TopNovel>カゼ ノ ユクエ
 
   

 


「トンボ池」は普段歩いている遊歩道から少し入ったところにある。

 日々の買い物に何度もその傍を通りながら、ついにそこに足を踏み入れたことはなかった。夏の初めを告げるように毎年数え切れないほどのヤゴが成虫になる。その透明な羽根をまっすぐにしたまま、すうっと飛行する。蝶のようにパタパタと上下させることもなく、まるで見えない風の流れを追うように。

 行ったこともないのに、それを想像するのは容易かった。幾重もの「風」の流れが交差する生命の源。そこで産まれ、そこで死んでいくひとときの生涯。何千何万の命の灯火。

 そこが今、夕焼け色に染まっているという。秋のトンボ、赤とんぼ。それは幾つもの種類の総称だと言う。そんなこと私は知らなかったけど、いつの間にか自分で勝手に図書館から本を借りるようになった娘が、それを教えてくれた。今年から始まった「理科」で昆虫の学習をしてから、女の子だてらに「昆虫博士」を気取っているのだ。

 

◇ ◇ ◇

 

「何も、女だから男だからと言うんじゃないんだけどなあ…」
 一人娘に甘い夫がビールを片手にため息を付く。

 まあ、昆虫だけではない。花も樹も動物もみんな好きだ。物語の本より、図鑑や解説書を欲しがる。

 去年のクリスマスに買ったのは、大判の天体写真集だった。最新式の望遠カメラが捉えたという星空は見ているだけで神秘的で、漆黒の空間に吸い込まれそうだった。


 

 そのメールが届いたとき。私は自分の目を疑っていた。

 いつもと同じ朝のメールチェック。常時接続にしているパソコンを立ち上げて。娘が小学校に出掛けたすぐあと。洗濯機の回る音を聞きながらのひとときだった。

「…え?」
 メールボックスの表示を見ながら、思わず小さく叫んでいた。ダイレクトメールといくつかの個人メールに紛れて、見覚えのない発信者の名前が私の目に飛び込んでくる。

『ご無沙汰してます』

 それはありきたりのタイトルだった。悪質なウイルスメールが流行している時期だったら、疑ってしまったかも知れない。でもそれを示すような添付ファイルの表示もない。インストールしてあるウイルス対策のソフトも反応しなかった。

『Yukiya Tanaka』…マウスを持つ手が震える。まるでメールの開き方を忘れてしまったかのように指が戸惑っていた。
 他のメールを全部開いて、確認してから、もう一度それにカーソルを合わせる。ごくりとつばを飲み込んだ。そしてダブルクリックしてメールを開く。

『偶然に見つけました。本当に久しぶりです。ハヤが元気そうで本当に良かった。サイトの方はゆっくりと拝見させて頂きます。』

 携帯メールかと思うくらいの短いものだった。あんまり短くて意気込んだ自分が恥ずかしくなったくらいだ。
 でも何度か読み直して、じわじわっと異質な気分が湧き出てくる。見えないものに背中をさすられたような。振り返ってみたけど、カーテンが揺れる窓辺とその向こうに広がる秋空、庭のコスモスと満開の薔薇が見えるだけだった。

 …タナ君が、来たんだ。

 私は1年ほど前から、手作り子供服の紹介サイトを開いていた。

 娘のミユが産まれてから、何となく洋裁を始めていた。この知り合いもいない土地で、おしゃべりをする相手もなく。何だか寂しくて空しくて。何か趣味でも持てばいいかなと軽い気持ちで小さなオーバーパンツを縫ったのが始まりだった。

 年末に産まれた娘も冬が過ぎて春になる頃にはベビーカーで買い物などに連れていけるようになる。ブラウススーツ、カバーオール…お揃いの帽子。新米ママ向けの雑誌は家庭科の授業よりも分かりやすくて、不器用な私でもそれなりのものに仕上がった。

 赤ちゃんの服、特に女の子の服は市販品でも十分可愛い。でもブランドものは目が飛び出るくらいに高いし、その一方量販店の品は見てくれは良くても縫製が悪く素材も良くないらしい。購入して娘に着せる前に水を通すともう縮んで不格好になる。
 そんな時、洋裁店の店先にあった端切れコーナーで、女の子ブランドの布地と良く似た布を見つけた。早速それを買って、家に帰って雑誌をひっくり返す。実物大の型紙が付いているワンピースとおむつの上にはくオーバーパンツ、そしてお揃いの帽子がセットになったものが目に付いた。

「まあ、可愛い。これはどこで買ったの?」
 公園で初めて逢った人に声をかけられた。

 ミユにその服を着せて出掛けたときのこと。向こうもベビーカーを押したママさんだった。公園デビューなんて怖い言葉があるし、私はそんなに人なつっこい方でもない。何となく気後れして夕方の公園で涼んでいたのだ。

「あの、…自分で作ったんです」
 恥ずかしくて俯きつつ、そう言った。すると大袈裟なくらい驚かれた。

「まあ、すごい。ウチは男の子なんだけど、可愛い服がなくて…」
 そう言いながら、娘の服のスカートをめくって裾を見ている。ボロがばれないかとドキドキした。でもその人は、上手いものねえ…なんてため息付いてる。初めて逢った人とこんな風に話が弾んで、信じられないけど幸せな気分だった。


「ママ、どうしたの? お店やさんでも開くの?」
 帰宅した夫がネクタイを外しながら訊ねてきた。

 私はミユのお昼寝中に夕食のシチューを仕込んで、夫が戻るまでの時間にミシンを出して作業していた。夕方はミユの大好きなおこさま番組がたくさんあって助かるのだ。

「うーん、そうじゃないんだけど。公園で他のママさんから頼まれちゃって…」

 いつの間にかミユの着ている私の作った服が公園のママさんの間で評判になっていた。そして、とあるママさんが布地を持参してきて作って欲しいと言う。それに応えたら、次々に注文が舞い込むようになった。
 私としても同じ型紙を作って、たった1枚の服を作っておしまいではつまらない。手間は同じなので何枚作っても苦労はなかった。子供ブランドに似せて作ると特に喜ばれる。ママとお揃いもポイントが高い。ユニクロとかで安い無地のTシャツを買って袖を落として別布で作り直す。とてもおしゃれなシャツになった。

 

 そして、洋裁仲間から自分たちと同じ趣味を持つ人たちがインターネットを利用して注文販売していると聞いたのだ。びっくりした、何と大それたこと。でも、せっかく自分で工夫して作った服だ。たくさんの人に見て貰いたい。夫に手ほどきを受けながら、なれないパソコン操作でどうにか手作り服のサイトを作った。

 …そこに、どういわけか、タナ君が来たのである。男の人が絶対見ないようなホームページに彼がどうしてきたのか分からない。ただ、私のハンドルネームは「ハヤ」だった。これは旧姓の「早川」から取ったもので、タナ君は私のことをそう呼んでいた。私もタナ君のことは本名で呼ばなかった。


 その時。私の脳裏によぎったのは別れた日のタナ君の姿だった。私たちは親しい友達だった、恋人同士ではなくて。ただ、そのことが恋愛感情を含んでないからこそ曖昧でつかみ所がなくて辛かった。お互いの恋人が変わってもふたりの間には何の変化もない。延々と続きそうな関係。それにピリオドを打ったのは私だった。

 タナ君に会いたくなかったわけではない。

 日々の家事の合間にふっと思い出すことも少なくなかった。一番近くにいた人だったから、些細なことでも告げたくなった。でもこちらから連絡を取ることはしなかったし、引っ越し先の住所も知らせなかった。タナ君とはもう逢ってはいけないと自分で分かっていた。


 だから、短いそのメールを見たとき、溢れてくる想いを止めることが難しかった。メールの返信なんて簡単だ。返信ボタンを押して、タイトルを書き直せばあとは本文を書くだけだ。タナ君の近況を知りたかった。彼は幸せでいるのだろうか? 私のことを恨んでいないだろうか?
 でも。ハッとして、そのままパソコンを閉じた。駄目だ、そんなことをしたら。どうしてこの長い年月沈黙していたのか分からないじゃないか。大きくかぶりを振る。

 その時、洗濯機の洗い上がりブザーが鳴った。

 

「パパっ! 今日は早く帰ってきてねっ!」
 朝食のテーブルに付きながら、娘が明るい声で言う。

 夫の方は黙々と食事していた夫はとても驚いたみたいだ。フォークを置く音がする。

「どうしたんだ? 何かあるのか…?」

 その会話をお弁当を詰めながら背中で聞いていた私は思わず心の中でため息を付いた。やっぱり、と言う感じでそんなに落胆もしなかったけど。

「パパっ! 忘れてるの? 今日はママのお誕生日だよ? パパはケーキを買ってきてね、お祝いしようっ!」

「…え? …ああ、本当だ」
 カレンダーを見たのだろう。ようやく気付いたようだ。

 毎年、私の誕生日には夫がケーキを買ってきてくれることになっていた。ミユと夫の誕生日には私がケーキを焼く。でも自分の誕生日にケーキを作るのはちょっと嫌だった。

「ええと、ミユはチョコレートケーキがいいんだよな? ママはレアチーズケーキで良かったかな?」

「ブルーベリーのソースの方だよ? パパ」
 ミユが念を押してる。夫が買ってきてくれる某有名洋菓子店にはブルーベリーとオレンジソースの2種類のレアチーズがあるのだ。

 その時、私は初めてふたりに向き直って、夫の前にお弁当の包みを差し出した。彼は少し恥ずかしそうにしていた。多分、誕生日を忘れたことを気にしているのだろう。

「行ってらっしゃい、気を付けて」
 そのことに触れないようににっこりと送り出した。いつもと同じように。

 


 その日も私はメールボックスを眺めていた。

 一度開いたまま、何の処理もしていないタナ君のメール。気がかりではあったけど、どうしようもなかった。タナ君の方は私のサイトに来ているのだ。もしかしたら掲示板を見たり日記を読んだりしているのかも知れない。でも彼がサイトに書き込むことはなかったし、だからそのままになっていた。

 

 夕方、電話が鳴った。ディスプレイに表示されたのは登録されている夫の名前だった。

「はい…? どうしたの、克之さん」
 すると私の耳には何とも言えないため息が聞こえてきた。言おうか言うまいか、悩んでいるみたいに。

「あの、ママ。今日…取引先との夕食会が入ってしまって。遅くなるんだ、夕食はいらないから…悪いね。ちょっと、ミユに変わってくれる?」

 そして、娘に変わると。すぐに「ええ〜〜〜っ!!」と言う非難の色を含んだ叫び声が聞こえてきた。電話の向こうでは多分、夫が娘に必死で詫びているのだろう。

 その後も娘はプリプリ怒っていたが、私の心は妙に冷めていて、何とも言えない気分だった。


 その夜。10時を回っても夫は帰宅しなかった。私は灯りを落とした寝室のベッドの上で、ボーっとしていた。リビングでテレビを見たり、パソコンをしたりしても良かったのだけど、どうしてもそう言う気にはなれなかったのだ。娘はもう自分の部屋で休んでいた。今日はバレーのレッスンの日だったので、いつもより早く寝てしまったのだ。

 静かな夜だった。住宅地の少し奥まったところに私たちの家はある。他の家と大して変わらない建て売りの住宅だ。少しゆとりのある造りになっているのは、将来夫の両親が同居できるようにとの配慮である。ミユの小学校入学に合わせて、この家を購入した。

 妊娠して、彼の栄転先であるここにやってきて。ふたりだけの生活が始まった。夫の両親は同居を強く希望してはいなかった。自分が姑に苦労した義母は自分のペースで悠々と暮らすことを望んでいたのだ。ただ、いつ何が起こるかは分からない。夫は長男であるからそれなりの覚悟はしていた。
 タナ君に話すことなどないようなありきたりな平凡な日々だった。あの時、私の中に芽生えた命も、もう小学校の3年生。おしゃまな明るい娘に育っている。夫もとても可愛がっている。それなりに幸せな生活なのだろうと思う。

 …でも。

 時々、こうしてすきま風が吹くのはどうしてだろう? 今のささやかな生活がこの後ずっと続くと思うとため息が出る。夫が変わったわけでもなく、私が変わったわけでもないと思う。ただ、何かが微妙に狂ってきている。私の誕生日に夫が予定を入れたのは初めてだった。

 …タナ君に、逢いたいかも知れない。そう思ってしまう。

 タナ君なら、今のこの私の心境を理解してくれるんじゃないだろうか? 私が言葉に出来ないものまで汲み取って、包み込むように微笑んでくれる。多分、別れたあの頃のまま、タナ君は変わってない。

 何をそんなに躊躇しているのだろう? ただ、昔の友達と連絡を取るだけじゃないか。後ろめたいことなど何もない、タナ君は私の友達だったのだから。一番大切な仲の良い友達だったのだから。

 もしも私が連絡を取れば、彼はここまで飛んできてくれるかも知れない。すれ違いばかりの夫よりもずっとずっと心が通じる、そんなことは分かっていた、分かっていたのに別れてしまったのは私だ。あの時の選択は…正しかったのだろうか?

 その時、家の前にタクシーが止まった。夫が戻ってきたのだ。

 


「…ママ?」

 リビングに私がいないので、夫はまっすぐに寝室に上がってきた。寝室にクローゼットがあるので、彼がここに来ることは分かっていた。それなのに私はここにいたのだ。待っていた訳でもないのに。

「ママ? どうした? そんなに怒ることもないだろう? 大人気ない…」

 するするっと上着を取ってネクタイを解く気配がする。

 一緒に暮らし始めて、最初のうちは恥ずかしくて夫が着替えを始めると、別室に行ったりしていた。身体の関係はとっくにあっても、気恥ずかしさは拭えなかったのだ。自分から服を脱ぐという行為は心が裸になる気がする。夫のそう言う姿を見るのは何だか嫌だったし、自分のそれを見られるのも嫌だった。

 私は夫の問いかけを無視して、背を向けたままベッドに腰掛けていた。

「…ママ」
 夫の声に少しの苛立ちが混じってきた。

 私は大きく息を吸ってそれから吐く。そして、出来るだけ平坦な声で言った。

「私、あなたのママじゃないわっ!」
 それでも、語尾はきつくなってしまったようだ。声が震えてきた。

「克之さんにとっては、私はミユの母親でしかないのかも知れない。でもっ、ミユの母親であってもあなたの母親ではないのよっ!!」

 何で、いきなりこんなことを言ってしまったのか自分でも分からなかった。でも、よくよく考えてみれば、それはずっと思っていたことで、それが爆発してしまっただけだ。もしも、タナ君だったら。私が傷つくことなんて言わないはずだ。「ママ」と呼ばれたときに私の顔色が少し曇れば、もう2度とそんないい方はしないのに。夫はあまりに無神経だと思う。

「ママ…? 今日はおかしいぞ? どうしたんだ…そんなに何を…」

 戸惑っている声が私の心をえぐる。そのたびに吐き気がしてくる、夫との会話がここまで嫌だと思ったのは初めてだった。

 どうして、この人を選んでしまったのだろう? 私にはこの人を選ばない選択肢がきちんとあったはずだ。まだ付き合っていた頃、夫の栄転が決まって。その時に戸惑った私に夫は食らいついた。タナ君との関係を疑ったのだ。無理矢理組み敷かれそうになって、どうしていいか分からなくて。それでもあの真剣な目に…ついついこの人を選んでしまった。

 私のことを、100%分かってくれるのはタナ君だったのに。誰よりも分かってくれるのはタナ君だったのに。こうしてもう心の通い合わなくなった人を選んでしまって…私は間違っていたのだろうか…?

 しばらく。部屋の中に静けさがあった。夫も私も何も言わず、動くこともしなかった。もしも空気を少しでも揺らせば、この幻想の城が崩れてしまう気がして。夫と、娘のいるささやかな幸せ。誰が見ても温かい家庭、その奥に気付かれずに眠っていた亀裂。

 

 長い年月がそうさせたのか、私たちには夫婦の生活がずっとなかった。

 ミユが2歳になって、2人目を作ろうかと思った。それなりに頑張ってみたが、何年たっても妊娠しない。二人目不妊なんてヒトゴトだと思っていた。検査もしたが、異常はない。そのうち、ミユが小学校に上がって、どちらからともなく、そう言う話題は出なくなっていた。

 娘が一人っ子であることで、心ない会話に傷つけられることもある。それも夫に話したりせず、ひとりで耐えた。夫は仕事が忙しくて、それによる男性能力の低下を気に病んでいたらしい。検査の結果は異常がないものの、夫の精子の運動が多少鈍かったのだ。私が何か言えば、夫が傷つく。そう思ったら、何も言えなかった。

 時々、ふっと空しくなることがある。あの奪い取るように私を求めた彼はどこに行ってしまったのだろう? 世の中の夫なんてみんなこんなものなんだろうか? もしかしたら、私はこの先もこういう人生を続けていくのか? 満たされない想いを抱いて。
 夫という人間が分からなくなっていた。私なんて、ミユの母親としての存在でしかないのかも知れない。浮気をしているようにも思えないが、それも分からない。私に隠れてどうにかすることなど、簡単だ。遅くなっても「残業で」とでも言えばいいんだから。

 

「…恵美…」
 どきっとした。そんな呼び方、ミユを産んでからされたことなかったから。多分、私の肩は大きく揺れたと思う、夫に分かるくらいに。でも、振り向けなかった。

「おい、いい加減に機嫌を直してくれよ。頼むよ…」

 ぎしっと、ベッドがたわむ。ダブルベッドの向こう側から、夫が乗ってきたのだと分かった。

「あなたなんて。私のこと、もうどうでもいいと思っているでしょう? そうよね? 10年も一緒にいれば、飽きもするでしょうよっ!? 大体、私じゃなくたって、他の誰だって良かったんでしょ? 今みたいな生活が出来るなら…っ!!」

 言葉が止まらない、どうしてこんな言い方するんだろう? もっと夫のことを考えた物言いをしてもいいのに、それが出来ない。心の綺麗な妻でいたかったのに、現実は煩わしいばかりだ。

 親戚づきあい、近所づきあい。些細なトラブル…それをどうしても愚痴っぽくこぼしてしまう。楽しいことだけ、嬉しいことだけ言っていればいいのに、ついつい心が暗くなるような会話をしてしまうのだ。そう言うとき、夫は黙ったまま、何も言わなかった。私を責めることもない代わりに慰めてくれることもなくて。

 結婚って、好きな人とずっと一緒にいられる、幸せいっぱいなことだと思っていた。悲しいことも辛いこともぱっとなくなって、あたたかいものだけで満たされて。

 それなのに、現実は煩わしいことばかり。物価の高さを呟けば、夫の給料に不服があるように聞こえ、親戚づきあいを疎ましく思えば、夫の親戚への思いやりの欠落を無言で責められている気がする。かといって、黙っていれば心にどろどろしたものが溜まっていくのだ。

 

 吐き出したかった、どこかに。私のことを一番に分かってくれる人に。その人に全てを打ち明けて寄っかかりたかった。もうひとりで辛いのはたくさんだった。夫との日常はしがらみでいっぱいで。

 

「急に、何を言い出すんだ? …おかしいぞ? 今日のお前は…」
 その声があんまりにも近くでしたので、びっくりした。首筋に吐息がかかる。私のすぐ後ろまで夫は来ていた。

「急に、じゃないわっ…ずっと思っていたことよっ!」

 ぎゅっとシーツを握りしめる。真新しい匂いがした。

 誕生日なのに何も自分に贈るものがなくって。仕方なく、シーツを新調したのだ。ささやかなことだった。でも新しいと言うことは気持ちが明るくなる。自分まで新しく変われそうな気がして。

「恵美…」

 その時、私の左手に。夫の左手が絡んできた。指と指が重なり合っていくと、ざりっとした異物感が走る。つい、そちらを見てしまう。

 彼の薬指と私の薬指、同じ場所にはまっている同じかたちのリング。夫もそれに気付いたようで、手の動きが止まった。ふたりの視線が同じところを見ていた。

「…良かった」

「え?」
 急にそんなことを言い出すから、驚いて振り向いてしまった。夫が私の顔をじっと覗き込む。そして、そっと近づいてきて…初めてみたいなキスをした。

「恵美は、恵美だね…きっと変わらない。本当に良かった…恵美がいてくれて、嬉しいよ…」
 そのまま、抱きすくめられる。何が起こったのかも分からずに寄り添うと、夫は満足したように大きく息をした。

「…克之さん?」
 胸元に囁く。こんなに近くにいる夫は久しぶりだ。キスなんて、前にしたのが何年前か分からない。ちょっとビールの味がしたが、それも新鮮だった。

「恵美なら、俺にずっと付いてきてくれると思ったんだ。もしも仕事をなくして、路頭に迷っても、恵美がいればいいなと思った…だから、結婚したんだよ、誰でも良かった訳じゃない」

「え…あのっ…、克之…さん?」
 びっくりして、夫の顔を覗き込む。何なの? その台詞…?

「やだっ、もしかして…リストラされたとか…」

 私の言葉に夫が照れたようにくすりと笑う。

「う〜ん、そうだったら…どうする…? って、悪い冗談はよそうな、今日はお祝いの日だから。もしものたとえ…そうじゃないの? もしかして、その時は見捨てる?」

「そ、そんなはず、ないでしょう? 私はあなたの妻ですものっ!!」

 言ってしまってから、恥ずかしくなる。夫が嬉しそうに微笑むから、もう耳まで熱くなる。どうしちゃったんだ、私…。

「…良かった」
 するするっと腕が解かれる。名残惜しそうに見上げたら、おでこにキスされた。何だか、今日の夫はちょっと変だ。

「ワイン、買ってきた。ケーキもあるから…ミユは怒るだろうけど…俺がシャワー浴びたら、いっぱいやろうよ? 今日は特別なんだ…」

「え…?」
 思わず瞬きしたら、夫が白い紙切れを私に差し出した。そこに並んでいる、短い文字。

「辞令が出た、やっと昇格したよ」

「所長」と言う文字が読みとれた。小さな営業所ではあるが、夫にもようやく年齢相応の役職が付いたのだ。今まで同期に較べて出世が遅いと悩んでいた夫。それだけにとても晴れやかな顔をしている。

 私もずっと辛かった。下手に慰めてもまずい気がして。頑張って、と気軽に言えなくて。言いたい言葉が見つからなかった。心の中でずっと夫にすまないと思っていたのだ。

「あ…おめでとう…」
 気が抜けてしまって、気の利いた台詞も思い浮かばない。それなのに、夫は私の間抜けな言葉に嬉しそうに微笑む。

「恵美がいたから。ここまで来れたんだ。本当にありがとう」

「え…?」
 今日は意外な、信じられないことばかり言われる。私がきょとんとしていると、夫が首をすくめて喉の奥で小さく笑った。

「私、何もしてないわ。克之さんが頑張ったから、だからこうしていい結果が出たんでしょう…?」

 私の言葉に夫の目が細くなる。満足げに、本当に嬉しそうに。

「恵美の、お陰だよ…さ、下に降りて。準備していて…」

 

 夫より少し遅れて階段を降りる。バスルームの方では、もうシャワーの音がしていた。

 とりあえず、サイトのチェックをしようとパソコンを立ち上げた。BBSにはかき込みがあって、たまにだけどちょっと困ったものもある。早めに気付いて対処するのも大切なことだ。
 もちろんサイトのことを夫は知っているけど、余り彼の前でパソコンに熱中するのは嫌だった。だからこうして夫が席を外した隙にチェックするのだ。

 起動するのを待ちながら、ふとダイニングテーブルの上を見る。そこにはいつもの洋菓子店の箱と白ワイン、そして可愛らしい赤とピンクのブーケがあった。妻の誕生日に花を贈るなんて、夫にしてはあまりに気の利きすぎた演出。もしかしたら、ミユにでも言われていたのかも知れない。思わず苦笑してしまった。

 私たちは、お互いが違う人間で。やっぱりよく分からなくて。いつも自分たちなりに相手のことを考えて、それが上手く行かなくて空回りしたりする。それが虚しいと言えば、そうだ。何でも、パソコンのエンターキーを押すようにポンと結果が出たらいいのに。人間の心は単純にはいかない。
 夫との日常は当たり前のことが多くて、どうでもいいことが多くて。だからこそ、お互いがお互いに当たり前になる。ミユのパパとママとして生活していれば、1年なんてあっと言うまだ。

 それでも、一緒に歩いてきた。これからも一緒に歩いていくんだ。不器用に相手を探って、つまづきながら。

 

 タナ君との関係はお互いにとても綺麗で、優しかった。

 目を閉じれば、今でも思い出せる。ふたりで過ごした日々、些細な会話。私たちはいつでもお互いの一番大切な場所にいた。そしていつも相手のことを一番に考えて守ってあげれば良かった。

 私の悩みを、タナ君の悩みを。お互いに吐き出した。でもそれはいくら吐き出したところで、相手には少しも影響のないことだった。私はいつでもタナ君の一番の理解者でいれば良かった。タナ君に降りかかる火の粉を憂い、一緒に悲しんでいれば良かった。タナ君だってそうだったのだ。
 タナ君には私の一番透明な心だけを見せていた。タナ君を責め立てることもなくて、とても楽だった。でも、だからこそ、ずっと一緒にはいられなかったのだ。

 あの時。夫と、おなかの子と、生きていこうと決めたとき。私は無意識のうちにタナ君の存在を自分の中から排除していた。私が、夫と真正面から向き合えるように。何があっても逃げないように。夫を一番大切に思えるように。

 

 私はマウスを動かすと、メールソフトを立ち上げた。そこには開封したままのタナ君のメールがそのまま入っていた。

 それにカーソルを当てて選択して。そのままドラック&ドロップで…削除済みファイルに入れる。それから削除済みのファイルを空にした。

 

 その瞬間。私は2回目のさよならをした。そして、夫のシャワーの音も同時に止まった。

 

◇ ◇ ◇


「トンボ池」にどうして足を向けられなかったのか。

 それは、きっとひとときの生命を精一杯燃やして、ただ一匹の相手と巡り会い、愛し合い、子を成して死んでいく、その行為があまりにも羨ましかったのだと思う。

 人間はその後の人生があまりに長い。動物の生殖本能を考えたら、同じ相手といつまでも一緒にいるなんておかしなことだ。相手を変えて、より優秀な子孫を残そうと考えるのが本能じゃないだろうか。その神の力に非力なくせに必死で抵抗しているのだ。

 いつまでも変わらない関係なんてあるわけない。でも変わっても、かたちを変えても、私は私のままで生きていくのだ。この命が終わるまで、ただひとりの人と一緒に。

 見えない、透明な羽…それに風を乗せてみよう。

 ひととき空を泳いだら、帰り着く場所が夫でありますように。そして、夫が帰り着く先が私でありますように。お互いがお互いを大切に導きながら。

 

 明日、風に逢いに行こう。



Fin(020902)

◇あとがき◇
情報化社会の今日、こういう「再会」があるんじゃないかと思います。ある日こんな出来事が起こったらどうしよう、そう思ったら…むくむくむくとお話が出来ました。
 ひとりの人を愛し続けることはもしかすると自然の摂理に反するのかも知れない。世の男たちが若い女性に浮気するのは、より優秀な子孫を残す上での生理的現象だと聞いたこともある。でも、本能のままに行動するばかりがいいわけじゃない。
 夫婦って飽きるものではなくて、かたちを変化させていきながら、よりお互いが歩み寄っていくものなんじゃないかなあ。私なんて、我が儘ですから、全然なんですけど。頑張りたいなあと思います。

キミ ノ キオク <<…ハヤside story    「ソラ ノ カタチ<<…タナ君 side story

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