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後日談・2…魔術師の週末
真雪Side『土曜日のアップルパイ』

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 カーテン越し、朝寝坊の日差し。ちりちりと鼻の頭が照らされている。

 目覚まし時計の鳴らない週末。張りつめた気持ちが解放されて、だらんと伸びきってしまう。ああ、駄目だなあ。学生やOLの頃ならそれもアリだと思うけど、今やばりばりの専業主婦、まるのまんま扶養家族。だんなさまが企業戦士で日々戦っているのなら、私は留守をしっかりと預かっていなくちゃいけないのよね。長年培ってきた習慣はなかなか改まらないなあ……、起きなきゃ、もう。でも、眠い――。

 

「まゆちゃん、まゆちゃん」

 耳元をくすぐる心地よい音色。ああ、気持ちいい。ずっとこのまま聞いていたいなあと思った瞬間に、頬がひやりとする。

「……うきゃっ!」

 うっわー、可愛くない叫び声。寝起きだから、喉の奥ががらがらしてるし。そんな自分の声にびっくりして目を開ける。すると、もちろん目の前にいるのは……。

「おはよう、まゆちゃん」

にこにこ。乳白色の輝きの中で微笑んでる、だんなさま。

 ああ、どうしようっ! 朝から「生・春さん」に会っちゃったよ。えと、一応夫婦なんだから当然なんだけど、でもまた慣れない。12月に結婚式で今が4月だから、ようやく三月四月。こうやって寝ぼけまなこのパジャマ姿を見られちゃうのだって、恥ずかしすぎ。

「お……はよう、ございます、春さん」

 いきなり他人行儀になってしまったのには訳がある。だってだって。春さんってば、もうきっちりと着替えて髪の毛もセットしてスタンバイオッケーになってるんだよ。接待ゴルフ……じゃないよね? それにしては砕けすぎてるし。でも、何だろう。今日は一日オフだって言ってたはずなのに、昨日の夜。

「ふふ、もう。楽しいなあ、まゆちゃんは」
 ひんやりした手はライムのシャボンの香りがした。あ、あああ、そうかー! 昨日はあんまり眠くって、お夕ご飯の後かたづけもしないで寝ちゃったんだ。それで、先に起きた春さんが洗ってくれたの? いやん、そんな。主婦失格だよ……。

 

 ふんわりと抱き寄せられて。

 で、間近によるとまた恥ずかしくて、今更なんだけど手ぐしで髪を整えたり。今朝最初のキスは、歯磨き粉の匂いがした。

 

「あのね、まゆちゃん」

 素敵な笑顔の春さんが、私をじっと見つめてる。もう、どうしたらいいの。うっとりと見つめ返すだけの余裕はないんだよ。とにかくは、私も着替えなくちゃ。でもっ、春さんがここにいたら着替えられないよ〜。「出て行って」なんて言うのも、逆に意識しすぎてるみたいで変だし。

 私がそんな風にうだうだ悩んでいたら、春さんはレースのカーテンを開けて、外の様子を眺めてる。……あ、いい感じ。髪の毛の先っぽがキラキラ輝いてるよ。天然のライトって、やっぱ一番綺麗だな。斜め後ろから見とれていたら、春さんは突然振り返った。

「今日はとてもお天気がいいから、ちょっと遠出しようよ。布団は干していっちゃっても大丈夫だと思うよ、降水確率0%だし」

「……え?」

 ああ、そうかぁ。お出かけルックだったのね、それ。何度か見たことのあるシャツにジーンズ。覚えてるよ、初めての昼間デートの時の奴だ。私、顔を見上げるのが恥ずかしくて、シャツの模様で春さんを探していたんだから。しっかりと脳内に記録されてる。左手の薬指、シンプルなマリッジリング。それだけがあの日の春さんとの相違点。もちろん、私もおそろいだよ。

「お出かけ? 映画にするの? それとも……」

 

 改めて思い返してみて、びっくり。

 そうね、春さんと普通にデートみたいに外出したこと、結婚して以来あったっけ。たまにゆっくり出来る日は荷ほどきしたり、足りない家具とか買いに行ったり。そう言う雑用ばっかりだった気がする。

 大阪支社に異動になった春さんだったけど、まだ本社での残務処理が残っている。春さんが携わっていた仕事は本当にたくさんあって、全部にケリを付けるのは大変らしいの。平行して、こっちでも新企画が持ち上がってるって言うし。話を聞いてるだけで目が回っちゃう。それをすべてこなしちゃう春さんって、やっぱりただ者じゃないわ。
 実は昨日、久しぶりにここにふたりで戻ってきたの。春さんがまとめて本社に行くときは、私も実家にお泊まりに行くから。最初は不経済だなと思ったのよね。もちろん春さんは出張の旅費が出るけど、私は自腹を切らないと駄目だもん。けど、春さんは言うの。

「まゆちゃんをひとりきりにしておいたら、心配で心配で仕事が出来なくなっちゃうからね」

 ……そんな。子供扱いしないでって、思うけど。やっぱり少しでも春さんの近くにいたいもん、甘えちゃうの。

 テーマパーク大好きな春さんなのに、まだUSJにも行ったことがないんだよ。本社のみんなにも呆れられたって。その他にだって、楽しい場所もおいしいお店もいっぱいあるのに、何となく買い込んでしまうレジャー雑誌ばかりが積み重ねられていく。このごろはおうちデートばっかりだったし(……いや、これはデートじゃないか)。もったいないよね、せっかくふたりでいるのに。

 

 春さんはダイニングの方に歩いていって、扉のところで振り返る。

「ううん、せっかくの上天気なんだから。サイクリングにでも行かない? 駅前の商店街で、放置自転車を回収して市民に無料でレンタルしてるんだって」

 動きやすい格好にしてね、……ミニスカートは駄目だよ? ――なんて。真面目な顔して冗談言わないで。私、耳まで真っ赤になっちゃうわ。

 

…**…***…**…


 駅前のごみごみした町並みを過ぎて、どんどんとまっすぐに歩道を進んでいく。少し坂を登って、そうすると閑静な住宅街に出る。
 この辺は地元でもブルジョアな土地で知られてるって。都内で言うと成城とかあの辺かなあ。建物もすごいおしゃれで素敵だけど、お庭がまた一段と豪勢。全部モデルハウスなんじゃないよね? どうやって、あれだけ維持するんだろう……?

「大丈夫? まゆちゃん」

 最初は元気におしゃべりしていた私が、だんだん無口になっていくのが分かったのかな?斜め前を走っていた春さんがこちらを振り向く。

「疲れたなら、少し休もうか? もしかして、昨日のワイン、まだ残ってる……?」

 心配そうな眼差しが、また素敵。……ああん、もう。春さんはどこをどう見ても決まっちゃうから、こっちはたまらないわ。

「う、ううんっ、大丈夫っ! ゆっくり寝たし……気にしないでっ!」
 ぶんぶんと首を横に振って、それから笑顔を作って見せた。

 

 はーそうなのよね。

 昨日のお夕ご飯のワイン、すごく口当たりが良くてついつい飲み過ぎちゃったの。久しぶりに春さんとゆっくりおうちごはんして、浮かれちゃったんだろうな。その後……もちろん期待していたこともあったりしたけど、とても眠気には勝てなかった。春さんに聞いたら、本当にこてん、という感じで寝入っていたらしいわ。

 ああ、でも。言われてみれば、ちょっと疲れたかな? だって、春さんって、自転車こぐのがすごく速いよ。しゃーしゃーって、うっかりすると距離が開いちゃうから、もう必死。これって体力の差なんだろうな。それにしても、自転車って足が長いのが強調されない? めくりあげたシャツの袖口から見える腕も格好いいわ。真っ青な空、白い雲。全部が春さんを演出する小道具になってる。

 

「やっぱり、休憩しよう。小腹が空いてきたし……ああ、あそこに」

 普通のおうちが建ち並ぶ中で、一角におしゃれな看板が見えた。

 煉瓦で作った階段を何段か上がった入り口に足のついた黒板型のメニュープレートが見える。まだら模様の瓦屋根は、おしゃれな英国風で、可愛い煙突まで付いていた。本当にあそこからサンタクロースが入りそう。こぼれるばかりに咲き誇るミニバラがとってもいい匂いだった。

 雑誌で見たおしゃれなお店に足を運ぶのもいいけど、こんな風に偶然見つけた素敵な場所もいいね。パイの焼ける香ばしい匂いがして、私のおなかもくうっと鳴った。

 

「お二人様ですね、……こちらにどうぞ」

 まだ開店して間もない時間だったみたい。私たちの他にお客さんはいない。さっぱりしたシャツにぴったりしたタイトスカートの女性がきびきびと案内してくれる。うわー、髪の毛も綺麗にまとめてあるな。ちょっとバランスが乱れてるところがおしゃれなのね。さりげなく挿してあるのはかんざしかな?

 店員さんに見とれていた私に、春さんはまたくすくす笑ってる。ああん、だってねえ、綺麗な女の人を見ると、色々考えるじゃない。もっと頑張らなくちゃなあとか。学ぶところがいっぱいあるんだから、ついつい見入ってしまうのよ。

「どうする? ……どれもおいしそうだよ」

 メニューをこちら向きに置いてくれた春さんは、何か気付いたようにポケットを探った。

「……あれ? 財布が……」

 ごそごそ。右のポケット、左のポケット。探ってる。でも出てきたのはパスケースだけ。定期の他にクレジットカードとテレカが出てきただけだった。そうだね、レンタサイクルは無料だったから、お財布は出さなかったんだっけ。

「え……、ちょっと待って?」

 私もごそごそ。ええと、お財布、どこに入れたっけ? ようやく見つけて中を確かめる。

「あ……800円」
 なんか、申し訳なくて、小さくなってしまう。近所のスーパーはカード払いだと5%引きなんだよ。だから、現金は余り持ち歩いてなかったりする。でも、これってあんまり。一家の家計を預かる主婦として失格よねえ。でも、悲しいことにどんなに見直しても500円玉1個と100円玉が三つ。その他には何もない。

 ど、どうしよう。こういう個人のお店って、カードは使えないよね? どこかで下ろしてくる? でもずっと住宅街で銀行もスーパーも見あたらない感じだったよね……。こんな風に案内されて、お水も貰ったのに、今更「やっぱりいいです」とは言えないよねえ。でもっ、ブレンドコーヒーでも450円するよー。ふたり分にはお金が足りない……。

 そう思いつつ、ちらっと春さんを見上げると、彼は全然動じてないの。すごい涼しい顔でメニューを指さす。

「ほらこれ、ケーキセット。いいじゃない、ふたりで半分ずつ食べようよ?」

 本当に、まるで私たちのお財布の中身を知ってるかのような、きっかり税込み800円。ついでにお茶のお代わりは自由とか書いてある。

「アップルパイって、まゆちゃん大好きだったよね? 手作りだって書いてあるから、きっとおいしいよ」


 そして。数分後。

 テーブルに並んだプレートにふたりで顔を見合わせてしまう。

 

「あの……、確かオーダーはひとつって」

 さすがの春さんも頬が引きつってる。なのに、店員さんはにっこり笑って頷くだけ。

 だって、おかしいよ。このパイ、どう見ても二切れ分の大きさがある。丸いかたちを四分の一にした感じだよ? それに、でっかいティーポットとミルクピッチャーは分かるんだけど……その、ティーカップも二個って……。

「お茶のお代わりは声をかけてくださいね。……では、どうぞごゆっくり」

 店員さんがきびきびした足取りで下がってしまった後も、しばらくはふたりで魔法が掛かったみたいに動けなかった。
 やがて、春さんは気を取り直したように、パイをフォークでさくさくと半分に分けていく。ほろほろとこぼれるパイ皮の中から顔を覗かせたリンゴの甘煮はまだ湯気が立っている。本当に焼きたてなんだ。すごい、おいしそう。

「このお店、今度来るときはテーブルに乗り切らないほどたくさん注文しなくちゃね……」

 そう言った春さんの後ろで、窓辺のアジアンタムが気持ちよさそうに風に吹かれていた。

 

…**…***…**…


「わあっ、……すごい!」

 おいしいパイと紅茶でゆったりとくつろいでから、また春さんの先導で自転車を走らせた。途中、お店から目と鼻の先に忽然とATMの自動支払機を見つけてふたりで吹き出しちゃったり、高台の公園から市街地を見下ろしたりして。そして、最後に案内されたのが広い野原だった。

 どれくらいの距離を走ってきたんだろう、昔ながらの農村といった感じの風景に変わっていて、畑とか田んぼとか見えてきて。そして、目の前に広がるレンゲの花畑。これって、元は農地だった場所なのかな? すごく綺麗に手入れされていて、今がちょうど見頃。甘い香りが辺りに広がっている。ミツバチの羽音。

「ここはね、休耕している土地を市民のボランティアの人たちが整備してるんだって。季節の花の苗をたくさん栽培して、市街地の花壇なんかに植え替えるらしいよ。この土地の人たちって、活力あるなと思う。もしも花壇の整備がイマイチだったら、行政にぶつぶつ文句を言う前に自分たちでどうにかしちゃうから。そう言う心意気が清々しいよね」

 春さんは外回りの途中でこの場所を見つけたんだという。バス通りから一面のピンク色が見えて、何だろうと思ったんだって。こんなの、ガイドブックには絶対に載ってないね、春さんの見つけたとっておきの穴場だよ。広々とした風景に綺麗なお花に。そして、隣に春さんがいて。

 

 ……こういうのが、一番幸せなのかも知れないなって思うよ。

 

 去年の今頃。

 私たちはまだまだ知り合ったばかりで。こんな風に一緒にいられるなんて思ってなかった。私と春さんの歩く道がどこまでも長く長く続いていたらいいなって願ってはいたけど、本当に叶うとは信じられなかったよ。一生懸命背伸びして、春さんに追いつこうと必死になって。大好きの気持ちだけを抱えてここまで来た。

 当たり前の毎日。朝起きて、春さんを送り出して、夕方になって春さんを迎えて。そんな日々をたくさんたくさん、これからも積み重ねていきたいと思う。他には何もいらない、春さんがいればそれだけで。

 時々。こんな風に私を驚かせるイベントまで考えてくれて。さすが、企画開発部のエリートだな……とか思っちゃうけどね。
 私も何か、春さんにしてあげられることってあるかな。春さんがくれる気持ちにきちんとお返しが出来るといいのに。未だに毎日が夢みたいで、実感ないの。いつもぼんやりしていて笑われてばかり、情けないなと思うわ。

 

「ここ、数本なら摘んでいっていいって書いてある。ほら、間引きの効果もあるように込み入ってるところからお願いしますって。どうする? 少し頂いていこうか」

 もうちょっとで満開を迎えようとしている茎に春さんが触れる。私は何となく、そこに手を添えていた。

「ううん、やめよう。自転車のかごに入れておいたら、きっとくたんとしちゃうよ。せっかくお友達がいっぱいいるのに、可哀想だよ」

 

 そう言ったら、春さんはちょっとびっくりしたみたいに振り向く。

 ……あ、もしかして、もしかしてだよね。春さんは私のために摘んでくれようとしたのに。こんな言い方したら、申し訳なかったかな。

 

「そう……だね。じゃあ、思う存分眺めて楽しんで、それから帰ろうか。……さすがに久々に遠出したら、疲れたな〜。ああ、眠くなってきたよ」

 ごろんと、春さんが草むらに寝っ転がった。

 嫌だ、こんなところで。いきなり人が倒れていたら、何かと思われるよっ! 私がわたわたと慌てていたら、春さんは寝そべったまま私を見上げる。キュロットの裾、くいくいって引っ張って。

「ねえねえ、まゆちゃん」
 そんな風ににっこりと微笑んだら、また私はぼーっとしちゃうよ。今日は一日中ほっぺが熱いよ、もうどうしてくれるの、春さんのせいだよ。

「ちょっと、膝貸してよ。俺さ、まゆちゃんがそばにいないと熟睡できないんだ」

 ……もう。なんてこと言い出すの。それだけでも十分に恥ずかしいわ。それなのに、春さんってば、さらにひそひそ声になって言うんだ。

「だけど、昨日みたいのは勘弁して欲しいな。悶々と眠れなくなって、辛かったよ。今夜はまゆちゃんに、一滴も飲ませないからね?」

 大きなあくび、ひとつ。そしてすぐに目を閉じて、寝入ってしまった。固まったまんまの表情の私、置き去りにして。

 

 ――こ、これって、とても高度な冗談なんだよね? また、私を驚かせようとしてるんだよね、春さんは。

 

 ミツバチ、ぶんぶん。花から花へ。

 ぽかぽかと心地よい昼下がりの日差し。ほどよくふくらんだ胃袋。うん……春眠暁を覚えず、だね。このままぼんやりとふたり、春の中に佇んでいたいな。

 

 見上げたら、青い空にぽっかりと双子の雲。寄り添って、ゆっくりと流れていった。




…おわり…(041112)

 

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