TopNovelさかなシリーズ扉>さかなの予報・4



〜こうちゃんと花菜美・8〜
…4…

 

 

「…あ」
 思わず、吐息が漏れる。上り下りの電車が一度に着いた構内はひとときの喧噪に満ちていた。秋色の服を着込み、家路に急ぐ人々。

 自動改札の出たところに、彼は立っていた。足下に旅行用の黒いボストンバッグ。ネイビーのGパンに薄手のトレーナー、その上から上着代わりの綿シャツ。いつもよりずっとラフな格好だ。山登りから帰ってきました、と言う感じ。

「やあ」
 こちらに気付いて、軽く手を挙げる。急いで駆け寄るが、なんだか距離がなかなか縮まらない気がする。空気じゃなくて、もっと重いものが辺りに満ちている気がして。

「こうちゃん、どうして…」
 衣装選びだったから、前あきの開襟ブラウス。フレアースカート。上からカーディガン。飾りと言ったらカーディガンに縫いつけられたスパンコールとビーズ。それからプチピアスくらいの私。一応、エンゲージリングはお約束。

 小走りに移動したから、目の前に辿り着いたときにはすっかりと息が上がっていた。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ *** ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


 携帯の液晶表示に、一瞬固まった。――どうして? そんなはずないじゃない?

 それでも、私のことが気になって、わざわざ電話してきたのかも知れない。こうちゃんからこんな風に電話を入れてくれるのは稀だったし、嬉しかった。でも、電話の向こうのこうちゃんはもっともっと信じられないことを言ったのだ。

「もしもし、水橋? あのな、今、駅の改札にいるんだけど…どこいる?」

 火曜日まで戻ってこないんじゃなかったの? どうしたの? 信じられなかったけど、ものすごく嬉しかった。携帯にかける前に、アパートの電話にかけてくれたらしい。留守電になってたから、もしかしたら外出中かと思いつつも、一応確認を取ってくれたみたい。

 声を聞いただけで。もう、嬉しくて、舞い上がってしまった。この2週間、ずっと電話でのやりとりばかりで、全然会えなかったのだ。それが…こうして、直接に。ああん、嬉しいっ!

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ *** ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


「明日、急な取材がこっちで入ってね。今やっている炭焼き小屋のご主人の木炭を使って、お店をやってる方から話が聞けることになったんだ。それが終わったら、夜には向こうに戻るんだけど…」
 家の方もずっと空けていて心配だし、洗濯物も入れ替えたいから、と一泊するつもりで戻ってきたんだって。

「へえ、…すごい。大変なんだね…」
 言葉が上手く見つからず、陳腐な受け答えをしてしまう。だって、もう、私の心の中には「こうちゃんに会えて嬉しい、幸せ」しか入ってないんだから。

「ここまで来たら、そうか、水橋って思って。――そんなに時間ないんだけど、終電までにはもうちょっとあるし。アパートまで送るから…ちょっと歩こう?」

「あ…、うんっ!」

 こうちゃんが、そそくさとバッグを手にして歩き出したので、私も慌ててそれに従った。


 お月様がさっきまでと全然違って見える。満月なのか、それに近いのか。あんまり明るいから、周りの星が霞んで見えないほど。白っぽく照らし出された夜空。
 ひとりで歩くはずだった裏駅の商店街は、こうちゃんがいるだけでとても素敵な道になる。こうちゃんはやっぱりすごい。一瞬で、私の心の眼を塗り替えてくれる。

 わざわざ途中下車をして、会いに来てくれた。仕事で忙しいと言っても、こうちゃんは私を忘れていた訳じゃないのだ。こうして態度に出して示してくれる。すんごく、嬉しい。

「…色々、大変なことばかりですまないね。久保田にも、話は聞いてる。水橋のこと、すごく誉めてた」

「そ…、そうっ?」

 久保田さんはこうちゃんの同僚さん。私たちの結婚式の二次会の幹事さんだ。人数のこととか、場所とか、お料理とか…いろいろと細かく決めてくれてる。私のお友達や職場の人も全部、連絡はしてくれるそうで、住所やメルアドを聞かれた。夜はお酒も出てくるレストランの地下宴会場を選んでくれたみたい。イタリアンがおいしい店だ。

「明るくて、世話好きな感じの子だねって。結構、好みのタイプだって、悔しがってたよ?」

「え――?」

 ああん、もう。ドキドキしちゃう。こうちゃんの声が優しくて、すごく嬉しい。電話だと、電波に乗せてると、同じ声なのに、何故かとてもよそよそしい。それに、お月様に照らされたこうちゃんの顔も少しほころんでる。どうして、こんなに緊張するのかしら?


 こんな風に。

 結婚したら、毎日、こんな風に一緒にいられるのかな? こうちゃんはお仕事が大変だけど、それでも泊まりの取材がなければ、ちゃんと家には戻ってくるだろう。デートの時だって、弟くんたちのこともあったから、終電に間に合うようにいつも気にしていたもの。

 こうちゃんと毎日会えるなんて、どんなに素敵なことだろう。一緒にご飯を食べるんだ、TVとか見て笑ったりして。ああん、何て素敵。夢みたい。早くそんな風になりたいな。あと、3週間だけど、でもねえ。長いなあ。と言うか…やることが多すぎ…。


「なんだか、先週の土日は家を片づけてくれたんだって? 孝雄が迷惑かけて、進まなかったって聞いたけど…頑と言わないと、あいつらは大変だから。言うことは言った方がいいよ?」

「う〜ん…」

 こうちゃんが言ってるのは、先週のことだ。山籠もりのこうちゃんに代わって、私は結婚式の後、自分たちの暮らすことになる場所を確保するためにこうちゃんちに行った。総二階で結構大きいお家。何でも、私鉄の線が通る前からあった家で、普通の分譲住宅なんかよりは広々したお家の多い場所だった。


 こうちゃんはその辺をきっちりしてるから、私がこうちゃんたちの家に入るのは結婚式の後なんだって。だから、式の前日に今、私の住んでるアパートを引き払う。荷物とかは少しずつ運んじゃおうと思ってるけど。それで、その晩は上京してくる私の家族と一緒にホテルに泊まる。当日の朝、実家から出てくるのが本式だけど、ちょっと遠いしね。

 色々協議(?)した結果、一階のこうちゃんのご両親が使っていた六畳と四畳半の続き間を頂くことになった。今は物置状態になってる。タンスとか大物は、空いたタカオくんの部屋に押し込むことになり、それを始めたところで(あ、力持ちはたくさん居るから、助かります。私は口で指示するだけ)…。

 いきなりどこから嗅ぎつけたのか、タカオくん夫婦が乱入してきたのだ。で、生後1ヶ月の赤ちゃんとミルクの道具と紙おむつのパックをどんと置いて…消えちゃった。とっぷり日が暮れてから、すがすがしい顔で戻ってきたわよっ! タンスは二棹運ばせたけど…くううううっ! 聞けば、夫婦水入らずでデートしたかったんですってっ! いい加減にしてよ〜〜〜。

 

「豪太郎くん、すごいんだもん…置くと泣くの。もう、どんな風に育ててるんだろう…亜由美ちゃんは」

 ああ、この発言、すごくおばさん臭い。でも、結婚前の身でいきなりばってんおんぶして、おしり拭きを近所のドラック・ストアに買いに行った私の身になってみてっ! …というか、どうして、残り少ないおしり拭きを持ってくるのよっ! 三枚出したらなくなったわよっ!


 こうちゃんは、困った顔で少し笑って、それから「孝雄には良く言っておいたから」と言ってくれた。

「仕方ないから、来週の火曜日に行くことになってるの。私も年休取ったし、その日なら、新司さんもお仕事が休みで手伝えるって。千春くんも午前中しか授業がないって言うし」

 新司さん、というのは、こうちゃんのすぐ下の弟さん。私よりひとつ上。デパートに勤めている。だから火曜日が定休日なのだ。千春くんは四男、大学一年生。

「ああ、それは聞いた…それでね」
 こうちゃんが、なにやらごそごそと茶色い大きな角形封筒を取り出してくる。県庁のマークの入っている奴。それを私に渡しながら言う。

「庶務の方から、早めに書類の申請をしたいって言われたんだ。悪いんだけど…火曜日、ついでに市役所に行って、届けを出してくれる? 確か、水橋が一式持っていたよね?」

「へ…?」

 思わず、足を止めてしまった。私の靴音が聞こえなくなったからだろう、こうちゃんが不思議そうに振り返る。

「え? 婚姻届、持っていたよね? この間、仲人さんに書いてもらったでしょう、保証人。水橋の方は戸籍抄本とかそう言うのも用意したんだよね?」

「……」
 当たり前みたいにそんなことを言われて。でも、当たり前みたいに受け答えをすることが出来なかった。だんまりを続けていると、こうちゃんは私にお構いなく話を続ける。

「で、出したら、書類にある証明書をもらって。それで水橋の仕事の空き時間かなんかに、県庁の…」

「――ちょっとっ!」
 言葉を遮っていた。そんなのはとても珍しいことだ。口べたなこうちゃんにしゃべってもらうためには会話を中断しちゃ駄目。すらすらっと話し出してくれたときは、出来る限りそれを続けさせる。それしかない。

 でも…でもっ! ちょっと待ってよっ…、こうちゃんっ!?

「…何?」
 それなのに、こうちゃんは、全然変わらない様子で。私の態度の方に驚いてる。

「も、もしかしてっ? 私に、ひとりで婚姻届を出しに行けって…言うのっ? そんなの嫌よっ! 私、こうちゃんに合わせていつでも年休を取るから、こうちゃんの行けるときに一緒に行こうっ!?」

 いい加減にしてよっ! やだ、それだけは嫌っ!! ひとりで届けを出しに行くなんて、そんなみすぼらしいことが出来ますかっ! ゲーノージンだって、みんなふたりで出しに行くじゃないっ、もう絶対に、嫌っ!!!

「…でもさ」

 思わず。こうちゃんの綿シャツの袖にかじりついちゃったのだけど。それでもこうちゃんは変わらない。のほほんとしている。

「その書類、来週の金曜日までに出してって言われてるんだ。俺もいいですよって言っちゃったし。来週はとてもそんな時間は作れないし…給与の面でも優遇があるらしいし、もしかすると冬のボーナスにも響いてくるかも知れないんだって。すまないね、頼むよ?」

「…う…」

 そんなのって…アリ? ないと思うっ!! それでもこうちゃんが本当にごめんなさいの顔で私に頭を下げるから、もうこれ以上言えなくなる。こうちゃんのことを大好きな私は、どうしてもこうちゃんを困らせることが出来ないのだ。出来る限り、言うことを聞きたくなっちゃう。

「分かった、…やってくる」
 気が付いたら、そんな風に答えていた。


 ふわふわ。私の視界に広がるのはクリーム色のやわらかい布。フレアースカートの模様はオレンジ色の花畑。知らないうちに、俯いて歩いている。歩道のタイルの模様を踏んづける。等間隔で立っている街灯。ひとつすり抜けるたびに、アパートが近くなる。そして、こうちゃんとの時間が少なくなる。

「あ、どうだった? 今日」
 急に思いついたように訊ねられて。私は顔を上げた。こうちゃんが街灯を背にして立っている。短い髪の毛の先が少しだけ金色。こんな風にこうちゃんを今まで何度見つめたのだろう。そして、これからどれくらい見つめるのだろう。

「え…?」

「式場、いろいろやってきたんでしょう?」

 あ、そうか。なんだか、色々考えてるうちに、吹っ飛んじゃってた。そうだ、そうだ、こうちゃんに言いたいことがあったんだ。

「うん、あのねっ! こうちゃん、聞いてっ!」
 思い出したら、自然と声が弾んできた。ああ、そうだわ、明るい話をしよう。うきうきするみたいな。今日考えたのよ、面倒くさいことばっかだけど、時々、嬉しいこともある。それを大切にしていこうって。

「ドレス、選んだのっ! みどりちゃんとね、すっごく素敵なの、見つけちゃった。ろくなのないって、ふたりで言ってたんだけど。可愛いの、あったの〜っ!」

「…へえ」
 こうちゃんも嬉しそうに微笑んでくれる。

 なんだか、話すのがもったいないな〜ドレスのことは当日まで彼には内緒にしておく子もいるんだって。感動は取っておいた方がいいから。でも、でも…言いたいな。黙っていられないや。

「このくらいのね、丈のシンプルなワンピースなの」
 そう言いながら、膝小僧の15センチくらい上に手を置いて説明する。

「でね、ウエストの所からレースのふわふわのオーバースカートが噴水みたいに広がって…ええと、バレエのチュチュみたいなの。段々になっていて、裾にぐるっとちっちゃなお花とパールが付いていて…袖も肩の所だけ、綿帽子みたいに付いてるのよ?」

 ミニのドレス。意外な感じで素敵だなと思った。上半身はぴたっとしていて、スカートがふわふわで。歩くたびに綺麗に揺れるのがいいな、靴は編み上げのブーツでもいいかも知れない…。白い手袋は肘の上まである奴にして。
 ヘッドドレスはベールじゃなくて、髪にたくさんお花を挿して。全部アップにしないで、綺麗にカールして半分くらい下ろしても可愛いかも。

 色はパールの白、光の当たり方で何となく輝きが変わる。そのドレスは、みどりちゃんと選んだ中で一番素敵だった。お姫様というより、妖精みたい。

「…水橋?」

 思わず、思い出したら嬉しくなって。くるんとその場で一回転していた。スカートは全円に近いから、綺麗な弧を描いて私の周りに広がる。頭のてっぺんの月。影は足下に小さくある。街灯の光に照らされたもう一つの薄い影は陽炎みたいに歩道の上を付いてくる。

 顔を上げたのは、こうちゃんの声がちょっと違ったからだ。なんだか、少し怒ってるみたいで。どうしてなのかな? と、すごく不思議になって。

「それは…ちょっとやめた方がいいんじゃないのか? ドレスは、やっぱり長いのの方がいいだろう。普通の方がいいよ」

「え…」

 何で? 何でそんなこと言うの? こうちゃんの言ってる意味がよく分からない。

「やっぱりさ、奇抜なのは良くないよ。普通の、良くある奴の方が無難だし、誰にでも似合うし――」

 淡々と語るこうちゃん。足音も普通で。どうして、そんなに大股に歩くの? そんなに早く、アパートに着きたいの? そうしたら、もうバイバイなんだよ…!?

 

 私の視線の先。シャッターの降りた商店街をずんずんと遠ざかるこうちゃんの背中。それがふっと滲んだ。

「…どうして…」

 すごく、低い声。自分のものとは思えないほどの低い声。口からこぼれたとき、自分でもぞっとした。

「どうしてっ、そんなこと、言うのよっ!?」

「へ?」
 足音が止まって、振り返る。そのとき、こうちゃんはとても驚いた顔をしていた。すぐに後ろを歩いていると思った私が、だいぶ離れていることに気付いたからだろう。

「ド、ドレスくらい、私の好きなのを選んで、どうしていけないのっ!? こうちゃん、ひどいっ!!」

 ぷちっと、何かが私の中で途切れた。

 多分、こんなことが言いたかったんじゃないと思う。でも、止まらなかった。

 

 私は、ずっと一生懸命やってきた。それは他の誰のためでもない、私とこうちゃんのためだ。ひとりぼっちで話を進めるのは辛いこともあった。どうしていいのか分からなくなって、相談したくなることもたくさんあった。式場で打ち合わせをしていて、他の人たちはみんなカップルで、私だけひとりで。

 それでも、頑張ったんだよっ! 頑張ってきたんだよっ…!! こうちゃんに誉めてもらいたいから、偉いねって、言って欲しいから。そして、そして…こうちゃんと、毎日一緒にいられる、そんな自分になりたかったから。

 でも、でもっ…こうちゃんは、何にも分かってくれないじゃないっ! 私の心なんて、全然伝わっていないじゃないっ! それなのに、自分の言いたいことだけは押しつけるの? 私の気持ちなんて、どうでもいいのっ!?

 …悔しいっ! ものすごく、悔しいっ!!

 

「こうちゃんなんて、本当はどうでもいいんでしょっ! こうちゃんは結婚式なんて、どうでもいいんでしょっ!? どうでもいいから、こんな風に私に何もかもを押しつけて――っ…!」

「水橋? いや、俺は別に…」
 こうちゃんが慌てて、こちらに歩き出したのが見えた。滲んだ視界、その中をぼんやりとした影が動く。水の中を進むみたいにぶれて。

「べ、別に、じゃないでしょうっ! その通りなんでしょっ!? こうちゃんは、私と結婚しなくてもいいんだ、したくないからそんなこと言い出すんだっ! だからっ…!!」

「ちょっと――」

「…知らないっ! もうっ!!」
 こちらに差し出された腕を、バッグで思いっきり叩いていた。上から思い切り振り下ろして、よく取っ手が抜けなかったと思う。これにはさすがのこうちゃんも手を引いた。

「こうちゃんの、馬鹿っ!!」
 そう叫んで、大きく首を振ったら、歩道のタイルにぼとぼとと水滴の丸いシミが飛んだ。顎から涙が流れている。

 両手で頬を拭いながら、向き直った。こうちゃんが呆然としてる。私は大きく口で深呼吸した。ふたりのほかに誰も通らない、道路にも車の1台も走ってない。青と赤の信号に照らし出された車道。葉っぱの半分落ちた銀杏の木。

「もう、いいっ!! やめるっ! …結婚なんて、やめるんだからっ!!」

 こうちゃんの唇が何かを言おうと動きかけた。その横を、すり抜ける。

 思考回路が壊れた。心がバラバラになって、もう何も考えることが出来なかった。

 一目散に、前を見て走り出す。私のローヒールのかかとが奏でる高い音だけが辺りに響いた。


 

 

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