TopNovelさかなシリーズ扉>石の誕生日・1
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〜みどりちゃんのお話〜
…前編…

 

 

『ああっ!! ウザいっ!!』
 公衆の面前で叫ぶわけにもいかないから、思い切り心の中で罵倒する。

 アフター5の英会話スクールを終えて、回転ドアを押したところ。もわっとした気色悪い暖房の外は、どうにかしてよと思うほどの突風が吹き荒れていた。 思わず、おろしたてのコートの襟元をぎゅっと掴む。たかだか温暖気候の北風なんてこの100%カシミアに敵うわけないんだから!!

 でもっ!!

 私が苛ついてるのは、北風如きのせいではないんだからね! この私が自然現象にいちいち腹立てるわけないじゃない。

 …で、私が何に腹を立てているのかって? それは決まってるわ、ここの通りの馬鹿らしい装飾よ。

 まだ11月中旬だというのに! 不景気をお祭り気分で吹き飛ばそうとしているかのような、沿道のイルミネーション。駅前のロータリーから道の両脇にある街路樹に施された無数の電球…1キロぐらい続く、この街の名物だ。
 遠目に見れば光と言うより雪のよう。常緑樹に降り積もった真っ白な輝き。12時になると消灯になるらしいが、一体一晩でいくらの電気代がかかっているんだろう。これも市民の汗と涙の税金なんだから! (…とか息巻く私は地元の人間ではない)

 東京の都心からはいくらか離れた某県庁所在地。でも駅前の賑わいだけを見れば、新宿もここも変わりはないのよね。本物の大都会と何処が違うかと聞かれれば…「街」の終わりが早いこと。都心だったら、行けど行けどビルの林。途切れる暇もなく次の街に入っている感じ。それが地方都市だと歩いていける距離でぷっつり終わっている。
 実際、私の勤務先もそのぷっつりの手前。見栄と欲望の固まりの様なビルを抜けると、地元の商店街とキャベツ畑が広がっているのが笑える。制令指定都市をうたっていたって、この程度よ。

 自分のミスが原因でトラブったくせに、その矛先をか弱い部下(私)に向けてネチネチ嫌みを言い続ける課長と、通常勤務時間にプラス1時間の残業。
 その後ダッシュで3つ隣りのビルに飛び込んで、60分の英会話のレッスン。…全く、この年の瀬にあって充実した一日だったわ!!

 ガラン!!

 足元に転がってきた空き缶を景気良く蹴り上げた。…ととと、何故かその空き缶が私の頭上を抜けて、後ろに飛んでいってしまった。
 
 慌てて振り向くと。50Mぐらい後ろを歩いていた男が…華麗にジャンプをしたかと思うと、弧を描いて飛んでいく缶をキャッチした。…背中には溢れんばかりのイルミネーションを背負って。

「…中身が残っていたら、かぶってましたよ?」
 わ!! 思い切り好みの低い声! …実は福山ファンの私、胸がときめく。


「あ、あのっ…すみませんでした。まさか、後ろに飛んでいくとは思わなくて…」
 私としたことが、何たるしおらしい態度。軽く会釈すれば、髪の毛がするりと流れ落ちてきれいに決まるはずだ。

「美人の後ろを歩いていて…空き缶が飛んでくるとは思いませんでしたよ。もっともワールドカップだったら、ナイスプレイですけど?」
 顔を上げると。いつの間に近づいたんだろう…目の前に空き缶を持った人物がいた。

 トレンチコートの下はすっきりとしたグレイのスーツ。ベーシックな細身のデザインだ。濃淡のあるブルーのストライプのネクタイ…あれ、靴下もなにげにブルーなのね? 黒い靴も艶々と綺麗に磨かれている。この埃っぽい時期に毎日磨いていないとこれだけ綺麗にはなっていないだろう。
 柔らかそうな髪の毛は少し色が明るい。ふわっと後ろに自然な感じで流している。ごくごく度の弱そうな眼鏡をかけて。私の視線に反応して、彼は静かに微笑んだ。

「では…僕はそこのパーキングに車を取りに行きますので…失礼」
 軽く会釈して。顔を上げるとちょっとずれた眼鏡を直す。

 …え? それだけ?

 空き缶を命中させておいて、図々しいとは思うけど…普通、言葉をかけたついでに食事にでも誘わない? 肩すかしに合った気分で呆然と立ち尽くす。そんな私に彼はもう一度、振り向いた。

「…もう、落ちてるモノを蹴り上げちゃ、ダメですよ…、巡田(めぐりだ)さん」
 そのまま、すたすたとパーキングに吸い込まれていく。

 …え? 何で、名前知っているの? 立ち止まったまま寒いのも忘れて、暫く考え込んでしまった。…知らない顔なのに。

 それが、彼と私の出会いだった。



「みどりさん〜、お帰りなさい! …ね、ね、ちょっと来て!」

「なあに、ママ。また新しい服でも買ったの?」

 ワンピース姿のママが吹き抜けに造られた我が家の玄関先に立って頬を紅潮させていた。歳よりもだいぶ若く見えるママはくるくるのウエーブヘアを肩下まで垂らしている。歳を考えろと言いたいところだが、40過ぎてもこの人は若い。少女趣味のワンピースが似合っているのが怖いけど。

「あ、お姉ちゃん。お帰り〜今日は早いねえ…」
 ぴょっこりと顔を出す、妹の「ぼたん」だ。つり目の私に較べ、この子はママ似。服装も似ていて、ぴらぴらのワンピースを着ている。髪にはリボンなんて結んじゃって。…わわわ、このリボン、この前叔父様に頂いたフランス製の奴じゃないの!

 二人は妙に楽しそうに笑いながら、私をリビングに引っ張っていく。

「…なによお〜」
 引きずられつつ、シャンデリアの下に目をやると…そこにはテーブルにうずたかく積まれた無数の(…は、オーバーだけど)白い封筒があった。A4版が楽に収まるその中に何が入っているのかは見なくても分かる。

「お父様がね、どれでも選り取りみどりですよ、って!」

「お姉ちゃん! 私、成人式の着物の帯を替えて着たいんだ。流行が去らないウチに決めてよね」

「あのね〜ママは…やっぱり、お着物よねえ。お洋服が着たいんだけどな…だって、今度の新しいシリーズがねえ…」

「知ってる〜フルーツ柄の。可愛いよね〜あのオレンジ色! …でもさ、ママ。いくらなんでも花嫁の母がピンハはまずいよ」

 …嫌だなあ、この母娘。すっかり自分たちの世界に入っちゃってるし…仕方なく目線の高さまである封筒の一番上の奴を面倒くさそうにつまむ。

 ご大層な布張りの表紙をめくると…やっぱり出てきたのは恐ろしいほどの年齢不詳の顔。まん丸い顔でまん丸いハナ…アンパンマンか? 身長がないのか、顔がでかいのか…何等身なのかしら!?

 呆然と眺めていると、横からママが口を出してきた。

「ああ、その方はね…お父様の同級生のご子息。W大のご出身で今は家業を手伝われていて…年回りもみどりさんに丁度いいわ! 27歳ですって」

 …嘘。これで27歳!? でも20歳にも40歳にも見える不思議な顔だ。それに!! どうしてこんなに髪が薄いの? でもってこのワイシャツのカフスからはみ出た毛は何!? ぎゃあああああ〜手の甲まで毛が生えてる!

「相手の方はみどりさんのことをご存じで、とても乗り気だそうよ。お父様も頑張ってみどりさんの釣書を配って歩いていらっしゃるの…その方がいいなら、今から早速、お父様の携帯に…」

「うんうん、お姉ちゃん! 善は急げよ!!」

 わわ、待ってよ!! 受話器を持たないでよ!!

「ごめんなさい、ママ…今日はちょっと頭が痛いの…考えられないから、しばらく待ってちょうだい」
 文字通り頭を抱えて、ふらふらと立ち上がる。こいつらに関わっていたら、明日にでも結納になってしまいそうだ。

「あらあら、大変〜じゃあ、ぼたんさんと2人で選り抜いて置くからね…お薬は?」

「…いらない」


 思えば。

 子供の頃から、『可愛い』『美人だ』と言い続けられてきた。モデルのように綺麗だったママの血を引いた私たち姉妹はお姫様のように着飾ってそこら中の家族同伴パーティーに参加した。

 パパは小太りさんだったけど、愛情と押しでママをモノにした。今で言えば「ストーカー」まがいだったのかも知れない。小野小町の深草少将よろしく、雨の日も雪の日もママの元に通い続けた。その話はママから耳にタコが出来るほど聞かされている。

 だから我が家では「愛されて、幸せになる」が家訓とされている。…でも、私は知っているのよ。そう言う関係は面倒くさいし、とても退屈だ。
 
 だって、その手の男は例外なく人間としての器が小さい(ごめん、パパ)。
 彼女となったら、自分の勝手に決めた理想の枠にはめ込んで、ああしろ、こうしろと命令調になる、あくまでも本来の姿でなく男の決めた理想に沿わなくてはならないのだ。
 またはネチネチと四六時中付きまとう。ほかの男と話しでもしようものなら、飛び降り自殺でもしかねない騒ぎ。そのくせ、美人な彼女がいることを何よりの手柄のように誇示するのだ。

 そんな事実を小学生にして悟ってしまった私は、何が何でも素敵な恋をしようと決意した。


 三高なんて当たり前! ルックス・身長・頭脳・運動神経・学歴・職歴・会話のおもしろさ…等々。
 でも…お付き合いするところまでは順調に行っても…なかなかに続かないのだ、これが。

 大抵の男は私が食事にでも誘えば、喜び勇んで付いてくる。少しぐらいの仕事だったら蹴飛ばす勢いで。こっちが誘ったところで、支払いはあちらモチだ、当然だけど。そう言う時間はとても楽しい。向こうはこちらの気を引こうとあの手この手を使ってくる。そう言う姿を鼻であしらうのも美人の特権だと思う…だのに。

 この頃。短大の同級生の結婚が増えてきた。23歳と半分。短大卒と言えば適齢期か? 特にウチみたいな小学校からのエスカレーター付属が併設されている所は金持ちのお嬢が多い。中には生まれたときからの許嫁がいると言って、卒業と同時に結婚した子もいる。

 周囲が沸き立って来たと同時に、家の中も騒がしくなった。 我が家は私と妹のぼたんの2人姉妹だ。どちらかが婿取りとなる。パパの経営する貸しビル経営の「巡田商事」を引き継ぐ者が必要なのだ。もちろん、私だってぼたんだってその気はない。家に縛られるなんてまっぴらだ。
 そのせいか、この頃姉妹の間にも緊迫した空気が流れる。どちらかに恋人が出来たとなればゆゆしき問題だ。先手を打たれてはおしまいなのだ。

 今回のお見合い写真の山も、ぼたんの策略に近い。何にも話してないのに、あいつは私がこっぴどく振られたことを察知したらしい。で、ぽつりと聞いてきた。

「お姉ちゃん…もう、遊びで付き合う男なんてまっぴらなんだよね?」
 しおらしく優しい言葉をかけてきた妹に安易に頷いた結果…こういう事態が訪れていたのだ。



 …うそ。

 雑居ビルのエレベーターを降りたところで足が止まった。 昨晩の家族の馬鹿騒ぎに付き合う気にもなれず、今朝はひとことも口をきかなかった。出かけにママが何か叫んだ気がしたけど、思い切り無視!
 家に帰ればまたあの釣書の山と向き合う羽目になるのかと憂鬱で、ついつい仕事の後、英会話スクールに来てしまった。チケット制でいつ行ってもいいんだけど、2日続けたのは初めてで、講師のマイケルも不思議そうな顔をしていた。どうにか時間つぶしに成功して、これから帰宅しようとするところ…。

 柱の影から相手に気付かれないように、そっと盗み見る。 間違いない。回転ドアの向こうでだるまのように着込んで茶色のマフラーをぐるぐると巻いている…アンパンマン。あの見合い写真でつまみ上げた姿とぴったり合致する。

 …深草少将、作戦!?

 きっと家族の誰かが根回ししたんだ! その証拠に、アンパンマンは私を見つけると目を糸のように細めてニヘラーと笑う。そのまま嬉しそうに笑いながら、回転ドアの向こうから入って来そうになった。

 …ど、どうしよう!  今から携帯に電話して、花菜美に来てもらうわけにも行かないだろう。無下に断って、ナイフでも持っていたら怖いし…この場から逃げ出そうにも、非常口の位置さえ分からないよ〜

 頭は思い切りパニック!! 泣き出しそうな私の視界を、ふいに黒い影が横切った。それはアンパンマンを跳ね飛ばすように回転ドアから入ってきた。

「あ、あなたは…」

 黒い影は乱れた前髪を後ろにやって、コートを脱いだ。今日はベージュのスーツ。

「ああ、巡田さん。昨日はどうも…」
 こちらに気付くと、ゆっくりとした身のこなしで会釈する。対する私は日頃の立ち振る舞いのマナーも忘れて、呆然と立ち尽くしていた。足がガクガク震えて止まらない。

「…ここの、スクールに来ている方だったんですか?」
 そうだったのか。だから私の名前を知っていたんだ。…でもこんな人いたっけ!?

「今日は会議が長引きまして…これから次のレッスンに参加しようと思ってきたんです。…そちらは、お帰りですか?」

 おっとりしたしゃべり、いつもだったら心地よいんだろうけど、今の私にはまどろっこしくて仕方ない! 
 ああ、アンパンマンが入ってきたじゃないか!! あいつは彼の存在など視界にないように、まっすぐ私に向かって歩いてくる。

「あ、あのっ!!」
 私の23年半の人生で、最高に真剣な眼差しで。しっかりと目の前の男を見つめた。

「これから、私と…食事に行ってください!!」
 そう言うが否や、がしっと彼の両腕を掴んだ。

「…は?」
 当たり前と言えば、当たり前だが…相手は呆気にとられている。ついでにアンパンマンも視界の隅っこで硬直している。この会話、聞こえているんだろうか? 少し、声のボリュームを落とした。

「お願いします! …あ、いいんです。食事しなくても…駅まで一緒に歩いてくだされば…」

 言ってしまってから、猛烈に恥ずかしくなる。さすがに公衆の面前だ。私はそのまま、視線を逸らして俯いてしまった。



「…そう言うことでしたか」
 …1時間程経過して、夜景をバックに。ワイングラスを手にした彼は楽しそうに微笑んだ。

「…申し訳ありません、本当に…あの、申し訳ありませんでした…」
 私はもう、自分が情けなくて顔すら上げられない。スープに顔を突っ込むような勢いで頭を下げた。

「レッスンも…さぼらせてしまって…」

「いいんですよ」

 その声に恐る恐る顔を上げる。眼鏡をかけた人が冷たく見えるって言うのは嘘だな。彼はとても優しそうに見える。物腰もおっとりとしていて…どうやって、商談をまとめるのか不安になるほどだ。

「いつもは一人で食事してますから。こんな綺麗な人に誘われたら、断る男はいないんじゃないですか?」

「そ、そんな…」
 ああ、どうして赤くなるの。どうしてしまったんだろう、私は。

「でも、嬉しいですよ。ストーカーまがいから逃げるためであっても…僕を誘ってくれたんですからね。いいところへ来たと思います」

 彼が行きつけだと案内してくれたレストラン。駅前のパーキングから車を出して、30分ほど走った所にあった。彼の勤務する銀行の寮がすぐ側にあると言うこと。彼の背後に見える河を渡ると東京都になる。
 そんなに広くない店内は蜂蜜色の光に包まれて、聞いたことのない民族音楽が心地よく流れていた。

 ここに来るまでに、彼が外資系の銀行に勤めていることを知った。営業担当で、しょっちょう海外支社に飛ばされている。何でも英会話スクールのマイケルはあっちにいた頃の友達で、時々おしゃべりがてらたずねてきていたとのこと。 …これだけの上玉、逃すなんて私らしくもないけど…この何ヶ月かは、それどころじゃなかったから。

「…女性を誉めるのが…お上手なんですね、これも海外勤務の成果ですか?」
 そうだ、10月まではシアトルにいたと言っていたっけ。日本人離れした会話術も当然のことかも知れない。

「いえいえ、心にもないことは言えませんから…誉められていると思われるのでしたら、それは本当にあなたがお綺麗だからですよ…」

 …何か、調子が狂う。どうしていちいちどぎまぎしちゃうんだろう。

 でも、最高に心拍数が上がったのは食事の後の出来事だった。

 食事代は私が払った。もちろん、彼は払うと言ったけど…それじゃ気が済まなかったからだ。2人分のディナーの料金としては驚くほど安かった。料理の味を考えたら、倍くらいかかっても当然なのに。驚く私を促すように、彼はお店の隣にあるデパートに入っていった。
 目がくらむほどのクリスマスディスプレイ。天井から下がった金銀のリボン。赤や緑のオーナメント。コーナーごとに飾られた白い体にゴールドに飾った上品なツリーたち。

「…じゃあ、今度は食事のお礼をさせて下さい」

「…は?」

「どれでも、好きなのを選んでください」

 …そんなこと言ったって…ここは。ジュエリー売り場じゃないか? 私の目の前にあるのは…キラキラしたショーケース。手を付くのもためらわれるようにピカピカに磨き込まれている。そして…中にあるのはもちろん…。

「あ、あの…特別の理由もなく、頂くわけには行きませんわ? お世話をかけたのは私の方なのですから…」

 どういうことなんだ? お礼って!? …ああ、頭が混乱する。いつも主導権を取るのは自分の方なのに、何だか調子が狂ってしまう。

「僕が…あなたの恩人だとおっしゃるなら、あなたは僕の言うことを聞かなくてはなりませんよ?」

 すっと隣りに歩み寄った彼が私の右耳に囁いた。それだけでぞくぞくっと背中に戦慄が走った気がした。それなのに…さらに彼の左手がとても自然な仕草で私の右手に触ったかと思ったら、くるりと絡みついてくる。

…私は息を呑んだ。

 

「…本当に、それで良かったんですか?」
 彼はハンドルを握りながら、静かに言った。

「ええ、もちろんです。はい…」
 私は助手席に小さくなって座っていた。…だって。あのショーケースの中はマリッジリングとエンゲージリングの行列で…食事代に似合うモノを、と考えたら。

 右の薬指にはまった指輪。小さな透明なピンクの石…これはピンクトル・マリン。食事代よりちょっと高いぐらいで済んだ。彼は、売り場の店員に慣れた手つきでカードを出した。

「翌月一括で」

 …結構、堅実だ、と思った。私はカードをパパからもらったときに、いい気になって使いすぎて利子がかさんだことがある。リボ払いで月々1万円の支払いにしたら、30年立っても払いきれない金額になっていたのだ。さすがに銀行員なのかも知れない。

 それにしても。

 そっと横顔を盗み見る。今までプレゼントなんて、貰い慣れていた。上司からエレベーターの中でこっそりと出張のお土産を渡されたこともある。取引先の営業さんからも色々貰った…でも、彼らには「確かな」下心があったのだ。こっちだってそれが分かっていたから「駆け引き」を楽しんで来た。

 …でも、海外勤務は、なあ…銀行員、商社マン…と言う職種は最初から選外になっている。だから、彼の仕事が分かった瞬間に私の心は決まっていた。

 もうこれきりにしよう…でも何かモノを貰っちゃうと、気が引ける。それより、彼が滅茶苦茶好みなのも気になる。

「…あの男は、多分また来るでしょうね?」
 私の視線に気付いているんだろうか? そう言いながら、緩やかなカーブを切る。…私の家への近道。住所を言っただけで分かっちゃう土地勘。ディナーの後、さっさと送ってくれちゃうのだから…彼の気持ちも全く分からない。

「大丈夫です、あとはどうにかしますから…家族にもガツンといいます」
 なるべくあっさりと返事する。

 ああ、現実に戻って来ちゃった。アンパンマンか…いくら何でも嫌だもんな。家に戻ったら、とりあえずパパの集めた釣書をひっくり返そう。あの男よりましなのを見つければいいんだ。

「…しばらく。欺いてやりませんか?」

 …え? 悶々と考えていた私は、驚いて振り向く。いつの間にか彼の左手がハンドルから離れて、私の右手を包んでいた。視線は相変わらず、ちゃんと前を向いている。

「日本に久しぶりに戻ってきて…またいつまでいられるかも知れません。楽しいゲームです、参加させてください」
 対向車のライトが当たる。ぱあっと横顔が浮き彫りになる。やっぱり綺麗だ。

「ああいう奴は…気を持たせちゃダメです。全然脈がないと思えば諦めますよ、それまででいいじゃないですか?」

 …話はおかしな方向に進んでいく。どう返事したらいいのか分からない。でも、断る理由もない。

「そ、そうね。あなたのおっしゃる『ゲーム』とやらにお付き合いするのも悪くないわ」

 …手を握られたぐらいで、ひるむ私じゃないんですから。上がり続ける心拍数に気付かない振りをして、素っ気なく答えた。

「…あなた、じゃなくて名前で呼んでください。…名刺は渡しましたよね? 村越、卓司(むらこし、たくじ)です…分かりました? みどりさん」
 彼…卓司さんの横顔が少し微笑んだ…気がした。




 次の日。1時間の残業を終えて、更衣室で着替えていると携帯が鳴った。

「…仕事、終わりました?」
 耳に届いたのは、卓司さんの声だった。

「はあ」
 まさか、どこからか見ていたのではないかと思うようなタイミングの良さに驚く。

「あの男、1時間前からいます。会社の向かいの街路樹から覗いていますよ?」

「え…??」
 ちょっと〜また来たの!? 待ってよ〜

「後15分なら時間が空いてます、駅まで送りましょう? すぐに降りてきてください」

 

「…すみません…あのっ」
 5分後、ルージュだけかろうじて引き直して。慌ててビルの外に転がり出ていた。3階からだから、エレベーターを待つより早いだろうと階段を使ったら息がぜいぜい切れた。嫌だなあ、年寄り臭い。今度スイミングにでも通おうかな。 ドアの外に立っていた卓司さんは手にしていたたばこを吸い殻入れにしまった。ダークブルーの丁度浅田飴の缶位の大きさ。ゆっくりした仕草で人差し指を自分の口に添えた。

「余計なことは言わないこと、悟られますよ」

 卓司さんの肩越しに道路の向こうが見える。木の陰からこちらを覗いているのは…わわわ。
 やはり足がすくんでしまう。そんな私を見て、彼は眼鏡の奥から微笑んでいる。

「…行きましょうか?」

 おずおずと歩み出る。

「すいません…本当に。まだお仕事があるんでしょう?」
 申し訳ない気持ちでいっぱいになる。この人の前に出ると、調子が狂いっぱなしだ。

「ゲームだと言ったでしょう…ほら、あんまり固いとばれちゃいますよ」

 …え? ちょっと、待ってよ!! 卓司さんはいつの間にかふんわりと私の肩を抱いていた。私の前では吸わないけど、タバコの香りがする。

「あ、卓司さんっ!?」
 小声で叫ぶ。何でこの人は自然にこんなことが出来ちゃうんだろう? 何から何まで今まで付き合った人たちとは違っている。自分がイニシアティブを取れないのがもどかしい。

「ダメですよ、もっと身体を預けてください…ほらほら、愕然としている。彼って、凄く分かりやすい人間のようですね、ああいう人は家庭的でいいかも知れませんよ?」
 くすくすと声を殺した笑い。もしかして、この人って性格悪い? 頭の上から低くて響く声が降り注ぐ。どうしよう、頭がくらくらして来ちゃう。

 ゆっくり、ゆっくりと進んでいく。トンネルみたいなイルミネーション。寄り添って歩くと、一人で歩くのとは全然違う色に見えてくる。

「綺麗ですね…雪が降り積もったみたいです。シアトルは緯度が高いけど温暖な気候で雪はあまり降りません、やはり今頃、街中が光の洪水になっていると思いますよ」

 無数の光は豆電球の産物なのに、何だかとても神聖なものに思える。たくさんの粒がそのまま一人一人の人間の心のような錯覚を覚えてしまう。

「…ひとつでいいのに」

「え?」
 何気なく口をついてしまった言葉。不思議そうに卓司さんが反応する。

「どうして、こんなに街中を飾り立てるんでしょう? そりゃ、綺麗かも知れません、でも…どんなに街中が騒ぎ盛り上がっていたって…一番欲しいものが手に入らないなら、仕方ないじゃないですか?」

 ああ、支離滅裂。きっと隣りで呆れているんだろうな。

 でも鼻がツンとするほど、切ない気持ちでいっぱいになった。そうだ、忘れていたけど…私は失恋していたんだ。まだ半月も立ってない。
 いい気になって「馬鹿野郎!!」とこっちから振った気になってたけど…捨てられたのは私の方なんだよね。今回だけじゃない、私の好きになった人は…こちらが本気になった途端に引いていく。

 「結婚しました」の葉書が勝利の宣言のように届く。どう見たって私よりはレベルの低い旧友たちの方がしっかりと幸せをつかみ取っている。今は友達の花菜美がシングルだからまだいい。…でも、私は知っているんだ。

 花菜美は。私よりか、よっぽどモテていた。一緒に入った大学のサークルはもちろん、参加した合コンでも男たちの視線は花菜美に向いていた。確かに花菜美は可愛いと思う。でも…男たちが最初に注目するのは私の方なのだ。それが…話をしていくうちに…変わってくるんだよね。

 そんな感じじゃ、いつ先を越されるか分からない。…ううん、私は怖いのだ。

 もしかして。いつまでたってもこのままじゃないだろうかと。大好きだと思った相手には逃げられて、どうでもいいと思った相手にズルズルと引っかかる羽目になるのではないだろうか?

「…みどりさんは…何か、欲しいものがあるんですか?」

 ああ、聞かないでよ。そんな声で囁かれると、今の私は泣いちゃうよ。

「そりゃあ、ありますよ!」
 意識してつっけんどんに答える。心持ち、胸を張って。

「じゃあ…」
 急に。足が止まる。私の身体は彼に巻き付かれている状態だから、足がもつれてつんのめりそうになった。

「…もうすぐ、クリスマスですから。僕で用意できるものだったら、プレゼントしましょう?」
 その言葉に促されるように私の身体がくるりと反転して、卓司さんに包まれる。思わず身体は硬直する。…でも、あたたかい…。

「お金じゃ、買えないんです。…だから無理です」
 ゆっくりと身体をはがす。きっと今日が寒いせいなんだろうか、それとも私が人恋しいんだろうか…ずっとそこに留まっていたい欲求から、必死で自分を振りきった。

「もう、あの男も追ってこないみたい…助かりました、ありがとうございます」
 自然に微笑もうとする。でも…何だか上手に出来なかった。卓司さんの顔もちゃんと見られない。

 私はくるりと背中を向けると、一目散にタクシー乗り場に向かった。




 それからウイークデーは。
 毎日、卓司さんが駅まで送ってくれた。ほんの10分ほどの恋人気分。申し訳ない気もしたが、いつの間にかそれが自然になっていた。

 半月ほど立って。街は12月に色を変えていた。前にも増して、イルミネーションがまぶしくなっている。駅前は白熱の黄色みがかった電球に加え、赤や黄色や青も混じって、流れるようなライトアップ。11月最後の日曜日には駅前に大きなクリスマスツリーも出現した。
 その日、いつも通りに階段を駆け下りてきた私に、いつものように吸い殻タバコをしまってから卓司さんは囁いた。

「…いないでしょう、今日は」
 彼は視線を送らない。ふと見やると、いつもは木の陰にいたあの男の姿がない。

「2、3日前から、見えなくなっていたんです…気付いてました?」

「……」
 正直。途中からあのアンパンマンさんのことはすっかり忘れていた。それなのに卓司さんがこうして迎えに来てくれることだけは当たり前のように思っていたのだ。

「良かったですね」
 ホッとした声。…そうだろう、忙しい仕事を抜け出して、わざわざ駅までの道を付き合ってくれていたのだ。

 私は知っていた。私を駅のロータリーまで送り届けた後で、急いで道を引き返す彼。また仕事に戻るんだ。自分から申し出てくれたとはいえ、毎日のこととなれば負担になる。それでも今まで、『もう大丈夫です』と言い出せない私がいた。

「…そうですね」
 返事をしながら、他人事のよう。私は唇を噛んだ。これで…もう、おしまいなんだろうな。

「…明日の、土曜日。お休みですか?」

「はい…?」
 明るい問いかけに、面食らう。瞬きしたら、彼が私の顔を覗き込んでにっこり笑った。

「お祝いしましょう、夕方に会って…色々なイルミネーションを見物に行きませんか?」

 まっすぐなまなざし。私は見つめたまま、小さく頷くだけが精一杯だった。

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