TopNovelさかなシリーズ扉>さかなの予報・5



〜こうちゃんと花菜美・8〜
…5…

 

 

「水橋っ!」
 商店街に響き渡るこうちゃんの声。そんな風に呼ばれたって、立ち止まらないんだから。私は振り返らずにどんどん走っていった。

 もう、こうちゃんなんて知らないんだから。どうにでもなればいいのよっ!! そんなに山籠もりが好きなら、そのまま炭焼き職人になっちゃえばいいんだわっ!!

 いつだって、こうちゃんにとっては仕事が一番で、私がその次で。いつもいつも置いてきぼりだった。このままずっとこんな感じなら、結婚しても辛いだけかも知れない。

 私は、こうちゃんが思っているほど、物わかりのいい人間じゃない。血もあれば涙もある。悲しかったり寂しかったりすることもある。でもっ、それをみんな押しとどめて、今までいい子にしてきた。だって、こうちゃんに嫌われたくなかったから。いつだって、こうちゃんが大好きだったから。ずーっとずっと我慢してきたんだから。

 悔しくて、悔しくて、涙が止まらない。私の気持ちを全然考えないで、自分の言い分ばかり押しつけてくるこうちゃんがすごく遠く感じてしまう。

 こんなに好きなのに、こうちゃんのこと、丸ごと全部好きなのに。でも、もうどうしようもないと思っちゃう。我慢していてもいつかは爆発する関係だったのかも知れない。だったら、始まる前に壊してしまった方が…その方が、いいのかも知れない。

 そう思って見上げると、ぼわぼわに霞んだ街灯。私の中の全ての感情が崩れていく。このまま一気に進めば、アパートの階段。夜間は感応式の信号機を越えて…

 

「…きゃあっ!!」

 ――ずしゃっ!

 

 視界、反転。気が付いたら、派手に転んでいた。あ〜、歩道から車道に移るときの段差か。ここは結構、つまづくから気を付けてるのに…ああん、こんな時に…。

「いった〜っ!」
 一応、バッグを投げ出して、両手をついていた。その手を道路から剥がす。路面にはざらざらと小石がたくさん散らばっていたから、すりむけて血が出ていた。…そして。

 膝小僧。今日はミルク色のストッキングを履いていた。それが破けて、血が滲んでいる。中の方まで小石が入っちゃっているみたい。すごく痛い。じんじん、じんじんと、心と膝小僧と一緒に痛い。もうどうにかなっちゃいそうに痛い。

「…こうちゃんの、馬鹿ぁ…っ!」

 別にこうちゃんのせいで転んだ訳じゃない。それは分かってる。私がひとりで勝手に転んだのだ。それでも口をついて出てきてしまう。

 しんしんと冷たさが無機質のアスファルトから伝わってくる。心が破けちゃうくらいに悲しいのって、こういう気分の時かも知れない。

「…水橋」
 足音が近づいてくる。小走りに。多分、こうちゃんはしばらく私の行動に付いていけずに呆気にとられていたんだろう。それが、私が転んだことでようやくスイッチが入ったのかな?

「どうした? …大丈夫か?」
 心配そうに後ろからかがみ込んだ気配。いつもと全然変わらない、こうちゃんの声。あんなに酷いこと言ったのに、もう終わりだって言ったのに、それでも変わらないこうちゃんの声。

「何でも…ない、大丈夫。もう、いいからっ…!」

 ぶんぶんと頭を振ったから、髪が広がる。結婚式が近いんだからと、トリートメントは欠かさなかった。なじみの美容院で、色々試行錯誤していたのだ。一番素敵になって、こうちゃんのお嫁さんになりたかったから。ドレスを着た私を見て、綺麗だって思って欲しかったから…!

 うずくまって。膝に、手に、涙がこぼれる。すごく情けなくて、消えてしまいたかった。そんな私の背後で、こうちゃんはふうっと息を吐いた。知らないうちに、ぴくっと身体が震える。こうちゃん…呆れちゃった…?

 ふたりの間を流れる沈黙の時間が、すごく長く感じる。立ち去るなら、さっさと立ち去って欲しいのに。

「大丈夫、じゃ…ないだろ?」
 そう言って。前屈みになったこうちゃんが、おもむろに私の腕を引っ張った。きゃっと、小さく悲鳴が上がる。

「ほら…」
 強引に立ち上がらせられて、膝小僧までスカートをめくられて。

「だ、大丈夫だもんっ! これくらい、絆創膏を貼っておけば直るから、大丈夫だもんっ! もういいの、こうちゃんはいいからっ…! 帰っていいから…」

「手当てしなくちゃ、駄目だろう?」
 こうちゃんはいつになくしっかりとした声で、きっぱりと言い放った。

「平気だってばっ、…きゃっ…!?」

 次の瞬間。ふわっと身体が浮いた。そして、気付いたら、こうちゃんに抱きかかえられていた。えと…いわゆる「お姫様抱っこ」って言う奴? 当然のことながら、初めての経験だ。あまりに驚いて、しばらくは呆然としてしまった。

「とりあえず、部屋まで行こう」
 鼻の先がくっつくくらい、顔を寄せられて。厳しい表情のこうちゃんに言い切られる。身体の自由を奪われたことで、反論する気力も消えてしまって。肯定も否定も言えず、私はこうちゃんから視線をそらした。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ *** ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

 

 私ひとり分の重みなんて、こうちゃんにしてみればたいしたことはないのかも知れない。肩から結構重みがあると思うバッグを掛けていても、歩幅も乱れない。階段を上がるときもひとりの時と変わらない足取り。でも、こうちゃんが何を思っているのか分からない。

 …だって。言っちゃったもん、結婚やめようって。馬鹿って、大嫌いって。もう知らないって。たくさんたくさん、言っちゃったもん。あれだけ言われたら、さすがのこうちゃんだって、面白くはないだろう。ううん、それどころか私のこと、嫌いになっちゃったかも知れない。そうされても仕方ないくらいのこと、言ったと思う。

 バランスを取るためにしがみついたシャツ。胸元から香るこうちゃんの匂い。あったかくて、やわらかくて、泣きたくなる。私はやっぱりこうちゃんが好きなんだ。我慢できないほど、好きなんだ。好きだから、悔しい。こうちゃんが、私のことをどう思ってるのかが分からなくて。

 

「…鍵、どこ?」
 ずっと黙っていたこうちゃんが、私の部屋の前で立ち止まると言う。下ろされるのかな? と思ったけどそうじゃなかったみたい。仕方なく、ごそごそとバッグから鍵を取り出した。ちゃらちゃらと鈴が揺れる。部屋の鍵と職場の鍵が一緒に付いている。

 こうちゃんは私に訊ねずに、少し考えてから片方の鍵を穴に差し込んだ。当たり前みたいに鍵が開いて、片手でドアを開く。真っ暗で、月の光だけが差し込んだ部屋。上がってすぐに台所があって、その向こうに寝室があって。あとは小さなお風呂とトイレと洗面所。1Kのアパート。

 ことことんと靴を落として。こうちゃんは上がるのが3度目の私の部屋に躊躇なく入っていく。電気とか点けないで、そのまま寝室まで。そして、ベッドの上に私を座らせるように下ろした。カバンを下ろすと、部屋の電気を点けて振り返る。

「…救急箱は、あるのか?」

「…え?」
 もう帰るのかと思った。送ってくれたんだもん、それだけで十分だった。でも、それを告げたくても上手に口が滑らない。

「絆創膏と…シュッってやる、黄色いパウダーならあるけど…」

「そんなじゃ、駄目だな」
 こうちゃんはぼそりと言う。それから、かがんでカバンを開けた。黒いカバンの中をごそごそと探って、クッキーの缶を取り出す。四角くて青いの。何だろうと思って見てると、蓋の中は色々な救急用具が詰まっていた。

「あの速乾性のパウダーは毛穴を塞ぐから、なお化膿するんだよ? あんなの使っちゃ駄目だ」
 なんか、言い方が怖いよ。どうしてそんなに冷たい言い方をするの? 心細くなってしまう私に、こうちゃんは遠慮なく言葉を続ける。

「タオル…借りるよ? それ、脱げる? 脱いどいて」

 破けたストッキングのことを言っているらしい。腰を浮かせた私に背を向けて、こうちゃんは洗面所に入っていった。自分の手を洗ってから、タオルを濡らしてくる。ちょっとびしょびしょな感じに。そして、戻ってくるとそれを私の膝にそっと押し当てた。

「…つっ…!」
 じん、と痛みが広がる。こうちゃんは無理にこすったりはしないで、タオルの綺麗な面を出しながら、汚れを取っていく。まだ、血は滲んでいるものの、綺麗な元通りの膝が現れた。
 そして、脱脂綿を出して、消毒液を染みこませる。ピンセットでつまみ上げて、患部をちょんちょんと叩いた。じわっと、しろい泡が吹き出てくる。

 とても染みる、痛い。私はベッドの布団をぎゅっと握りしめた。

「…どうして、そんなの、持ってるの…?」
 痛みを堪えながら、訊ねる。不思議だった、山籠もりしていたこうちゃんのバッグから、どうして救急セットが出てくるの?

「ああ、…少年野球ので、結構使うから。いつも入れっぱなしにしてるんだ」

 そうか、監督をしている野球チーム。今年は忙しくて練習にもたまにしか行けないけど。いつだったか言ってたわ、子供たちはしょっちゅうどこかに傷を作るって。そのたびに、応急処置して、駄目なら病院に行くんだって。

 こうちゃんはそれから、何というのか忘れたけど黄色い薬品に浸かったガーゼを出してきて、膝の上で広げた。その上から真っ白のガーゼも当てて、テープで留める。さらに伸び縮みする網で出来た奴を膝に通してくれる。ガーゼがずれないためのものなんだろうか?

 部屋には微かなふたりの呼吸と、それからかちゃかちゃと色々置いたり持ち上げたりする音だけが聞こえていた。そのほかはしんとして、静かで。私もどうしていいのか分からないまま、鮮やかな手つきのこうちゃんの処置を眺めていた。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ *** ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

 

「ありがとう…」

 缶の蓋を閉めて、カバンに収めているこうちゃんの背中に声を掛ける。一応、手当てしてもらったんだから、お礼を言わなくちゃ。こうちゃんはすぐには答えない。急に心細くなってきた。

 こうちゃん、あの、…やっぱり、怒ってる? 私が、酷いこと言ったって思ってる? そうだよね…あれだけ言われて怒らない人はいないよ。ああ、どうしよう。どうしたらいいんだろう。

 私がもう一度、口を開きかけたとき。ようやくこうちゃんがこちらに向き直った。そして、信じられないくらい、優しい目で私を見る。

「当たり前、だろ?」
 そう言うと、私が腰掛けているベッドの下に座った。そして、今手当てしたばかりの膝をそっと両手で包み込む。

「きちんと治さないと…短いドレスは、無理だよ? ちゃんと手当てして、すぐに綺麗に治さないと…」

「…こうちゃん?」

 いつもは見上げなくちゃいけないこうちゃんの顔が、斜め下にある。私を下からのぞき込んでる。涙でぐしゃぐしゃになった、みっともない顔してるのに。

「あのっ…、だって、短いの駄目だって、言ったじゃない。なのに…」

 言葉が上手く続かない。ねえ、そんなに優しく微笑まないで…。すると、こうちゃんの顔がふっと俯いた。視線の先が私の膝。

「…ごめんな、酷いこと言って。水橋がいいと思ったドレスなら、きっと似合うのに…」

「…え…」

 どうしたの? こうちゃん。どうして急にそんなこと言うの? 私は大きく目を見開いて、こうちゃんの頭のてっぺんを見ていた。なかなか見ることの出来ない、貴重な角度。

「あんな言い方して、傷つけて、ごめんな? 俺、悪かったと思う。水橋が何てことなく、何もかもをこなしてくれるから、そんなもんだと思ってた。頑張ってるんだって、無理してるんだって、分かっていたつもりだったのに…甘えてばかりで」

 こうちゃんが辛そうに息を吐く。私まで、胸が痛くなるのはどうして? こうちゃんと心が繋がってるみたいに、痛いよ?

「俺、余裕がなかったんだと思う。仕事が…思うように進まなくて。スケジュール通りに仕上がらないと、式に間に合わないのに…出来ることなら、きちんとまとめて休みを取って、旅行にも行きたいと思ったし…でも、天候も悪くて、進まなくて、イライラしてたんだ…」

「…こうちゃん」
 名前を呼ぶ私の声が震えている。

「あの、私のこと、怒ってない? 許してくれるの…?」

「え? …どうして?」
 こうちゃんが驚いて顔を上げた。

「水橋のこと、どうして怒らなくちゃいけないんだ? そんなわけ、ないだろう…?」

「…だって」
 私は静かにかぶりを振った。

「私、我が儘ばかりで。こうちゃんにきっとたくさん迷惑を掛けちゃうよ? こうちゃんのこと理解しなくちゃいけないのに、上手くできなくて…こうちゃんに、ふさわしい人になれない。頑張っても、上手くいかないよ…?」

 どうしたら、いいんだろう。こうちゃんが大好きなのに…それでも、こうちゃんに色々と求めてしまう自分がいる。こうちゃんの仕事が忙しいことも、頼まれたら断れない性格だってこともちゃんと分かってるのに。誰にでも優しくて、真面目に取り組むこうちゃんだから、好きなのに。

 そう思うと、手当てしてもらったばかりの膝小僧よりも、ずっと胸が痛い。私はちっぽけで、こうちゃんを包み込むことも出来ない。迷惑ばっかりかけちゃう。こうちゃんに守ってもらいたいし、包み込んで欲しいと思っちゃう。求めるばかりじゃ駄目なのに、強くならないといけないのに…!

「水橋…」
 こうちゃんが、私の手を取る。それから、静かに立ち上がる。背中を丸めてくれると、ふたりの視線が同じ高さになった。

「俺は、水橋が好きなんだよ? 泣いても笑っても、水橋が全部好きなんだから…いいんだよ、そのままで…水橋だって、そうじゃないのか? こんな俺じゃ、駄目か?」

 心の奥をのぞき込まれて。もう必死でかぶりを振った。そんなはず、ない。こうちゃんが好き。全部好き、残らず好き、大好き。そうなのよ、そんなこと最初から分かってる。私の中のこうちゃんは特別なんだから…!

 そしたら、こうちゃん。私をまっすぐに見つめて、ふっと顔を崩した。

 大好きな笑顔。私の心を溶かしてしまう、暖かさ。そんな目で見ないで、もうどうしていいのか分からなくなっちゃう…!

「会いたかったよ、水橋。だから、少しの時間を作ってでも、顔が見たかった。このごろは電話でも辛そうな水橋しかいなかったから…笑ってる水橋に、会いたかった」

 するっと。こうちゃんの手が私の手を解放する。そのまま、頬に手を当てられて、静かに、こうちゃんの吐息が顔にかかる。唇に湿っぽい感触、私じゃない息づかいが吸い付いてくる。

「…ん…」
 角度を変えながら、こうちゃんが何度も何度もキスする。落とされていく微熱、こうちゃんの心。溢れてきそう、大好きの気持ち。やっぱり、好きなの。どこまでもどこまでも、こうちゃんのことが好きなの。

「…え、あのっ…、ちょっと…!?」

 思わず、身体が跳ね上がった。…だって。こうちゃんの手が、するするっと首筋を下がってきて、あのっ…。どうして、胸を触るの? こんなのって、初めてで…。大きな手のひらだから、すっぽりと包み込まれちゃう。私の心臓の音まで聞こえちゃうよ? 恥ずかしいよ…すごく。

「何?」
 こうちゃんのキスもなんだか場所が変わっていく。耳元を探られて、首を骨にそって降りてきて…。

「こここ…こうちゃん!? あのっ、時間っ!! 電車、終電っ…!」
 シャツを引っ張る。どうしちゃったの、何っ!? こうちゃん、変だよっ!

 こうちゃんが背中に回してくれてた腕が解かれて、私はベッドに仰向けに倒れ込んでいた。後を追うようにこうちゃんが覆い被さってくる。ふっと暗くなる視界。大きなマントが私の上で開いたみたいに。そして、首筋に再び感じる、湿っぽくて生暖かい感触。

「…もう、電車、ないから」
 唇を外して、こうちゃんが私の顔をのぞき込む。その笑顔に私の胸は溶けちゃいそうになる。細胞のひとつひとつがぷちぷちって弾けて。体中がこうちゃんが大好きな固まりになっちゃう。もう、自分を止められない。

「…え?」

「今夜はずっと一緒にいよう…?」

 そう言いながら、重ね合っていく唇。深く深く入り込んで、私の戸惑いまで絡め取っていく。次々に落とされるこうちゃんの熱に、私は高鳴っていく胸を押さえることが出来なかった。

 視界の端、時計の長針と短針がやがて静かに重なった。


 


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