…17…
次の瞬間。ぎょっとして、大きく目を見開いた。千雪は思わず素っ頓狂な声を上げると、大きく後ずさる。ドレスの裾を踏んで、軽くしりもちを付いた。その頬が見る見る真っ赤に染まっていく。 「そそそ…惣哉さんっ!! …どうしてそれを…嘘っ!! …まさか」 惣哉がこちらを見つめて、にっこりと微笑む。眼鏡の奥の目が細くなって。 「気付いてないと思ってたの?」 「だっ…だってっ!! 良くお休みになられてました!! …だから、私…」 もう、どんな顔をしたらいいのか分からない。嘘でしょう? 気付いてたなんて…で、どうして知らない振りしていたの? くるり、と惣哉に背中を向けて。それから、肩ごしにちらっとだけ振り向く。甘やかな、でも楽しそうな笑顔を視線が捉える。もう、この場から消えてしまいたい。 「千雪が、自分から戻ってきてくれたんだよ? もう嬉しくて嬉しくて…一晩中起きていようと思っていた。さすがにそれは出来なくて、途中でうとうとしてしまったけどね。ふと気付いたら、千雪が…ね。もう、背筋がぞくぞくして、よく我慢できたなあと…」 「お、起きていらっしゃったんなら…どうして…。ひどい、そんな…」 どうしてなのよ、気付いてたなら…そう仰ってくだされば、途中でやめたのに。そもそも、あんなことしなかったのに…。あんな、身を引きちぎられるほどの辛い気持ちを、必死で堪えていた私を見て…笑っていたの? 楽しんでたの? それって、悪趣味じゃないの!! 「やっぱり、惣哉さん、私をからかっていらっしゃるんでしょう? そうじゃなかったら、…ひどい、ひどすぎますっ!! 人のことなんだと思ってるんですか!!」 「…別に、からかっているわけじゃないけど」 「じゃあ、どういうわけなんですか!? …惣哉さん、分からないです。ずっと、怒ってらっしゃるみたいな感じだったのに…私のことなんて、もう見たくもないって感じで…。ずっと、ずっと…だから、私…」
辛かった。いきなり手のひらを返したように冷たくなった人が。自分がそうさせたと分かっていても、自分の意志で進んでそうさせたのだと分かっていても。それでも…愛された日々が忘れがたくて、自分の置かれた立場を思い知らされて。追って、すがって…求めたい気持ちをどんなに堪えていたか。どんなに…この人を取り戻したかったか。 それが、出来ないと、絶望的だと分かったから。だから…。
「千雪?」 「怒ったの? …千雪?」 「ごめん、ね?」 「許して。…僕も怖かったんだ」 「…え?」 「千雪が、あのまま田舎に帰るって言い出したらどうしようって。千雪の気持ちを信じたかったけど…どうしても、不安で。迎えに行かなくちゃと思いながら、あの日もなかなか病院まで行けなくて。ほんのちょっとの希望しかなかったから」 「毎晩ね、もうちょっと早く来ようと思いつつ…福島に行っていたときはもちろん、その後も。なかなか千雪に会いに行けなかった。たくさんの切り札は用意したけど、決めるのは千雪だから。毎晩、千雪の寝顔を眺めながら、もう一度こうして抱きしめられる日は来るのか、不安だったんだ。病室で毎晩、千雪がハンカチをくれるでしょう? …あれが嬉しかったんだ」 「気付いていらっしゃったんですか?」 「だって…分かるよ?」 この胸の鼓動は伝わってしまうのだろうか? みんなみんな気付かれていて。結局の所、この人には私の行動なんてみんなお見通しで。それで、…私はそんな人の前であんな素っ気ない態度を取っていたの? 「千雪のね、匂いがした。大好きな香りがね…」 …その言葉に泣きたくなる。 まあ、そうだろう。気付かなかった自分が情けないほどだ。一日中、惣哉のハンカチを抱きしめて、頬を寄せて、口づけて…惣哉だと思っていたんだから。あんな頼りない布きれが、千雪の全てだったのだから。 「退院の日は。どうにか、千雪を家まで連れ帰らなければとそればかりを考えて。他の人を頼むのはやっぱり不安で…どうしても自分の目で確かめたかったんだ。家まで戻れば幸さんがちゃんと見張っていてくれる。そう思ったから、もう前しか見てなくて…」 「…でも、夜は? どうして…」 千雪の少し怒った声に、惣哉がふっとため息を付く。ちょっと照れ笑い。 「…ああ、あれ?」 「…確かに今朝、びっくりさせてやりたいって思いもあったんだけどね、それだけじゃないんだ…」 「ええ?」 「先生から、止められていて」 「……?」 きょとんとした千雪の耳元に、惣哉の唇が寄る。必死に呼吸を整えているのが分かった。 「ちゃんと千雪の身体が元に戻るまで、駄目ですよって。…そりゃ、思い切り抱きしめて、千雪を確かめたかったよ? でもそうしたら、途中で止まれないから。絶対に最後まで行っちゃうし…」 その言葉にかあああっと頬が熱くなる。 「正直ね、あんな風に千雪にキスされて、限界だったんだ。もう、いつ抱きしめてしまおうかって…次にしようか、その次にしようかって。そうしたら、きちんと数まで数えてた…もう、やめてよね? ああ言うの。おなかの子は大事だし、先生の忠告には従わないといけないんだ。このままだと僕は壊れちゃうかも知れない…」 抱きしめていた腕が解かれて、惣哉はすっと千雪の前に回る。小さな両手を自分の手で包むと、身を寄せて、こつんと額をくっつけた。 「ねえ、千雪。僕を情けない男だと思わないで。橋崎のおじさんの後ろ盾がなくたって、ちゃんとどうにかしてみせる。…今までは周りに甘えていた部分があったかも知れない、でもこれからは自分で頑張るよ? だから見捨てないで、一緒に生きて欲しいんだ。千雪のこともちゃんと守るから、自分の命に替えて、ちゃんと守ってあげるから。…もしも、君がまだ…僕のことを想ってくれているなら…」 まつげが触れ合うくらい近い。唇が動くとそこに生まれる皺の動きまで見える。時々こぼれる白い歯。 「…惣哉さんは…どう思うんですか?」 ためらいがちに、上目遣いに…訊ねる。惣哉の目がふうっと細くなる。 「どうだろうな? 僕は千雪を信じてるけど…千雪はときどき、信じられないことも言うし。返事を聞くまでは、安心できないんだ。…ね? 千雪…」 すうっと、本当に触れ合う直前まで唇を寄せて。 「そのドレス、今すぐ脱いでゴミ箱に捨てる? それとも僕のために…その綺麗な姿を満足するまで見せてくれる?」 千雪はじっとその瞳を見つめた。 「どっちでも、千雪の好きな方にして? …でも、出来ることなら…僕を喜ばせて…」
やっぱり。 どこか強引な人だ、向こう見ずで。周りの全てが自分に好意的に動くと信じている。この人の言動にはそう言う子供のような純粋な部分がある。それは千雪にはないものだった。だから惹かれたのかも知れない。一緒に歩いていけたら、怖いことや寂しいことや悲しいことが少しは減るかも知れない思った。 色々辛いことはあったのに、それでもどうしても別れがたいと思った。
つうっと、涙が頬を伝う。ゆっくりと瞼を閉じた。 ほんの数ミリ、身を乗り出す。 あるべき場所でちゃんと待っていてくれた人の唇にふっと触れた。
でも…次の瞬間。昨日の晩にはあり得なかったことが起こる。千雪からの行為を合図にしたように、惣哉の手のひらが彼女の頭を捉える。耳の後ろ、うなじ…しっかりと押さえ込んで。アップした髪の後れ毛を長い指がなめらかに這う。 柔らかく重なり合ったはずの部分が、一度離れて角度を変えて…深く重なり合う。惣哉の舌が千雪の下唇をすっと舐めて、ぴくりと半開きになった空間から中に潜り込む。そして、生き物のように中を探っていく。確かめるように、味わい尽くすように、…千雪は必死で惣哉の首に腕を回した。そうしなければ、姿勢を保っていることは不可能だった。 息が上がる。その震える肩を感じる自分の腕。惣哉が千雪の全てを求めて、何度も何度も繰り返す。吸い上げられて…心ごと。
…11回目。 遠のきそうになる意識の片隅で、考える。「11」…叶うはずのない夢、届かない希望だと思っていた。自分の手のひらに余るものは最初から諦めていた。手にしてからこぼれてしまうのは悲しかったから。 千雪の心の中。ずっとくすぶり続けていたもの。どうしても消すことの出来なかったもの。踏みつぶせなかったもの…。
ようやく深い吐息と共に解放されて、お互いを見つめ合う。千雪の瞳に映った惣哉は潤んだ目でこちらをしっかりと捉えていた。そして、ふっとそこから甘い色が消えて…。 「千雪」 「離さないよ。…もう、僕から逃げちゃ駄目だからね。そんなことをしたら、許さないから」 燃えているようにさえ見える瞳を千雪は吸い込まれそうになりながら、それでもしっかりと見つめていた。惣哉の余韻を残した唇も小刻みに震える。その上に感じるわずかな湿り気はふたりの滴を分け合ったものだった。 「…はい…」 消えそうな、震える声。惣哉の耳にだけ届いたたったふたつの音が、辺りをふんわりと染めていく。 惣哉の腕がそっと俯いた人の背中に回る。そして静かに抱き寄せて、小さく呟いた。 「…失敗した」 「…え?」 「思い切り抱きしめたいけど…これ以上メイクが崩れるとタクミ君が怒るね。それにスーツにも色が付くし…やっぱり千雪を口説くのはベッドの上の方が良かったかも知れない…」 ぽっと赤く染まった頬に、素早く唇を落とす。…その時、遠慮がちにトントン、とノックの音がした。
「随分長いな、惣哉。話は終わったかい?」 「仲が良いのは喜ばしいのだが…時間が迫っているんではないかい? 応接室でみんなが騒いでいるよ?」 「綺麗だね、千雪ちゃん。惣哉にやるのがもったいないなあ…」 「ち…父上…」 「おや、千雪ちゃん。まだ、記入していないのかい? いけないね…式の後、すぐに提出しに行かなくちゃ。今日は友引だし…日曜日だって区役所はちゃんと受け付けてくれるからね。ささ、ほら早く…」 それを受け取って、千雪は確かめるように惣哉の方を見た。惣哉がにっこりと頷くのを確かめてから、テーブルの前に跪いて、空欄を埋めていく。千雪の名前が記入されると、政哉と惣哉、ふたりの口から感嘆のため息が漏れた。 「…これで。千雪ちゃんは私の娘だ。これからは私のことを父親だと思ってくれるね?」 「…理事長先生…」 「そうではないよ? もう、私は君の父親なんだから…他人行儀はやめておくれ」 千雪は一度俯くと、きゅっとドレスのスカートを握りしめた。柔らかいレースの感触を感じながら、もう一度政哉の方を見上げる。 「…お父様」 恥ずかしそうに呼びかけた千雪に、政哉はこの上なく嬉しそうな笑顔で応えた。その後、すっと振り返ると持ってきた円筒形の大きな箱を持ち上げてふたりの前に置いた。 「これは、私からの結婚祝いだ」 千雪がその箱の蓋を取ると中にはレースの白いふわっとしたものが入っていた。朝の輝きにそれは眩しくて、思わず目を細める。 「これはね、私の大切な人から託されたものなんだ…本当は咲夜様に差し上げるようにと言われたんだけど。こう言うものはサムシング・オールドでもいいんだろうから。最初に千雪ちゃんが使って」
一瞬。 千雪はそのレースの向こうに何かを見た気がした。…白い…何か白いものが後から後から舞い落ちる風景。気の遠くなるほど、辺りを埋め尽くす…白。慌てて瞬きすると、それはすうっと消えて元の惣哉の部屋に戻った。
「その人にとっては…何よりも大切なものだったそうだよ。たくさんの想いがこもっているから…きっと千雪ちゃんを幸せにしてくれる、それは私が保証しよう」 「早く、行かないと。その前に千雪ちゃんのその顔を直して貰った方がいいな…シノブ先生もいらっしゃったから、ドレスの方も点検していただきなさい。…では、ふたりとも頑張るんだよ?」 「…あの? 理事…じゃなくて、お父様は…ご一緒に行かれないのですか?」 「千雪、教会にはふたりだけで行こう」 「…えっ…?」 結婚式と言ったら、親戚知人が列席するものではないのだろうか? ましてや東城の家のような名家だ。披露宴も普通の規模ではないはずだ。ふたりきりで…挙式なんて…そんなことが出来るものではないだろう。 でも、惣哉は嬉しそうに微笑むばかり。今度は政哉が代わって答える。 「親戚にはまた改めてお披露目しようね。千雪ちゃんは普通の身体じゃないんだし、退院したばかりなんだ。今日はふたりでちゃんと神様にご報告しておいで…まあ、惣哉にこの話を切り出されたときは私も正直面食らったけどね…」 「……」 困り果てて惣哉と政哉を交互に見つめている千雪がやはり可哀想に思えたのだろう。政哉が悪戯っぽい笑顔でそっと告げる。 「…私だけが千雪ちゃんの晴れ姿を見たら、申し訳ないだろう。千雪ちゃんのお父上は、今、ホームから出られないそうだから…」 その言葉に、千雪はハッとして惣哉を見た。少し照れ笑いした瞳が眼鏡の奥で揺れている。 「今回のことでは、私は何も助けられなかったから…千雪ちゃんに恨まれても仕方ないね。でも、こればかりは惣哉が自分で気付かなければならないから。下手に助言してしまってはふたりの将来のためにならないからね…辛い思いをさせて本当に申し訳なかった、許しておくれ。…そして、惣哉のことをくれぐれも頼んだよ? 君がいないと何も出来ないでくの坊だけど…」 「父上…」 「だって、そうだろう…野崎君が呆れていたよ? 手紙は溜めっぱなし、書類の管理もずさんで…『惣哉様って見かけに寄らず、おおらかな方なんですね…』って。実のところ、おおらかじゃなくて、単に大雑把なんだがね…」 「その様なこと。今、仰らなくてもいいじゃないですか?」 惣哉はすっかりふてくされて、下を向いてしまう。千雪は取り散らかった惣哉の机の上を想像して、ちょっと笑ってしまった。
「ご主人様、惣哉様っ…!」 「いつまでくつろいでいらっしゃるんですかっ! もうお時間ですよっ」 千雪はハッとして時計を見た。…もう8時を回っている。確か、8時半からって…。 「わああ、ちゆ〜。頼むよ…顔がボロボロじゃないか」 「東城さん、口の脇…付いているよ? ああ、口紅はベースだけにしておいて正解だったな。もうっ、急いで直すからねっ!」 姿見の前に座らせられて、そこを覗き込むと鏡越し、ハンカチで口元を拭っている惣哉と目が合ってしまった。 続く(020724) |