〜みどりちゃんのお話〜 …前編…
『ああっ!! ウザいっ!!』 アフター5の英会話スクールを終えて、回転ドアを押したところ。もわっとした気色悪い暖房の外は、どうにかしてよと思うほどの突風が吹き荒れていた。 思わず、おろしたてのコートの襟元をぎゅっと掴む。たかだか温暖気候の北風なんてこの100%カシミアに敵うわけないんだから!! でもっ!! 私が苛ついてるのは、北風如きのせいではないんだからね! この私が自然現象にいちいち腹立てるわけないじゃない。 …で、私が何に腹を立てているのかって? それは決まってるわ、ここの通りの馬鹿らしい装飾よ。 まだ11月中旬だというのに! 不景気をお祭り気分で吹き飛ばそうとしているかのような、沿道のイルミネーション。駅前のロータリーから道の両脇にある街路樹に施された無数の電球…1キロぐらい続く、この街の名物だ。 東京の都心からはいくらか離れた某県庁所在地。でも駅前の賑わいだけを見れば、新宿もここも変わりはないのよね。本物の大都会と何処が違うかと聞かれれば…「街」の終わりが早いこと。都心だったら、行けど行けどビルの林。途切れる暇もなく次の街に入っている感じ。それが地方都市だと歩いていける距離でぷっつり終わっている。 自分のミスが原因でトラブったくせに、その矛先をか弱い部下(私)に向けてネチネチ嫌みを言い続ける課長と、通常勤務時間にプラス1時間の残業。 ガラン!! 足元に転がってきた空き缶を景気良く蹴り上げた。…ととと、何故かその空き缶が私の頭上を抜けて、後ろに飛んでいってしまった。 「…中身が残っていたら、かぶってましたよ?」
「美人の後ろを歩いていて…空き缶が飛んでくるとは思いませんでしたよ。もっともワールドカップだったら、ナイスプレイですけど?」 トレンチコートの下はすっきりとしたグレイのスーツ。ベーシックな細身のデザインだ。濃淡のあるブルーのストライプのネクタイ…あれ、靴下もなにげにブルーなのね? 黒い靴も艶々と綺麗に磨かれている。この埃っぽい時期に毎日磨いていないとこれだけ綺麗にはなっていないだろう。 「では…僕はそこのパーキングに車を取りに行きますので…失礼」 …え? それだけ? 空き缶を命中させておいて、図々しいとは思うけど…普通、言葉をかけたついでに食事にでも誘わない? 肩すかしに合った気分で呆然と立ち尽くす。そんな私に彼はもう一度、振り向いた。 「…もう、落ちてるモノを蹴り上げちゃ、ダメですよ…、巡田(めぐりだ)さん」 …え? 何で、名前知っているの? 立ち止まったまま寒いのも忘れて、暫く考え込んでしまった。…知らない顔なのに。 それが、彼と私の出会いだった。
「みどりさん〜、お帰りなさい! …ね、ね、ちょっと来て!」 「なあに、ママ。また新しい服でも買ったの?」 ワンピース姿のママが吹き抜けに造られた我が家の玄関先に立って頬を紅潮させていた。歳よりもだいぶ若く見えるママはくるくるのウエーブヘアを肩下まで垂らしている。歳を考えろと言いたいところだが、40過ぎてもこの人は若い。少女趣味のワンピースが似合っているのが怖いけど。 「あ、お姉ちゃん。お帰り〜今日は早いねえ…」 二人は妙に楽しそうに笑いながら、私をリビングに引っ張っていく。 「…なによお〜」 「お父様がね、どれでも選り取りみどりですよ、って!」 「お姉ちゃん! 私、成人式の着物の帯を替えて着たいんだ。流行が去らないウチに決めてよね」 「あのね〜ママは…やっぱり、お着物よねえ。お洋服が着たいんだけどな…だって、今度の新しいシリーズがねえ…」 「知ってる〜フルーツ柄の。可愛いよね〜あのオレンジ色! …でもさ、ママ。いくらなんでも花嫁の母がピンハはまずいよ」 …嫌だなあ、この母娘。すっかり自分たちの世界に入っちゃってるし…仕方なく目線の高さまである封筒の一番上の奴を面倒くさそうにつまむ。 ご大層な布張りの表紙をめくると…やっぱり出てきたのは恐ろしいほどの年齢不詳の顔。まん丸い顔でまん丸いハナ…アンパンマンか? 身長がないのか、顔がでかいのか…何等身なのかしら!? 呆然と眺めていると、横からママが口を出してきた。 「ああ、その方はね…お父様の同級生のご子息。W大のご出身で今は家業を手伝われていて…年回りもみどりさんに丁度いいわ! 27歳ですって」 …嘘。これで27歳!? でも20歳にも40歳にも見える不思議な顔だ。それに!! どうしてこんなに髪が薄いの? でもってこのワイシャツのカフスからはみ出た毛は何!? ぎゃあああああ〜手の甲まで毛が生えてる! 「相手の方はみどりさんのことをご存じで、とても乗り気だそうよ。お父様も頑張ってみどりさんの釣書を配って歩いていらっしゃるの…その方がいいなら、今から早速、お父様の携帯に…」 「うんうん、お姉ちゃん! 善は急げよ!!」 わわ、待ってよ!! 受話器を持たないでよ!! 「ごめんなさい、ママ…今日はちょっと頭が痛いの…考えられないから、しばらく待ってちょうだい」 「あらあら、大変〜じゃあ、ぼたんさんと2人で選り抜いて置くからね…お薬は?」 「…いらない」
子供の頃から、『可愛い』『美人だ』と言い続けられてきた。モデルのように綺麗だったママの血を引いた私たち姉妹はお姫様のように着飾ってそこら中の家族同伴パーティーに参加した。 そんな事実を小学生にして悟ってしまった私は、何が何でも素敵な恋をしようと決意した。
大抵の男は私が食事にでも誘えば、喜び勇んで付いてくる。少しぐらいの仕事だったら蹴飛ばす勢いで。こっちが誘ったところで、支払いはあちらモチだ、当然だけど。そう言う時間はとても楽しい。向こうはこちらの気を引こうとあの手この手を使ってくる。そう言う姿を鼻であしらうのも美人の特権だと思う…だのに。 この頃。短大の同級生の結婚が増えてきた。23歳と半分。短大卒と言えば適齢期か? 特にウチみたいな小学校からのエスカレーター付属が併設されている所は金持ちのお嬢が多い。中には生まれたときからの許嫁がいると言って、卒業と同時に結婚した子もいる。 周囲が沸き立って来たと同時に、家の中も騒がしくなった。 我が家は私と妹のぼたんの2人姉妹だ。どちらかが婿取りとなる。パパの経営する貸しビル経営の「巡田商事」を引き継ぐ者が必要なのだ。もちろん、私だってぼたんだってその気はない。家に縛られるなんてまっぴらだ。 今回のお見合い写真の山も、ぼたんの策略に近い。何にも話してないのに、あいつは私がこっぴどく振られたことを察知したらしい。で、ぽつりと聞いてきた。 「お姉ちゃん…もう、遊びで付き合う男なんてまっぴらなんだよね?」
雑居ビルのエレベーターを降りたところで足が止まった。 昨晩の家族の馬鹿騒ぎに付き合う気にもなれず、今朝はひとことも口をきかなかった。出かけにママが何か叫んだ気がしたけど、思い切り無視! 柱の影から相手に気付かれないように、そっと盗み見る。 間違いない。回転ドアの向こうでだるまのように着込んで茶色のマフラーをぐるぐると巻いている…アンパンマン。あの見合い写真でつまみ上げた姿とぴったり合致する。 …深草少将、作戦!? きっと家族の誰かが根回ししたんだ! その証拠に、アンパンマンは私を見つけると目を糸のように細めてニヘラーと笑う。そのまま嬉しそうに笑いながら、回転ドアの向こうから入って来そうになった。 …ど、どうしよう! 今から携帯に電話して、花菜美に来てもらうわけにも行かないだろう。無下に断って、ナイフでも持っていたら怖いし…この場から逃げ出そうにも、非常口の位置さえ分からないよ〜 頭は思い切りパニック!! 泣き出しそうな私の視界を、ふいに黒い影が横切った。それはアンパンマンを跳ね飛ばすように回転ドアから入ってきた。 「あ、あなたは…」 黒い影は乱れた前髪を後ろにやって、コートを脱いだ。今日はベージュのスーツ。 「ああ、巡田さん。昨日はどうも…」 「…ここの、スクールに来ている方だったんですか?」 「今日は会議が長引きまして…これから次のレッスンに参加しようと思ってきたんです。…そちらは、お帰りですか?」 おっとりしたしゃべり、いつもだったら心地よいんだろうけど、今の私にはまどろっこしくて仕方ない! 「あ、あのっ!!」 「これから、私と…食事に行ってください!!」 「…は?」 「お願いします! …あ、いいんです。食事しなくても…駅まで一緒に歩いてくだされば…」
「…そう言うことでしたか」 …1時間程経過して、夜景をバックに。ワイングラスを手にした彼は楽しそうに微笑んだ。 「…申し訳ありません、本当に…あの、申し訳ありませんでした…」 「レッスンも…さぼらせてしまって…」 「いいんですよ」 その声に恐る恐る顔を上げる。眼鏡をかけた人が冷たく見えるって言うのは嘘だな。彼はとても優しそうに見える。物腰もおっとりとしていて…どうやって、商談をまとめるのか不安になるほどだ。 「いつもは一人で食事してますから。こんな綺麗な人に誘われたら、断る男はいないんじゃないですか?」 「そ、そんな…」 「でも、嬉しいですよ。ストーカーまがいから逃げるためであっても…僕を誘ってくれたんですからね。いいところへ来たと思います」 彼が行きつけだと案内してくれたレストラン。駅前のパーキングから車を出して、30分ほど走った所にあった。彼の勤務する銀行の寮がすぐ側にあると言うこと。彼の背後に見える河を渡ると東京都になる。 ここに来るまでに、彼が外資系の銀行に勤めていることを知った。営業担当で、しょっちょう海外支社に飛ばされている。何でも英会話スクールのマイケルはあっちにいた頃の友達で、時々おしゃべりがてらたずねてきていたとのこと。 …これだけの上玉、逃すなんて私らしくもないけど…この何ヶ月かは、それどころじゃなかったから。 「…女性を誉めるのが…お上手なんですね、これも海外勤務の成果ですか?」 「いえいえ、心にもないことは言えませんから…誉められていると思われるのでしたら、それは本当にあなたがお綺麗だからですよ…」 …何か、調子が狂う。どうしていちいちどぎまぎしちゃうんだろう。 でも、最高に心拍数が上がったのは食事の後の出来事だった。 食事代は私が払った。もちろん、彼は払うと言ったけど…それじゃ気が済まなかったからだ。2人分のディナーの料金としては驚くほど安かった。料理の味を考えたら、倍くらいかかっても当然なのに。驚く私を促すように、彼はお店の隣にあるデパートに入っていった。 「…じゃあ、今度は食事のお礼をさせて下さい」 「…は?」 「どれでも、好きなのを選んでください」 …そんなこと言ったって…ここは。ジュエリー売り場じゃないか? 私の目の前にあるのは…キラキラしたショーケース。手を付くのもためらわれるようにピカピカに磨き込まれている。そして…中にあるのはもちろん…。 「あ、あの…特別の理由もなく、頂くわけには行きませんわ? お世話をかけたのは私の方なのですから…」 どういうことなんだ? お礼って!? …ああ、頭が混乱する。いつも主導権を取るのは自分の方なのに、何だか調子が狂ってしまう。 「僕が…あなたの恩人だとおっしゃるなら、あなたは僕の言うことを聞かなくてはなりませんよ?」 すっと隣りに歩み寄った彼が私の右耳に囁いた。それだけでぞくぞくっと背中に戦慄が走った気がした。それなのに…さらに彼の左手がとても自然な仕草で私の右手に触ったかと思ったら、くるりと絡みついてくる。 …私は息を呑んだ。
「…本当に、それで良かったんですか?」 「ええ、もちろんです。はい…」 右の薬指にはまった指輪。小さな透明なピンクの石…これはピンクトル・マリン。食事代よりちょっと高いぐらいで済んだ。彼は、売り場の店員に慣れた手つきでカードを出した。 「翌月一括で」 それにしても。 そっと横顔を盗み見る。今までプレゼントなんて、貰い慣れていた。上司からエレベーターの中でこっそりと出張のお土産を渡されたこともある。取引先の営業さんからも色々貰った…でも、彼らには「確かな」下心があったのだ。こっちだってそれが分かっていたから「駆け引き」を楽しんで来た。 …でも、海外勤務は、なあ…銀行員、商社マン…と言う職種は最初から選外になっている。だから、彼の仕事が分かった瞬間に私の心は決まっていた。 もうこれきりにしよう…でも何かモノを貰っちゃうと、気が引ける。それより、彼が滅茶苦茶好みなのも気になる。 「大丈夫です、あとはどうにかしますから…家族にもガツンといいます」 ああ、現実に戻って来ちゃった。アンパンマンか…いくら何でも嫌だもんな。家に戻ったら、とりあえずパパの集めた釣書をひっくり返そう。あの男よりましなのを見つければいいんだ。 「…しばらく。欺いてやりませんか?」 …え? 悶々と考えていた私は、驚いて振り向く。いつの間にか彼の左手がハンドルから離れて、私の右手を包んでいた。視線は相変わらず、ちゃんと前を向いている。 「日本に久しぶりに戻ってきて…またいつまでいられるかも知れません。楽しいゲームです、参加させてください」 「ああいう奴は…気を持たせちゃダメです。全然脈がないと思えば諦めますよ、それまででいいじゃないですか?」 …話はおかしな方向に進んでいく。どう返事したらいいのか分からない。でも、断る理由もない。 「そ、そうね。あなたのおっしゃる『ゲーム』とやらにお付き合いするのも悪くないわ」 …手を握られたぐらいで、ひるむ私じゃないんですから。上がり続ける心拍数に気付かない振りをして、素っ気なく答えた。 「…あなた、じゃなくて名前で呼んでください。…名刺は渡しましたよね? 村越、卓司(むらこし、たくじ)です…分かりました? みどりさん」
次の日。1時間の残業を終えて、更衣室で着替えていると携帯が鳴った。 「…仕事、終わりました?」 「はあ」 「あの男、1時間前からいます。会社の向かいの街路樹から覗いていますよ?」 「え…??」 「後15分なら時間が空いてます、駅まで送りましょう? すぐに降りてきてください」
「…すみません…あのっ」 「余計なことは言わないこと、悟られますよ」 卓司さんの肩越しに道路の向こうが見える。木の陰からこちらを覗いているのは…わわわ。 「…行きましょうか?」 おずおずと歩み出る。 「すいません…本当に。まだお仕事があるんでしょう?」 「ゲームだと言ったでしょう…ほら、あんまり固いとばれちゃいますよ」 …え? ちょっと、待ってよ!! 卓司さんはいつの間にかふんわりと私の肩を抱いていた。私の前では吸わないけど、タバコの香りがする。 「あ、卓司さんっ!?」 「ダメですよ、もっと身体を預けてください…ほらほら、愕然としている。彼って、凄く分かりやすい人間のようですね、ああいう人は家庭的でいいかも知れませんよ?」 ゆっくり、ゆっくりと進んでいく。トンネルみたいなイルミネーション。寄り添って歩くと、一人で歩くのとは全然違う色に見えてくる。 「綺麗ですね…雪が降り積もったみたいです。シアトルは緯度が高いけど温暖な気候で雪はあまり降りません、やはり今頃、街中が光の洪水になっていると思いますよ」 無数の光は豆電球の産物なのに、何だかとても神聖なものに思える。たくさんの粒がそのまま一人一人の人間の心のような錯覚を覚えてしまう。 「…ひとつでいいのに」 「え?」 「どうして、こんなに街中を飾り立てるんでしょう? そりゃ、綺麗かも知れません、でも…どんなに街中が騒ぎ盛り上がっていたって…一番欲しいものが手に入らないなら、仕方ないじゃないですか?」 ああ、支離滅裂。きっと隣りで呆れているんだろうな。 でも鼻がツンとするほど、切ない気持ちでいっぱいになった。そうだ、忘れていたけど…私は失恋していたんだ。まだ半月も立ってない。 「結婚しました」の葉書が勝利の宣言のように届く。どう見たって私よりはレベルの低い旧友たちの方がしっかりと幸せをつかみ取っている。今は友達の花菜美がシングルだからまだいい。…でも、私は知っているんだ。 花菜美は。私よりか、よっぽどモテていた。一緒に入った大学のサークルはもちろん、参加した合コンでも男たちの視線は花菜美に向いていた。確かに花菜美は可愛いと思う。でも…男たちが最初に注目するのは私の方なのだ。それが…話をしていくうちに…変わってくるんだよね。 そんな感じじゃ、いつ先を越されるか分からない。…ううん、私は怖いのだ。 もしかして。いつまでたってもこのままじゃないだろうかと。大好きだと思った相手には逃げられて、どうでもいいと思った相手にズルズルと引っかかる羽目になるのではないだろうか? 「…みどりさんは…何か、欲しいものがあるんですか?」 ああ、聞かないでよ。そんな声で囁かれると、今の私は泣いちゃうよ。 「そりゃあ、ありますよ!」 「じゃあ…」 「…もうすぐ、クリスマスですから。僕で用意できるものだったら、プレゼントしましょう?」 「お金じゃ、買えないんです。…だから無理です」 「もう、あの男も追ってこないみたい…助かりました、ありがとうございます」 私はくるりと背中を向けると、一目散にタクシー乗り場に向かった。
それからウイークデーは。 半月ほど立って。街は12月に色を変えていた。前にも増して、イルミネーションがまぶしくなっている。駅前は白熱の黄色みがかった電球に加え、赤や黄色や青も混じって、流れるようなライトアップ。11月最後の日曜日には駅前に大きなクリスマスツリーも出現した。 「…いないでしょう、今日は」 「2、3日前から、見えなくなっていたんです…気付いてました?」 「……」 「良かったですね」 「…そうですね」 「…明日の、土曜日。お休みですか?」 「はい…?」 「お祝いしましょう、夕方に会って…色々なイルミネーションを見物に行きませんか?」 まっすぐなまなざし。私は見つめたまま、小さく頷くだけが精一杯だった。 Novel index>さかなシリーズ扉>石の誕生日/前編 |