの。でも私だったら、そんなことより、いつもいつでも一緒にいられる人がいいと思います。時間はお金じゃ買えないでしょう?」

 こぼれそうな大きな目をくりくりさせてみらのさんは言いました。

 みらのさんのお父さんは毎日、きちんとお家に戻ってきました。でも近所のお家ではそうでない所も沢山ありました。折しも「高度経済成長」です。オイルショックからも立ち直り、世の中は工場の生産が追いつかないぐらい、活気づいていました。
 遠い地方の工場に単身赴任をしているお父さんもいます。船に乗って何ヶ月も戻ってこない人もいます。
 それはとても悲しいことだと、みらのさんは考えていました。

 …いつでも一緒にいられる…?

 どうしたらそれが実現できるのでしょう。それがその日からの善五郎さんの最大の悩みになりました。

 

 

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