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…後編…

 

 

 ある日、善五郎さんは下宿の近くで張り紙を目にしました。

「このお店を売ります」

 聞くところによると、そこは街の小さな本屋さんでした。街道沿いでそれなりにお客さんも来ますが、切り盛りしている年老いた夫婦が息子の元に引き取られることになりました。息子は両親の部屋を建てて、来るのを待っているそうです。老夫婦はこの店を手放すことにしましたが、お店を閉めてしまうのではなく、誰か適当な人に引き継いで貰えないかと考えたようです。売ったお金を息子に渡せば、家のローンの支払いにも回せます。

 善五郎さんは決心しました。

「このお店を譲ってください」

 善五郎さんの趣味は勉強と貯金でした。友達に見せられない程の貯金があります。いろいろバイトをしたり、バス代を浮かせて歩いたりして貯めたお金でした。善五郎さんはとても字が綺麗でしたので、大学の教授が論文を書くときに清書を頼まれます。それがいい小遣い稼ぎになっていました。

 そのお金で田舎の両親に小さな部屋を建て増してあげたいと思っていました。長兄のお嫁さんはすらりと背の高いとても気の強い人でした。台所も改築して、自分にあった高い流し台を取り付けました。腰の曲がった小さなお母さんはその台所が使いにくそうです。毎日のおさんどんはほとんどお母さんの仕事だというのに、とても可哀想でした。それに大きくなってきた甥や姪が自分の部屋を欲しがったため、両親は狭い3畳の納戸に押し込められていました。
 口を出すだけでは嫌な顔をされるでしょうが、お金を添えて言えば、長兄も頷いてくれるのではないかと思います。お母さんの手の届く小さな台所と日当たりの良い両親の部屋を土地の大工さんに作ってもらうのです。

 大切なお金でした。
 でもこれから自分の力で働いて、ゆくゆくは小さくても「一国一城の主」として生きていこうと思っていた善五郎さんにとって、住居付きの店舗はとても魅力的でした。お店の経営は全く分かりません。でも勉強すればどうにかなります。そしてみらのさんがあの道を通る夕方だけお店を閉めるか誰かに店番を頼んで、会いに行けばいいのです。

 でも、話は簡単にはいきませんでした。本屋さんの老夫婦も仲介した不動産やさんも難しい顔をしました。まじめな若者ではありますが、善五郎さんにお店の代金の全てが支払えるか見極めることが出来なかったのです。他にも買いたいという人はいました。
 善五郎さんの実家は田舎の小さな農家で、万が一の時に支払いを肩代わり出来ないと言うこともネックでした。

 善五郎さんはなかなか諦めることが出来ませんでした。何度断っても訪ねてくる彼に、とうとう不動産やさんはひとつの条件を出しました。

「全額すぐに払えとは言いません。半月後までに頭金を揃えてきてください。後は月賦でいいですので」

 不動産やさんは善五郎さんがお金を払えるのかどうか、試したいようでした。全体の4分の1のお金が提示されました。それは善五郎さんにとってあんまりにもの大金でした。そして、今までの貯金全額に加え、大学の教授に前借りしたり、下宿屋の主人に工面して貰って、どうにかあと少しの所まで来ました。

 あと10万円があれば…それは善五郎さんにとって気に遠くなるほどの金額でした。でもやるしかありません。いつもの清書のバイトに加えて、夜間の道路工事の仕事もしました。身体はふらふらでした。

 そんな状況でも、毎日、みらのさんをあの道で待ちました。みらのさんは善五郎さんがお店を買うことを知りません。もし実現できなかったら、と思うとうち明けるのが恥ずかしかったのです。ふわふわと向こうからやってくるみらのさんを待つ時間が、善五郎さんにとってのしあわせでした。

 

 

 しかし。

 その日のみらのさんは、少し元気がありませんでした。悲しそうな目をしています。

「あのね、善さん」
 言いにくそうにみらのさんは切り出したのです。

 その話は善五郎さんをとても落胆させました。

 みらのさんのお父さんが勤めているクリーニングやさんには息子がいます。24歳になる息子はせっせと働く好青年です。そろそろお嫁さんを見つけて、落ち着かせてやりたいと言うことになり、みらのさんに白羽の矢が立ったのです。
 クリーニングやさんの店長夫妻も、みらのさんの両親もいいご縁だと言います。今度の日曜日にお見合いの席を設けて、正式に紹介されることになりました。

 善五郎さんは目の前が真っ暗になりました。
 そんなことはいつかはあることだったのです。みらのさんは毎日すれ違う顔なじみなだけで、なんの約束もしたわけではありません。情けないぐらいコンプレックスの固まりだった善五郎さんはもしも気まずくなったら、2度と逢えないと思っていました。だから、言えずにいたのです。

 好きとか、嫌いとか。そう言う思考よりも。

 いつでも会いたいと、目を合わせて話がしたいと言う気持ち。

 もしも自分がみらのさんに似合うような素敵な男性だったら、迷うことなく言うことが出来たでしょう。他の男性に取られそうになったって、必死に取り返していたと思います。でも善五郎さんには自信がありませんでした。書物から得る知識とは違って、人の心はいくら考えても分からないのです。

 みらのさんの話を聞いて。

 善五郎さんは静かに俯きました。そしてみらのさんの顔を見ずに言いました。

「良かったですね」
 そのまま、背中を向けました。みらのさんがどんな顔をしているのか分かりません。

 その夜から、善五郎さんは今までの無理がたたって、高い熱を出しました。

 

 

 高熱にうなされても薬を買うことも出来ません。少しのお金も無駄にはする事が出来ないと思っていたのです。見るに見かねた下宿屋の奥さんがお医者さんを呼んでくれました。注射を打って貰い、熱は下がり少し楽になりました。でも善五郎さんの心は暗く沈んだままでした。下宿屋の奥さんの差し入れてくれた食事も喉を通りません。

 3日たって。

 ふと目を覚ました善五郎さんは日当たりの良くない部屋で布団に横になったまま、じっと自分の手を見ました。
 肉厚でぷっくぷくした手です。指は短いです。爪は申し訳程度に付いていて丸いです。その手を見ていたら泣けてきました。田舎のお母さんを思い出しました。 

 この手をいつだったか、何かの話の流れで、みらのさんがそっと握りしめて言ってくれたことがあります。

「とても、優しくて、暖かい手ですね」

 そう言ったみらのさんの手はすべすべと白魚のように白くて滑らかで…薄くて…指も細くて長くすらりとしていました。思い出すと切なくなります。

 今日は。日曜日です。

 今頃、みらのさんは将来の伴侶となる男性と会っているのでしょうか? どんな話をしているのでしょうか…みらのさんはいつものようにころころと笑って話を聞いているのでしょう。
 思えば、初めて出逢ってから、1年近くです。たくさんの話をしました。1日のうちのわずかな時間でもみらのさんと過ごせるあの瞬間がしあわせでした。

 涙がこぼれて耳の中に入ります。男は泣いちゃいけないと言われたのに、どうにもなりません。布団を被って声を押し殺して泣いているうちに、またとろとろと眠りにつきました。

 次に目が覚めたのは夜でした。なぜか部屋に電気が付いています。下宿は3畳しかない狭い部屋です。小さな机と布団でいっぱいになってしまいます。お湯を沸かすときだけに使う、小さな流しとガスコンロが付いていました。

 何だかいい匂いがします。寝返りを打って、そちらを見たとき、善五郎さんは思わず叫びそうになりました。

「気が付きましたか? 善さん」

 思わず、がばっと起きあがります。
 ふわふわのドレス姿のみらのさんがどうしたことか、布団の脇にちょこんと座っているではありませんか。

「どどど…どうしたんですか!? みらのさん?」
 善五郎さんは思いきり後ずさりして、すぐに部屋の薄い壁に背中をぶつけました。

「なぜ、こんな所にいるんですか!?」

 全然分かりません。あの日別れたままです。それからは寝込んでいて、会うことが出来ませんでした。きっと熱が出なかったとしてもショックのあまり、会いには行けなかったと思います。

 みらのさんは、驚く善五郎さんをにこにこと見ています。そして優しい声で言いました。

「善さんが、ずっと来なかったから…私、待っていたんです。夜になるまで。次の日も、次の日も。でも善さんは来てくれなかった。仕方がないから、私の方から会いに来たんです」

 でも、みらのさんは善五郎さんの下宿を知らないはずです。それを尋ねると、みらのさんは恥ずかしそうに言いました。

「善さんが、いつも戻っていく方に歩いて、色々な人に尋ねました。時間がかかりました。そして分かったんです…私、毎日、善さんと偶然すれ違うのを楽しみにしていました。でも、偶然じゃなかったんです…善さんが、私を待っていてくれたんですね。当たり前のように思っていた自分がとても情けなくなりました…善さんが、来てくれなくて…もう来てくれないかと思ったら…寂しかったの」

 真っ赤になって俯いたみらのさんの目から、ぽろぽろと涙がこぼれました。それは善五郎さんが初めて見るみらのさんの涙でした。善五郎さんは息を飲みました。

「私、善さんに会いたいと思いました。善さんが会いに来てくれないなら、私が行けばいいんだと思ったから…」

「自分に…会いに来て…くれたんですか?」
 善五郎さんはまだ信じられません。どっきりカメラでも見ている気分で、何度も瞬きしました。でもいくら目をこすっても、ぎゅっと閉じた目を再び開けてみても、みらのさんはちゃんと善五郎さんの目の前にいます。頭のてっぺんでふわふわ揺れる大きなリボンが、裸電球の飴色のライトに浮かび上がっていました。

「…嬉しい…本当に、善さんに会えて…」
 面を上げたみらのさんは泣き笑いの顔…とても素敵だと善五郎さんは思いました。

 善五郎さんの心の中から、むくむくと元気が出てきます。正座したまま、膝先をみらのさんのすぐ側まで持っていって、しっかりした口調で言いました。

「明日からまた、行きます。ちゃんと、毎日、あの場所に立ってます…だから…」

 続きを言おうとした善五郎さんをみらのさんが遮ります。白い手で、しっかりと丸い手を包みました。

「駄目ですよ、それじゃ」

「え…?」

 善五郎さんの身体からがっくりと力が抜けます。

「今日から、私を、ここに置いてください」

 

「…は…?」

 話の意味が分かりません。その時、気付きました。みらのさんの背後に大きなバッグがあります。

「どうしたんですか? …それ?」

 するとみらのさんは、ばつが悪そうな顔になって言いました。

「実は…今日のお見合いをすっぽかしちゃったので、父にとても叱られて…家にいられなくなっちゃったんです…あの、…」

 みらのさんは一息ついてから、続けます。

「向かいの本屋さんを買い取るってお話は…本当ですか? お金が足りないって…さっき、下宿のおばさんに聞いたんですけど…」

「は、はあ…」

「でしたら、私、貯金が少しあります。だからそれを使ってください…善さんの夢を…叶えてください。いつか素敵なウエディングドレスを作ろうと、ずっと貯めてきたものなんです」
 みらのさんは少しずつ金額の増えている貯金通帳を差し出しました。

「そ、そんなことをしたら…みらのさんの、大切な、夢が…」
 それはとても受け取れないと、善五郎さんは押し返します。

「だけど、その夢なら…いつか善さんが、叶えてくれるでしょう…?」

 みらのさんの笑顔はどこまでも透明で綺麗でした。どきどきする心臓をどうにも出来ないまま、善五郎さんは下を向いて、小さな声で言いました。

「でも…自分は…みらのさんより、ちびだし…あの…やっぱり似合わないし…」

「あら、どうして?」
 みらのさんは不思議そうに善五郎さんを下から覗き込みます。

「ほら、座れば大体、同じ高さになりますよ…」
 要するに、善五郎さんの座高が高いと言うことになるんですが、みらのさんが言うと嫌みのかけらもありません。

「で、でも…」

「…善さん?」
 みらのさんの大きな瞳が少し揺らめきながら、じっと見つめてきます。

「私は、善さんと一緒にいたいの。善さんの隣りにいたいの…善さんはそうじゃないのですか?」

「そ、それは…」

 もう、善五郎さんの心臓は張り裂けそうです。息のかかりそうに近いところで、みらのさんのあどけない瞳が揺れています。

 ごくりと、唾を飲み込みました。膝に置いた手が握り拳になってぶるぶると震えます。

「…じ、自分は…みらのさんと一緒に、…いたいです」

「嬉しい! 善さん!!」

 がばっ!

 みらのさんは善五郎さんに抱きつきました。びっくりする善五郎さんの頬にみらのさんの柔らかい唇の感触が触れてきました。

「み、み、み、…」
 慌てふためく善五郎さんの鼻先にみらのさんのいい匂いの髪の毛が揺れています。

 何かしゃべろうにも…言葉が音になりません。

 でも。

 精一杯の思いを込めて。

 善五郎さんはみらのさんを優しく抱きしめました。

 

 

 その後。2人がどうなったのか。
 あまりお話ししてはつまらないので、内緒にします。

 でも。

 数年後、それまでバスしか交通手段のなかったこの街に、私鉄の路線が延びてきました。そして善五郎さんの経営する本屋さんのすぐ前に駅が出来て、急に開発が進みました。思い出のキャベツ畑もきれいな住宅地に変わってしまいました。
 平屋建ての本屋さんは大きなビルに建て替えられて、本屋さんの他にも銀行やブティックなどの複数の店舗が入りました。

 みらのさんのふわふわ好きはいくつになっても変わりません。
 善五郎さんは綺麗な奥さんと、みらのさんにそっくりな可愛い2人の娘に囲まれて、今もしあわせに暮らしているようです。

 

終わり(011222)

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◇あとがき◇
しあわせなお話が書きたいなあと思いました。この話はとあるキャラの両親の話です。恋愛というのは、どこにでも転がっているおとぎ話じゃないかなあ。その後、どうなるかは別にして、友達の結婚までのあれこれ、とか聞くと結構、そんな感じ。みらのさんじゃないけど、ある日ころころと目の前にその人が現れるのです。
さだまさしさんの「天までとどけ」と言う曲が好きです。とても古い唄なんですが、現代でもちゃんと当てはまると思います。だって、出会いは本当にそんな感じなんですから。
このお話には主人公以外にも何人かの夫婦が出てきます。色々な形があります。私は恋愛は何処までいっても片思いだと思ってます。いつでもどちらかが余計に大好きでいる。「愛される」恋愛が楽な気がしますが、私は「愛する」方が好きだなあ。誰かを思うときのしあわせで切ない気持ちはトクベツ。

…で、誰の両親の話か、分かっていただけましたでしょうか?

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