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Scene・4…第3の男 真雪Side*『ハチミツの呪文』
……あ、やっぱ、怒ってるかも……? 緩やかな風が、通り過ぎたあと。まつげの揺れる横顔を見て、なんとなくそう思った。こんな近くで彼を見るのは本当に久しぶり。ほとんどひと月、私たちは会えなかったんだから。 夏の終わり、照りつける残暑の太陽。昼下がりの市民公園。大きな木の枝が日よけになる芝生に、トリコロールカラーのピクニックシートを敷いて。いつもなら、もうこれだけでとっても嬉しい気分になるはずなのに、何か……違うんだもの。どうしよう、困ったなあ。
口の中が妙に乾いている気がして、私はペットのお茶を一口含む。春さんの視線の先に何があるのか、それを確認することすら怖かった。
…**…***…**…
「ちょっとっ! 緊急事態! 後は任せた!」 そのとき。私は丁寧に朝シャンして、念入りにトリートメントもして、じゃあ次はリフトマッサージ……とか段取りしていたところだったの。だって、1ヶ月ぶりのデートよ、ここは気合いを入れなくちゃ。やっぱり会社に春さんがいないと思うと、ちょっと気が抜けてお手入れも怠っちゃったのよね。おでこに吹き出物を見つけたときは焦ったわ。ああ、きっと不摂生の表れね。 マッサージクリームを片手に何事かと出て行くと、そこにいたのは私よりもさらに「戦闘準備中」な和ちゃんだった。何しろ、髪の毛には5つも6つもカーラーが巻かれている(お約束のようにピンク色)。顎にはパックのはがし残しみたいのもくっついていて、もちろんすっぴん。聞けば、今日の11時からお友達の披露宴だって言うじゃない。さらに玄関先の靴を確かめて、にまっと笑う。 ばたん。再び玄関のドアが閉まるまで、多分3分と掛かっていなかったと思う。 ぼんやりとした視界の向こう。西武ライオンズの帽子と真っ赤なリュックをしょった将太くんが、私に向かって手を振っていた。
遡ること30分前に、いきなり和ちゃんちを襲った惨事。 日曜日で将太くんと一日お留守番していてくれるはずだっただんな様が、トラブル発生で会社に緊急出動することになっちゃったんだって。ああ、これは将太くんの説明だから、何か単語が間違ってるわね。出動じゃないわ、出勤よ。レスキューじゃないんだから。
「ボク、真雪がいれば大丈夫だよ。イイコにしてるから、ねっ!」 な〜んてにっこり笑顔の向こう。確か、5分前にはベッドでごろごろしていたはずのお姉ちゃんが、身支度ばっちりで通り過ぎていく。えええ、嘘ぉ。ちょっと待ってよ〜っ! 「ゴメンね〜マユ。理恵子からメール来たから、ちょっと出てくるわ。夕ご飯もいらないから、安心してね」 呆然としている私を残して、鼻歌交じりのお姉ちゃんまでがドアの向こうに消えた。
その時に……やっぱりすぐに連絡を入れて、断るべきだったんだろうな。 あの時間なら、春さんはまだ自分の部屋にいたはずだもん。私との約束がなくなれば、じゃあ一日ゆっくりすごそうかなとか違うスケジュールが組めたはずよ。でも――。
携帯を手にして、そこで動きが止まってしまう。
ここでキャンセルしたら、また1週間お預けになるの? まあ、金曜日に予定が入らなければその日に会えるとしても……あと5日。同じ会社にいたって、フロアは違うし、何でこんなに〜って思うほど会わないの。春さん、外回りも多いしね。嫌よ、嫌っ! 私、そんなに待たされたら、酸欠になって死んじゃう! それに、昨晩。もうほとんど日付が変わる頃、春さんは東京駅に新幹線で戻ってきて連絡をくれたんだ。もしかしたら、って思って待ってたら、本当に掛かってきて感激しちゃったわ。 「明日……大丈夫だよね。早く、まゆちゃんに会いたいな」 うっわ〜〜〜っ! もう、心臓が飛び出すかと思った。多分、疲れてるからなんだろうけど、ちょっとかすれた声が切なくて……なんて言うかな、春さんが甘えてくれてるみたいなそんな気がしたのよね。いつもいつも、全てにおいてそつがなくてオトナの春さん。だから、私は一生懸命背伸びをしてる。それが……ちょっとだけ、お姉さんになった気分で。 だから、それを思い出したら――会いたくてたまらなくなっちゃった。
「早く会いたいな」なんて……春さんが言ってくれるなんて、いいのかな、本当に。 言葉以上に深いものを想像してしまうんだけど。もう、今日は。疲れている春さんと一日のんびりするんだ。ガチガチにスケジュールなんて立てないで、公園の木陰でふたりでのんびり……もしも春さんがうたた寝しちゃったら、起きるまでそっとしておいてあげよう。そう、思っていたんだもの。
「ねえ、真雪。ボク、ポケモン観に行ってもいいけど。真雪に付き合ってやるよ」 うっとりと思い出していたら、将太くんがいきなり現実に引き戻してくれる。ああん、そうだったわ。春さんに会いたいのはやまやまだけど、何しろコブ付きなのよ。お父さんたちは親戚の法事に行っちゃったし、……連れて行くしかないだろうなあ。 ちら、と空色の帽子を見る。これはちゃんと説明しないと駄目だろうな。将太くん、ひとりっ子のせいか、妙に大人びていて、変に隠したりしてもすぐに見抜かれちゃうんだもん。 「あ、あのね。あのね、将太くん……」 「今日ね、私、人と会う約束をしてるの。映画には連れて行ってあげるから、……その人も一緒でいいかな?」 注意深く、注意深く。よしよし、こんな感じでいいかな? 我ながら、上手に説明したつもりになっていたのに、彼はあどけない瞳で私をじっと見つめてくる。 「何? それって、男?」
ええっ、ええええええっ!? ちょっとぉ〜っ! 将太くん、本当に幼稚園児? そんなにきっぱり言い切らなくたって……ああん、どうしよう。
もう、いきなりの言葉にすっかり動揺してる。なのに、さらに質問が飛んでくるのだ。 「こんな休みの日に、わざわざ会うなんて。普通の関係じゃないね、そいつ」
「えっ……?」 今度こそ、ぐぅって喉の奥が詰まって、何も言えなくなっちゃった。そのあとで、ふと気付いたの。今まであまり深く考えたことのなかった大切なことを。
――私と春さんって……何?
…**…***…**…
おなかがいっぱいになった将太くんが、春さんを呼ぶ。もう、何度注意しても、呼び捨てなのよ。私のことを「真雪」って呼ぶのはもう慣れたけど、春さんにはきちんとして欲しいよなあ。お行儀が悪いわ。 「やんっ! ちょっと待ってよ。後片付けが……」 私は手にしていたおにぎりを慌てて口に押し込むと、立ち上がった。そんな私を制する、春さんの笑顔。 「いいよ、俺が一緒にその辺を一回りしてくるから。まゆちゃんはここで待っていて」 うわん、もう。特上の微笑みだよ〜っ! あっちでは忙しくて床屋さんにも行けなかったのかな? 伸びかけの髪、ブローしてあるけど、ちょっと毛先が風になびいてる。さりげなく私の肩に置かれた手のひら。もう、それだけで胸が高鳴る。久しぶりの春さんはいちいち新鮮で、酸欠にはならなくて済んだ代わりに過呼吸になりそうだ。新たに心にインプットする春さんが、そろそろ溢れ出しそう。 「ご、ごめんなさい! ぱぱっと片づけるから……!」 ゆっくりしていて、なんて言われたって。ああん、そう言ってあげたいのは私の方だったのに。 気が付いたら、将太くんは春さんにべったりなの。私たちが並んで歩こうとしても、ずいずいって間に割り込んできて。だから、春さんに話をするときにも妙な間隔を感じるのよね。 ――すごいなあ、春さんって。 正直、心配だったのよ。もしも、春さんが将太くんを見て「今日は帰る」とか言い出したらどうしようって。妹さんがいるとは聞いていたけど、その方は私よりも年上だし……春さんがちっちゃな子供と接する機会なんてないと思うの。 だけど、そこは春さんよ。やっぱり普通じゃないわ。 さすがに最初に将太くんを見たときは当惑した表情だったけど、すぐに「たまにはいいじゃない」って言ってくれた。何て心の広い人なんだろうと、またまた感激。やっぱり子供は純粋だから、いい人はすぐに分かるのよね。将太くんもあっという間に懐いて、彼をあっちこっちに連れ回してる。 噴水の向こうに消えていく背中を見ながら、私はふうと溜息をつく。出掛けにバタバタしたせいで、マニキュアを塗り損ねた指が、とってもみすぼらしく見えた。
「会社のお友達」――結局、将太くんには春さんのことをそう説明した。だって……それ以上、何と言えばいいの? 会社の人たちは、私たちのこと「恋人同士」だって認識してる。春さんは私の「彼」だし、私は春さんの「彼女」。そう言う名称で呼ばれることにも違和感がなくなってた。でも……本当のところは、ちょっと曖昧なんだよなあ。 週に一度の晩ご飯デート。そして、たまにはこうして休日の一日デート。ふたりきりで過ごす時間も増えてきた。だけど、だからってどうだというの。 最初に食事に誘ったのは私。偶然を装って、でも計算尽くで。どうにか自分を印象づけたくて、必死で背伸びしていた。そんな私の作戦に、春さんが引っかかってくれたんだ。そして……「また、ご一緒させて頂けますか?」ってお願いして。優しい春さんが断れないのを知っていて、ごり押ししたんだよな。 あの時の頑張りがなかったら、今の私たちは存在しない。私が動かなかったら、始まらなかった関係。 まあ、こうしてふたりきりで会ってくれるんだから、それほどマイナスの感情は持ち合わせていないよね。けど、もしも……もしもだよ。「今日は彼とデートなの」なんて言っちゃって、春さんにそれがばれたら。「ふん、まゆちゃんなんて彼女じゃないよ、ただの会社の女の子じゃないか」な〜んて、軽蔑されたらどうしよう。私ひとりが盛り上がっていたことがバレバレで、すごく恥ずかしいと思う。 両親にもお姉ちゃんにも、まだ何も言ってない。あまり大袈裟にして、あとで情けない思いをするのは嫌だなとためらっちゃって。 「好きだよ」って、言ってもらったけど。キスだってしたけど。ついでにきゅーって抱きしめられて。でも……もしも、アメリカ人だったら、あれくらい親愛の挨拶よね? 日常茶飯事だよ、特別のことじゃないもの。 目に見えた進展のないままの数ヶ月。私の心には春さんへの想いだけが募るばかり。だけど、大好きになるごとに、何故か春さんの気持ちが見えなくなる。過信してしまう自分が怖い。私がこんなに春さんを好きなら、春さんだってそうに違いないとか思っちゃう。こういうのって「勘違い女」とか言う奴だよね? 嫌われるんだよ、思いこみが激しいのって。
「私って、春さんの何?」……って、聞いたら。春さんは、どう答えるだろう。
ピクニックシートをバサバサと叩いて、ふと空を見上げる。シュークリームのかたちの丸い雲が、ぽつんぽつんと浮かんでいた。
…**…***…**…
その声に、ハッと我に返った。ああ、なんたること、春さんと久しぶりに会えたというのに、どうしてこんなに鬱々してるの? もう、私ってば、どうしちゃったのよっ! 顔を上げたら、将太くんが指さす向こうに、巨大なアスレチックコースが見えた。編み目になったロープを伝って頂上まで進むピラミッド型のものから、長い吊り橋、ロープにつかまってガーッと滑り降りるもの……などなど。足で漕ぐ巨大水車もある。水の上、ぷかぷかと浮いている丸太を渡っていく池。一本橋。 「ええ、でも……小学生以上って書いてあるわ。それに……あんな高いところ、私は行けないし……」 思いっきり尻込みしてるのが見え見えね。嫌だわ、我ながらなんたる情けなさ。今日は将太くんのお守りをしてるのに。 私って昔、こんな感じのアスレチックで、水車のてっぺんから落っこちたことがあるのよ。下にある池にはちゃんと網が張ってあって、沈みはしなかったけど……洋服とかみんなぐしょぐしょになって。それ以来……駄目なのよね、ぐらぐらするものは。ロープウエイだって、下の景色が見られないんだから。 それなのに、困っている私なんてお構いなし。将太くんはどんどん駆けていってしまう。どうしようと思っていたら、またも春さんの優しい笑顔。 「大丈夫だよ、ちゃんと面倒見るから。まゆちゃんは、ゆっくりしていて」 そう言われちゃうと、もう何も言えなくなる。出張帰りで疲れているのに、本当に申し訳ないな。――遠ざかっていく背中が、とっても切なく見えた。
――なんか、さ。
我が儘なのは分かってるの。でも、ちょっとなあって思う。 せっかく春さんが戻ってきたのに。こうして昼間のデートをしてるのに。今日の私たちって、一体いくつの会話をした? 気が付くと将太くんが春さんを連れてどこかに行っちゃって、私はぽつんと取り残される。
視線の先。春さんと将太くんが、お約束のようにロープの山を登っていく。三角形の麓から、編み目を伝って上に行くんだけど、春さんはこういうのも得意なんだな。半袖のシャツから出てる腕で、筋肉が動くの。ぐぐっと力を入れるから、くっきりと筋に浮かび上がって。何か……何だか、とっても素敵。 日曜日の公園だから、他にもたくさんの家族連れがいる。パパやママがちっちゃい子供を連れてきていたりするのよね。でもでも、どんなパパさんよりも、春さんはずっと素敵に見える。今日初めて会った将太くんなのに、まるでずっと前からの知り合いみたい。パパと見るにはちょっと若すぎるけど……すごいヤンパパだと思えばアリかな? それにね。将太くんを見つめる春さんの瞳って、すごく優しそうなの。知らなかったよ、春さんってあんなに素敵に笑うんだな。危ない場所を歩くときに、気付かれないようにそっと添える手のひら、本気で食ってかかってくる将太くんを交わして、上手くじゃれ合って。あんな……あんな風に、大声で笑うんだなあ。 今日の春さんは、何だか違う人みたい。……っていうか、私は今まで春さんのどこを見ていたんだろう。会えるのはとっても嬉しいんだけど、ふたりきりでいるとドキドキして、もう胸がいっぱいになっちゃう。春さんの視線を感じても、恥ずかしくて顔を上げることも出来ないの。視線を合わせるのは5秒が限度。それ以上は無理なのよね。 私って、春さんのこと何も知らないのかも。 こういう風に、外側から春さんを見たら、いつもと全然違うんだもん。そんな春さんがまた素敵だなって思って、でも独り占め出来ないことが口惜しくなる。春さんは私のだよ、将太くんのじゃないよ。そうでしょ、そうだよね? なのに……将太くんってば、ずるい。こんな風に私が行けない場所に、どうして春さんを連れて行っちゃうの。 春さんは、ロープの山なんて難なくクリアできそうだ。勇ましいその姿はリポビタンDのコマーシャルみたいで、日に焼けた腕に汗がキラキラしてる。傍らでは必死の将太くんが食いついてくる。ふたりであれこれと会話をしながら、すごく楽しそう。 ……それに。春さんはさりげない感じで、登りかけた足をもう一度戻す。すぐ傍にいる将太くんには気付かれないように、ペースを合わせてるんだ。 ――春さん、すごいよ。いきなりクリアなんだね。
「お〜いっ! 真雪ぃ〜!」 将太くんが嬉しそうに手を振ってる。私も慌てて笑顔を作って、そちらを見た。ああん、もう視界のほとんどには春さんしか映ってなかったの。将太くんのことなんて、おまけにしか見えてない。
それからふたりはまた、楽しそうに会話をしながら、上に上にと登っていく。どんどん、手に届かない遠いところまで行ってしまいそうで、私はとっても悲しくなった。 ずるいな、将太くん。 私も、春さんにもっと甘えたい。今日はずっと傍にいて、ふたりでゆっくりしたかったのに、どうして邪魔をするの? 将太くんだけじゃない、いきなりやって来た和ちゃんも、すぐに逃げたお姉ちゃんも……和ちゃんのだんな様を休日なのに呼び出した会社も嫌い。みんなみんな大嫌い……!
その時。 まるで、そんな私のどす黒い心が伝わったように、将太くんの手がずるっとロープを離れた。
「うわっ、将太っ!!」 すぐにその異変に気付いた春さんが、慌てて腕を伸ばす。なのに将太くんの方はすっかり気が動転してしまっているみたい、両手をバタバタしてせっかくの春さんの助けも振りほどいてしまう。 もちろん、足元の方には、ゴム製の足場が出来ていて、万が一落っこちてもトランポリンみたいに弾む。だから……大丈夫なんだけど、でもやっぱり怖いだろうな。大怪我しなくても、擦り傷とか作りそうだし。ちっちゃい子がそんな目にあって、トラウマになったら可哀想。 ――ああん、こんな場所にいたら、私は何も出来ない。どっ、どうしよう……っ! 「ばっ、馬鹿っ! しっかりしろ!」 そんな春さんの声が、風に乗って切れ切れに聞こえてくる。そのうちに彼の腕が伸びて、ぐいっと将太くんをおなかの辺りから持ち上げた。そのまま肩の上に乗っけたかたちで、ぐらぐらしながらも足に絡みついたロープを解いている。その頃には、もう将太くんの泣き声しか聞こえてこなくなっていたけど、それでも春さんが二言三言、元気づける言葉をかけているんだなってことは分かる。 背中をさすったり、ぽんぽんと軽く叩いたり。必死で落ち着かせようとしてくれてる。……すごい、すごいよ、春さん。まるで本物のレスキュー隊員みたいだよ。どうしよう、困ったな。こんな危険な場面なんだけど、私はすっかり春さんに見惚れてしまってる。だって……だって、素敵なんだもん。
私の好きになった春さんは、どうしてこんなに完璧に素晴らしいんだろう。何か、もう……自分がすごく情けなくなっちゃうよ。何でも出来るスーパーマンみたいな春さん。それに引き替え、私は何? 疲れている春さんをこんな風に連れ回したと思ったら、その上やきもちまで妬いたりして。もう、最低。信じられない。 色んな気持ちがごっちゃになって、どんな顔してるんだか分からない。春さんの前ではいつでもとびきりの笑顔でいようって誓ったのに、ほっぺがひくひくと震えてる。
やがて。 泣きじゃくる将太くんを抱きかかえたまま地上に降りてきた春さんは、駆け寄った私ににっこりと微笑んだ。 「お待たせ、まゆちゃん」
…**…***…**…
日中はとっても暑かったけど、こうして太陽が傾くと途端に涼しくなる。こんなところにも季節の微妙な変化を感じるんだな。もうすぐ……私たちにとって、三つ目の季節がやってくる。
ぐっすりと眠りこけている将太くん。相変わらず、私と春さんの間にでんと陣取って。何か男の子のクセに、すごいお邪魔虫だな〜とか思っちゃう。私って、案外嫉妬深かったのね。 その向こう、少し顔を傾けた春さん。瞼を閉じてる。……寝ちゃったのかな? やっぱり疲れただろうなあ……子供の相手って侮れないんだよね。将太くんのお守りは何度もやったことあるけど、あとから普段は使わない場所が筋肉痛になったりする。ご機嫌が直ったあともアスレチックのコースを回ったり、噴水の周りを鬼ごっこしたりして、ずっと動いていたもんね。 あ……、駄目だよ。春さんの方に寄りかかったら、可哀想だよ。将太くんの身体をこっち側に傾けようとしたとき、指の先が当たってしまったみたい。春さんが、ふっと目を開けた。ぱちぱちって瞬きする無防備な姿を見つめているの、ちょっと反則技かな。私は慌てて視線をそらした。
「……寝ちゃったね」 ああん、何気ない感じで言ったつもりだけど、耳が熱いよ〜っ! だってね、何だかこうして並んで座っているでしょ? 遠目に見たら、ちょっとだけ親子連れみたいかなとか思っちゃったのよね。 私がお母さんで、春さんがお父さんで。……で、将太くんがふたりの子供で。 こんな風にまで考えたことなかったけど、もしかして、これが未来まで続いている私たちの姿だったら素敵だなとか……そんな風に思えてきた。 それから、何となく二言三言やりとりして、また言葉が途切れた。
寝ちゃたのかな……って思うと、ちゃあんと起きていて。春さんはぼんやりと空を見上げてる。視線の果て。黒くシルエットになった木々の中に、大きくてまん丸の夕日が沈んでいく。その輝く最後の朱色が、辺り一面に漂ってみんな真っ赤。だから、春さんもまるで頬を赤くしてるみたいだよ? 何だか変だね、そんな春さん。 ホント……申し訳なかったな。今日は一日付き合わせちゃって。「大丈夫だよ」って言ってくれても不安になる。もう、いいよ。先に戻ってゆっくりして。そう言いたいんだけど……でも、もうちょっとだけ。こんな風にふたりでのんびりとしていたい。私は春さんの隣にいたいよ。
「あのさ、……まゆちゃん」 ふいに話しかけられて、ハッとして顔を上げる。目の前に、春さんの瞳。まつげの影が落ちて、どんな色をしているのか、ここからだとよく分からないよ。 じーっと見つめたら、春さんはとっても言いにくそうに口を開いた。 「俺って……まゆちゃんの、何?」
――え……?
自分の声が音になったのか、心の中で呟いただけだったのかは分からない。ただ、いきなりの質問にすごく動揺してしまったのは事実だ。 だって、だって……ね、春さん。それって、私が今日、ずっと考えていたことなんだよ? 朝、春さんのことを将太くんに聞かれてからずっと、自分の中で押し問答していたわ。まさか、春さんの方から訊ねられるとは思ってなかった。 そっ、そりゃあさ。そりゃあ、私としては。春さんは特別の存在だよ? 私の周りに100人1000人の人がいても、その中で一番傍にいたいのは春さんなの。ずっと一緒にいて、笑ったり悲しんだり、感情を共にして、仲良くしたいの。春さんが大好きなの。 ……けど。 「大好き」って、ちょっと違うかな? それじゃあ、あまりに曖昧。子供じゃないんだから、もっと気の利いた素敵な言葉がないかしら。今の気持ちにぴったりの、とびきりのどんぴしゃの言葉が思い浮かばない。
「うーん……『何』と訊かれても……そうねえ」 春さんが、目の前にいる。もうそれだけでドキドキして、すごく緊張しちゃうの。離れていた間、携帯で話すか、メールか、それしかふたりを繋ぐ手段はなかったから。私の頭の中で勝手に春さんの映像を再生していたんだ。途中からはそれをしているうちに、春さんがどんどんぼやけていく気がして、とっても焦ったりして。 ずーっとずっと、会いたかった。声の届く距離で、生の音で会話する。そして、本物の春さんが動くのを見るんだ。それだけで、十分だと思ってた。 これからもそう。こんな風に、傍にいたいなと思う。春さんと一緒にいる私が、いつか当たり前になる。そんな日が来るといいなって思うんだよ……? 「大切な、人……かな?」
大好きだから、傍にいたいから、春さんは私にとって絶対なの、いなくちゃ困る人なの……だけど。こうして言葉にしてみると、何て平べったいんだろう。この想いが全然伝わらないじゃない。 何か情けない〜って思って、視線をそらしてしまった。春さんに会うために笑顔の練習をいっぱいしたけど、今日はその成果をあまり見せてないね。 一緒にいたいからって、こんな風に振り回して。それで、いいのかって言われるとすごく困るよ。だけど、だけど、好き、大好き。
隣に将太くんがいて良かった。 この恥ずかしいくらい高鳴ってる心臓の音、聞かれずに済むもんね。そう思っていたのに……ちっちゃい身体を避けるようにして伸び上がってきた春さんが、私の手をしっとりと包み込んだ。
――え?
びっくりして、思わず顔を上げた。そしたら、もう……すぐそこに春さんの顔。ひゃあ! って思って顎を引こうとしたら、それより先に頬に触れる指。魔法みたいに私を動けなくする。 「ただいま、……まゆちゃん」 いつもよりも瞳がキラキラとして見えるのは、夕日のせい? とろんとハチミツみたいに色づいた空気が私たちを包み込む。ここはふたりだけの世界ですよって。
もしかしたら……私もキラキラって見えてるかな? だって、春さんが傍にいてくれるから、私はとびきりの存在になる。春さんの為に、一番綺麗になるの。今日の気持ちが永遠に変わらないように、どうか私の心に呪文をかけて。 震える口元、そっと瞼を閉じたら。もうひとつのぬくもりが、心まで落ちてきた。
――お帰りなさい、春さん。
…おわり…(040415)
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