TopNovel>キミ ノ キオク
   

 


 夜明け前のまどろみに、通り過ぎる風景。

 そこは海岸。でも、どこのなのか見当が付かない。何故なら波打ち際はかろうじて見えるものの、沖の方も浜の方も霞んでしまっている。
 波の付けた跡をなぞるように歩く。

 手を繋いでいた、当たり前のように。私の指の1本ずつの間に彼の指が絡みつく。私の斜め前を歩くその人のことを良く知っていた。振り向かなくてもどんな表情なのか思い描ける。

 はにかんだ、でもどこか寂しそうな。それは最後に脳裏に焼き付けたものだから。

 ここにいるはずのない人が、私の唯一の存在として歩いている。永遠に終わらない記憶を。

 

 

「ずっと昔の…ヨーロッパのどこかの国では、キスするとその相手と必ず結婚しなくてはならなかったんだって」

「…嘘」

「だとしたら…ハヤは誰と結婚するのかな?」
 そう言いながら吸い付いてくる唇。

「…ん…」
 言葉を塞がれて、目を閉じる。私が逃げるわけがないのに、彼は首の後ろに手を入れる。うなじの、髪の生え際の辺りにざらついた指の感触がある。

「…だって。タナ君が初めてじゃないもの」
 会話の流れの一部の様なキス。余韻とかそういうのもない。

「ハヤは正直だな」
 むくれた私を包み込む笑顔が覗き込む。少しウェーブした前髪。大好きな低い声。

「お互い様でしょ、私たちはフリンしているんだから」

 わざと、ライトな響きで明るく言う。そうしないと泣き出してしまう。ギリギリの感情を見せないように視線を逸らした。

「あのね…」
 かさかさ、と上着のポケットからタバコを取り出す。2個組で売っている安いタバコ、何回も頼まれて自販機に行ったから、ちゃんと覚えてる。胸のポケットから金色のライターを取り出す。

「不倫って言うのは結婚している人の場合でしょう? それに、ハヤと俺はコイビトじゃないよ」

 闇色の空間にポッと灯った紅。くすぶった色が彼の口元で鮮明に輝く。タバコを吸う人の気持ちは理解できなかった。でも彼の上着の香りは好きだった。

「一番、大切な友達でしょう?」
 白い煙を吐き出しながら、言葉を乗せる。何度聞いただろう、この台詞。この先、何度聞くだろう。

「でも、普通、友達とはキスしないでしょ?」

「ハヤとなら、いいの。2人でいるときは日本人を辞めてるから」

「だよね…」


 私たちはどこから見ても恋人同士だった。でも2人の間にはそう言う感情が介入してなかった。それなのに、お互いを確かめるように唇は触れ合う。初めてのきっかけは忘れてしまったけど。…そして、そこまで。

 

 

 禁煙のはずなのにタバコの煙の充満した半地下のライブハウス。
 ミナちゃんの付き添いでやってきた。低い地を這うような音楽は趣味じゃなかった。

 チケット代と引き替えに貰ったドリンクチケットをカウンターに差し出す。

「ライムサワー下さい」
 そう言ったとき、隣りから別の声がした。

「…ここはカクテルがおいしいの。サワーなんて缶を開けるだけなんだから…マスター、彼女と俺に特別に作ってよ」

 驚いて、見上げる。暗がりで良く顔が見えない。でも声に聞き覚えもない…初対面だ。

「あなた、誰?」
 きっと凄く嫌な顔をしていたと思う。メイクもいつもより派手にしていた。露出度の高いワンピースも身体に馴染まない。ナンパはあまりされたことがなかった。自然と警戒してしまう。

「…つまんないでしょう? 面白くなさそうな顔してる。付き合いで来ただけ?」

「そうよ」
 つっけんどんに答える。書き残したレポートのことが頭をよぎる。早く帰りたいと思った。


 

 人気のない港続きの遊歩道。赤いランプを灯した路線バスが走り抜ける。

「…来週は? 木曜日でいい?」
 小さな手帳を開きながら言う。私もスケジュール帳を取り出す。そして、木曜日の日付の下に「タナ」と書いた。

 

 あのライブハウスには何回か通った。そのたびに彼に会った。そしてカウンターで1杯のカクテルをご馳走になった。いつの間にかマスターが特別につまみのナッツを出してくれるようになった。

 月に一度のそんな逢瀬がなくなったのは、ミナちゃんがお熱を上げていたバンドのドラマーに振られたからだ。そのまま、永遠に封印されるはずだった。

 でも、何故か偶然が邪魔をする。

 彼のことなど忘れた頃に、街角でひょっこり再会する…彼の腕には絡みつくソバージュの女性。彼女がちょっと待って、と言うようにショーウィンドーの商品に目を取られる。そのあとお店のドアを押して一人で入っていった。
 彼はポケットからタバコを出した。胸のポケットを探った姿勢のまま、私に気付いた。

「…ハヤ」
 私たちはお互いの名前を知らなかった。電話番号も、住所も。彼は私を「ハヤ」と呼び、私は彼を「タナ君」と呼んだ。

「こんにちは」
 こんな明るい街角で会うとは思わなかった。軽く会釈をして、通り過ぎようとした。

「待って」
 脇を通ったとき、火のつかないタバコを手にしたままの彼が呼び止めた。

「…たくさん、話したいことがある。明日の6時に…あの店の前に来て」

 ごくりと、息を呑んだ。どうしてそんなことを言い出すんだろう? 信じられなかった。

 無視したまま、足を進める。そんな私の背中に彼の声が突き刺さる。

「…ハヤ、会いたかった。ずっと待ってた」


 

 私には彼がいたし、タナ君にも彼女がいた。お互いに恋の相談をしたり、のろけたりした。

「ハヤといると、ホッとする。ハヤの声を聞くと、元気が出る」

 週に一度という頻度で会いながら、私たちには話題が途切れることもなかった。お互いの相手が変わっても私たちはこの関係を続けていた。居酒屋さんで「とりあえず、ビール」、2人で3本くらいあけたら、次は日本酒を冷やで。つまみは焼き鳥と肉じゃがと揚げ出し豆腐。枝豆はタナ君専用。トマトの嫌いなタナ君のお皿にわざとプチトマトを並べた。

「…ハヤ。普通、友達は相手の嫌がることはしない」
 私のカラになったグラスにお酒をついでくれる。ほろ酔い気分でちょっと軽はずみになる。

「…それ、食べられたら…タナ君の彼女になってあげてもいいよ?」
 いつもの冗談のつもりだった。それなのに…妙にマジになったタナ君の視線にハッとする。

「本当、だな?」

「え?」
 思わぬ展開に、慌てた胸がきゅっとする。タナ君の目がまっすぐと私を見る。浅黒くて太い指がトマトをつまむ。それを口元に運ぶ。

「…あ、待って。…タナく…」
 思わず身を乗り出した私の口にトマトが押し込まれる。

「やっぱり、辞めとく」
 トマトを飲み下す間、頭の中が真っ白になっていた。…本当にどうしようかと思った。

「ハヤとはずっと友達がいい」
 タナ君はそう言うと、グラスをカラにした。


 

「…どうしたの? 電話してくるなんて…驚いた」

 あの日。暮れかけた街角で俯いたまま、タナ君を待っていた。

 初めて、電話した。一応、待ち合わせの時間に遅れたときのために、お互いのナンバーは知っていた。でも、かけなかった。それが2人の間の暗黙のボーダーラインだったのだと思う。

「ごめん、…木曜日、駄目になっちゃったから」
 意識して目を合わせないように話す。そして、ずっとずっと考えていた、一番言いたくない言葉を口にした。

「タナ君、私、お母さんになるの」

 「…え?」
 彼はタバコを取りだしたまま、呆然とこちらを見た。

 

 コイビトとのそう言う関係はとりあえず気を付けていたつもりだった。彼も急いでコトを起こすこともない様子だったし、そんなものかと思っていた。でも彼の広島への栄転が決まったことで事態が急変した。

「遠恋に、なっちゃうのか…寂しいね」

 週末の夜。いつも通りの彼の部屋で軽くグラスをあけながら、ぽつりと言った。

 元々は岡山の出身だと言ってたからいつかは戻るのだと思っていた。でもあんまりに早い。私たちは付き合い始めてまだ半年もたってなかった。タナ君との長い友情を考えたら、ほんの一瞬の気がする。

「…置いていくとは…言ってないでしょう?」

「へ?」

 私にとっては意外なひとことだった。

「メグミは…一緒に連れて行く。結婚しよう」

 体中の血液がざーっと逆流する。どうしてなのか分からなかった。

 コイビトからの告白だ。こういうときに普通だったら嬉しくてボーっとするのだろうか? でも私の脳裏にその時、映ったのは…タナ君の顔だった。

 隣りに座っていた彼の左手に抱き寄せられる。いつもより、熱っぽい手のひらが別の人みたいだった。頬にかかった髪に指先が滑り込み、動けなくなる。覆い被さってくる身体を払いのける事が出来なかった。口の中に彼が飲んでいた柑橘系のサワーが広がる。


「…待って」
 必死で首を振る。その声に反応して彼が私の肩を両方から押さえたまま顔を離す。

「あの…このままじゃ嫌だから…シャワーを浴びてきたいんだけど…」

 アルコールが入ったからと言って、荒れる人じゃなかったはずだ。でもいつもとは全然違う、食い入る様な瞳が恐ろしい。とりあえず、私の言葉は耳に届いたはずで…それでももう一度、言葉のないままキスされる。ブラウスのボタンが乱暴に外される。もちろん、彼には何度も抱かれていたけど、こんなに一方的に急ぐ事はなかった。後ろのホックも外さないで、手を差し込む。肩ひもが食い込んで、ぎりりと痛みが走った。

「や…!」
 休みなく動く腕を必死で掴む。でもそれくらいの力じゃ、本気の彼を止めることは出来ない。大きく肩で息をする、知らないうちに涙が溢れてきた。

「メグミ…」
 ぐっと力を込めて押さえつけたまま、手の動きが止まる。押し殺した声が私に降ってくる。

「お前、他に男がいるんだろう? そうじゃなかったら、こんなに落ち着いていられるかよ? 俺がいなくなったら、そいつと宜しくやるつもりなんじゃないか…」

 呻くような声。ハッとして彼を見た。顔色が真っ青だ、肩も腕も大きく震える。

「総務課の…高木が…お前が男と会っているのを見たって…」

―タナ君と。…見られていたのか…?

 肯定も否定もしないまま、ただ、彼を見つめる。唇が震えて…歯もかみ合わない。驚きのあまり、溢れた涙が止まっていた。

「…信じられないよ。俺はお前が本当に好きなんだ、…やっと、手に入れたと思ったのに…」

 ぽたぽたと音を立てて、滴が落ちてくる。生暖かいそれは私の鎖骨から首筋へと幾重にも流れていく。

 どうしたら、いいのか。考えられなかった。自分の行動への理由を聞かれても分からない。

 本能のままに。自分の腕を伸ばす。彼の頬を包んだ。…冷たかった。ぬるりとした感触が手のひらに広がる。

「…メグミ…」
 彼は鼻をすすり上げると、私を見た。ゆっくりと微笑み返す。そのまま、強く抱きしめられた。


 

 広島への長距離電話。待合室のさざめきの中で、真実を口にした。白衣を着た優しそうなお医者さんが、ざらついたモニターを指しながらにっこり笑って言った。

「…ほら、ここ。心臓が動いているのが見えるでしょう…? 実際の大きさはほんの数ミリなんですけど」

 その日のうちに彼はやってきた。空港まで迎えに行った私をあの夜のように強く抱きしめる。

「…ありがとう」
 震える声を耳元で受けながら、私は不思議な色の涙を感じていた。

 


「そう…おめでとう」

 ゆるやかな風が街路樹を揺らす。さわさわと音が辺りに響く。タナ君は戸惑っていた、すぐに分かった…私と同じ瞳の色。

 いつか、お互いにこういう日が来ることを知っていなければならなかったのだ。私がこうならなくても、タナ君の方から切り出されただろう。

 友達という名の居心地の良い不安定さは「永遠」という麻薬を持っている。
 壊れることのない関係は心地よい。でもこうしてお互いがお互いの一番にはなれないのだ。

「でも、大丈夫だよ。こっちに戻ったときは連絡をくれれば会いに行く。俺が出張であっちに行ったら訪ねる…今まで通りだよ、何だったら…ハヤのダンナさんとも飲みたいな」

「…言うと思った」
 鼻の奥がツンとした。歯を食いしばっても涙は溢れてくる。それでもしっかりとタナ君の方を見た。

「でも、そう言うのは駄目なの。もうタナ君には頼れない…私は彼と2人で生きていく。やっぱり、不自然だよ…こういうの。もっと早く気付かなくちゃいけなかった…」

「…ハヤ…」
 私がこんな事を言い出すとは思わなかったのだろう。呆然とした彼が立ちすくむ。

「話は、それだけ。じゃあ、元気でね」

 背伸びする。一瞬、私の方から唇を触れる。優しい感触が当たり前のように、そこにある。

 

『…ハヤとキスすると…ハヤが全部分かる気がする。哀しい気持ちも嬉しい気持ちも困った気持ちも』

 いつかタナ君がそう言った。それからもっと哀しそうな顔をした。

『…ハヤと…一緒にいたいけど。俺はハヤが嬉しいと嬉しくなるし、泣いていると泣きたくなる。似すぎている、…2人でいたら…落ち込んだとき、ハヤを支えられない。ハヤは一番、近いから…』 

 

「さようなら」

 潤んだ視界にタナ君がいた気がする。ベージュのスプリングコートが風にはためいていた。

 

「あのね…あのね、ママ」

 幼稚園の帰り道。4つになったばかりの娘が恥ずかしそうに切り出した。

「なあに?」
 いつになくもったいぶった言い方に笑ってしまう。小さいながら、子供には秘密が増えていく。小さな心の中に一番身近にいる私ですら入れない開かずの間がある。

「マモル君が…ミユと結婚したいって…」

「え?」
 びっくりした。何で、こんな言葉が出てくるのだろう。

 

 そう言えば先月のバレンタインに夫へのチョコを2人で作っていたら、ミユは小さな箱を出してきた。いつか食べたお菓子の箱を丁寧に取って置いたらしい。手でちぎった色とりどりの折り紙がラッピング材よろしく敷き詰められている。

『あのね…ここに入れて。3個でいいの、ミユもあげたい』

 小さな手をこすり合わせて懇願する。その表情が可愛らしくて吹き出した。でも夫が聞いたら気絶しそうだ。

 

「…だって」
 繋いでいた手がきゅっときつくなる。

「マモル君、ミユのほっぺにチュってしたの…キスするとその相手と必ず結婚しなくちゃ、いけないんだって…」

 ハッとして、娘の顔を見る。いつか見た、いつか確かに見た…鏡の中の自分がいた。

 

『ずっと昔の…ヨーロッパのどこかの国では、キスするとその相手と必ず結婚しなくてはならなかったんだって』

 

 …初めてキスしたのは…彼じゃなかったかも知れない…。

 

 でもあの時間、私たちは…一生で一番たくさんのキスをした。思いを確かめるために、相手を確かめるために。触れ合いながら、不安だった。2人でいることの不安定さがまとわりついた…私たちはひとつになれなかった。

 

 当たり前の昔が、何度心を通り過ぎただろう? そのたびに懐かしさと切なさで胸が締め付けられる。

 ほころび始めた桃のつぼみがさらさらと風に揺れている。

 この街が薄桃色に包まれたら、私の5年目の生活が始まる。掴み損ねた夢だからこそ、永遠になると気付いた日から。

Fin(020204)

◇あとがき◇
「昔のイギリス(…だったと思う、確か)では、キスするとその人と結婚しなくちゃいけなかったんだって」と言う話を聞いて「何じゃそりゃ〜どうして、キス如きで結婚しなくちゃなんないのよ〜」と大笑いした。そしたらこんな話が出来てしまった。…自分の思考回路がよく分かりません…。

「男女の友情」って、成り立つんでしょうか? これは性格によるんでしょうが、私は自分の大好きな人が他の女の人とご飯食べに行っただけで悲しいから…逆のことも出来ないだろうと思います。
 初めてここサイトに来た方が、気軽に私の作品を楽しんでくださるようにと短編を考えたら、この始末。主人公はとりあえず幸せに生きている訳ですが。

>> ソラ ノ カタチ…タナ君 side story    >>カゼ ノ ユクエ…ハヤside afterdays story

感想はこちらから  Novel indexに戻る